第7話 選ぶ
息苦しいのは、相手に何かを諦められることではない。
ある日気づいてしまうことだ。
自分が何を失うべきなのかまで、相手が先に決めていたことに。
食卓の上には、二枚の紙が置かれていた。
正社員登用通知書。
そして、正社員登用辞退届。
同じ会社の名前が書かれた二枚の紙が、まるで正反対の未来のように見えた。
美咲は数歩離れたところに立っている。
「いつ書いた?」
悠真が訊いた。
「二週間くらい前」
「別れるって言う前?」
美咲は答えなかった。
答えなくても分かった。
悠真は辞退届へ視線を落とした。
「じゃあ最初から、俺についてくるつもりだった?」
少しの間があった。
「……うん」
悠真の声に、抑えきれない苛立ちが混じった。
「なんで言わないんだよ」
美咲も顔を上げた。
「悠真だって、異動のこと言ってなかったじゃん」
悠真が止まる。
「同じだよ」
「同じじゃない」
「何が?」
「俺は自分の仕事だろ」
美咲の表情が変わった。
「私の仕事だって、私の仕事だよ」
「だから勝手に辞めるなって言ってんだよ」
美咲は突然、小さく笑った。
嬉しいからではない。
あまりにもよく知っている言葉を聞いたからだった。
「それ、私も悠真に言いたかった」
悠真が黙る。
「勝手に断らないで」
美咲は言った。
「勝手に東京に残らないで」
少し間を置く。
「勝手に、私のためにしないで」
その最後の一言が、悠真を黙らせた。
「じゃあ、どうすればよかった?」
「話せばよかった」
「話したら、どうなった?」
「分からない」
悠真の苛立ちがまた戻る。
「分からないのに言うなよ」
「分からないから話すんでしょ!」
美咲の声が部屋に響いた。
悠真が止まった。
美咲も息を整える。
「答えがある時しか話さないから」
声は少しずつ低くなった。
「全部、一人で決めることになるんだよ」
二人の間に沈黙が落ちた。
悠真は二枚の紙から目を離し、美咲を見る。
「じゃあ聞く」
美咲も見返す。
「正社員、なりたい?」
すぐには返事がなかった。
「俺のこと抜きで」
悠真は続けた。
「地方のことも」
「結婚も」
一度、言葉が止まる。
「子どものことも」
その言葉だけは、まだ二人の間を簡単には通れなかった。
悠真は少し息を整え、もう一度訊いた。
「美咲は、正社員になりたい?」
長い沈黙。
やがて美咲は、視線を落としたまま答えた。
「……なりたい」
本当に小さな声だった。
けれど悠真には、はっきり聞こえた。
目を閉じる。
こんな簡単なことさえ、自分は知らなかった。
「三年待った」
美咲はぽつりと言った。
「契約更新のたびに、来年どうなるんだろうって思ってた」
少しだけ笑う。
「やっと取れた」
「じゃあ、なんで辞退しようとした?」
「悠真が地方に行くと思ってたから」
「俺、頼んだ?」
「頼んでない」
「じゃあなんで」
美咲はしばらく黙ったあと、言った。
「結婚するつもりだったから」
悠真の表情が止まる。
「結婚したら」
美咲は自分の中にあった当たり前を、一つずつ言葉にしていく。
「同じところに住むのが普通だと思ってた」
「東京と地方で暮らせばいいじゃん」
悠真は言った。
美咲はすぐに訊き返した。
「本当にそう思ってた?」
悠真は答えられない。
美咲は小さく首を振った。
「私も思ってなかった」
二人とも、結婚とは同じ家へ帰ることだと思っていた。
その前提を、一度も話し合ったことがないまま。
美咲は椅子に座った。
「だから、一個ずつ考えた」
指を一本立てる。
「悠真は地方に行く」
二本目。
「私は仕事を辞める」
三本目。
「向こうで仕事を探す」
「お母さんの近くに住む」
「結婚する」
最後の指を立てる前に、少しだけ止まった。
「いつか、また子どものことを考える」
悠真も何も言わなかった。
美咲は手を下ろした。
「そうしたら全部、うまくいくと思った」
悠真は思わず言った。
「それでいいじゃん」
美咲が顔を上げる。
「本当に?」
悠真の口が閉じる。
美咲は静かに訊いた。
「その生活してる私、幸せそう?」
答えられなかった。
美咲は責めなかった。
「私も最初は、幸せだと思ってた」
悠真と結婚できる。
家族になれる。
これからも同じ家に帰れる。
それだけで十分だと思っていた。
「でも」
美咲は食卓に置かれた正社員登用通知書を見る。
「会社で正社員登用の話をされた時」
少し笑った。
「すごく嬉しかった」
もう一度。
「本当に、嬉しかった」
それなのに、その直後に浮かんだ気持ちがあった。
美咲は言いにくそうに口を開く。
「最初に思ったの」
「何を?」
「……困ったって」
悠真は動かなかった。
「ずっと欲しかったものが、やっと手に入ったのに」
美咲の目が赤くなる。
「悠真と一緒にいるには、邪魔になるって思った」
その言葉で、悠真はゆっくり椅子に座った。
「その時、ちょっと怖くなった」
「どういう意味?」
「これからも、こうなるのかなって」
美咲は自分の手を見る。
「何か欲しいと思うたびに、悠真と一緒にいられるか考える」
「仕事とか」
「住みたい場所とか」
「やってみたいこととか」
「そのうち」
美咲は少し笑った。
その笑みには寂しさしかなかった。
「欲しいって思うこと自体、やめるんじゃないかって」
悠真は何も言えなかった。
そんな未来を美咲に望んだことはない。
それでも、美咲はそういう未来を一人で作り始めていた。
「じゃあ俺は?」
悠真が言った。
美咲が顔を上げる。
「俺が何か諦めるのも嫌なんだろ」
「うん」
「美咲が諦めるのも嫌」
「うん」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
美咲は少しだけ目を伏せた。
「それを二人で考えるはずだったんだよ」
悠真は黙った。
しばらくして、小さく訊く。
「でも、もう遅い?」
美咲は答えなかった。
悠真は時計を見るでもなく言った。
「まだ五日ある」
美咲の表情が変わる。
「五日で考えればいい」
悠真の言葉が少しずつ速くなる。
「仕事も、地方も、結婚も」
「全部」
「今度はちゃんと話せば――」
「悠真」
美咲が止めた。
悠真も止まる。
美咲は少し困ったように彼を見る。
「また答え出そうとしてる」
悠真は口を閉じた。
数秒。
そのままソファにもたれた。
全身から力が抜けていく。
「難しいな」
美咲が頷く。
「うん」
「何も解決しないって」
「うん」
悠真は天井を見た。
「めちゃくちゃ難しい」
美咲がとうとう笑った。
「知ってる」
その笑いにつられて、悠真も少し笑った。
張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけた。
「腹減った」
美咲が呆れた顔をする。
「さっき食べたじゃん」
「喧嘩すると腹減る」
「知らないよ」
「ラーメン食べる?」
「今から?」
「今から」
美咲は数秒考えた。
「……行く」
深夜のラーメン屋は、それほど混んでいなかった。
二人はカウンターに並んで座った。
仕事の話もしなかった。
別れの話もしなかった。
悠真はいつも通り食べるのが早い。
美咲が横から見る。
「早すぎ」
「腹減ってたから」
「だからって」
悠真は自分の丼からチャーシューを一枚取って、美咲の方へ差し出した。
「いらない」
「前、好きって言ってたじゃん」
「今はいい」
悠真はチャーシューを戻しながら呟いた。
「人って変わるな」
美咲の箸が少し止まる。
そして笑った。
「変わるよ」
軽い言葉だった。
けれど、二人ともその意味を少しだけ考えた。
店を出た頃には、終電まであまり時間が残っていなかった。
帰り道。
美咲のスマートフォンが鳴った。
画面を見た美咲は、すぐに着信を切る。
「出なくていいの?」
「いい」
悠真はそれ以上訊かなかった。
また歩き始める。
数秒後。
同じ番号から、もう一度掛かってくる。
美咲はまた切った。
そのとき、悠真にも画面に表示された名前が見えた。
田中。
悠真は何も言わなかった。
少し歩いてから訊く。
「会社?」
「違う」
「じゃあ何?」
以前なら問い詰めていたかもしれない。
けれど今は、美咲が答えるのを待った。
美咲もそれに気づいたようだった。
少し迷ってから言う。
「不動産屋」
悠真の足が止まる。
「部屋?」
「うん」
「もう決まってる?」
「うん」
「契約した?」
「した」
一つ答えを聞くたびに、悠真の中で「別れる」という言葉が生活の形を持っていく。
「いつから探してた?」
美咲は少し間を置いた。
「四か月前」
悠真が顔を上げる。
「四か月?」
美咲は歩き出さなかった。
悠真も動かない。
「……見たい」
「え?」
「部屋」
悠真は続けた。
「美咲が住む部屋」
美咲の顔に明らかな迷いが浮かぶ。
悠真はすぐに言った。
「嫌ならいい」
以前なら、理由を訊いていたかもしれない。
今回は待った。
美咲はしばらく悠真を見た。
やがて、
「……行く?」
と訊いた。
終電に近い電車は空いていた。
美咲は窓側。
悠真はその隣。
東京の夜が、窓の外を流れていく。
しばらくして悠真が訊いた。
「狭い?」
「狭い」
「今より?」
「全然」
「風呂ある?」
美咲が振り返る。
「あるよ」
悠真が小さく息を吐く。
「よかった」
「何それ」
「いや。風呂なかったら心配だから」
美咲が思わず笑う。
「東京でそんな部屋探す方が難しいよ」
悠真も笑った。
二人とも笑っている。
だからこそ、その電車が向かう先が、余計に現実的だった。
美咲が借りたのは、古くも新しくもない、ごく普通のアパートだった。
駅から少し歩く代わりに、今の部屋より家賃はずっと安かった。
階段を上がり、二階の端にある部屋の前で立ち止まる。
美咲が鍵を出した。
扉を開ける。
「どうぞ」
悠真は玄関に立ったまま、すぐには入れなかった。
六畳ほどの部屋。
小さなキッチン。
一人用の冷蔵庫。
まだ包装されたままの折り畳みテーブル。
隅には、すでにいくつかの段ボール箱が積まれている。
窓辺には、小さな照明。
ベッドもない。
ソファもない。
二人で暮らした三年間を思わせるものは、何もなかった。
「まだ、ほとんど何もないけど」
美咲が言った。
悠真はゆっくり中へ入った。
「見てもいい?」
美咲は一瞬だけ彼を見る。
それから、
「うん」
と頷いた。
美咲が備え付けの棚を開けた。
カップが一つ。
皿が一枚。
箸が一膳。
悠真の視線がそこで止まる。
美咲は冷蔵庫も開けた。
水。
牛乳。
卵。
必要最低限のものだけ。
「……一人分だ」
美咲は答えなかった。
部屋の隅には、「キッチン」と書かれた段ボール箱があった。
蓋はまだ閉じられていない。
中に、小さな新品の鍋が見えた。
今の家で三年間使っている鍋より、ずっと小さい。
悠真はそれを見つめた。
美咲が背後から言った。
「一人なら」
少しの間。
「これくらいで足りるから」
悠真の表情が変わった。
ようやく分かった。
美咲は怒っているわけではない。
脅しているわけでもない。
一時的に距離を置こうとしているわけでもない。
彼女はもう、自分がいない生活に必要なものの大きさを考えている。
悠真は部屋の中央に立った。
「ここで」
「うん」
「一人で暮らすの?」
「うん」
「本当に?」
美咲は彼を見た。
「うん」
悠真は少し迷った。
それでも訊いた。
「俺、来ない?」
美咲の目がゆっくり赤くなった。
けれど答えは変わらなかった。
「来ない」
悠真は俯いた。
美咲は窓を開けようと、背を向けた。
そのとき、悠真の目に折り畳みテーブルの上に置かれた封筒が入った。
不動産会社の名前。
封筒の下には、何枚かの書類が重なっている。
悠真は近づかなかった。
ただ、いちばん上に見えている日付へ目が止まった。
入居申込書。
四か月前の日付だった。
悠真の身体が止まる。
もう一度見る。
そして、その日付に覚えがあった。
病院へ行った翌日。
「……これ」
美咲が振り返る。
悠真は書類には触れなかった。
ただ、日付から目を離せないまま訊いた。
「病院の次の日?」
美咲は答えなかった。
悠真は美咲を見る。
「この部屋、その時から?」
美咲は少しだけ首を振った。
「その日に申し込んだだけ」
悠真は黙っている。
「審査が通ったのは、そのあと」
「契約したのも、少し後」
美咲は部屋を見回した。
「最初は、住むつもりだったわけじゃなかった」
「じゃあ、なんで」
美咲はすぐには答えなかった。
「帰れる場所が、もう一つ必要だと思った」
悠真の表情が止まる。
「一人になりたくなった時に」
少し息を吸う。
「ちゃんと一人になれる場所」
申し込んだあとも、何度もやめようと思った。
審査が通った時も。
契約書が届いた時も。
初期費用を振り込む時も。
それでも、美咲はやめなかった。
家賃は決して軽くなかった。
契約社員の給料で二つの部屋に関わるお金を払い続けるのは、楽ではない。
だから、この部屋は今の家よりずっと狭く、駅からも少し遠かった。
家具もほとんど買わなかった。
それでも、ここだけは手放せなかった。
悠真は静かに訊いた。
「ずっと、ここ持ってたの?」
「うん」
「四か月?」
「契約してからは、三か月ちょっと」
悠真は何も言えなかった。
美咲は続ける。
「最初は、本当にただの逃げ場所だった」
「喧嘩した時とか」
「一人で考えたい時とか」
「そういう時に来ればいいって思ってた」
実際には、何度か鍵を持ってここまで来て、それでも入らずに帰った夜もあった。
一人になりたいと思って借りた場所なのに、本当に一人になるのが怖かった。
だから、今の家へ戻った。
悠真がいる部屋へ。
それを何度も繰り返した。
けれど少しずつ。
水を置いた。
カップを買った。
卵を入れた。
小さな鍋を買った。
段ボールを一つ運んだ。
そのたびに、この部屋は少しずつ「逃げるための場所」ではなくなっていった。
美咲は最後まで、その先を言わなかった。
けれど悠真には分かった。
いつの間にかここは、
美咲が一人で生きるための部屋になっていた。
十日前に、突然そうなったわけではない。
一か月前でもない。
四か月前。
美咲が初めて「帰れる場所がもう一つ欲しい」と思ったその日から、少しずつ始まっていた。
悠真は、小さな鍋を見る。
一人分の皿を見る。
一人分の箸を見る。
そして初めて、自分のいない美咲の未来を、目の前にある部屋として見た。
窓の外を、遠くの電車が走った。
もう終電ではなかった。
日付は、いつの間にか変わっていた。
美咲は一人分の部屋に立っている。
その隣に悠真がいる。
けれど、この部屋には最初から、二人分の場所は用意されていなかった。
別れまで、あと三日。




