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覇王の遺児 ― 信忠天下記 ―  作者: ゆちゃ
第2章

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18/20

18.越境

夜と朝の境。


空はまだ暗く、地面だけがわずかに白む。

尾張国、東方。

旧武田領へ抜ける街道の脇、低い森。


五百に満たぬ兵がそこにはいた。

旗はない。

だが、統制は崩れない。

装備は揃い、歩幅も揃う。

無言のまま進むその姿は、隠しても隠しきれない。


徳川家康の兵


だが、この場所は本来、徳川の兵がいる場所ではない。

彼らは、遠くから来たのではない。

昨夜、ここに入ったのでもない。


すでに内側にいた



数日前。

ある文が、密かに通っている。

差出は曖昧。

許可も曖昧。

だが拒まれてはいない。

その文を扱った者がいる。


細川藤孝


明確に通したわけではない。

だが、止めなかった。

それで十分だった。

徳川の小隊は、分散して入り込み、

尾張・美濃の境を静かに移動していた。


目的は一つ。

測ること


旧武田領へどこから入れるか。

織田の反応はどれほど速いか。

そして、織田信忠という存在の質。


その答えを取りに来ていた。



森の中。


先頭の武者が、手を上げる。

列が止まる。


「ここより先は、境だ」

小さな声。

だが、その言葉に緊張はない。

侵入ではない。試しだ。


一歩、踏み出す。

その瞬間。

風が動く。

霧が、わずかに裂ける。

そして、いた。


影。

一つではない。

左右。

奥。

さらに背後。


「……伏兵か」

気づいた時には、遅い。

矢が飛ぶ。

音は、ほとんどない。


一射。

二射。

三射。

正確で無駄がない。


前列が崩れる。

だが。


「構えよ!」

徳川側も、すぐに立て直す。

崩れない

(やはり精鋭)

誰かが心で呟く。

だが、その時点でもう囲まれている



森の奥。

森長可が、わずかに口角を上げる。


「入ってきたな」

声は低い。

その背後には、織田の兵。

だが、誰一人として前に出ない。

まだ押さない。

理由は一つ。

測らせた上で、崩す



さらに奥。

小高い地。

そこにいるのは、織田信忠。


最前ではない。

だが、遠くもない。

戦場全体が見える位置。

視線は、一切動かない。


徳川兵の動き。

呼吸。

間。


(強い)

まず評価。


(だが、本気ではない)

次に判断。


進軍の浅さ。

補給の軽さ。

退路の取り方。

すべて引く前提。

信忠の指が、わずかに上がる。

それだけ。


森長可の目が変わる。

「削れ」

短い命。

織田の兵が動く。

一気ではない。


前を詰める。

横を狭める。

後ろを薄く残す。


逃げ道は残す

徳川側は応じる。

崩れない。

だが。

(半歩、遅い)

その遅れが、広がる。


一人、倒れる。

二人、退く。

隊列に歪みが生まれる。


信忠は、それを見ている。

(ここだ)

指が、もう一度動く。

森長可が初めて前へ出る。


「押せ」

その瞬間。

戦が変わる。

織田の兵が距離を詰める。

徳川側も応じる。

だが、間に合わない


半拍。

その差だけで。

勝敗は決まる。

やがて、


「退け!」

徳川側の声。

整然と、引く。

崩れない。

だが、止まらない。

最初からここまで。

戦は終わる。


森に、静寂が戻る。

霧が晴れ始める。

信忠は、何も言わない。

ただ一言。


「通したな」

背後の丹羽長秀が、静かに応じる。

「は。内より」

名は出さない。

だが、同時に浮かぶ。


細川藤孝


信忠の目が、わずかに細くなる。

「よい」

短い。

責めない。

まだ、使える。



同じ頃。

遠く離れた地。


徳川家康は、報を受ける。


「……止められたか」

声は静か。

だが、指が一度だけ止まる。


「いかがなされます」

家臣が問う。

家康はすぐには答えない。

わずかに目を閉じる。

戦場の動きを、なぞる。

配置。

間。

崩し方。


そして、目を開く。

「なるほど」

わずかに、口元が動く。

読まれている

だが、こちらも見た。



同時刻、清洲。


信忠は静かに座している。


「次は」

誰も問わない。

だが、答えはすでにある。


「深く来る」


長秀が、頭を下げる。

試しは終わった。

次は、削りでは済まない。


静かな戦は、確実に一段、深くなった。

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