2-4
また変わらぬ朝を迎えたフィオナは、いつものように窓を開けた。澄んだ空気は憎らしいほどに清々しく、フィオナの気持ちは一層重さを増す。
普段通りに支度を整え、鉛のような足を引き摺り森へ向かった。今日も必要な薬草を集めなければ、薬草師として生きることさえできなくなってしまう。対話魔法を開く気持ちも湧かず、黙ってのろのろと足を進める。今日集める薬草は何にしようかと考えながら、いつもの切り株を超えて進んで行った。
今朝は、リュミエルに会ってから一度も通ったことの無い道を行こうか。でも、きっとエルフには意味のないことだ。森の中ならどこでも見つけられてしまうのだろう。ガサリと音を立てて、斜め前に降り立つ姿が目に入り、その美しさに唇を噛んだ。
「おはよう、フィオナ」
「……おはよう」
考えていた以上に、顔を合わせることが気まずい。相変わらず眩く微笑むその顔が、今日は一段と憎らしい。
「今朝は元気がないね」
「そうかしら……いつもどおりよ」
リュミエルは腕を組んで唸り声をあげた。フィオナの顔色を窺うような視線に、思わず顔を背ける。
「フィオナ、昨日のこと気にしてるよね?」
「……何のこと?」
「僕が村の人間に付いていったこと」
「いいえ、気にしてないわ」
リュミエルは再び唸り声をあげ、眉を寄せた。じっと見つめられるのが居心地悪くて、今度は身体の向きを変えた。
「いや、やっぱり気にしてる。人間は嘘を吐くから解り難い」
「別に、わかってほしいなんて思わないわ」
「……やっぱり怒ってる?」
フィオナの前に回り込んだリュミエルは、屈んで顔を覗き込んできた。
「怒ってなんか……」と言いかけて言葉を止め、大きくため息を吐いた。ちらりと盗み見ると、リュミエルは怪訝な顔でフィオナを見上げている。
「面倒な人間になんて構わずに、早く里に帰ったら?」
思いの外冷たく響いた自分の声に、胸の奥がずきりと痛む。気まずくなって俯くと、姿勢を直したリュミエルがむっとしたような声で返事をした。
「帰らないよ。フィオナと、約束したから」
「別に、約束なんて守らなくても、私は気にしないわ」
振り切るように足を踏み出し、そのまま大股で歩き出した。「待ってよ!」とリュミエルが追いかけてくるが、それを無視してずんずんと森の奥へ進んでいく。どんなに速く走っても、エルフから逃げるなんて不可能だ。そんなことは分かっていても、今は顔を見たくない。モヤモヤとしたものを抱えたフィオナの顔は、美しいエルフの目にどう映るのだろうか。そんな事ばかり考えている自分にも腹が立つ。
簡単に追いつけるはずのリュミエルは、一定の距離を取ってついてきた。人間に興味がないと言っていた癖に、なぜフィオナの後を追うのだろう。なんだかとても悪いことをしているように思えて、今度は胸がチクチクと痛む。
けれど今更足を止めるのも気まずくて、そのまましばらく森の中を歩き続けた。このままではだめだと思うのに、どうしたらいいのか分からない。絵本を恥ずかしがったリュミエルを子供みたいだなんて思っていたのに、フィオナのほうが余程大人げない。
止まることも出来ずに、けれど少しずつ足取りが緩んでいく。考えてみればこの森を誰かと歩くのは、リュミエルが初めてだ。昨日までは楽しく歩いていたはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
「フィオナ……」
背中から躊躇いがちなリュミエルの声が追いついて、フィオナはとうとう足を止めた。ゆっくり振り返ると、いつもよりも数歩離れている。自分で作った距離なのに、胸がシクシクと痛みだす。
「フィオナ、少し落ち着いた? 僕の話を聞いてくれる?」
リュミエルの顔を真っ直ぐ見ることができず、視線を下げて頷いた。
「よかった……。僕が村に行ったのは、あの人間たちの話を聞きたかったからなんだ」
「話って?」
「あいつら、フィオナが草花と話せるかもってわかったら、急に態度が変わったでしょ?」
「……そうね」
リュミエルは顔を顰めて、心底嫌そうに続けた。
「僕には全然わからない。どうしてエルフが草花と話せても喜ばれるのに、フィオナだとダメなの?」
「人間は他と違うことを恐れるって、あなたも知ってるでしょう?」
「そうなんだけど」と答えたリュミエルは、口をもごもごと動かしながら、何とも言えない顔をした。フィオナは目を瞬き、それをまじまじと見つめた。
「頭ではわかってたけど、実際フィオナに対するあいつらの態度を見てたらなんだかモヤモヤして」
「リュミエルは、それで村に行ったの?」
「そうだよ。フィオナの薬草を頼りにしてる癖に、どうしてあんな風なのかなって。行って話を聞いたら何かわかるんじゃないかって……」
そこで言葉を切ったリュミエルは、気まずそうに頬を掻いた。続きがどうだったか予想のついたフィオナは、いつものことだと頷いた。
「皆あなたを褒めてもてなすのに忙しかったんじゃない?」
「……そのとおりだよ。役立たずでごめん。他の人間もフィオナみたいに、もうちょっとわかりやすければいいのにね」
「それって、私が単純ってこと?」
少し怒った顔で見上げると、リュミエルは焦ったように視線を彷徨わせた。
「えっと……たまに嘘吐くからわからないときもあるけど。嘘吐いてるなって、見てればわかるかも」
「そんなに分かりやすい?」
「そんなことないよ!」
首を何度も横に振ったリュミエルは、「エルフと違って複雑で分かりにくい」と、大真面目な顔で続けた。フィオナは目を瞬き、何とも言えない気持ちで首を傾げた。
「人間て面倒な生き物だよね。エルフはもっと自由なのに」
「それなら、面倒な人間になんて関わらなければいいじゃない」
「フィオナは面白いからいいんだよ」
「なによそれっ」
自分だけが特別だと言われたような気がして、頬が熱くてふいっと顔を逸らした。けれど、本当に特別なのはリュミエルのほうだ。この美しく圧倒的な力を持つエルフは、フィオナと違って忌避されるようなことはない。草花と話せてもありがたがられる様子を、まざまざと見せつけられた。
腹の中にもやもやとした澱が積もるようで、それを吐き出すようにため息を吐いた。
「だから、僕が人間の代わりにフィオナと一緒にいるよ」
「え?」
「村の奴らはフィオナのことなんて分かりっこない。だけど、僕は違う。君の祝福だって尊いものだと思ってる」
真剣な眼差しを向けてくるリュミエルを、何も言えずに呆然と眺めた。
「君が生きてる間は、僕がずっと側にいる」
「どうしてそこまでするの? 人間に興味がないって言ってる癖に」
リュミエルはすっと視線を下げて、しばらくの間黙り込んだ。やがて言葉を選ぶようにして、ゆっくり口を開く。
「フィオナは僕にとって特別だ。森の中でエルフの祝福と共に生きてる君に、エルフが興味を持つのは自然でしょう?」
エルフは嘘を吐かない。けれど、奥に潜む本当の意味を伝えているとも限らない。純粋にこの言葉を受け入れるほど、フィオナは自分に対する他者の好意を信じてはいない。じっと見つめた先にあるリュミエルの瞳に過る影が、フィオナに警鐘を鳴らす。
「私は、あなたを……いいえ、誰のことも特別に思うことなんてないわ」
「呪いがあるからでしょう? 別に僕を愛してくれなんて言ってないよ」
少しの間逡巡したフィオナは、探るようにリュミエルを見上げた。
「あなたは、呪いの行く末を知ってるでしょう?」
「誰かを愛して、それを告げると……石になる。でしょう?」
「そうよ。知ってるなら私を放っておいて」
「それはできない」
「どうしてっ」
複雑な表情を浮かべて黙り込んだリュミエルは、やがて声を絞り出すようにして答えた。
「君が僕にとって特別だから」
その言葉にどんな意味があるのか、フィオナには分からない。リュミエルの表情を窺うが、俯き微かに歪んだ顔から本音を読み取ることもできない。
フィオナの脳裏に、母の最後の姿が蘇る。
『ごめんね、フィオナ』
母は半年かけてゆっくり石になっていった。まずは足の先から。やがて歩けなくなり、最後はベッドから起き上がることすらできなくなった。手を握ってもただ冷たいだけで、フィオナの心も徐々に凍っていった。
『母さん、どうして』
なぜこうなると分かっていて、愛を告げたのだろうか。フィオナには今でもその気持は分からない。ただ自分が消えてしまうだけではなく、たった一人フィオナを残していくことになるのに。
母は最後、どんな顔をしていただろうか。ごめんねと何度も謝りながら、そのうちその声も途絶えてしまった。体温を失った手を握っている内に、あっという間に砂になった。掌に残されたそれも、サラサラと指の隙間から落ちていった。
自分があんな風に砂になって、何も残らないことも確かに怖い。けれどそれと同時に、残された者のことを考える。例え愛した人に愛されて、思いを告げても石になる。それを見守る者の気持ちは一体どこにいくのだろうか。まだ愛を知らないフィオナには、母の気持ちがわからない。
目の前の美しいエルフの顔をじっと見つめると、胸の奥がざわつく。呪いも祝福も隠さず話せる初めての存在が、フィオナにとって既に特別なのだということを認めるわけにはいかない。口にすれば本当になってしまいそうで、リュミエルにそれを話すこともできない。
「あなたにとって私が特別なのは、祝福があるからでしょう?」
「……それもあるよ」
「他に何があるの?」
視線を彷徨わせたリュミエルは、呟くように「今はまだ言えない」と答えた。
他にも何かあると言っているようなものだが、深入りするつもりがないなら聞く意味はないのかも知れない。それに、やはり祝福がなければ自分は特別ではないのだ。人間に受け入れられることのないこの力は、呪いの元凶であるエルフになら受け入れられるのか。そう思うとやはり祝福とは名ばかりで、フィオナにとっては呪いと何も変わらない。
そこまで考えて我に返る。そう思うのはリュミエルにとって、本当の意味で特別になりたいと思っているからなのだろうか。いいやそんなはずはない。もし互いに特別になってしまえば、フィオナもまた母のように石になって消えるのだ。残された者の苦しみを知るフィオナが、それをしたいとは思わない。
それに、トネリコの樹『アスク』が言っていた。母のように石になって最期を迎えれば、その魂も共に消えるのだと。
死は誰でも恐ろしいものだ。けれど、皆輪廻の環に乗れるから受け入れることがてきるのに。この呪いはそれすら許さない。
だからフィオナは誰も愛さず、自然に最期を迎えようと決めたのだ。そうすればもしかしたら、来世では誰かと愛し合うことができるかも知れない。今世でフィオナのような悲しみを誰かに与えることもない。そのために独り静かに暮らしているのだ。
さあっと音を立てて、森の中を風が通り抜ける。それに合わせて、リュミエルの金糸のような髪が煌めきながら揺れていた。その美しさから目を逸らすこともできずに、フィオナは胸の奥に芽生えそうなものに気付かない振りをした。




