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「フィオナっ!」
必死に呼ぶ声がする。けれど、返事をするのは面倒だ。
「フィオナっ」
ああ、この声は――いや、そんなはずはない。期待して絶望するのはもう嫌だ。身も心もすり減って、いっそこのままでいたい。そう思うのに、そっと頬に触れる温かなものにつられ、つい目を開けてしまう。
「……リュミエル」
「フィオナっ! よかったっ……よかった」
いつも飄々として何を考えているのかわからないエルフが、目を赤くしてフィオナを見下ろしている。どうしてそんな顔をしているのかと、フィオナは首を傾げようとした。
「動かないでっ。ごめん、もっと早く助けたかったんだけど、間に合わなくて」
フィオナは一瞬何を言われたのかわからず、焦点の合わない目でリュミエルを見つめた。よく見たいと思うのに、靄がかかったかのように滲んでいる。
「落ちていくフィオナを見たとき、僕がどんな気持ちで……」
そう言われて、ようやく足を踏み外して斜面を転げ落ちたのだと思い出した。強い衝撃が身体中を貫いた瞬間、誰かの声を聞いたかもしれない。あれはリュミエルだったのか。その後のことはよく覚えていない。
「私……どう……なった……の?」
声を出すと肺に痛みが走る。途端に全身が軋むような感覚に襲われ、フィオナは顔を歪めた。
「フィオナっ、まだ話さないで。ひどい怪我だから……僕の治癒魔法を使うよ」
フィオナはゆるく首をふる。声を出してみてよくわかった。どう考えても普通の状態ではない。
「だ、め……治癒……いら……ない」
掠れる声で答え、ガラガラと喉が鳴る。息が詰まりそうになって顔を顰め、うめき声を上げた。
「フィオナ、お願いだから僕を信じて。ちゃんと加減できるから危険じゃない。それに、この怪我はもう薬草師の手に負える状態じゃないんだ」
必死な様子で話すリュミエルの顔がようやく見えてきて、微かな笑みを浮かべた。
「わかっ……てる……でも、いら……ない」
リュミエルは息を呑み、目を見開いた。一瞬後に顔をくしゃくしゃにして、苦しそうに歯を食いしばる。
「ニレと話してたよね。何か聞いたの? それで、生きるのが嫌になった?」
フィオナは答えず静かにリュミエルを見つめた。
「……ごめん、フィオナ。それでも僕は、フィオナに生きていてほしい」
なんて勝手な言い分だろう。こんなに苦しくてもう終わってしまいたいのに、それでも生きろと言うなんて。フィオナはそう思うのに、心の奥底がほんのり温かくなる。自分勝手なのはお互い様だ。ひどい言葉を投げつけて遠ざけた癖に、顔を見ればほっとする。愛する人を失う苦しさを味わわせたくないと言いながら、リュミエルの涙で救われたいと願ったり。
『そのときは僕が勝手に治しちゃうから期待してて』
ふと、リュミエルの言葉が耳を掠めた。あれはセーマスを村に送り届けたときのことだ。勝手になんて言っていたのに、律儀にフィオナに許しを請うなんて。ずいぶん変わったものだとも思う。
フィオナはふうっと息を吐くと、口の端を上げた。もうリュミエルには降参だ。
「フィオナ、許してくれる?」
「……いいわ」
呟くように答えたフィオナは、ゆっくり目を閉じた。その目尻から一筋涙が溢れた瞬間、フィオナの身体を淡い光が包み込む。ぽかぽかと心地いい何かに包まれ、フィオナはそのまま意識を手放した。
***
さわさわと流れる風が、フィオナの頬を優しく撫でる。小さく呻き声を上げ、そっと目を開くといつもの自分の部屋だった。眠る前にリュミエルを見たような気がしたが、夢だったのだろうか。ぼんやりする頭で考えてみるが、はっきりと思い出せない。身体中が痛かったはずなのに、それも夢を見ていただけなのだろうか。
フィオナはゆっくり身体を起こし、のろのろと視線を巡らせた。明るい光の差し込む部屋の中にリュミエルの姿はなく、やはり幻だったのかと肩を落とした。もう一度寝てしまおうと横になったところで、音もなく開く扉が視界に入る。窺うように顔を覗かせたのは、リュミエルだ。
「フィオナ、具合はどう?」
リュミエルはフィオナが目覚めていることに気付き、急いで駆け寄った。
「えっと……よくわからないけど、多分、大丈夫」
ほっと息を吐くリュミエルに、フィオナはかすかに身動ぎした。なぜかそわそわとして落ち着かない気分になる。ひどい言葉をかけて以来、ずっと話していなかったのだ。会えない間に腹も立った。でも同じくらい寂しくもあった。それが突然目の前に現れて、どうしていいのかわからない。
「命の種があれば、もっと早く治るんだけど……。ごめんね、ひとつしかなくて」
眉を下げるリュミエルに、フィオナは大きく首を横に振る。
「ううん、あのときは助かった。ありがとう」
すんなり出てきた感謝の言葉に、フィオナは戸惑い瞳を揺らす。
「治癒魔法は、完全に治すと人間には強すぎるから……まだちゃんと回復してないんだ」
「そう。でも、もう起き上がっても身体が痛くないから」
そう言いながら身体を起こすフィオナに、リュミエルは慌てて両手を差し出し、すぐに引っ込めた。フィオナは「どうしたの?」と首を傾げた。
「えっと……僕が側にいて、辛くない?」
フィオナは息を呑んで目を見開いた。すぐに眉を下げて視線を彷徨わせたあと、窺うようにリュミエルを見上げた。
「あのときは……ごめんなさい。私、自分のことしか考えてなくて。まさかリュミエルがいなくなるなんて、思ってなくて」
「違うんだっ。あれは、僕が何も分かってなかったから」
「ううん、リュミエルが私のことを考えて皆を助けてくれたんだってわかってる」
リュミエルは気まずそうに俯き、拳を握りしめた。
「私、何でもできるリュミエルが羨ましくて。何もできない自分に苛立ってただけなの」
「ごめん」
「違うの。リュミエルは悪くない。他人と距離を取って暮らしたい、関わりたくないって言いながら、本心ではそうじゃなかった。ただそれを認めたくなかっただけよ」
負けを認めたら、こんなにも簡単だったのか。最初からこうやって素直に話していれば、リュミエルは居なくならなかったはずだ。そう思うと、やけに遠回りをしてしまった気がする。けれど、なぜかリュミエルの表情が曇ったままだ。
「人間は弱いから、誰かと一緒じゃないと生きていけない。僕はずっとそう思ってた。だけどフィオナは一人だった。呪いのせいだと分かってたけど、それでも強くて……だけど、きっと寂しいに違いないとも思ってた」
「そうね。そのとおりだわ」
「それなのに、フィオナは僕を避けたよね。今まで出会った人間たちは皆、利己的で、排他的で、とても醜かったのに。フィオナは違ったんだ」
フィオナは苦い笑みを浮かべて首を振った。
「同じよ。私だって自分のために他人を……リュミエルを遠ざけたんだから。誰かの役に立ちたいのだって、全部自分のため」
「だけどフィオナは、それで誰かを傷つけたいわけじゃないでしょう? 相手がどう思っても、自分の望みを叶えたい。そういうものじゃないから」
一度口を閉じたリュミエルは、言葉を選ぶようにして続けた。
「だから樹もフィオナと話すんだ。呪いのせいだとエルフを恨まない。どうにかしてくれって僕にもすがらない。寂しいからって誰かを求めて、同じ気持ちを味わわせたいとも思ってない」
「私、そんないい人じゃないわ」
「僕から見たフィオナはそういう人なんだ。だから僕は……」
そう言って俯いたリュミエルは、そこから先を口にしない。
「私はリュミエルに嫉妬してた。呪いと祝福のせいで誰とも一緒にいられなくて、それでも誰かに必要とされるために必死だったのに。リュミエルはあっという間に受け入れられて、不思議な力も歓迎されて」
「やっぱり僕は……」
「だけど、それはあなたがエルフだから。そんなの嬉しくないって、リュミエルは何度も言ってたのに。私、酷いことを言ったわ」
リュミエルは黙って首を横に振った。さっきからずっと陰りを帯びた目が、未だに晴れないのはなぜだろう。
「ごめんなさい、リュミエル」
「フィオナ……。君は何も悪くない」
「じゃあ、許してくれるの?」
「僕は最初から怒ったりしてないよ」
「それなら、これからは側に……」
言い掛けたところで頭の芯がクラクラしてくる。そう言えばさっきから顔に熱が集っている気がする。慣れないセリフを口に出そうとしたせいか、ふわふわと夢見心地になってきた。目の前で怪訝な表情を浮かべたリュミエルが、なぜかやけに眩しく見える。
徐々に瞳が潤み始め、リュミエルの輪郭がいつも以上にキラキラと輝いている。なんだかとても綺麗だな、と思っていると視界がグラグラと揺れだした。
「フィオナ?」
腰を落としたリュミエルが、フィオナの顔を覗き込む。フィオナはぼうっとしたまま、ゆっくり首を傾げた。倒した角度よりやけにリュミエルが斜めに見える。そう思ったところで、リュミエルが焦ったようにフィオナを呼んだ。
バタンとベッドに倒れ込んだフィオナは、ようやく自分の身体が揺れていたのだと気づいた。心配そうにおでこに手を伸ばしてきたリュミエルが、すぐに自分のものと比べている。慌てた顔で「すごい熱だっ」と言っているのがなんだかおかしくて、思わず笑みを浮かべた。
「フィオナっ! どうして笑ってるの……熱でおかしくなっちゃった?」
ズレたことを言うリュミエルを、ムッとした表情で見上げた。手を挙げたり下げたりしながら落ち着きのない様子に、また笑いそうになって口をキュッと結んだ。
「また治癒魔法を使うって言ったら、フィオナは怒る?」
「ううん」
ベッドの直ぐ側に膝を付いたリュミエルは、ほっとしたように息を吐いた。
「変だと思ったらすぐに教えて」
リュミエルの手が伸びてくるのと同時に、「お願い」と一言呟いて目を閉じた。一度目と同じように――いや、それ以上に柔らかな、真綿に包まれ雲の上に乗って漂っているような心地がした。
初めて会ったとき、リュミエルのことが怖かった。呪いを知っている素振りで、何を考えているのかまるでわからない。拒絶しているのに勝手に踏み込んできて、いつのまにか森を一緒に歩いていた。
ずっと誰かと本音で話してみたかった。皆が当たり前に誰かと笑い合うように、自分も誰かと。諦めようと思いながらも捨てきれなかったものを拾ってくれたのは、突然現れた無遠慮なエルフだった。
何も気にせず草花たちと話せたのも、記録帖に詰め込んだ思いを打ち明けたのも。声を立てて思い切り笑えたのも、「お願い」と素直に頼れたのも――全部が他の誰でもなく、リュミエルが初めてだった。
フィオナの心の奥底にあった硬い蕾は、いつの間にか膨らんでいた。リュミエルが与える甘い水を吸って、いつの間こんなに育っていたのだろう。これをそのまま枯らすことに、何の意味があるのだろうか。どうせこのまま石にならずに終えたところで、魂は輪廻の環に乗れない。数十年の生を得たところで、それは本当に生きていると言えるのだろうか。
エルフは愛を失って枯れることが至高の幸せなのだとリュミエルは言っていた。それなら、フィオナを失って枯れることを、リュミエルは幸せだと思ってくれるだろうか。愛を告げれば石になり、塵になって魂ごと消えていく。怖くないと言えば嘘になる。けれど、リュミエルの側で『生きたい』と、フィオナは心の底からそう願った。




