3-4
夜が明け朝が訪れても、フィオナは起き上がる気になれずに布団の中で小さく丸まっていた。きっと外は明るい陽射しに照らされ、澄んだ空気で満たされていることだろう。けれど、フィオナの気分はまるで正反対だ。腹の中にドロドロとした黒いものが渦巻き、丸まっていないと吐き出してしまいそうだ。それが嫌で窓を硬く締め切り、薄暗い部屋の中でずっと縮こまっていた。
既に昼も回り、いつもなら薬草を干し終えている時間だが、一向に起きる気分になれない。マナもまだ完全には戻っておらず、身体が怠くて仕方ない。マナが戻るまでは大人しく寝ていよう。そう言い訳をする自分に、後ろめたさを感じつつも目を閉じた。そのとき、遠慮がちに家の扉を叩く音が聞こえてきた。
「フィオナ……」
柔らかに響く声は、予想に違わずリュミエルだ。フィオナは聞こえない振りで布団の端を握りしめ、更に小さく丸くなる。何度か呼びかけられたがやがて静かになり、ほっと息を吐いた。
「フィオナ、具合が悪いの?」
すぐ近くで話しているようなはっきりした声に、フィオナは気のせいだろうかと首を傾げた。布団の中で目を瞬くが、暗くて何も見えない。未だ夢の中なのか、それとも無意識に聞きたいと思っている声が聞こえるだけなのか。いいや、そんなはずはないと、大きく首を横に振った。だとすれば、この声は。
がばりと勢いよく上半身を起こし、声のした方へ慌てて視線を向けた。
「思ったより元気そう?」
目を見開いたフィオナは、口を開いたり閉じたりしながら、布団を握り込む拳を震わせた。
「フィオナ、寒いの? 大丈夫?」
「どうして家の中にいるのよっ」
いつの間にか、フィオナのベッドから数歩先に立っていたリュミエルは、ぱちぱちと目を瞬き、首を傾げた。
「何度も声を掛けたけど、返事がなかったから……。昨日は凄く疲れてそうだったし、もしかしたら具合が悪くて起きれないのかと思って、心配で……」
「心配だからって勝手に人の家に入るなんて、どうかしてるっ!」
「ごめん……どうしても気になって……」
むっとした表情で見上げると、リュミエルは眉を下げて視線を彷徨わせた。わかっている、これは半分以上が八つ当たりだ。
「そうやってどこでも自由に出入りできるなんて、エルフって便利ね」
わかっているのに苛立つ声が抑えきれない。腹の奥に溜まる澱のようなものが、大きく膨らんでいくようで気分が悪い。
「そうだよ、エルフって人間からしたらすっごく便利だよね。だけど……フィオナは全然頼ろうとしてくれないけど」
肩を竦めて少し拗ねたようなリュミエルに、フィオナは目を瞬いた。
「僕が今まで行った村では……ここもそうだけど、エルフを見ると皆有難がって何かを願う。でも、フィオナは一度もそんなこと無いよね」
「私は、一人で何でもしてきたから。あなたに頼るほど困ってない」
自分は何の役にも立たなかった癖に偉そうに――その事実が胸を抉る。
「そうだね。フィオナは全部自分で解決しようとするから」
「いけない?」
「そうじゃないけど……」
言い淀んだリュミエルに、フィオナは益々苛立ちを募らせた。
「大体、あなたはどうして村人を助けたの? 人間には興味が無いって言ってた癖に」
「あれは、フィオナの為に……」
「私の為?」
「フィオナは、村人を助けたかったんだよね? あの人たちを大切に思ってるんじゃないの?」
「違うわ。自分が必要とされたいから、それを失いたくなかっただけ」
フィオナは俯き唇を噛んだ。リュミエルの前ではなぜこうなのだろう。認めたくないはずの自分の気持ちが、勝手に口から出てきてしまう。
「そんなことないよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「だって、その手。そんなになるまで頑張って、それがただ自分の居場所を守る為だけだなんて僕は思わない」
フィオナは無様だと思った自分の手を見下ろした。昨日より腫れのひどくなった指は赤黒くなり、より一層醜く映る。
「フィオナは、命の種を村人だけに使った。あれを飲めばフィオナだって回復したのに、自分は使わなかった。そんなこと、考えもしなかったんじゃない?」
「それは……ただ、疲れて頭が回らなかっただけ」
「そうじゃないよ。自分のことに頭が回らないほど、他人のことしか考えてなかったんだ」
「あなたに言わせると、私って随分いい人ね」
「そうだよ。僕から見たフィオナは、そういう人だよ」
フィオナは口を引き結び、しばらくの間俯いた。少しの間を置き、揺れる視線をリュミエルに向ける。
「私は、そんな大した人間じゃない。必要とされる自分に満足したいだけ。皆を助けようと思ったのも、ただの自己満足」
「それっていけないこと? 僕だって、フィオナの役に立ちたい。僕のしたこともただの自己満足だ」
本当にそれでいいのだろうか。醜い自分の欲求を満たすためだけの行為が、許されるのだろうか。
「あなたは、どうして私の役に立ちたいの?」
「それは、僕にとってフィオナが特別だから」
「エルフの祝福を持ってるから?」
「違うよ」
「何が違うの?」
リュミエルはいつになく真剣な眼差しでフィオナを真っすぐ見つめた。
「確かに最初は祝福を持ってることで特別なんだと思ってた。でも、違うって分かった。フィオナは意地っ張りで、思ってるのと反対のことを言ったり、寂しいくせに強がったりするけど。本当は優しくて、美しい心を持ってる。エルフみたいに……或いは、それ以上に」
「随分美化してる」
「そんなこと無い。前にも言ったでしょう? 樹と話せるのは魂が純粋だからだって」
そんなことを言われても、心の美しさなど見えはしない。ドロドロの感情を抱えた自分が、エルフより純粋だとはとても思えない。
「樹にはわかるんだ。フィオナの心がどんなか。そうじゃなきゃ、祝福があるからって人間と話すなんてあり得ないよ」
フィオナは視線を彷徨わせ、そのまま俯いた。
「僕は、フィオナに出会えてよかった。人間を愛して、呪いを掛けたエルフの気持ちが分かったから」
「どういうこと?」
上目遣いでリュミエルを窺うと、今まで見た中でも一番の柔らかな笑みを浮かべていた。見慣れていたはずのその姿が、どこか淡い夢のようで、思わず見惚れて息が止まる。
「僕は、フィオナのことが好きだ。呪いのエルフは、人間なんかを愛してバカだなって、ずっとそう思ってた」
目を見開き動きを止めたフィオナに、リュミエルは諦めたような表情を浮かべた。
「想いが通じても寿命が違い過ぎるし、人間はエルフと違って嘘を吐くしね。僕は人間なんて絶対に愛することは無いって、ずっと思ってたのに……」
切なげに目を細めたリュミエルは、ふっと小さく息を吐く。
「それなのに。フィオナと一緒に過ごすうち、僕もいつの間にかバカなエルフの仲間入りだ」
フィオナは呆然とした顔でリュミエルを見上げた。一体何を言われたのか、理解できずに混乱する。やがて目を瞬き、すぐ後に顔が一気に赤くなった。
「なっ、何言ってるの? 人間なんて好きにならないって言ったじゃないっ」
フィオナの全身がカッと熱くなり、頭に血が上る。それが恥ずかしいからなのか、腹立たしいからなのか、フィオナにも分からずわなわなと震えた。
「最初はそう思ってたけど……」
「エルフは嘘を吐かないんじゃなかったの?」
決まり悪そうに頬を掻くリュミエルを見つめながら、フィオナは顔を歪めた。
「あのときはそう思った、嘘じゃない。エルフは生涯に一人しか愛せないって言ったでしょう? それが僕にとってはフィオナだ。気付いてしまったら、もう戻れない」
フィオナは口を開いては閉じを繰り返し、中々言葉が出て来ない。リュミエルの落ち着いた視線に、なぜか胸が痛くなる。エルフは一度得た愛を失うと枯れる。自然な別れには穏やかな最期が訪れる。ならば、フィオナが受け入れなければ、リュミエルは天寿を全うできるのだろう――けれど。
「それで、もし……もし、私があなたを愛したら……リュミエルは、私を失って枯れるのに?」
小さく息を漏らしたリュミエルは、淡く微笑んだ。
「君が僕を愛すなんてこと、無いと思うけど。そうだね。もしフィオナが僕を受け入れたことで、結果枯れることになっても。僕はそれでも構わない」
「どうしてっ? 穏やかに枯れるって言っても、私が石になったらあっと言う間に何も無くなる……。そうじゃなければ、まだ何百年もリュミエルには自由な時間が残されるのに」
リュミエルはふっと笑みをこぼして口を開いた。
「生涯にたったひとり。心から愛する人に会えるなんて、滅多にないことだよ。僕らエルフみたいに長く生きてたって、見つけられるのはほんの一握り。だからこそ、穏やかに枯れるのは至高の幸せなんだ」
「そんなの……そんなの、私は嫌」
「フィオナ……」
「私は、リュミエルを絶対に好きになんてならない。愛したりしないっ」
「大丈夫、分かってるよ」
フィオナは俯き、まつ毛を揺らす。涙がこみ上げそうになるが、唇を引き結び堪えた。失うのも、失う苦しみを与えるのも、絶対に嫌なのだ。
「フィオナは誰も愛さず、石にもならない。僕はフィオナが寿命を終えるまで、ここでただ見守るよ」
ゆるゆると顔を上げ、リュミエルを見上げた。穏やかに目を細めた笑顔に、フィオナの胸がぎりぎりと締め付けられる。
「でも……側にいるのも怖い。私も母さんみたいに、リュミエルを……」
「近くにいるのが不安なら、僕は見えない所にいくよ」
フィオナは目を見開いた後、顔を歪めて下を向いた。
「一人が寂しくて辛いなら、もっと他の誰か……ブレナン……だったかな? あいつを頼ったらいい」
フィオナは勢いよく顔を上げ、リュミエルを呆然と見上げた。
「ブレナン……どうしてブレナンなの?」
リュミエルは口をへの字にしながら腕を組んだ。
「最初は気に入らなかったけど。あいつ、本当はフィオナのことちゃんと気にかけてるんだなってわかったから」
途端に目の前のリュミエルが遠く感じた。すっと血の気が引き、胸の奥がずしりと重くなる。
「……ブレナンなら、いいの?」
掠れる声が喉を震わせ、口の中がからからに乾く。
「フィオナが決めたことなら」
舌が張り付き、思うように言葉が出ない。全身に冷や水を浴びたような気になり、息が詰まって苦しくなる。
「フィオナは、僕には頼ってくれないけど……人間同士ならもしかしたら……」
「ブレナンとなら、助け合えると思うの?」
「分からないけど。僕はフィオナに相応しくない」
リュミエルは組んだ腕をほどき、寂しげに笑った。
「フィオナは、もっと誰かを頼っていいのに」
リュミエルの一言に、フィオナの中で何かがプツリと切れる音がした。握りしめた拳がぶるぶると震え、頭に血が上り、さっきまでとは違う熱が身体を駆け巡る。
「あなたに何がわかるのよっ!」
肩で息をしながら叫ぶフィオナに、リュミエルは目を瞬いた。フィオナは徐々にぼやける視界と、自分では制御できない身体の熱に、戸惑いながらも唇を嚙み締めた。




