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覇王の遺児 ― 信忠天下記 ―  作者: ゆちゃ
第2章

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17/20

17.静謐

朝の光は柔らかい。

だが、空気は張り詰めている。


清洲城の一室。

障子越しの光が畳に四角く落ち、その中に二つの影が向かい合っていた。

片方は、すでに座している。


織田信忠。


背は揺れず、膝の上の手も動かない。

だが視線だけが、静かに空間を測っている。

もう一つの影は、まだ入っていない。

外にいる。

足音はない。

だが気配だけが、障子の向こうにある。


わずかな間。

その間の長さを、信忠は測っている。

来る者の性質を。

やがて、障子が開く。

音はほとんどしない。

入ってきたのは


徳川家康。


歩幅は一定。

速くも遅くもない。

一歩。

畳を踏む。

重さは軽すぎず、重すぎない。


(崩れぬ)

信忠の中で、最初の判断が置かれる。

家康は所定の位置で止まり、深く頭を下げる。

その角度は正確。

過不足がない。


「このたびは」

声は低い。

抑えられている。


信忠はすぐには答えない。

一拍。

半拍。

わずかに遅らせる。


「遠路、苦労であった」

短く返す。

二人の間に、静かな空白が生まれる。

その空白は、埋められない。

埋める必要もない。


家康が顔を上げる。

視線が合う。

その瞬間。

互いに、相手を読む。


(深い)

信忠。


(速い)

家康。


どちらも口には出さない。


「変わらぬ御厚誼を」

家康が言う。

言葉は整っている。

揺れがない。


「望むところよ」

信忠。

間を置かない。

だが、ほんのわずかに家康の視線が動く。

一瞬だけ。

信忠は、それを逃さない。


(確認している)

何を。

どこまで。

信忠は何も問わない。


「此度の変」

家康が続ける。

本能寺の変

その名は出さない。

だが意味は同じ。

「まことに、痛恨に存ずる」

声は揺れない。

信忠はわずかに頷く。


(事実)

だが。

(そこではない)


「されど」

信忠が口を開く。

「世は止まらぬ」

一語ずつ。


家康の目が、ほんのわずかに細くなる。

(速い)

判断の速度。

切り替えの速さ。


「御意」

短い。

その一言の中に、いくつもの意味が入っている。

受容、同意。

そして、保留。


信忠はそれを聞いている。

「甲斐・信濃」

ぽつりと。

その名を出す。

空気が、わずかに変わる。

家康は動かない。

しかし呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。


(来たか)

「旧領のことでございますか」

家康が返す。

言葉は自然。

だが、半歩ずれている。

信忠はその半歩を見る。


「空いておる」

断定。

「空いておりますな」

家康。

即応。

速い。

だが。


(速すぎる)

信忠の中で、何かが引っかかる。

「埋めるか」

短い問い。


家康は、わずかに間を置く。

ほんの一拍。

「御下知に従う」

完璧な答え。


だが。

(違う)

信忠の中で、はっきりとした感触になる。

従うと言いながら、従っていない

理由は小さい。

だが確実。


「どのように」

家康が続ける。

主導権を渡すようで、実は探る問い。


信忠は答えない。

すぐには。

その沈黙が、場を支配する。

長い。

だが、崩れない。


やがて。

「急ぐな」

一言。

家康の目が、わずかに動く。


(抑えるか)

「整えてから動く」

信忠。

その言葉の裏。

勝手に動くな。

だが、命令にはしていない。


家康は頷く。

「理にかなう」

言葉は同意。

だが。

(動くな、とは言わぬか)

家康の内側で、別の線が引かれる。


二人とも、同じことをしている。

言葉ではなく余白で会話している


「いずれ」

家康が言う。

「力を合わせる時が来ましょう」

未来形。


信忠は、その言葉を聞く。

(今ではない)

結論が、静かに落ちる。

「その時を待つ」

同じ形で、返す。

だが意味は違う。

その時が来るとは限らぬ


再び沈黙。

外で、風が鳴る。

障子がわずかに震える。

その震えの中で二人は、すでに結論に達している。


同盟は続く。

だが、信じてはいない。


家康が頭を下げる。

その角度。

来た時と同じ。

だが。

(わずかに深い)

信忠は見ている。

理由は分からない。

しかし、意味はある。


家康が去る。

障子が閉じる。

音が消える。

静寂。


しばらくして。

背後の丹羽長秀が、わずかに息を吐く。

「いかが」


信忠はすぐには答えない。

ほんのわずかに、視線を落とす。


「……動く」

短い。

「は」

「だが」

一拍。

「本気ではない」

長秀の呼吸が止まる。

「試す」


結論徳川は、戦うためではなく測るために動く。

信忠の指が、畳を一度叩く。


トン。

「こちらも測る」

それだけ。

戦は、まだ始まっていない。

だが、すでに勝負は、半ばまで進んでいる。

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