4-5
『あなたは母さんのようにならないで……お願い』
「ごめんね、母さん」と、夢の中で答えた。なぜ消えてしまうのに思いを告げたのか、今のフィオナは少しだけわかる。そうせずにはいられなかったのだろう。母もきっと心の底が乾いていた。フィオナを大切に育ててくれていたとは思うが、愛した男の子供ではない。だからと言って簡単に割り切れるものではないが、母も本当の意味で生きたかったのかも知れないと、今は思える。
『お前……本当に、嫁にくる気は無いのか?』
言葉選びが下手で、いつもフィオナの触れられたくないところに踏み込んでくるブレナン。けれど、本当に心配してくれていることも分かっていた。もし呪いがなくても、唯一の相手にはならなかった。それなのに、いつまでも断ち切れなかったフィオナも悪いのだ。
『……悪かったな。セーマスを助けてくれて感謝する。……少ないが持っていけ』
一度も笑いかけてくれたことなどないフィネガン。けれど、本当は優しい人なのだろう。そういう大人がいることに気付いていても、見ないふりをしていた。
『フィオナー!』
『いっしょにあそぼうっ』
手を振って走ってくるのは子供たちだ。爪紅も傷薬も渡せず、今も鞄の底にしまい込んだままだ。
『じゃあ、またな』
明るく手を振ったカイルに、もう一度会えるだろうか。もし会えたら、そのときはきっと。
孤独だと思っていたフィオナは、案外思い出す相手がいるものだと思った。とは言え、たったこれだけだ。もっとこの村で過ごせば、そういう人が増えたのだろうか。この中の誰か一人くらいは、フィオナが消えたことを惜しんでくれるだろうか。もしそうでなくても、フィオナの決意は変わらない。
起きたらすぐ、リュミエルに気持ちを伝えよう。そう心に決めると、深い海の底のような夢の中から水面を目指した。
薄らと目を開けると、揺れるカーテンが目に入った。差し込んでくる光は朝日だろうか。きっとリュミエルがいるはずだと部屋の中に視線を巡らせた。隅に置かれた椅子で、足を組んで眠っているリュミエルが見えた。腕を組んで壁に寄りかかり、気の抜けた顔で寝息を立てている。
未だに身体を柔らかな何かで包まれているような気がするのは、リュミエルの魔法だろう。人間に合わせてマナを加減するのは、エルフであっても大変だったはずだ。ましてやフィオナの怪我は相当酷かったのだろうから。そう思うと、寝顔を見ながら口元がそわそわと緩みそうになってくる。
ゆっくり身体を起こすと、ベッドの足の方にひざ掛けが置かれていた。静かに抜け出し片手にそれを持って、リュミエルの方へ近づいていく。音を立てぬようにそっと広げ、その膝にふわりと掛けようとした、その刹那。
ぱちっと瞼を上げたリュミエルが、フィオナに気付いて目を見開いた。
「フィオナっ!」
慌てて立ち上がろうとしたリュミエルに、驚いたフィオナがひざ掛けを落として仰け反った。そのまま後ろに倒れそうになったところで、リュミエルが素早く腕を取って引き寄せる。
「ごめんっ、大丈夫? まだふらつくだろうから、ゆっくり戻ろう」
リュミエルに支えられながらベッドに腰掛け、ほうっと息を吐いたのもつかの間。今度は頬が熱くてそわそわと落ち着かない。俯いたまま膝の上で握り締めた拳をじっと見つめ、身体をこわばらせた。
「熱は下がってると思うけど、身体の内側の傷は完全に治せないんだ。無理せずゆっくり休んでて」
下を向いたまま、熱を持っている頬を見られないように小さく頷いた。
「どうしたの? まだどこか痛い?」
「ううん。あの、ありがとう、リュミエル」
どうにか声を絞り出すが、どんどん弱々しくなっていく。
「前に約束したでしょう? フィオナが怪我したら治癒を施すって」
「でも、人間に使うのは難しかったんじゃない?」
「……一度壊してるけど、加減ができないわけじゃないよ」
そう言えばセーマスを連れて村に戻るときに、無理に治すと壊れると言っていたはずだ。誰に使ったのかは分からないが、フィオナが初めてではなかったのかと思うと、もやもやとしたものが込み上げた。
「大切な人だった?」
窺うように言ってから、我に返って口を閉じた。フィオナの前に座り込んだリュミエルは、不思議そうな顔で見上げてきた。
「僕にとって大切な人は、あとにも先にもフィオナだけだよ」
「じゃ、じゃあ、どうして治癒を?」
あちこちに視線を飛ばしながら、額に浮いた汗を手の甲で拭った。リュミエルは渋い顔をしながら、言いづらそうに口を開いた。
「頼まれたんだよ。僕の尋ねたことに答えるから、傷を治してくれって」
「そんなに酷い傷だったの?」
「いいや、ちょっと額を切っただけさ。ついでに若い頃の容姿に戻せって言われて、心底呆れたね」
肩を竦めたリュミエルは、嫌そうに深いため息を吐いた。
「それで、どうしたの?」
「ご希望通り治したよ、完璧にね。もちろん忠告はしたよ? エルフの力は強すぎるからどうなるか保証しないって。だけど、どうしてもって言うから」
「どうなったの?」
「無理な力が加わったせいで、おかしくなっちゃった。急な変化に耐えきれなくなって、顔が引きつるって言い始めて。そのまま掻きむしるようになって、前よりひどくなった。そのうち本人も何がなんだか分からなくなるまで壊れちゃったよ」
どこか投げやりに言ったリュミエルは、今はどう思っているのだろう。
「僕のことが、怖い?」
窺うように覗き込んできた目をじっと見つめ、フィオナはしばらく考え込んだ。
「リュミエルは、今同じように言われたら、同じことをする?」
目を瞬いたリュミエルは、斜め下に視線を向けて唸り声を上げた。少し間を置いてから、「断ると思う」と答えた。
「理由を聞いてもいい?」
「フィオナに出会ったから」
今度はフィオナが目を瞬き、首を傾げた。すぐに「どういう意味?」と言葉を返す。
「僕は、人間てみんな弱くて利己的で、醜いって思ってた。エルフと見れば誰もがすり寄ってきて、何かを期待する。どうにか自分の都合のいいようにならないか、そればっかりだ」
初めて会ったときのリュミエルは、どこか冷たさを感じた。フィオナのことを面白いと言いながら、それが好意的には聞こえなかった。森での日々を過ごす内に、いつの間にかそうではなくなっていた。だからフィオナも心の内を話せたのだ。
「だけど、フィオナはそうじゃなかった。何も望まないし、村人のために生きてた。フィオナは自分のためだって言うけど、僕にはそれだけには見えなかった。そうやってフィオナを見ていたら、村の人間たちも皆が皆、同じじゃないって思うようになってた」
頬をかいて気まずそうに視線を逸らしたリュミエルは、一旦言葉を切ってから続けた。
「村の人間に命の種を使ってもいいと思ったのは、一番はフィオナを助けたかったから。だけど、悪いやつばかりじゃないと思ったら、助けてやってもいいかなって。そう思えたのは、フィオナに出会ったからだ」
フィオナは鼻の奥がツンとして、上を向いて瞬きをした。すぐにリュミエルを真っ直ぐ見つめると「怖くないわ」と言った。
「え?」
「さっき、リュミエルのことが怖いかって聞いたでしょう? 私、リュミエルのことが怖くなんてない」
眉を下げたリュミエルは、顔を歪めて俯いた。フィオナはその頭のてっぺんを見下ろしながら、ごくりと喉を鳴らした。
「それどころか私、いつのまにかリュミエルのこと……」
ぱっと顔を上げたリュミエルが、蒼白な顔で「待って!」と声を上げた。遮られたフィオナは、口を開いたまま動きを止め、すぐに唇を噛み締めた。胸の奥がずきずきと痛み、まるで血が流れているかのように脈打っている。
「フィオナ、それ以上は言わないで」
「……どうして? 迷惑だった?」
「違うよっ、そうじゃない。そうじゃないけど」
「じゃあ、もっと長く生きたくなった? 穏やかに枯れるのが、エルフの至高の幸せだって言ったじゃない」
つい恨みがましい口調で返してしまうが、最初に拒絶したのはフィオナだ。それを思い出して、じわりと目元が熱くなる。リュミエルはゆっくり立ち上がると、ギシリと音を立ててフィオナの横に座った。大きく息を吐き出してから、フィオナの方に向き直る。
「……フィオナ、よく聞いて。僕はまだ君に話してなかったことがあるんだ」
ゆるゆると視線を上向けると、リュミエルと目があった。それは出会った頃にも見たような、どこか陰りのあるものだ。硬い表情と相まって、フィオナの胸がざわつく。
「僕は最初から、フィオナが呪いの一族の末裔だって知ってた」
最初にそう言われたのだから、特別驚くことはない。エルフの間ではきっと知られた話なのだろう、そうも思っていた。
「フィオナの呪いの元凶は……僕の爺さんだ。これを知ってたら、フィオナが僕を愛するなんてことは絶対にない」
ああやっぱり、でもなぜという気持ちがフィオナの中で交錯した。一度はそうではないかと疑っていた。けれど、やはり腑に落ちない。
「でも、リュミエルのお祖父さんは、愛したエルフがいたからリュミエルが産まれたんでしょう? なのに、私の先祖を愛したっていうのはおかしいじゃない。エルフは生涯に一人しか愛せないんじゃなかったの?」
「エルフが一人しか愛せないのは嘘じゃない。だけど、エルフは数が少ないから」
一旦言葉を切ったリュミエルは、少し気まずそうに「理解しがたいかもしれないけど」と続けた。
「子孫を残すためだけに子を成すことはよくあることなんだ。そういう場合は一緒に暮らすこともない。だから僕にとって爺さんは、そんなに親しい相手ってわけじゃない。もちろん、互いに愛し合うエルフもいるよ。だけど、そういう相手に出会えること自体が本当に珍しいことなんだ」
「そう……だったの。でも、それなら人間だって同じね。私の母さんだって、跡継ぎが必要だから嫁いだんだもの」
肩を竦めたフィオナに、リュミエルは「そっか」と呟いた。
そう言えばリュミエルが前に言っていたなと思い出す。
『僕らエルフみたいに長く生きてたって、見つけられるのはほんの一握り』
心から愛する相手に会えること自体が稀なのだから、確かに穏やかに枯れることは至高なのかもしれない。人間だって、本当に心の底から愛する人に会えるかなんて、誰にもわからない。それが長寿のエルフにとって生涯にたった一度きりとなれば、なおさらだろう。
「だから、フィオナが僕を愛するわけないんだ。わかったでしょう?」
諭すように言ったリュミエルは、一人で勝手に切なげな顔をしている。フィオナの腹の奥からふつふつと怒りが込み上げて、むっとした表情でリュミエルを見上げた。
「でも、先に言ったのはリュミエルじゃない」
「えっ? ぼ、僕が何を?」
フィオナは上目遣いでリュミエルを睨みながら、少し意地悪な調子で答えた。
「人間なんて好きにならないって」
「ああ……うん。あのときは、そう思ってたから」
「それなのに、私のことを好きだって!」
「ぐっ」とうめき声を上げたリュミエルは、視線を彷徨わせながら「確かに、それも言った」と呟いた。
「私だって同じ。最初はリュミエルのこと、迷惑なエルフだって思ってた」
「それならっ」
「だけど、一緒に過ごす内に変わっちゃったんだから、しょうがないじゃないっ」
目を丸くしたリュミエルは、一瞬後に我に返ると勢いよく立ち上がった。
「フィオナ、それ以上はだめだ。それに、僕は呪いのエルフの孫なんだ。やっぱり僕は側にいないほうがいい」
焦ったように一歩後ろに下がったリュミエルは、くるりと身体の向きを変えた。ひらりと目の前に舞ったローブを、フィオナはぎゅっと握り締めた。また目の前から消えられてはたまらない。そのまま思い切り引っ張ると、リュミエルは「うっ」と首を抑えてうめき声を上げた。踏み出そうとしていた足が空を切り、そのまま元いたベッドに倒れ込む。
「フィ、フィオナっ」
顔を顰めたリュミエルを見下ろし、フィオナは両手をその横ついて逃げ道を塞ぐ。本気になればリュミエルはきっと逃げられるだろうけれど、そのときはしがみついても止めるつもりだ。
「呪いのエルフの孫だから何? お祖父さんの罪をリュミエルが償わなきゃならないなら、私だって先祖の罪を償わなきゃならない。だったらお互い様じゃない」
はっとしたように目を瞠ったリュミエルは、すぐに眉を下げてフィオナを見つめた。
「今度は絶対逃さない。気付いてしまったら戻れないって言ったのは、あなたが先よ。いい加減に諦めて」
「だけどフィオナっ! このまま誰にも愛を告げなければ、最後までこのままで」
「ニレに言われたわ。石になろうがなるまいが、私の魂は消えるって。どうせ輪廻の環には乗れないの。それなのにただ気持ちをごまかして生きることに、何の意味があるの?」
リュミエルの白い顔から一層色が消えていく。歪んだ顔は今にも泣き出してしまいそうだ。
「芽生えた気持ちを見ない振りして生きるなんて、本当に生きてるなんて言えないわ。それなら私は思うように生きたい、あなたと」
そう、ニレの樹エンバも言っていた。
《哀れな薬草師フィオナ。己が思うままに生きよ》
その言葉に勇気づけられるようにして、フィオナは不敵な笑みを浮かべて続けた。
「リュミエル、私はあなたを――愛してる」
その刹那、身体の奥から何かがピシリと弾けるような音がした。顔を歪めたフィオナの目から、ほろりとひと粒の涙が落ちた。それはリュミエルの頬を伝い、まるで共に涙を流しているかのようだ。フィオナはそれをそっと拭う。唇を噛み締めたリュミエルは、悲痛な顔でゆっくりフィオナを抱き寄せた。
止めどなくあふれる涙は、喜びからか恐怖からなのか。フィオナにも分からなかった。




