049
客室の寝具を整え、洗濯物を回収し、掃除を済ませる。
そして休む暇もなくお昼の営業が始まった。
今日の銀麦亭も大盛況。
客席数はそう少なくもないのに、店の外にはもう行列が出来ていた。
「昨日の販売数以上用意してたんだがなぁ…」
「そうねえ。昨日の今頃より多いかもしれないわねぇ」
銀麦亭の旦那さんとゾフィさんは、客席の様子を見てそう言った。
「雨のせいかもしれねえな。出掛けずに休んでる冒険者が多いんだろう」
忙しいのは大変だけれど、嫌ではなかった。とてもやりがいがあるもの。
声を掛けられ、注文を取り、料理を運ぶ。
それだけで、自分がここに居ていいのだと思える。
「この調子だと、またパンが足りなくなるわねぇ。今日は在庫だけで終わりにする? きりがないわ」
私もゾフィさんも、ニルスさんもエルマさんも、客席と厨房をひたすら往復していた。
「そうは言ってもなぁ。せっかく並んでくれてる客を、パンがねえから帰すってのもな」
「でも、今から焼いても間に合わないでしょう?」
その言葉に、私はパン籠を見た。
厨房は火が入りっぱなしで、旦那さんもゾフィさんも手を離せそうにない。
「私、また中央区まで買ってきましょうか? 余裕のあるうちに行ってきたほうがいいですよね?」
「うーん。悪いわねぇ。その言葉に甘えていいかしら」
「雨で足元が悪いから気をつけるんだよ」
「はい。大丈夫です」
昨日も行った場所だし、それにアルフレートからもらった護身用の魔道具もある。
そう思うと、少しだけ胸の奥が温かくなった。
「では、行ってきますね」
貸してもらった雨除けの外套を羽織り、パン籠が濡れないよう布を掛けて、私は店を出た。
裏口から店を出ると、雨の匂いがした。
ちょっと埃っぽいような、独特な匂い。
雨の中でも店の表に並んでくださっているお客様のためにも、早くパンを買ってこなければ。
ふと視線を上げると、向かいの軒下にどこかで見たような男が立っていた。
雨宿りをしているのかしら。
お客様、というわけではなさそう。
職業柄ひとの顔を覚えるのは得意だったのだけど、思い出せない。
こちらを見ていたような気がしたけれど、私が顔を向けると、男はすぐに目を逸らした。
少しだけ気になった。
でも、今はパンを買いに行く方が先ね。
私は外套の前を合わせ直し、中央商業区のパン屋へ向かった。
雨粒が外套を叩く音に混じって、通りのざわめきが聞こえてくる。
冒険者ギルドに近い銀麦亭の周辺は、雨の日の方が人通りが多いようだったけれど、やっぱりあれは特殊な例なのね。
中央商業区へ近づくにつれ、通りを歩く人は先日より確実に少なくなっていた。
パンを買い終え布を掛けた籠を抱えて店を出ると、雨は少し強くなっていた。
早く戻らなくては。パンも濡らさないように。
そのため、少し駆け足になる。
「あっ」
路地の角から飛び出してきた小さな影が、私の腕にぶつかった。
***
こんな幸運が転がり込んでくるとは思わなかった。
キールは、銀麦亭の向かいの軒下に立っていた。
雨宿りを装いながら店の裏口を見張っていると、あの女が出てきたのだ。
雨除けの外套を羽織り、籠を抱えている。
出掛けるのか。
なんて好都合な。
キールは雨に紛れるように、少し距離を取って女を尾けた。
相変わらず目を引く体つきだ。雨除けの外套を羽織っていても、到底それは隠しきれていない。
わざわざこんな雨の中、どこまで行くのかと思えば、一軒のパン屋だった。
中央商業区でも端の方だというのも好都合だ。
キールは急いで店から離れ、路地裏に入る。
こういうところには食い物を探す浮浪児がいるものだとキールは知っていた。
「いいところに。おいお前」
キールは、最初に目についた痩せた子どもに声を掛けた。
「コレな。あの店から出てくる、胸のデカいネエちゃんに渡してくれねえか。そうしたらこの銀貨の他にもう一枚やるよ」
銀貨と魔道具の入った包みを見せた。
「あのネエちゃんにプレゼントしてえんだが、なかなか渡せなくてなあ。頼むぜ」
不思議そうにキールを見つめ、思案していた様子だったが、子どもは頷いた。
「ただし、普通に渡そうとすると逃げられるかもしれねえからな。角から出て、ぶつかった拍子に押しつけりゃいい」
「ぶつかるの?」
「ああ。ちょっとだけだ。痛くねえよ。渡せたら、もう一枚だ」
「うん。わかったよ」
子どもは受け取った銀貨を握りしめ、小さく頷く。
キールは、高揚感を覚え、笑ってしまう自分を抑えられなかった。
嬉しそうな子どもを連れ、パン屋の出入り口が見える位置へ移動した。
「いいか。赤い髪の女が出てきたら、角から走ってぶつかれ。包みは落とすなよ」
「うん」
子どもは大切そうに包みを胸に抱え、路地の角で待った。
やがて、パン籠を抱えたあの女が店から出てくる。
「ほら、あの女だ。行け」
キールの指示で、子どもは弾かれたように走り出した。
あんな端金でもメシが食えるかどうかが掛かっているせいで、必死だ。
赤い髪の女は自分に駆け寄るものに気づいたらしく、怪訝そうな顔をしていた。
だが、もう遅い。今更気付いても。
子どもが女に包みを押し当てた瞬間、包みから青白い光が発せられる。
「あっ」
魔道具に仕込まれていた眠りの魔法は正常に発動し、女の体が傾いた。
パン籠が石畳に落ちる。
遅れて、子どももその場に崩れ落ちた。
キールは一瞬だけ息を呑み、それから周囲を見た。
雨音が、すべてを誤魔化してくれていた。
***
大きいほうの黒竜はやはり私を視線で追ってくる。
でっかいくせに素早くて、魔法を当てるのは至難の業だ。
巧みに階段と私の間に位置取ってくるせいで小規模な魔法しか撃てないし。
むきー!
剣に風の刃を纏わせて、斬りかかる。
さっと飛び退かれてしまい、前腕の骨と肉を斬るにとどまった。
おのれちょこまかと。
牽制なのか振り下ろされた黒竜の爪が、地面を抉る。
私は横へ跳び、熱衝撃波をいくつか放った。
かなり威力を落としてあるそれは黒い鱗に当たったがかすかに灼けただけでほぼ弾かれてしまう。
「っだぁ!!もう!」
威力を上げれば通る。それは分かる。
でも、その威力で外した時に階段まで巻き込む可能性を考えると、迂闊には撃てない。
まったく効いていないわけではないのが救いだが。
前腕の傷からは血が流れているし、何度か当てた熱衝撃波で片翼の付け根も焦げている。
動きも最初よりわずかに鈍い。
あと少し。
あと少し階段から離れてくれれば、決定打を撃てる。
なのに黒竜は、こちらの苛立ちを見透かしたように、また階段を背にする位置へ滑り込んだ。
嫌な位置取りをする。
本当に、嫌になるくらい頭がいい。
致命打になりそうなものは確実に避けてくるし、ちまちまとした攻撃しか当たらない。
だいぶ傷だらけなので素材としての価値もダダ下がりだ。白竜さんの二の舞である。
白竜さんは今回と同様にちまちま攻撃せざるを得ずボロボロになった結果、コート1着分しか取れなかったのだ。
「もー!いつまでかかるのよぅ!」
疲労の蓄積のせいか、リィナが文句を言った。
矢も尽きて今は魔法で子竜を牽制している。
「私だって早く終わらせたいよ!」
そう叫んだ瞬間、背中にぴりりとした感覚が走った。
私がなにかされたとかじゃない。
まるでそれは他人の魔力を流されたときのような。
……ロザリンだ。
一瞬だったけれど、魔道具が発動したんだ。
どうにも半端な発動だったけれども。
昨日感じたような警告だけのちょっとした接触とかじゃない。
ロザリンには言ってないけれど、あの魔道具は発動したときの彼女の一番強く感じている感情も流れてくるようにしてある。
それが、まったく何も流れてこない。
意味することは、二つに一つだ。
大したことではなかったか。
一瞬で意識を刈り取られたか。
そして、半端にでも私の魔道具が発動するような状況で、前者であるはずがない。
「アルフレート?」
誰かに呼ばれた気がした。
ロザリンが。
目の前には黒竜がいる。
階段がある。
仲間がいる。
退路を確保しつつ仲間を巻き込むことなく黒竜を倒さなければならない。
そんなものを順番に考えている時間が、消えた。
炎だとか風だとか氷だとか、そういうものではなく、ただ、
「退いてくれ」
そう願ったものが、魔法として発動してしまった。
この黒竜が。
目の前にいる、この邪魔な黒竜だけが、消えればいいのに。
願いは魔力と引き換えに叶えられる。
強く願うほど、強力な魔法になる。
うぞりとうねる魔力が、黒竜を絡め取った。
その結果、黒竜の魔力で展開されていた障壁を貫通し…。
黒竜の頭が、消えた。
爆ぜたのでも、焼け落ちたのでもない。
そこにあったものだけが、くり抜かれたように静かに消えていた。
背後の階段は、無傷だった。
代償のように、ごっそりと魔力は減っていた。
子竜が動きを止めたようだった。
親竜の頭が消えたことを理解したのだろうか。
お前も邪魔するのかい?
ぴくりとも動こうとしない子竜に向けて、一歩踏み出す。
「ルドルフ!」
誰かが叫ぶより早くルドルフの剣が走り、子竜の首が落ちた。
それを見ても、私の頭はまだうまく動かなかった。
「アルフレート!」
ルドルフの声が、遠い。
「…ロザリンちゃんが大変なんだ」
大変なんだ。
今すぐ行かなきゃ。
「わかった!行け!」
私はポチさんの背に飛び乗った。
アイツについてコメント頂いていた方々、回答できなくてすみません。
登場直前(まさかの前日)だったので何も言えませんでした。




