第8話 同じ
自分が我慢することを、優しさだと思っていた。
けれど相手に選ばせることさえしなかったなら、その優しさは、ときに傷になる。
美咲の新しい部屋。
折り畳みテーブルの上には、不動産会社の書類が置かれていた。
いちばん上にある入居申込書。
日付は四か月前。
あの病院へ行った、その翌日だった。
正式に契約したのは、それから少し後だと美咲は言った。
それでも、悠真にとって大きな違いはなかった。
あの翌日にはもう、美咲は自分とは別の場所を探し始めていた。
「その時から?」
悠真は書類には触れず、日付を見つめたまま訊いた。
美咲は答えない。
「赤ちゃんがいなくなった次の日に」
声が震える。
「俺と別れようって決めたの?」
美咲はしばらく彼を見た。
「……違う」
悠真が顔を上げる。
「何が?」
美咲は少し迷ってから言った。
「そう思い始めたのは」
一度、息を止める。
「もっと前」
悠真の表情がゆっくり変わった。
「もっと前って、いつ?」
美咲は答えない。
「妊娠する前?」
少し長い沈黙のあと、美咲は頷いた。
「……別れようって決めてたわけじゃない」
悠真は黙って彼女を見る。
「ただ、このままでいいのかなって、考えることはあった」
悠真はしばらく何も言えなかった。
「じゃあ」
言葉が速くなる。
「別れようと思ってて」
「子どもできて」
「俺に何も言わなくて」
「それでも普通に一緒に住んでた?」
美咲は目を閉じた。
「そう」
悠真は乾いた笑いを漏らした。
「何それ」
美咲は黙っている。
「俺、何も知らないで飯食って」
「仕事行って」
「休みの話して」
少し間を置く。
「指輪まで買って」
「……うん」
悠真はもう一度、テーブルの上の申込書を見る。
「俺だけ馬鹿みたいじゃん」
美咲の目が赤くなった。
それでも逃げなかった。
「じゃあ、言えばよかった?」
「言うだろ、普通」
「いつ?」
悠真が止まる。
美咲は続けた。
「妊娠したって分かった日?」
「病院から帰った日?」
「仕事で疲れて帰ってきた夜?」
「お母さんのことで悩んでた時?」
「異動の話が来た時?」
一つずつ、悠真の前に置いていく。
「どこだったら、悠真はちゃんと聞けた?」
悠真は答えられなかった。
美咲は俯いた。
「私も分からなかったよ」
「だからって黙るのは違うだろ」
「分かってる」
「じゃあなんで」
美咲が顔を上げた。
「怖かったから!」
小さな部屋に声が響いた。
悠真は黙った。
美咲は呼吸を整えた。
「話したら」
声が少しずつ低くなる。
「悠真、全部自分のせいにするから」
悠真は何も言わない。
「私が仕事辞めるって言ったら止める」
「子どもができたって言ったら、全部背負おうとする」
「お母さんのこと言ったら、すぐ帰ろうとする」
美咲は彼を見る。
「で」
少しだけ間を置く。
「最後は何て言う?」
悠真は分かっていた。
でも言えなかった。
美咲が代わりに言う。
「大丈夫」
その言葉が、以前とは違う重さで部屋に落ちた。
「最初はね」
美咲は言った。
「その言葉、好きだった」
悠真が顔を上げる。
「悠真が大丈夫って言うと、本当に大丈夫な気がした」
少しだけ笑う。
「頼れる人だと思った」
「優しい人だと思った」
悠真の表情が苦しくなる。
「でも、いつからか怖くなった」
「大丈夫じゃない時も、悠真、大丈夫って言うから」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、ようやく言った。
「じゃあ、美咲は違う?」
美咲が止まる。
悠真は顔を上げた。
「美咲だって同じだろ」
今度の声には怒りより、悲しさの方が強かった。
「妊娠しても言わない」
「病院行っても言わない」
「正社員になれても言わない」
「部屋借りても言わない」
一つずつ数えるたびに、悠真自身も苦しくなっていく。
「俺に言ったら困ると思って」
「全部一人で決めて」
「最後に、大丈夫って言う」
美咲には反論できなかった。
「何が違うんだよ」
悠真は訊いた。
「俺と」
長い沈黙だった。
美咲はゆっくり床に座った。
まだ開けていない段ボールに背中を預ける。
しばらくして、小さく笑った。
「……同じだね」
悠真も少し離れた場所に座る。
二人とも相手を見なかった。
「最悪」
美咲が言う。
「うん」
「似た者同士だったんだ」
「今さら?」
「三年かかった」
「遅いな」
「遅いね」
二人とも少し笑った。
でも、笑えば楽になるような話ではなかった。
美咲は膝を抱えた。
「私たち」
少し考えてから言う。
「優しいだけじゃなかったのかも」
悠真が見る。
「嫌われたくない気持ちも、たぶん混ざってた」
「だから嫌なこと言わない」
「困ってるって言わない」
「やめてって言わない」
美咲は続けた。
「その代わり、勝手に我慢する」
悠真が低く言う。
「……で」
美咲が見る。
「あとで苦しくなる」
「うん」
悠真はしばらく考えた。
「自分では優しくしてるつもりでも」
言葉を選ぶ。
「あとから相手に罪悪感残してるだけの時もあるってことか」
美咲の目が一気に赤くなった。
否定できなかった。
悠真は小さな部屋を見回した。
一つのカップ。
一膳の箸。
一人用の鍋。
「じゃあ」
少し前の自分なら、そのまま答えを出していた。
今回も、一瞬そうなりかけた。
「今から変われば?」
美咲は何も言わない。
悠真は続けた。
「俺、大丈夫って言わない」
「美咲も一人で決めない」
「仕事もちゃんと話す」
「母さんのことも」
言葉が速くなっていく。
「だったら――」
「悠真」
美咲が静かに止めた。
悠真が黙る。
「また戻ってる」
「え?」
「どうすれば別れなくて済むか、考えてる」
悠真は口を閉じた。
数秒して、苦笑した。
「難しい」
「言ったでしょ」
「何も解決しないの」
悠真は天井を見る。
「無理かもしれない」
「うん」
その返事に、悠真は少し笑った。
そして、美咲を見た。
「でも」
一度だけ息を吸う。
「別れたくない」
それだけだった。
約束もない。
条件もない。
何を変えるとも言わない。
ただ、自分がそう思っていることだけを言った。
美咲の目から、すぐに涙が落ちた。
悠真は拭かなかった。
抱きしめもしなかった。
ただ、その場にいた。
「うん」
美咲が言う。
悠真が少し眉を寄せる。
「うんって何」
美咲は泣きながら、少し笑った。
「聞いた」
悠真も小さく頷いた。
「そっか」
それで終わった。
答えは出なかった。
でも、二人にとっては初めての、答えを出さなくても壊れなかった会話だった。
時計を見ると、もう午前一時を回っていた。
終電は、とっくになくなっている。
悠真が立ち上がる。
「帰る?」
「うん」
美咲も立つ。
電気を消そうとしたところで、悠真が小さな鍋を見る。
「この鍋」
「何?」
「俺らのより小さいな」
「一人だから」
「パスタ茹でられない」
「半分に折ればいい」
悠真が露骨に嫌な顔をした。
「それ嫌い」
美咲が笑う。
「知ってる」
悠真が少し止まる。
「……知ってるか」
「三年いたから」
美咲がそう言って、部屋の明かりを消した。
二人は駅へは向かわなかった。
美咲が配車アプリでタクシーを呼んだ。
深夜の道路は、昼間の東京とは別の街のように静かだった。
後部座席に並んで座る。
窓の外を、コンビニや閉じた店の明かりが流れていく。
二人ともほとんど話さなかった。
美咲は疲れていた。
しばらく窓へ寄りかかっていたが、車がゆるく曲がった拍子に、頭が悠真の肩へ落ちた。
悠真の身体が一瞬固くなる。
けれど、動かなかった。
少しだけ姿勢を変えて、美咲の頭が落ちないようにする。
窓の外を見る。
笑わなかった。
しばらくして、美咲が目を覚ました。
自分が悠真に寄りかかっていたことに気づき、すぐ身体を起こす。
「ごめん」
悠真は反射的に、
「大丈――」
と言いかけた。
そこで止める。
美咲が見る。
悠真は言い直した。
「別に嫌じゃない」
美咲は一瞬だけ驚き、そのあと少し笑った。
家に着いたのは、午前二時を過ぎた頃だった。
玄関を開ける。
三年間、二人で暮らしてきた部屋に戻ると、リビングには段ボール箱が並んでいた
二人とも疲れていた。
今日はもう寝てもよかった。
けれど美咲は、床に置かれた本を一冊手に取った。
「少しだけやる」
悠真も上着を脱ぎ、床に座った。
今度は何も言わず、本を一冊手に取る。
「これ持ってく?」
「持ってく」
次の本。
「これ?」
「置いてく」
「俺、読まないよ」
「じゃあ捨てて」
「ひど」
美咲が笑う。
別れまであと四日しかない部屋なのに、まるで普通の引っ越し準備のようだった。
古いアルバムを持ち上げたとき、一枚の写真が落ちた。
二年前、海へ行ったときの写真だった。
美咲が笑っている。
悠真はしばらく眺めた。
「これ」
「うん?」
「持ってく?」
美咲は止まった。
少し考えてから言う。
「悠真が持ってて」
「なんで?」
「私、同じのあるから」
悠真は頷き、写真を自分の側へ置いた。
さらにしばらく整理してから、悠真が訊いた。
「さっきの」
「何?」
「もっと前から、別れようと思ってたって話」
美咲の手が止まる。
「いつから?」
美咲は本を箱へ入れた。
「いいよ、もう」
「よくない」
美咲が見る。
悠真は続ける。
「知りたい」
「知ってどうするの?」
悠真は少し考えた。
「何もしない」
そして、
「ただ知りたい」
と言った。
美咲はその顔を見ていた。
今度は本当に、答えを急いでいない。
やがて、美咲も床に座った。
「一年くらい前」
悠真が眉を寄せる。
「そんな前?」
「うん」
記憶を探す。
「俺たち、何かあった?」
美咲は答えない。
「喧嘩?」
「した」
「何で?」
美咲が彼を見る。
「覚えてない?」
悠真はしばらく考えた。
何も出てこない。
「……ごめん」
美咲の表情が、ほんの少しだけ変わった。
怒ってはいなかった。
ただ、どこか納得したようだった。
「そっか」
「何?」
「覚えてないんだ」
悠真の胸に嫌な感覚が広がる。
「何言った?」
美咲は目を伏せた。
「もういい」
「よくないって」
けれど声は荒げなかった。
「俺、何か言った?」
返事はない。
悠真は待った。
「聞くから」
長い沈黙。
やがて美咲が話し始めた。
「その頃、悠真、仕事すごく忙しかった」
悠真の中で、少しずつ記憶が動き出す。
「お母さんのこともあった」
「お金のことで喧嘩することも増えてた」
美咲は続ける。
「私も余裕なかった」
「正社員の試験、また落ちたばっかりで」
二人とも。
ずっと疲れていた。
一年前。
深夜の同じ部屋。
食卓には、家賃や光熱費の明細が広がっていた。
悠真は床に座っている。
美咲はキッチンの前に立っていた。
すでに長いこと言い争っていた。
「私だって働いてるよ!」
「分かってるよ!」
「じゃあなんで、全部悠真だけが我慢してるみたいに言うの!」
「そんなこと言ってない!」
「言ってるのと同じだよ!」
悠真は疲れていた。
仕事でも。
母親のことでも。
金のことでも。
そして自分が疲れていること自体にも、腹が立っていた。
手にしていた明細を、食卓へ投げる。
「もういいよ!」
美咲も泣いていた。
「何がいいの!」
悠真は荒い息を吐いた。
次の言葉は、考えて出したものではなかった。
自分でも、本当にそう思っていたのか分からない。
ただ、口から出た。
「お前と会わなきゃよかった!」
部屋が静まり返った。
美咲は動かなかった。
悠真も、自分が何を言ったのか分からないような顔をしていた。
現在。
段ボール箱の横に座る悠真の顔から、血の気が引いていた。
ようやく思い出した。
美咲は彼を見る。
声は静かだった。
「それ」
少し間を置く。
「悠真が言ったんだよ」
悠真は何も言えない。
美咲は膝の上で手を握った。
「私ね」
目が赤くなる。
「傷ついたから、別れようって思ったんじゃない」
悠真が顔を上げる。
「違うの」
美咲は一度、息を整えた。
「あの時、初めて思った」
悠真を見つめる。
「私と一緒にいることで」
声が少しだけ震えた。
「悠真は、そこまで苦しくなってたんだって」
悠真の目から、涙が落ちた。
あの一言を、美咲は一年間覚えていた。
悠真は一年間、忘れていた。
そして二人とも、その違いについて一度も話さなかった。
時計は午前三時を回っていた。
同じ日付の中で、夜だけが深くなっていた。
別れまで、あと三日。




