2-5
「ねえ、リュミエルは呪いのことをあまり詳しく知らないのよね?」
「そうだよ。どうして?」
「いいえ。もし知ってたら聞きたいことがあったのだけど。知らないならいいわ」
眉を下げたリュミエルは、本当に何も知らない様子だ。フィオナは少しの間逡巡して、再び口を開いた。
「トネリコに聞いても、分からないと言われたの」
そう、あのときアスクはなんと言っただろうか。誰にも愛を告げなければ、魂は輪廻の環に乗れるのか。そう問いかけたフィオナに、アスクはたしかこう言った。『見たことのないものの答えは持たぬ』と。
「トネリコ? フィオナは樹と話せるの?」
「ええ。祝福は元々エルフのものなのに、それも知らないの?」
リュミエルは目を瞬いて、何度も首を横に振る。それから感心したようにフィオナを見つめ、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「フィオナ、樹と話せる者なんて、エルフでも滅多にいないんだ。樹は純粋な魂にしか心を開かない。エルフであってもそれは変わらない」
「そんなわけないわ」
フィオナは俯き唇を噛み締めた。目の前のエルフに嫉妬をするような醜い自分に、そんなものがあるはずない。
「君のお母さんはできたの?」
「わからない」
そう言えば母とそんな話をしたことはなかった。草花と話せたことは知っている。けれど、樹のことは聞いたことがない。そもそも娘が産まれた時点で祝福は受け継がれのだ。だからフィオナが産まれた瞬間から、母は草花と話すことはできなかった。
アスクと話したのは、偶然だった。なんとなく惹かれて話しかけたのがきっかけだった。他の木と話すことはできなかったが、アスクだけは特別だった。それがなぜかアスクにすら聞かなかった。
フィオナは腰に吊るした守り袋を無意識に撫でた。その中にはアスクの居た村を出る前に貰った、羽のような種が入っている。
「そもそも、どうして人間はエルフを騙したんだろう」
「呪いの起源を知らないの?」
「人間を愛したエルフが騙された。それに腹を立てて、呪いをかけた。それ以上はわからないよ」
肩を竦めたリュミエルに、フィオナは苦い笑みを浮かべた。大雑把に言えばそのとおりなのだが。
「フィオナは詳しい話を知ってるの?」
「ええ。呪いを受ける子供は、必ず教えられることだから。リュミエルは、知りたい?」
「うん。聞かせてくれる?」
フィオナは頷き、気持ちを落ち着けるように深呼吸をした。それから母に聞いた話を思い起こしながら、静かに口を開いた。
フィオナが生まれるよりずっと昔、今からおよそ百五十年ほど前。
森の奥を一人彷徨っていた女は、あるものを探していた。それは、エルフの持つ『命の種』と呼ばれる実で、人間にとっての万能薬だ。人間の領域ではまずお目にかかれない代物だが、もしかしたら森の奥深くでなら見つかるかもしれない。一縷の望みを掛けて、森の中を歩き回っていた。大切な人の命を救うために、たった一人で。
既に何日も経って水も尽き、持ってきた干し肉も無くなった。歩かなければと思うが力が入らず、大木の根元に座り込んだ。このまま命の種も見つからず、自分もここで人知れず人生を終えるのかと思い身震いした。
頬を撫でる風が止み、サワサワと鳴っていた葉の音が鎮まる。息をひそめたかのような静けさが訪れた――その刹那、見つめた地面に影が差した。
「娘、お前人間だな? こんな森の奥深くで何をしている」
声に導かれてのろのろと顔を上げると、そこにはこの世のものとは思えぬ程美しい男が立っていた。女は口をぽかんと開き、目を皿のようにして、間抜けな顔で男を見上げた。男はその様子に口の端を上げ、愉快そうに笑った。
「人間とは面白いものだな。そのような反応は、エルフ同士ではお目にかかれない」
女は何も言えずに口をパクパクと動かした。じっとエルフを見上げ、無意識にジリジリと後退る。
「口がきけんのか。まあ、いい。動けんのだろう? 我が家で休むといい」
答える間もなくあっという間に抱き上げられ、女はそのまま意識を手放した。
目を覚ますとそこは、見慣れぬベッドの上だった。天井は滑らかなアーチを描き、部屋全体が樹の幹に包まれたように丸みを帯びている。まるで大樹の中にいるかのようだ。起き上がろうとするが、長く歩き回った足はすっかり豆が潰れ、痛みで立つこともできない。空腹も重なり血の気が足りず、視界がぐるりと回る。女は小さく呻き声を上げ、ベッドに倒れ込んだ。
「無理をするな。治癒魔法をかけてやりたいが……無闇に使うと人間は壊れると聞くからな」
声に驚き目を見開いた女は、再び上半身を慌てて起こす。いつの間にかエルフが枕元に立ち、女を見下ろしていた。
「腹が減っただろう」
湯気の立つスープを木の盆に載せ、男がそっと差し出した。数日ぶりのまともな食べ物の香りは食欲をそそり、女の腹がぐうと盛大な音を立てた。
「あっ」
思いの外よく響いた音に思わず声を上げ、顔を赤らめ俯いた。
「娘、お前は声を発せるのだな」
「すみません。あの……ありがとうございます」
「ああ。遠慮せずに食べるといい」
先ほどよりエルフに慣れた女は、ゆっくりスープを味わった。疲労と空腹で冷えていた内臓に、柔らかな温もりが染み渡る。女はほっと息を吐き、スープを一気に飲み干した。
「ご馳走様でした」
満足そうに頷いたエルフが、木の盆を持ち上げた。そのとき、腰に吊るした特徴的な実が目に入り、思わず食い入るように見つめてしまう。
「娘、どうした?」
不躾に見ていたことを咎められるかと思い、女はびくりと身体を揺らした。
「いいえっ、なんでもありません」
「そうか?」
首を傾げたエルフは、さして気にした風でもなく「しばらく休むといい」と続けた。
「……ありがとうございます」
娘は礼を言いながら、あの実をどうにか手に入れることができないかと考え始めた。あれは命の種に違いない。あれさえ手に入れば、彼を救うことができる。そのことで頭が一杯になった女は、エルフに取り入ろうと必死になった。
やがてエルフは女に心を奪われた。そして、このまま二人で共に暮らそうと、嬉しそうに告げた。女はやっと機会が訪れたと、それを利用することにした。
「ここで暮らす前に、一度郷に帰って家族に別れを告げたいのです」
「確かに突然消えては心配する者もいるだろう」
「それで……お願いがあるのです」
「なんだ? 私にできることなら叶えてやろう」
女はごくりと喉を鳴らし、祈る思いで口を開いた。
「あなたの持っている、その……命の種を私にくれませんか?」
「命の種? ああ、これか」
エルフは腰に吊るした実を外して、顔の前に掲げた。
「誰か病の者でもいるのか?」
「そうなのですっ! 私のっ――大切な人が重い病で……」
「そうか、それは難儀なことだ。いいだろう、持っていけ」
あまりにも簡単に貴重な実を手放すエルフに、女は目を見開いた。こんなに簡単に手に入るなんて――何か裏があるかも知れない。どくどくと鳴り響く心臓の音に、差し出す指が微かに震えた。そっと女の掌に実を落としたエルフは、なんでもないことのように微笑んだ。
「これを使えば、人間ならすぐに回復する。早速お前の郷まで送ってやろう」
「いいえっ! エルフと暮らすと分かれば家族が心配します。あなたと会った樹の根元まででいいのです」
家を知られてはたまらない。あの場所から帰るのは一苦労だが、先のことを考えればその方がいいはずだ。
「ふむ。人間とは遠慮深いものだな。まあいい、あの場所まで送ってやろう」
樹の根元にやってくると、女は何度も礼を言った。胸の前で大切に両手で包みこんだ命の種は、何があっても持ち帰らなければならない。
「では、ひと月後にここで」
「待ってくださいっ。ひと月では、回復するか分かりません。せめて、一年後では駄目ですか?」
「一年か。エルフにとってはあっという間だ。では、一年後に」
「ありがとうございます。……さよなら」
「また会おう」
エルフはあっという間に女の前から姿を消した。女は一度ぶるりと全身を震わせ、冷や汗を拭う。そのまま郷への道を、逸る気持ちで駆け抜けた。
女が命の種を持っていったのは、将来を約束した幼馴染の男の所だった。病に倒れて願いも叶わず、そまま儚くなりそうだった。女は必死に命の種を探し、男を助けたいと思っていた。だから善良なエルフを騙すことに、良心は痛むが後悔はない。
命の種を擦り潰し、数日に分けて少しずつ与えた。飲んだ男は、見る見る内に回復した。エルフの言ったひと月後には、今までの不調が嘘のように快癒した。
喜んだ男は、改めて女に結婚を申し込んだ。女の脳裏に親切なエルフの顔が過ったが、あまりにも人間とかけ離れた美貌を思い浮かべ、小さく頭を振った。自分のような平凡な女が横に並ぶことなど、想像もできない。
女は、晴れて男と夫婦になった。美しいエルフはきっと、取るに足らない人間のことなどすぐ忘れるに違いない。女は浅はかにもそう考えていた。
それから一年が過ぎ、女は子供を身籠った。少しずつ膨らむ腹に、幸せを噛みしめる日々。それでもエルフのことは、頭の隅に罪悪感と共に居座っていた。
そんなある日、洗濯物を干し終えた女が木の根元に座っていると、ザワザワと葉の擦れる音が響いた。風がぴたりと止まり、女の上に影が差した。ぞわりと背筋が寒くなり、身震いした女は腹を守るように両腕で身体を包み込んだ。
「娘、なぜあの場所に来なかった」
突然降ってきた声に、女はびくりと肩を震わせた。恐る恐る視線を上に這わせると、あの親切なエルフが音もなくすぐ側に立っていた。しかし、今は眉を顰め、恐ろしいほどに冷めた目をしている。
「お前、嘘を吐いたな。別の男の子供まで孕むとは……」
エルフの静かな怒りに、女は歯をカチカチと鳴らし震え上がった。声を出すこともできずに、目を見開いたままエルフから視線を逸らせない。
「エルフを謀るとは、人間とは恐ろしいものだ。……この恨みは生涯忘れ得ぬ。この呪いは、子々孫々まで受け継がれることとなる。お前も共に苦しむがいいっ!」
エルフは女の顔に手を伸ばし、何かを呟き瞬く間に消えた。女は気を失い、目覚めたときにはそれが夢か現かも分からなかった。告げられた言葉も忘れていた。
それからしばらくして、女は娘を産んだ。エルフが去ったことで憂いも晴れた女は、それまで後ろめたさの影に隠れていた夫へ深い愛を告げた。そのとき脳裏に蘇ったのは、エルフが最後に呟いた言葉だった。
『お前は誰にも愛を告げることはできぬ。告げれば石になって消えるだろう』
それと同時に身体が石に変わり始めた。女が最後に見た景色が何だったのか、今となっては誰にもわからない。
ざあっと風が森の木々を揺らし、足元の草花を撫でる。フィオナは小さく息を漏らし、「これで全部よ」と言った。リュミエルはごくりと喉を鳴らし、切なげな目でフィオナを見つめる。
「エルフを……恨んでる?」
フィオナは俯き考えてみるが、ずっと答えは変わらない。
「いいえ。でも、こんな酷い呪いを受けるほどのことだったのかしらとは思うわ」
「僕は、エルフの気持ちがわかるよ」
顔を歪めたリュミエルが、絞り出すように答えた。フィオナは胸の奥がスッと冷えて、唇を引き結んだ。
「でも、人間の気持ちもちょっとはわかる。愛する人のためなら何でもしたい、そういうことだよね。だけど、互いに知らないことがあったんだ」
「どういうこと?」
「エルフはその人に、命の種がなぜ必要なのか尋ねなかった。僕らにとってはそこまで珍しいものじゃないから」
「そんなっ」
そんなもののためにこんな呪いを受けたのか。そう言おうとして口を結んだ。リュミエルにそんなことを言っても仕方がない。
「もし娘が初めから大切な人のために必要なんだと打ち明けていたら、そのエルフは愛していなくても快く渡したはずだよ」
「聞かなかったエルフも、伝えなかった人間も悪いってこと?」
「そうだね。それからもうひとつ」
リュミエルは視線を彷徨わせたあとに、躊躇いがちに口を開いた。
「人間は知らないんだね。エルフは、生涯でたった一人しか愛せない」
「じゃあ……そのエルフはもう、他の誰かを愛せなかったの?」
「そうだよ。それから、エルフは一度得た愛を失うと枯れてしまう。それぞれの寿命が尽きて別れるなら、穏やかに枯れる。それはエルフにとって至高の幸せなんだ」
「でも、人とエルフは寿命が違いすぎるわよね?」
「エルフの寿命が残っていても、自然な死ならエルフも共に枯れることができるよ、穏やかにね」
一度言葉を切ったリュミエルは、「だけど」と続けて苦い顔をした。
「裏切られたエルフは、残りの命が尽きるまでの長い間、苦しみの果てに枯れていくんだ」
ざわざわと響く葉擦れの音が、フィオナの耳に重く響く。二人の間を通り抜ける風が、どこか冷たさを帯びていた。リュミエルは静かな目で、揺れる葉を見上げていた。




