1-1
村から離れた森の中に、ぽつんと一軒の粗末な家が建っている。村人も滅多に訪れることのない、静かで穏やかな森の奥。
《フィオナっ! 僕を使ったら痛いのなんてすぐに消えるよ》
《私は痒い所に塗ったら、アッという間に治してあげるわ》
「皆、いつもありがとう。きっと村の人達も喜ぶと思う」
薬草師のフィオナは、いつも草花たちとの会話を楽しみながら、必要な薬草を摘んでいる。これはエルフから呪いと同時に得た祝福の力であり、使える者など他にはいない。
フィオナにとってこの森は、唯一心の休まる場所だ。先祖が受けた呪いを抱え、いくつかの村を転々としてきた。五年ほど前に辿り着いたこの場所は、ようやく見つけた終の棲家だ。フィオナの願いはただひとつ。ここで独り静かに過ごし、自分の代でエルフの呪いを断ち切ること。
《フィオナっ、あの草は一緒に混ぜたらいい匂いになるよ!》
「そう。帰ったら早速試してみる」
フィオナは記録帖を開き、早速ペンを手に執った。サラサラと紙の上を滑らせながら、適度なマナを込めていく。草花と話すにもマナを使うので、どちらも加減が必要だ。
草花との対話を薬草師としての仕事に活かし、今までどうにか暮らしてきた。薬草師が当たり前に持っている記録帖も、フィオナのものは特別だ。マナを乗せて書けばその文字は消えることなく、永遠に残すことができる。そんな手間を掛けるような薬草師は他にいない。
フィオナはいつもその文字に願いを込める。いつか誰かの役に立ちますように。そうしてひとつずつ丁寧に書き込んでいた。
それを誰も見ることがなくても。
誰かの役に立つことがなかったとしても。
いつかと願う気持ちは変わらない。
木々の間から漏れる光に目を細め、賑やかな草花たちに視線を巡らせる。知らないことを聞きながらこうして記録帖を開くのは、フィオナにとっての癒しの時間だ。心を許して話せる相手は、草花たちしかいないのだから。
《エルフがきたっ! 気をつけてっ》
《フィオナっ、エルフが近くにいるよっ》
突然草花たちが騒ぎ出し、平穏な空気が一気にざわめきに塗り替えられた。フィオナは慌てて周囲を見回した。エルフの姿を探してみるが、目を凝らしてもどこにも見当たらない。草花たちの声が入り乱れ、何を言っているのか分からなくなる。心臓がどくどくと脈打ち、掌にはじっとりと汗が滲んだ。
痺れを切らしたフィオナは「ねえ、どこにいるの?」と、草花たちに問いかけた。
その刹那、ガサリと近くの木の葉が音を立て、フィオナは慌てて振り向いた。そこに立っていたのは、誰もが目を瞠るような美貌を持ったエルフの青年だ。白金の髪がサラサラと風に泳ぎ、微かに首を傾げている。
「君、どうして僕がいるって分かったの?」
フィオナは一瞬返事をするのも忘れて、その姿に目を奪われた。しかしすぐに我に返り、眉を顰めてエルフを見上げた。
「……どうだっていいじゃない。あなたこそ、どうしてこんなところにいるの?」
わざわざエルフに、草花と話せることを話す必要もないだろう。そう思ったフィオナは、なるべく関わらずにやり過ごそうと考えを巡らせた。そんなフィオナに、エルフは目を瞬かせてから一歩近付く。
「君、僕がエルフだってわかってるよね?」
「だったらどうだって言うの」
「どうって……今までどこへ行っても、エルフの僕にそんな冷たい人間いなかったから。ちょっと意外だっただけだよ」
フィオナはため息を吐き、なるべく視線を合わせないようにして答えた。
「そうね、ほとんどの人間にとって、あなたの見た目は魅力的よ。だけど私には違うの。用がないなら私に構わず、どこかへ行ってちょうだい」
エルフはその言葉に目を見開いた。少し考えるような素振りをしてから、微かに口の端を上げる。
「君、面白い人だね。思ってたのとは全然違う」
「思ってたのって、どういう意味?」
フィオナは眉を寄せて、探るようにエルフを見つめた。もしかしたら、何かを知っているのだろうか。そう思うと心臓が嫌な音を立て始めた。
「いや、別に。こんな誰も来ないような森の奥で暮らしてるなら、もっと歓迎してくれるかと思っただけ。君を見てると、誰も愛せない呪いの一族を思い出すよ」
少し意地悪そうな笑みを浮かべたエルフに、フィオナは警戒心を募らせた。呪いの一族――このエルフは、フィオナの呪いを知っているのだろうか。からかいを含んだ声とは裏腹に、どうにも視線が冷めているように思える。
どのみちエルフとは――いや、他者とは関わるべきではない。草花との対話を閉じたフィオナは、早くこの場を立ち去ろうと決めた。
「私には関係ない話だわ。それより、ここは人間の領域よ。特にこの森は私にとって大切な場所なの。早くここを出て、エルフの里にでも帰ってちょうだい。さよなら」
言い捨てすぐに踵を返す。フィオナは背中に感じる視線を無視して、強く地面を踏みしめた。
「僕の名前はリュミエル! 今度会ったら君の名前を聞かせてよっ」
後ろから追いかけてくるリュミエルの美しく心地いい声が、静かな森に染み渡る。フィオナは聞こえなかった風を装って、そのまま真っ直ぐ歩き続けた。
小さくなったフィオナの後ろ姿に、「帰るのはもう少し先にしよう」とリュミエルが呟いた。それは森の風にあっという間に溶けていき、フィオナの耳に届くことはなかった。
***
家に戻ったフィオナは、摘んだばかりの薬草をひとつずつ丁寧に洗い始めた。汚れを落としたものを、干し場にしている部屋に張ったロープへ吊るし、風魔法で乾燥させる。誰もが使える簡単な生活魔法だが、微妙な調整をするのは中々難しい。強すぎれば効果が落ちるし、弱すぎても効率が悪い。コツを掴むまでは無駄にマナを消費して、始めは苦労したものだった。
フィオナが草花と対話する魔法は、これらとは一線を画している。なぜ先祖を呪ったエルフが、こんな祝福まで与えたのかはわからない。人間が扱うには大きすぎる力だ。便利ではあるものの、人は特別なものに対して恐怖を抱く。
祝福とは名ばかりで、フィオナにとっては……いや、きっと呪いを受け継いだどの人間にとっても、ありがたいとは言い難い力だろう。
この力を知られるわけにはいかず、かと言って人と一切関わらずに生きるのは難しい。まだ森に引きこもることができるフィオナは、ちょっとはマシなのかも知れないが。皆のように、結婚して跡継ぎを作るよう望まれるわけでもないし、そうしなければ生きられないわけでもないのだから。
フィオナはふとリュミエルのことを思い出し、胸の奥がざらつく。あのエルフはもう里に帰っただろうか。こんなところにいる意味はないはずだ。だからきっと大丈夫――そう自分に言い聞かせた。
もやもやとした気持ちを振り払うように、ひたすら薬草の処理を続けた。全てを吊るし終えたら、程よいところまで風魔法を当てる。このまま一晩置けば、あとはすり潰して保存すればいい。
フィオナは森に持っていった鞄の中から、記録帖を取り出した。一人暮らしには十分な、しかし小さなテーブルにそっと置く。一脚しかない少しガタつく木の椅子に座り、ゆっくりページを開いた。
今日教えて貰った、いい香りのする草の記録を指で辿る。ツンとした匂いの薬に混ぜるのはどうだろう。きっと母なら喜ぶはずだ。目を閉じたフィオナの脳裏に、亡き母の記憶が蘇った。
『フィオナ、草花と話せることを人に言ってはだめよ』
『どうして?』
『普通の人は、そんなことできないからよ』
『できないと、いっちゃダメなの?』
『そうよ。人は、自分と違うものを見ると怖いと思うものよ』
『すごいことなのに?』
『凄ければ凄い程、怖いと思うのが人間なのよ。よく覚えておきなさい』
『わかった』
幼いフィオナには、まだよくわからない。
『フィオナ、誰かを愛してはいけないよ』
『どうして?』
『私たちは、エルフの呪いが掛かっているからね』
『のろいって? どんなもの?』
『それは……今は知らなくていいの』
『母さんはしってるの?』
『ええ。いつかフィオナにも教える日が来るけれど。約束して。誰も愛してはいけないよ』
『わかった』
呪いも愛も、この頃のフィオナはまだ知らない。
『フィオナ、ごめんね』
『母さん……どうして』
『あなたは、母さんのようにならないで……お願いよ』
『母さんっ』
フィオナは最期に母の手を握ったときのことを思い出し、大きく息を吐いた。なぜ今頃あのときのことを思い出すのか。――あのエルフに会ったからだと眉を顰める。
他人と距離を置き、薬草師としてただ静かに生きてきた。草花と話せることを人に知られれば、そこで生きることはできなくなる。
母が亡くなってすぐ、一人で暮らし始めたばかりのころ。まだ悲しみから立ち直れずにいたフィオナは、草花との対話をうっかり人に見られてしまった。
独り言だと誤魔化してはみたものの、あっという間に噂は広まった。力が露見したわけではないが、おかしな娘だと思われたのだろう。刺すような冷たい視線と、からかいを含んだ笑み。母がいるころから親しげに話していた人たちも、あっという間に遠ざかった。もし祝福のことを知られていたら、もっと酷いことになっていたかも知れない。
フィオナがあのエルフの青年のように美しければ、なにか違ったのだろうか。頭に浮かんだその姿を、振り払うように首を振った。あれほどの美貌と特殊な能力など、エルフ以外に扱えるわけがない。文字通り人間離れしているのだから。自分がそんなものになれるはずもなく、フィオナは拙い考えに皮肉な笑みを浮かべた。
フィオナは美人でもなく不美人でもない自分の両頬を、両手でパチンと叩いた。考えていてもどうにもならないことを考えるだけ無駄だ。まずはできることをしようと、記録帖をそっと閉じた。
狭い調理場に立ち、さて夕食は何にしようかと考えはじめたところで、家の扉をドンドンと叩く音が響いてきた。この不躾な叩き方で思い浮かぶのは、どうにも面倒な相手だ。出ないわけにはいくはずもなく、フィオナは項垂れながら重い足取りで扉へ向かった。




