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あと十日だけ  作者: 幕神成


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第9話 後悔

怖いのは、傷つける言葉そのものではない。


その一言によって、相手がずっと隠してきた人生を、初めて見てしまうことだ。

段ボール箱の横で、悠真は何も言えずにいた。


一年前の自分の声が、まだ耳の奥に残っている。


――お前と会わなきゃよかった。


美咲も動かなかった。


あの夜とは違う。


怒鳴り声もない。


投げ出された明細もない。


ただ、もう忘れてしまった男と、一年間忘れられなかった女が向かい合っていた。


悠真がようやく口を開いた。


「……本気じゃなかった」


美咲は小さく頷いた。


「分かってる」


悠真が顔を上げる。


「分かってる?」


「うん」


その答えは、悠真が想像していたものとは違った。


責められた方が、まだ分かりやすかった。


「じゃあ、なんで」


美咲はしばらく考えてから言った。


「本気じゃなかったから、怖かったの」


悠真の表情が止まる。


「本気で私のこと嫌いだったなら」


美咲は静かに続ける。


「別れればよかった」


嫌いになった。


もう一緒にいたくない。


そういう話なら、まだ理解できた。


「でも、あの時の悠真」


美咲は彼を見る。


「私のこと、好きだったでしょ」


悠真は否定しなかった。


「好きなのに」


美咲の声が少しだけ揺れる。


「そんなこと言うくらい、苦しかった」


その方が、ずっと怖かった。


悠真は目を伏せた。


「仕事がきつかっただけ」


「うん」


「母さんのこともあった」


「うん」


「金もなかった」


「うん」


「俺、余裕なかった」


「うん」


悠真は顔を上げた。


「じゃあ、俺が悪かったんだろ」


美咲はすぐに首を振った。


「違う」


「じゃあ何なんだよ」


美咲は彼を見た。


「誰が悪いかにしないで」


悠真が止まる。


美咲は膝の上で手を組んだ。


「私も悪かった」


「言いたいこと言わなかった」


「しんどいって言わなかった」


「仕事のことも」


「お金のことも」


「全部、平気なふりしてた」


少し笑う。


「悠真と同じ」


悠真も、小さく頷いた。


「……うん」


「だから」


美咲は言葉を探した。


「二人ともずっと余裕なかったのに」


「二人とも、大丈夫なふりしてた」


そして、そのまま結婚したら。


家族になったら。


今より逃げられなくなったら。


美咲は一度だけ息を吸った。


「いつか、本当に嫌いになってたと思う」


悠真は何も言わなかった。


その可能性を否定したかった。


でも、今まで知ったことを一つずつ思い返すと、簡単には否定できなかった。


長い沈黙のあと、悠真が苦く笑った。


「……俺」


「うん」


「結婚したら、何とかなると思ってた」


美咲も少し笑う。


「私も」


「家族になれば、ちゃんとできると思ってた」


「私も」


悠真はしばらく考えた。


「でも」


美咲を見る。


「家族になったら、逃げにくくなるだけか」


美咲の目が赤くなった。


「……うん」


結婚すれば変われると思っていた。


けれど本当は、変わらないまま結婚しようとしていただけだった。


しばらくして、悠真が訊いた。


「後悔してる?」


「何を?」


「俺といたこと」


美咲はすぐには答えなかった。


その沈黙の間、悠真の肩が少しだけ硬くなった。


やがて、美咲は言った。


「してない」


悠真が小さく息を吐いた。


美咲は続ける。


「でも」


悠真が見る。


「このまま続ける方が、後悔すると思った」


安心した直後に、また胸の奥が痛んだ。


それでも悠真は、もう「だったら変える」とは言わなかった。


「俺は」


少し間を置く。


「今でも別れたくない」


「うん」


「でも」


悠真は視線を落とした。


「美咲が出てくって言う理由」


一度、言葉を探す。


「やっと分かってきた気がする」


美咲の目から涙が落ちた。


悠真は見ていた。


手を伸ばしかけもしなかった。


代わりに、近くにあったティッシュの箱から一枚抜き、美咲の前へ置いた。


美咲が受け取る。


「遅い」


泣きながら言った。


悠真も少し笑った。


「遅いな」


二人とも、ほんの少しだけ笑った。


その朝、二人はほとんど眠らなかった。


外が明るくなってから、美咲は荷造りをやめた。


悠真も何も言わず、床に敷いた毛布の上へ横になった。


次に目を覚ました時には、昼を過ぎていた。


その日は、二人ともほとんど何も話さなかった。


簡単なものを食べ、洗濯をして、必要なものといらないものを分けた。


夕方になると、美咲は仕事用の服をまとめた。


悠真は段ボール箱の底をテープで補強した。


どちらも、別れの話はしなかった。


翌日も、その次の日も、同じだった。


朝になれば仕事へ行く。


夜になれば同じ部屋へ帰ってくる。


けれど、生活の中から少しずつ「二人分」が消えていった。


牛乳がなくなった。


美咲が冷蔵庫を開けたまま言った。


「もう買わなくていいかな」


悠真は一瞬だけ黙った。


それから、


「うん」


と答えた。


洗剤も残り少なくなっていた。


ティッシュも最後の一箱だった。


米びつの底も見え始めていた。


今までは、なくなれば買い足していた。


二人で暮らすために。


けれどもう、次の一本や、次の袋を用意する必要はない。


暮らしは、終わる時になると、増えるのではなく減っていくのだと悠真は初めて知った。


夜。


二人はまた荷造りを始めた。


悠真がマグカップを一つ持ち上げる。


「これ?」


「持ってく」


「なんで?」


「会社で使う」


「じゃあ俺、こっち」


「それ私の」


「え?」


「底見て」


悠真はカップを裏返す。


底には、美咲の名前が書かれた古いシールが貼ってあった。


「ほんとだ」


美咲が呆れる。


「三年使って知らなかったの?」


「普通、底見ないだろ」


二人とも笑った。


今度の笑いは、少しだけ自然だった。


次に、悠真が古いマフラーを持ち上げる。


「これは?」


「捨てて」


「これ、俺があげたやつじゃん」


「だから」


「ひど」


美咲も笑った。


けれど数秒後、


「でも」


と言ってマフラーを取り返した。


「やっぱ持ってく」


悠真が眉を寄せる。


「どっちだよ」


美咲は少し考えた。


「分かんない」


悠真はマフラーを見た。


そして言った。


「それでいいんじゃない」


美咲の表情が止まる。


悠真自身は気づいていなかった。


少し前までの彼なら、きっとどちらかに決めようとしていた。


美咲は何も言わず、マフラーを箱の上へ置いた。


しばらく荷造りを続けていると、美咲が突然座り込んだ。


「ねえ」


「ん?」


「明日」


悠真の手が止まった。


明日。


その言葉だけで、部屋の空気が変わる。


最後の日。


「何もしない?」


「引っ越しは?」


「午後」


美咲は少し考える。


「午前中だけ」


悠真を見る。


「普通に出かけない?」


「どこに?」


「決めてない」


「最後なのに?」


美咲は少し笑った。


「最後だから」


悠真はしばらく彼女を見ていた。


「別れ話しない?」


「しない」


「仕事の話も?」


「しない」


「母さんも?」


「しない」


悠真は少し迷った。


「子どものことも?」


美咲の表情がわずかに止まった。


やがて、


「明日は」


と言った。


「やめよう」


悠真は頷いた。


「じゃあ何する?」


美咲は少し考えてから答えた。


「デート」


悠真が瞬きをする。


「今さら?」


美咲が笑う。


「今さら」


その夜。


二人とも、いつもより早く布団に入った。


背中を向けることはなかった。


けれど、触れもしなかった。


部屋の隅には、明日運び出される段ボール箱が並んでいる。


悠真は暗闇の中で一度だけ目を開けた。


美咲はもう眠っていた。


何か言おうかと思った。


けれど、やめた。


明日は明日の言葉を使えばいい。


そう思った。


翌朝。


スマートフォンのアラームが鳴った。


悠真が目を開ける。


美咲もほぼ同時に目を覚ました。


一瞬、二人で見つめ合う。


美咲が先に言った。


「寝癖ひどい」


悠真が眉を寄せる。


「最後の日にそれ言う?」


「最後でも変なのは変」


悠真が笑った。


二人はいつものように起きた。


洗面所を使う順番で軽く揉める。


悠真は靴下が見つからない。


美咲がソファの下から足で蹴り出した。


「これ」


「なんでそこ」


「知らない」


そういう朝だった。


何千回もあったような朝。


でも、もう二度と来ないかもしれない朝。


玄関で靴を履く。


悠真が訊く。


「どこ行く?」


「駅」


「その先は?」


「まだ決めてない」


「適当すぎ」


「デートってそういうものでしょ」


悠真は少し考えた。


「俺ら、最初から予定立てすぎてたな」


美咲が見る。


「今気づいた?」


「遅い」


「遅いね」


靴を履き終えたところで、美咲が言った。


「今日」


悠真が振り返る。


「楽しかったら」


少し間を置く。


「ちゃんと楽しいって言おう」


悠真は頷いた。


「うん」


「寂しかったら?」


悠真は少しだけ考えた。


それから素直に答えた。


「寂しいって言う」


美咲も頷いた。


駅のホーム。


二人は並んで電車を待っていた。


朝の放送が聞こえる。


人はまだそれほど多くない。


悠真が横を見る。


「なあ」


「何?」


「今日」


一度、息を吸う。


「手、繋いでいい?」


美咲はすぐには答えなかった。


悠真も急かさなかった。


数秒して、美咲が手を差し出す。


悠真が握る。


懐かしいほど自然だった。


三年前。


付き合い始めた頃は、理由もなく手を繋いでいた。


いつからか、それをしなくなった。


電車がホームへ入ってくる。


風が二人の服を揺らした。


美咲は前を見たまま言った。


「今日は」


悠真が見る。


「別れないでいよう」


悠真は彼女の手を少しだけ強く握った。


何も解決すると言わなかった。


大丈夫とも言わなかった。


ただ、


「うん」


と答えた。

別れまで、あと一日。

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