3-5
「フィオナ……どうしてそんな風に泣いてるの?」
フィオナはぐっと嚙み締めた唇を震わせ、はらはらと涙を零した。
「やっぱり、リュミエルとはわかり合えない」
止めることのできない荒い呼吸に喉がひりつき、絞り出した声が震えてかすれた。本当はどうしたいのか、心の底ではわかっている。言えない思いが募るのと同時に、もうひとつの本音がせり上がってきた。
「リュミエルは、何でもできて、美しくて、どこに行っても必要とされる」
「フィオナ……」
眉を下げたリュミエルが、フィオナに向かってそっと手を伸ばしかけた。
「頼ればいいって簡単に言うけど、寄り掛かるのが……どうしようもなく怖いのに。一人で立てなきゃ、呪いを終わらせることだってできないっ」
リュミエルは宙に浮いた空の手を、そまま降ろして握りしめた。
「私だって、誰かと一緒にいたかった! あなたみたいに、皆の輪に交じって、たった一度でいいから、いてくれてよかったって言われたかった」
フィオナは手の甲で涙を拭い、肩で息をしながらリュミエルを見上げた。
「だけど、できないじゃない。もし誰かを愛して石になったら、輪廻の環にも乗れないのに。それでも誰かを頼れって言うのっ?」
リュミエルはひゅっと息を吞み、白い顔をより一層白くしながら「そんな……」と呟いた。
震える手で口元を隠したリュミエルは、ガクガクと身体を震わせた。違う、リュミエルが悪いわけではない。そう思うのに、口から勝手に出てくる言葉が止められない。
「私が欲しいものを全部持ってて、私の前でそれを見せつける。どんなに頑張ったって、リュミエルみたいに上手くはできない」
いつの間にかリュミエルに甘えて、とうとう腹の底に溜まっていた黒いものが溢れ出す。
「リュミエルは、いつも私を惨めにするのよっ!」
言い放ってから、シーツを握りしめて突っ伏した。今は顔を見られたくない。すると、リュミエルがズルっと足を後ろに引く音がした。
「ごめんね、フィオナ……」と小さく呟く声は、酷くかすれていた。
はっとして顔を上げると、リュミエルの姿は幻であったかのように消えていた。いつも突然現れるエルフは、消えるときさえあまりにも突然で。
「リュミエル……?」
呆然として呼びかける声が部屋に空しく響き、フィオナは部屋中を隈無く見回した。
「嘘でしょう……リュミエルっ」
勢いよくベッドから抜け出すと、靴を履くのも忘れて寝室を飛び出し、隣の部屋に駆け込んだ。きょろきょろと見回すが、リュミエルの気配すら感じられない。ドクドクと心臓が鳴り響き、冷たい汗が背中を伝う。
前にリュミエルが出ていった窓に近付くと、ほんの少しの隙間が見え、小さくカーテンが揺れていた。そっと震える手で押し開けると、日差しを受けた草花がさわさわと風になびいている。リュミエルが出ていったであろうその場所には、何の痕跡も見当たらない。いつもと変わらぬ長閑な森の風景が、フィオナには色あせひどく空虚に映った。
「また、独りに戻っただけ……」
ぽつりと呟いた声が、思った以上に重く響いた。
のろのろと寝室に戻り、そのまま布団に潜り込む。もう一度目を瞑ったら、リュミエルの声が聞こえるかもしれない。けれど、期待も空しくそのまま時間だけが過ぎていった。
窓の外はいつの間にか夕焼けに染まり、フィオナの腹が空腹を訴えて盛大に鳴き出した。
「こんなときでも、お腹は空くんだ……」
心は擦り切れ動きたくないのに、身体がそれを許してくれない。情けない気持ちで布団から這い出し、昨夜ぶりに食事の準備をした。
丸一日何も口にしていなかった胃に、粗末なスープを流し込んだ。味も感じられないのに、身体はじんわり温かくなる。それでも心の奥底は冷え切っていた。片付けを終えそのまま布団に戻るが、眠気は一向に訪れない。
『ごめんね、フィオナ……』
目を瞑るとリュミエルの小さな呟きが耳に木霊した。本音交じりの叫びは、リュミエルをひどく傷つけたのだと思うと、自分の醜さに胸がキリキリと痛む。震える手で胸元を握りしめ、膝を折り曲げ丸くなった。腹の中の黒いものは、洗いざらい吐き出して、残らずリュミエルにぶつけてしまった。ドロドロとした塊を吐いても、フィオナの気持ちが晴れることは無かった。
なぜあんなことを言ってしまったのだろう。リュミエルとのやり取りを思い出し、胸の奥がずくずくと疼いた。
『一人が寂しくて辛いなら、もっと他の誰か……ブレナン……だったかな? あいつを頼ったらいい』
ふいに響いた声に、思わず耳を塞ぐ。聞きたくない、でもなぜなのか……認めたくない、認めるわけにはいかない。首を振って頭の中から追い出した声は、母のものに変わる。
『ごめんね、フィオナ……。フィオナは、母さんのようにならないで』
一筋の涙を流した後、母は石になって動かなくなった。徐々に動けなくなる母の姿に、フィオナは覚悟をしているつもりだった。それでも塵になるのを見送ったときは、真っ暗な世界に一人取り残された気分になって、怖くてたまらなかった。
誰かに自分を覚えていて欲しい。けれど、自分のような思いはして欲しくはない。相反するこの気持ちはフィオナから人を遠ざけ、しかし完全に断ち切ることも許さない。
受け入れて貰えそうだと思ったリュミエルには、もう一歩のところで拒絶されたように感じた。結局自分はどちらにいっても異物で、どこにいても弾かれてしまうのだ。
浮かぶ考えはどんどん後ろ向きになり、その度目の前の暗闇が深くなっていくような気がする。このまま闇の中に落ちて、いっそ戻ってこなければ楽なのだろうか。眠気の訪れぬ頭の中に、取り留めのない考えがぐるぐると駆け巡る。
布団の中に潜り込んだまま、気付けば変わらぬ朝を迎えた。フィオナはのろのろと鉛のような身体を引きずって起き上がった。
簡単な朝食を摂り、薬草摘みの準備を始めた。このときになって、もしかしたらと胸の奥がそわそわして、そんなはずはないと思えばずきりと痛む。
大きく深呼吸を繰り返して家の扉を潜り、いつものように森へ一歩踏み出した。
普段ならすぐに対話魔法を開き、草花と話しながら歩く道だ。けれど今日は、落ち着きなく周囲を見回してしまう。がさりと鳴る葉擦れの音に、ぱっと視線を上に向ける。木の枝に留まるカラスと目が合い、肩を落として俯いた。
何度も同じようなことを繰り返し、フィオナは自分がリュミエルとの日常をいつの間にか自然に受け入れていたのだと思い知る。いつものことは、当たり前のことでは全く無かった。
対話を開いて草花と話しながら歩けば、フィオナの斜め前には音も無くリュミエルが立つ。居るのを分かっていながら対話を続け、薬草を摘む。時折新しい話を聞いては、記録帖に書き加える。それを見ながらリュミエルが、草花たちにフィオナを挟んで問いかける。フィオナが気付かなった視点で話すリュミエルに、驚くことが何度もあった。
その日常は、全てリュミエルがもたらしたものだ。今になって気付いた。フィオナは自分からリュミエルを呼んだことも、探したことも無かった。いつだってリュミエルの方から現れた。その事実に愕然とする。
それならフィオナが会いたいときは、どうやって。
「リュミエル……」
小さく呟く声は頼りなく、小鳥の囀りに搔き消された。唇を歪め周囲を見回すが、会いたい相手はどこにもいない。
「リュミエルっ!」
精一杯の声を張り上げるが、森の奥へと飲み込まれていくだけで、欲しい返事は返ってこない。フィオナはきゅっと唇を結び、草花との対話魔法を開いた。
《おはよう、フィオナっ》
《今日はひとり》
「ねえ誰か、リュミエルがどこにいるか知らない?」
草花たちはさわさわと揺れた後に、方々から声を出す。
《あっちに行った》
《違うよ、南にいるよっ》
《もういない》
《東にいたけど、速くて分からない》
あちこちから聞こえる声に、フィオナはぐるりと周囲を見渡した。握りしめた拳がじっとりと湿り気を帯びる。その刹那、フィオナの後ろから草花の叫び声が響く。
《いたっ》
声の方に振り向いた。籠を捨てて脇目も振らずに真っ直ぐ走り出す。ばきばきと落ちる枝を踏み鳴らしてただ進む。顔に当たる細い枝を両手で退けた。息が上がり喉が詰まる。気にしている余裕はない。見つけなければ、もう二度と会えないかも知れない。過ぎる考えに焦燥感が膨らんだ。転びそうになりながら突き進む。
木々の間にちらりと何かが横切るのが目に入った。フィオナはそれを目がけて足を踏み出す。これを逃したらきっともう次はない。心臓がぎゅっと潰されるような痛みに顔を顰めた。喉の奥がぜえぜえと音を立てる。息が続かない、もうダメだ。そう思った瞬間、地表に浮かぶ木の根に躓き、あっという間に地面が目の前に迫った。固く目を閉じ、咄嗟に両手を出すが、そのままの勢いで倒れ込む。
痛みを堪えてさっき見えた影を慌てて探すと、そこにいたのは――アナグマだ。アナグマはフィオナに驚き飛び上がると、そのまま尻を振りながら慌てて去って行った。間抜けな後ろ姿を見送りながら、フィオナはふっと息を漏らした。
「ふっ、あはははっ。あはははははっ」
緊張の糸が切れ、思わず漏れた笑い声が森の中に空しく響く。間抜けなのは、アナグマではない。アナグマの為に必死で走っていた自分だ。そう思うと、自らの滑稽なさまに笑いが止まらず涙が滲んだ。
笑い泣きがやがて嗚咽へと変わっていく。ぐっと漏れる声に、フィオナは息が苦しくなる。胸の痛みは走ったせいなのか、それとも――。
《フィオナ、元気出して》
《エルフはちゃんと森にいる》
エルフは嘘を吐かない。だから、きっとどこかで見守っているはずだ。フィオナの命が尽きるそのときまで、この森のどこかで。けれど、姿は見えない。呼んでも応えてはくれない。こんな理不尽なことがあるだろうかと、腹を立ててもぶつける相手は、もういない。どうすればよかったのだろうか。そもそも他人と深く関わったことの無いフィオナは、遠ざけることはできても、近付く術を知らない。
乱暴に袖で涙を拭い、立ち上がる。汚れた膝を雑に払い、落とした籠を拾いにのろのろと来た道を戻った。
頬に当たる枝を払う気にもなれず、色褪せ滲んだ森をただ進む。地に足の着かない心地で、心許ない。走り過ぎて震える膝に、今にも崩れ落ちそうだ。籠を見つけたフィオナは、散らばった薬草を拾い集めた。腕が酷く重いが、それ以上に身体に力が入らない。
鈍い足取りで進んだ先に、広い森にぽつんと佇む粗末な家が見える。それはまるで、フィオナそのもののように映った。




