第6話 約束
約束というものは、ときに不思議だ。
去っていく人にとっては、最後に残したほんの一言だったとしても。
残された人は、その言葉を何年もかけて、自分の責任に変えてしまうことがある。
午前零時を少し回った頃。
玄関の扉が開いた。
「ただいま」
悠真の声に、リビングにいた美咲が顔を上げた。
テレビはついていない。
食卓には夕食が並んでいたが、もうすっかり冷めていた。
「……おかえり」
悠真は靴を脱いだ。
美咲はすぐに、彼が手にしている小さな紙袋に気づいた。
「どこ行ってたの?」
「母さんのとこ」
その言葉だけで、美咲の表情が変わった。
視線が紙袋へ落ちる。
何が入っているのか、おそらくもう分かっていた。
悠真はすぐには中身を出さなかった。
リビングへ入り、美咲の向かいに座る。
「何話した?」
「いろいろ」
「怒った?」
悠真は少し考えた。
「ちょっと」
美咲が俯いた。
「ごめん」
すると悠真は、ほとんど間を置かずに言った。
「謝らなくていい」
美咲が顔を上げる。
悠真自身も、その言葉を口にしたあとで少し止まった。
今までなら、きっとこう言っていた。
大丈夫。
でも今日は、その言葉を使わなかった。
悠真は紙袋を食卓の上に置いた。
「母さんから聞いた」
美咲は何も言わない。
「病院、来てもらったこと?」
「うん」
悠真は紙袋を開いた。
「これも」
白い小さな靴下が現れた。
美咲の顔から血の気が引いた。
手を伸ばすこともできず、ただ見ている。
「……まだ持ってたんだ」
「捨てたかった?」
美咲はゆっくり首を振った。
「分からない」
悠真はそれ以上訊かなかった。
少しして、美咲が片方だけ手に取った。
掌の中に、ほとんど収まってしまうほど小さい。
「買った時ね」
美咲は、わずかに笑った。
「まだ何も決まってなかった」
「産むかとか?」
美咲は頷いた。
「仕事どうするとか」
靴下を指先でなぞる。
「お金とか」
「どこに住むとか」
「何にも」
悠真が訊く。
「じゃあ、なんで買ったの?」
美咲はしばらく小さな靴下を見つめた。
「かわいかったから」
悠真は俯いた。
涙が落ちそうになった。
けれど美咲は少しだけ笑っていた。
「理由なんて、それだけ」
それ以上の理由など、あのときは必要なかった。
二人とも長いこと話さなかった。
やがて悠真が口を開いた。
「今日」
美咲を見る。
「母さんに言われた」
「何を?」
「美咲の話を、ちゃんと聞けって」
美咲が小さく笑う。
「お母さんらしい」
「あと」
悠真は一度息を止めた。
「答えを出そうとするなって」
美咲が顔を上げる。
悠真は椅子の背にもたれた。
少し居心地が悪そうだった。
まるで、これから今まで一度もしたことのないことをしようとしているみたいに。
「だから今日は」
美咲を見る。
「何も解決しない」
美咲の表情が止まる。
「別れるのやめろとも言わない」
「仕事辞めろとも言わない」
「俺が何とかするとも言わない」
一度、深く息を吸った。
「ただ聞く」
美咲は何も言えなかった。
悠真がそんなことを言う日が来るとは、思っていなかった。
しばらくして、悠真が訊いた。
「なんで母さんのこと知ってた?」
美咲はすぐには答えなかった。
けれど今回は、話を逸らさなかった。
「去年から」
「去年?」
「お母さん、時々私に連絡くれてた」
「なんで俺じゃなくて?」
美咲は少し困ったように笑った。
「悠真に言ったら、すぐ帰るから」
悠真は何も言わなかった。
否定できない。
美咲は続ける。
「最初は、本当にたまにだったよ」
「野菜送ろうか、とか」
「東京寒い? とか」
少し笑う。
「東京の方が暖かいのに」
悠真も、ごく短く笑った。
「でも、四か月前から少し増えた」
悠真の表情が止まる。
「あの日のあと、お母さんが時々連絡くれるようになったから」
「体調どう、とか」
「ちゃんと食べてる、とか」
「それから、お母さんのことも少しずつ聞くようになった」
美咲の声が静かになる。
「腰が痛いとか」
「病院行ったとか」
「電球替えられないとか」
「そういう話」
悠真は目を伏せた。
「お母さん、助けてって言ったことはないよ」
「でも」
美咲は悠真を見る。
「一人なんだなって思った」
悠真は答えなかった。
しばらくして、美咲が逆に訊いた。
「なんで、そんなに帰らなきゃって思うの?」
「一人だから」
答えは早かった。
美咲はもう一度訊いた。
「それだけ?」
悠真は口を開いた。
けれど、言葉は出なかった。
美咲は急かさなかった。
今度は彼女が待った。
長い沈黙のあと。
「父さん」
悠真が言った。
美咲は何も言わずに続きを待った。
八年前。
病院の個室。
二十歳だった悠真は、父親のベッドの横に座っていた。
母親は手続きのために部屋を出ていた。
父はもうずいぶん痩せていた。
窓の外を見ていた顔が、ゆっくり悠真へ向く。
「悠真」
「ん?」
「母さんのこと」
一度、呼吸を整える。
「頼むな」
悠真は、その言葉の重さを考えもしなかった。
「うん」
父が少し笑う。
「お前、優しいから」
「何それ」
照れくさくなって、悠真も笑った。
父は目を細めた。
「頼りにしてる」
それが、父親とまともに交わした最後の会話になった。
今。
悠真は食卓の木目を見ていた。
「それだけ」
美咲が小さく頷く。
「……うん」
「別に遺言でもない」
悠真は自嘲するように笑った。
「母さんと暮らせとも言われてない」
「仕事捨てろとも言われてない」
一度、言葉を止める。
「でも」
胸の中に残っていたものを探す。
「ずっと残ってる」
東京へ来たときも。
就職したときも。
美咲と一緒に暮らし始めたときも。
「楽しいとさ」
悠真は苦笑した。
「母さん一人なのにって思う」
美咲は、ようやく理解した。
母親が悠真を縛っていたわけではない。
父親だって、息子の人生を差し出せと言ったわけではない。
悠真自身が、八年前の一言を置いていけなかったのだ。
美咲が訊いた。
「私といる時も?」
悠真はすぐには答えなかった。
その沈黙だけでも、答えは分かっていた。
それでも最後には言った。
「……たまに」
美咲の目が赤くなった。
けれど、傷ついたようには見えなかった。
むしろ、長い間待っていた言葉をようやく聞けたような顔だった。
「そっか」
「ごめ――」
悠真は途中で止まった。
美咲が見る。
悠真は言い直した。
「そうだった」
謝らなかった。
正しいとも言わなかった。
ただ、自分がそう感じていたことを認めた。
美咲はしばらく彼を見つめた。
「それ、聞きたかった」
悠真が驚く。
「こんなの?」
「うん」
美咲は頷いた。
「ずっと」
美咲は立ち上がり、キッチンへ水を取りに行った。
その背中を見ながら、悠真が言った。
「美咲」
「ん?」
「俺、地方支店の話来てる」
美咲の背中が止まった。
「母さんの家から通える」
美咲は振り返らない。
「役職も上がる」
まだ何も言わない。
悠真はその沈黙で察した。
「知ってた?」
少しして、
「……少し」
と返ってくる。
悠真は苦く笑った。
「やっぱり」
美咲は水を持って戻り、椅子に座った。
そして、まっすぐ訊いた。
「行きたい?」
悠真が瞬きをする。
今まで何度もこの異動について考えた。
母親のため。
会社のため。
将来のため。
美咲のため。
けれど、誰からもこの聞き方をされたことはなかった。
美咲は言った。
「お母さんのためじゃなくて」
「私のためでもなくて」
「会社のためでもなくて」
悠真を見る。
「悠真は、行きたい?」
悠真は口を開いた。
答えを探した。
正しそうな理由なら、いくつもあった。
でも、自分がどうしたいのかは分からなかった。
長い沈黙の末。
「分からない」
美咲は少し笑った。
失望した笑いではなかった。
「それでいいじゃん」
悠真が見る。
「初めて聞いた」
「何を?」
「悠真が、分からないって言うの」
二人の間に、ほんの少しだけ柔らかい空気が戻った。
話が終わる頃には、窓の外がわずかに白み始めていた。
美咲は先にベッドへ入った。
悠真は眠る気になれず、一人でリビングに残っていた。
ノートパソコンの画面には、一通のメールが開かれている。
地方支店異動について。
回答期限。
本日まで。
悠真は長いこと画面を見つめた。
美咲の声が頭に残っている。
――悠真は、行きたい?
父親の声。
――母さんのこと、頼むな。
母親の声。
――帰ってこなくていい。
そして、美咲。
――分からないって言っていいじゃん。
悠真は目を閉じた。
やがて、キーボードへ手を置いた。
その日の午後。
上司は悠真の返答を見て、少し驚いた顔をした。
「本当にいいの?」
「はい」
「地方支店、断るってことで」
悠真は頷いた。
「はい」
上司はしばらく彼を見た。
「理由、聞いてもいい?」
悠真は一瞬迷った。
これまでなら、母親のことや家庭の事情を持ち出したかもしれない。
でも今日は違った。
「東京に残りたいので」
上司が少しだけ目を細める。
「そう」
悠真は続けなかった。
「分かった」
会議室を出る。
廊下で一人になったところで、悠真は長く息を吐いた。
正しかったかどうかは分からない。
安心しているのか。
怖いのか。
それすら分からない。
それでも、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
俺が決めた。
誰に言うでもなく、そう思った。
夜。
悠真が帰宅すると、美咲はリビングで段ボール箱を広げていた。
本が少しずつ箱に詰められている。
その光景を見た瞬間、あと五日という時間がまた現実に戻った。
「美咲」
「ん?」
「異動、断った」
美咲の手が止まる。
「……え?」
「今日、返事した」
悠真は少し笑った。
「東京に残る」
美咲は立ち上がらない。
悠真は続ける。
「母さんともちゃんと話す」
「仕事もこっちで続ける」
「だから――」
そこまで言って止めた。
だから別れなくてもいい。
その言葉は言わなかった。
けれど美咲には、十分伝わった。
ゆっくり立ち上がる。
「なんで?」
悠真が戸惑う。
「なんでって」
「昨日、分からないって言ったじゃん」
美咲は彼を見る。
「一晩で分かったの?」
悠真の笑みが消える。
「考えた」
「本当に?」
「うん」
美咲は少し間を置いた。
「私が出ていくって言わなかったら?」
悠真が止まる。
「それでも断った?」
答えが出なかった。
美咲の目がゆっくり赤くなる。
「ほら」
「違う」
「何が違うの?」
「俺が決めた」
「私が別れるって言った後にね」
悠真は何も言えなかった。
少しして、感情が声に混じった。
「じゃあ、行けばよかった?」
美咲も声を強くする。
「そういうことじゃない!」
「じゃあ何なんだよ!」
「選んでほしいの!」
「選んだよ!」
「違う!」
美咲の目から涙が落ちた。
「私を失わないための答えじゃなくて!」
悠真が黙る。
「悠真が」
美咲は息を整えながら続ける。
「何を失ってもいいのか」
「何を失いたくないのか」
「それを、自分で決めてほしいの」
「そんな簡単じゃない」
「分かってるよ!」
美咲もとうとう声を上げた。
「だから私も、ずっと決められなかった!」
悠真の表情が変わった。
「……私も?」
美咲も、自分の言葉に気づいた。
顔を逸らす。
「何でもない」
「今、私もって言ったよな」
「悠真」
「何を決められなかった?」
美咲は答えない。
悠真の視線が、彼女のそばにある段ボール箱へ落ちた。
箱の上には、書類の入ったファイルが置かれている。
美咲がそれを避けるように持ち上げた。
「それ、何?」
「何でもない」
「会社の?」
「悠真には関係ないから」
美咲はファイルを閉じようとした。
その拍子に、挟まれていた二枚の紙が床へ滑り落ちた。
一枚が、悠真の足元まで来る。
見るつもりはなかった。
けれど、目に入った。
正社員登用通知書。
悠真の動きが止まった。
美咲がすぐにしゃがむ。
「見ないで」
悠真は紙に触れなかった。
「……受かったんじゃん」
美咲は何も答えない。
もう一枚の紙を拾おうとしたとき、それが裏返った。
今度は悠真にも、上部の文字が見えた。
正社員登用辞退届。
悠真の笑みが消えた。
「……何これ」
美咲は二枚の紙を拾い上げた。
「美咲」
「見ないでって言ったでしょ」
「見てない」
悠真はその場から動かなかった。
「でも、見えた」
美咲は何も言わない。
「なんで辞退するの?」
沈黙。
悠真の中で、いくつかの点がつながった。
「俺が地方行くから?」
美咲は目を閉じた。
「俺についてくるつもりだった?」
長い沈黙のあと。
「……最初は」
その一言で十分だった。
悠真は動けなくなった。
美咲は涙の残る目で彼を見る。
「悠真だけじゃないよ」
少し間を置く。
「私も同じだった」
「何も聞かないで」
「勝手に決めて」
「勝手に捨てようとしてた」
悠真は手元にないはずの辞退届を、まだ目の前にあるように見つめていた。
自分はずっと、美咲を守ろうとしていると思っていた。
自分さえ我慢すればいい。
自分が何とかすればいい。
そう思っていた。
けれど美咲もまた、同じ場所に立っていた。
何も訊かず。
何も頼らず。
相手のために、自分の人生を先に手放そうとしていた。
二人は、違うやり方で傷つけ合っていたわけではなかった。
同じやり方で、互いを愛そうとしていた。
話が途切れたあとも、二人は長いことその場を動かなかった。
窓の外は暗いままだった。
けれど、遠くから始発電車の走る音が聞こえた。
美咲がゆっくり顔を上げる。
壁の時計を見る。
いつの間にか、日付はまた一つ進んでいた。
床には、まだ閉じられていない段ボール箱がある。
五日前なら、悠真はそれを見て何かを言ったかもしれない。
荷造りをやめてほしい。
考え直してほしい。
俺が変わるから。
けれど今は、何も言わなかった。
美咲も箱を閉じなかった。
二人ともまだ、自分が何を選ぶのか分かっていなかった。
それでも初めて、分からないまま同じ場所にいることができた。
別れまで、あと四日。




