066
少しだけ、時間を戻そう。
男爵家の広間に入った時、彼女が最初に目を留めたのは、壁を飾る花でも楽師でもなかった。
壁際に立つ、白い護衛だった。
もう一人の黒い護衛と共に窓際に控えている。
薄藤色の短く整えられた髪は艶やかで光を弾き、肌は陶磁器のように白く滑らか。
長い睫毛に縁取られた空色の瞳はきらきらと宝石のよう。
形の良い鼻梁も唇も、まるで職人が丁寧に整えた人形のように均整が取れていた。
何より特徴的なのは、長く尖った耳だった。
エルフの冒険者が、黒竜を斃した。
そのような噂をここ数日、耳にはしていた。
不思議な光沢の、白い革の外套、白い手袋、白いブーツ。
腰には、美しい一振りの剣。
そして襟元には、鮮やかに輝く大ぶりの赤。
それらが更に彼を美しく飾り、引き立てる。
白の中に一点だけ置かれた赤は、嫌でも目を引いた。
それが単なる装飾でないことも、彼女にはすぐに分かった。
若い娘に贈られる髪飾りだったり、既婚者が身につける揃いの宝飾だったり、婚約者から贈られる色石だったり。
身につける場所や形はそれぞれに違っていても、意味は似ている。
私はすでに共に歩む者がいます。
あるいは、誰かを選んでいます。
色を贈る。
身につける。
人前に出る。
それは、言葉にせずとも意味を持つ。
少なくとも、今宵あの護衛に軽々しく声をかけるべきではない、という程度には。
周囲の令嬢も気づいてか、遠巻きに眺めるに留まっている。
見ているだけでも、見目良く、充分楽しめるのだ。
今もまた広間へと入ってきたご婦人が白い護衛を一目見て息を飲んだ。
黒い護衛もまた、精悍で、彼女の周囲には居ない雰囲気だったこともあり、目を引いた。
鍛えられた体躯と落ち着いた紺色の眼差し。広い肩幅も、隙なく立つ姿も、よく鍛えられた冒険者のそれだった。
整った礼装ではなく冒険者の装いなのに、立ち姿に粗野なところはない。
対となった姿もまた、美しい。
しばらくすると、若い男が彼女に近づいて来た。
「本日はお父上もご一緒で?」
「ええ。父は家令殿にご挨拶を」
彼女は扇を少し閉じ、足先を半歩引く。そして父の名を出す。
それだけで、目の前の男は笑顔を崩さず退いた。
社交とは、そういうものだ。
はっきり拒めない代わりに、拒むための言葉はいくらでもある。
けれど、護衛である彼には、そうした逃げ道がどれほどあるのだろう。
あれほど視線を集めながら、ただ静かに立っている。
扉の近くにいた使用人たちが姿勢を正し、ざわめきが波のように鎮まっていき、男爵様ご夫妻が広間へ姿を見せられた。
白と黒の護衛は男爵様の後ろに静かに控えている。
男爵様のご挨拶が終わると、止まっていた空気がゆっくり動き出した。
使用人たちが飲み物を運び始める。
銀の盆の上で、いくつもの杯が小さく揺れていた。
杯が配られ、挨拶が交わされ、広間には少しずつ酒の熱が満ちていく。
その中で、一人だけ落ち着きなく視線を巡らせている男がいた。
使用人から受け取った杯の酒を煽り、やや乱雑に返す。
彼女は扇の陰で眉をひそめた。
男爵様の甥、エーリヒ様。
貴族家に生まれた三男。
そして今は、カールセン商会の娘婿。
最近、黒竜素材の話で随分と焦っていると聞く。
あの人は、線の引き方を知らない。
男爵様は先ほど、白と黒の護衛殿への直接の問いかけをやんわりと制された。
詳しい武勇伝や素材の話は、また別の機会に、と。
普通なら、それで十分。
主催者が線を引いたのだから、客はそこから先へ踏み込まないものだ。
けれど、エーリヒ様は男爵様の血縁だから。
少なくとも、ご本人はそう思っている。
男爵様が禁じたのは、客が護衛へ群がること。
男爵家の身内である自分が、軽く労いの杯を差し出すことまでは含まれない。
おそらく、エーリヒ様はそう考えたのだろう。
けれど、彼女は見てしまった。
杯を受け取った後、エーリヒ様の指先が袖口へ沈むのを。
ほんの一瞬。
小さな瓶の影が、その手に。
声を上げるには、証拠が足りない。
杯を差し出す行為を近づいて止めるには、彼女の立場が足りない。
けれど、見なかったことにするには、あの白い護衛があまりにも目立ちすぎていた。
***
「黒竜を討った冒険者殿。いや、実に見事なお姿だ。男爵家の縁者として、ぜひ一杯お持ちしたかった」
「申し訳ございませんが護衛の任についておりますので、頂くことはできません」
「安心したまえ。これは酒ではない。軽い果実水だ」
あー酒飲みたい。
「護衛の任についておりますので、飲食は控えております」
「一口だけでよい。男爵家の縁者として労いたいだけなのだ」
「そのお気持ちだけ頂戴いたします」
さっきから断ってるのに何なのかな?
酒を強要する酔っ払いに絡まれてる。縁者だろうが酔っ払いは酔っ払いだ。
男爵は大事なお客なのだろう相手とお話中。
護衛のお仕事中じゃなかったら問答無用で眠らせてるか体調不良で倒れてもらってるところだよ?
人族には何が起こってるかも分からせずに何とかする方法だって、実はいろいろあるのだ。ナイショだが。
めんどくさくなってきたので、そろそろ対応を終わらせたい。
仕方がないので、杯を受け取る。
酒の匂いは一切しない。本当に果実水。
でも、受け取った時の表情と、私に何としても飲ませたいという圧からすれば、ほぼ確実に何か混入されてる。
色素と糖分と水以外のすべてを杯の底にぎゅっと固めてから、杯の中身を口に含み、飲み込んだ。
うえー。甘いだけの水、不味い。酸味も入れとけばよかった。
顔には出さないけどね。
酔っ払い氏こと男爵家のご縁者様は、微かに笑ったようだった。
やっぱりなんか一服盛りましたね!?
近くを通った使用人に、空になった杯を返すふりをして声を掛ける。もちろん、一瞬だけ音を遮断して。
「家令さんへ。底は洗わずに確認を」
使用人の表情は変わらなかった。
けれど、ほんのわずかに指先が固まる。
伝わったらしい。
「ご厚意、ありがとうございました」
なんか疲れた。普通に脚も疲れた。剣帯つけてる腰も痛い。武器なんて装備しなきゃよかった。長時間の立ち仕事は本当に向いてない。
男爵の後をついて回るだけなのだけど、そろそろ足が重く、油断するともつれそう。
早く帰って私も飲みたいよ。
そんなことを考えていたら、足元が少しふらついた。
おっと。
すぐに体勢を戻したつもりだったのだけど、酔っ払い氏こと男爵家のご縁者様の目が、ぎらりと光った気がした。
違うよ!? 全然効いてないよ!?
疲れただけだよ!?
ルドルフがめっちゃサイン送ってくる。
――何?お前もう疲れたのか?
――うん。疲れたよ。帰りたい。
――我慢しろ。
「少し、お疲れのようですな。どこかで休まれては? 控えの間までご案内いたしましょう」
嬉しそうだね?
疲れてきている私には、悪魔の囁きのように腹立たしいほど魅力的な言葉だね!
疲れたのは確かだが、原因の一部はあなただよ!?
「不要です。問題はございません」
男爵もお客様と話したり家令さんに耳打ちしたり、忙しそう。私ももう少し頑張らないと。
もはやなりふり構わないので身体強化を使って立位を保つ。ついでに重力操作で体重を軽くしておく。空中に寄りかかれる支えも作っちゃおう。
よーし、これならあと二時間は保つぞー。
その後、私たちはもうしばらく男爵の後ろに控え、護衛としての仕事をこなしたが、酔っ払い氏は不思議そうな顔をしながらずっと私の近くをうろうろと動き回っていた。
「エーリヒ様」
家令さんの静かな声だった。
穏やかな表情なのに、なぜか周囲の温度が少し下がった気がする。
「少々、奥へ」
酔っ払い氏の笑みが、ぴたりと止まった。




