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あと十日だけ  作者: 幕神成


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第5話 母

大人になることのやるせなさは、ときどき残酷なくらい単純だ。


助けを求めてくる人は、誰も間違っていない。


誰も、本当に自分を必要としている。


それでも、自分は一人しかいない。

午前三時を過ぎても、リビングには明かりがついていなかった。


悠真は床に座り、スマートフォンを握っていた。


画面には、四か月前の六件の着信が並んでいる。


美咲。


美咲。


美咲。


見れば見るほど、その名前だけが浮かび上がってくるようだった。


「……見てた」


口にしてみると、思っていた以上に重い言葉だった。


「何を?」


背後から声がした。


悠真は顔を上げた。


寝室の入口に、美咲が立っていた。


眠そうな顔で、こちらを見ている。


いつからいたのか分からない。


悠真は反射的にスマートフォンの画面を消した。


「寝ないの?」


「……もう少ししたら」


美咲はそれ以上訊かなかった。


小さく頷いて、寝室へ戻ろうとする。


「美咲」


足が止まる。


悠真はその背中を見つめた。


言うなら今だった。


あの日、電話には気づいていた。


一度ではない。


何度も見た。


そう言えばいい。


けれど口から出たのは、まるで別の言葉だった。


「……寒いから、布団ちゃんとかけて」


美咲は少しだけ振り返った。


「うん」


寝室の扉が静かに閉じる。


悠真はしばらく、その扉を見つめていた。


そして気づいた。


四か月前と同じだった。


話さなければならないことがある。


それなのに、相手のためだと思いながら、今日もまた言わない方を選んでいる。


朝。


美咲が冷蔵庫を開けた。


「牛乳ない」


「帰り買う」


「私が買うよ」


「俺の方が早い」


美咲が振り返った。


「昨日もそう言って、十一時だったじゃん」


「今日は大丈夫」


言った瞬間、悠真自身が止まった。


美咲の手も止まる。


ほんの短い沈黙。


悠真は目を逸らした。


「……たぶん」


美咲は彼を見る。


それから、ごく小さく頷いた。


「うん」


たった一言言い換えただけだった。


それでも悠真には、何かを初めてやり直したような気がした。


朝食を食べ始めても、悠真はほとんど箸が進まなかった。


やがて訊いた。


「母さんと、いつから連絡取ってる?」


美咲の箸が止まった。


「結構前」


「なんで俺に言わなかった?」


「言う必要ないと思ったから」


「昨日、母さんのこと知ってたよな」


美咲は黙っている。


「何を知ってる?」


ようやく顔を上げた。


「悠真より、少しだけ」


悠真の表情が変わる。


それがどれほどなのか、美咲は言わなかった。


昼休み。


悠真は会社の階段の踊り場から母親へ電話を掛けた。


呼び出し音が長く続く。


「もしもし」


ようやく聞こえた声は、いつもと変わらなかった。


背後ではテレビの音がする。


「今、大丈夫?」


「仕事中でしょ」


「昼休み」


「ちゃんと食べた?」


悠真は少し苛立った。


「食べた」


嘘だった。


「美咲ちゃんは元気?」


悠真の顔から表情が消えた。


「……なんで美咲?」


電話の向こうも少し静かになる。


「何が?」


「最近、連絡取った?」


返事がない。


「母さん」


数秒後。


「……取ったよ」


悠真は目を閉じた。


「いつ?」


「たまに」


「だから、いつ?」


母親も黙った。


やがて、逆に訊いてきた。


「悠真」


「何」


「美咲ちゃんと、何かあった?」


悠真は壁にもたれた。


この数日、自分でもまだ受け入れきれていない言葉を口にする。


「……別れる」


電話の向こうから何も聞こえなくなった。


「あと六日で、出てく」


長い沈黙のあと。


母親は、驚くでも問い返すでもなく、


「……そう」


とだけ言った。


悠真は目を開けた。


その反応が、妙だった。


「知ってた?」


「何を?」


「美咲が出てくこと」


また沈黙。


「母さん」


「仕事戻りなさい」


「待って」


通話が切れた。


悠真はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動かなかった。


少なくとも一つだけ分かった。


美咲と母親の間には、自分の知らない時間がある。


四か月前。


会社の会議室。


上司は地方支店への異動案を悠真の前に置いていた。


「戻るなら、今が一番いいと思う」


役職も一つ上がる。


待遇も少し良くなる。


そして、その支店は母親の住む町から遠くなかった。


「お母さん、一人なんだろ?」


悠真は資料を見たまま答えなかった。


父親が亡くなってから、母は一人だった。


大丈夫だと言う。


心配するなと言う。


けれど悠真は、その言葉をそのまま信じられるほど無責任にもなれなかった。


そのとき、スマートフォンが震えた。


美咲。


一度目。


悠真は画面を見た。


会議の途中だった。


あとで掛け直せばいい。


そう思って、電話には出なかった。


会議室を出て間もなく、二度目の着信が来た。


また、美咲。


今度こそ出ようとしたところで、同僚に呼び止められた。


「佐藤、部長が」


悠真は一度スマートフォンを見る。


「今行きます」


そのまま端末を消音にして、ポケットへ入れた。


三度目。


階段の踊り場。


美咲。


悠真はようやくスマートフォンを取り出した。


親指を通話ボタンへ近づける。


その瞬間、別の着信が割り込んだ。


母。


悠真は眉を寄せた。


母親が仕事中に電話してくることなど、ほとんどない。


一瞬迷った。


そして、母からの電話に出た。


「もしもし?」


返事がない。


荒い呼吸だけが聞こえた。


悠真の背筋が伸びた。


「母さん?」


少しして、苦しそうな声が返ってきた。


「……ごめん」


間が空く。


「ちょっと、動けなくて」


悠真の顔色が変わった。


「救急車呼んだ?」


「そこまでじゃない」


「動けないって言っただろ」


「腰が痛いだけだから」


「だけじゃないだろ!」


思わず声を荒らげた。


電話の向こうが静かになる。


悠真もすぐに後悔した。


「……ごめん」


母親は少しして言った。


「仕事は?」


「今それどうでもいい」


「どうでもよくないよ」


悠真は電話を切らずに、母親の近所に住む知人へ連絡した。


玄関まで出られるのか。


一人で歩けるのか。


タクシーに乗れるのか。


受診できるのか。


一つ確認すれば、また次に確認することが増えた。


その間にも、美咲からの着信は続いていた。


四度目。


五度目。


悠真は見ていた。


そのたびに思った。


母親が病院へ着いたら掛け直す。


診察が終わったら。


会社に一本だけ連絡したら。


あと十分。


あと五分。


もう少しだけ。


近所の知人に付き添われて受診した母親は、急性の腰痛と診断された。痛み止めを処方され、しばらく安静にするよう言われたものの、少なくとも入院を必要とする状態ではなかった。


それが分かった頃には、もう夕方になっていた。


十八時三十六分。


六度目。


美咲。


悠真は会社へ戻る途中、ビルの前に座っていた。


会社からは、途中になった資料について何度も連絡が来ている。


母親からは、


「薬ももらったから、もう心配しないで」


とメッセージが届いていた。


その上で、美咲からまた電話が鳴った。


悠真は画面を見つめた。


今度こそ出る。


本当に、出るつもりだった。


けれど呼び出しは、その指が触れる前に途切れた。


悠真は目を閉じた。


それからメッセージを送った。


「ごめん、今終わった」


続けて、


「何かあった?」


しばらくして、美咲から返信が来た。


「大丈夫」


悠真は長く息を吐いた。


安心した。


その一言を信じた。


いや。


信じたかった。


スマートフォンをポケットへ入れ、立ち上がった。


そして会社へ戻った。


現在。


会社の洗面所で、悠真は両手を洗面台についた。


鏡の中の自分を見る。


あの日、自分は美咲より母親を選んだわけではなかった。


母親より仕事を選んだわけでもない。


全部やろうとした。


母親を病院へ行ける状態にする。


会社の仕事を終わらせる。


そのあと美咲へ電話する。


一つずつ片づければ間に合う。


そう思っていた。


けれど、人生は仕事のようには並んで待ってくれなかった。


水を出した。


顔を洗う。


冷たい水の向こうで、目だけが赤かった。


退勤後、悠真は家へ帰らなかった。


電車に乗り、母親の住む町へ向かった。


事前には連絡しなかった。


夜。


玄関を開けた母親は、悠真の顔を見るなり眉を寄せた。


「何?」


悠真が最初に見たのは、顔ではなかった。


腰だった。


母親は気づいたらしい。


「もう平気」


「四か月前」


母親の笑みが消える。


「何があった?」


「腰」


「それだけ?」


「それだけ」


悠真は母親を見つめた。


「美咲と何話した?」


母親が黙る。


「俺の知らないところで、何してるの?」


母親の表情が初めて険しくなった。


「その言い方やめなさい」


「じゃあ教えてよ」


「本人から聞きなさい」


「聞いたよ!」


狭い玄関に声が響いた。


母親が固まる。


悠真の目はもう赤かった。


「子どものことも聞いた」


母親の顔から、わずかに血の気が引いた。


それだけで十分だった。


悠真は小さく笑った。


「知ってたんだ」


母親はすぐには答えなかった。


やがて、


「……うん」


と認めた。


二人はキッチンへ移った。


悠真は座るなり訊いた。


「いつから?」


答えはない。


「俺より先?」


母親が顔を上げた。


「そういう言い方しないの」


「じゃあ、どう言えばいい?」


悠真の声が震えた。


「俺、父親だったんだよ」


母親は目を閉じる。


「分かってる」


「分かってないよ」


今度は声を抑えられなかった。


「俺だけ何も知らなかった!」


母親も、初めて声を強くした。


「美咲ちゃんだって、一人だったの!」


悠真が止まった。


母親も、自分の言葉に気づいた。


沈黙。


「……どういう意味?」


母親は目を逸らした。


「一人だったって」


悠真が一歩近づく。


「母さん、何知ってる?」


「悠真」


「教えて」


「本人から――」


「教えてよ」


部屋が静かになった。


母親は長いこと息子を見ていた。


そしてようやく言った。


「あの日」


一度、息を吐く。


「美咲ちゃんから電話があった」


悠真は何を言われたのか分からない顔をした。


「……母さんに?」


「うん」


四か月前。


病院の近くにあるベンチ。


日はもう落ちていた。


美咲は一人で座っていた。


生理は十日以上遅れていた。


数日前から、朝になると気分が悪くなることもあった。


もしかしたら。


そう思いながらも、確かめるのが怖くて、検査薬を買ったまま使えずにいた。


その朝、ようやく使った。


二本の線。


何度見ても、消えなかった。


最初に浮かんだのは笑顔だった。


そのあと、なぜか涙が出た。


それでも仕事へ向かった。


昼を過ぎた頃、下腹部に鈍い痛みを感じた。


そして、会社のトイレで出血に気づいた。


怖くなった。


スマートフォンを取り出し、悠真へ電話を掛けた。


一度。


二度。


それでも出ない。


出血は止まらなかった。


美咲は早退し、一人で病院へ向かった。


待合室でも、何度も悠真へ電話を掛けた。


六度目の発信が途切れたあと、診察室へ呼ばれた。


病院を出た頃には、外はもう暗くなっていた。


美咲は近くのベンチに座った。


しばらくして、スマートフォンが震えた。


悠真からだった。


「ごめん、今終わった」


続けて、


「何かあった?」


美咲は、その文字を長いこと見ていた。


返信欄を開く。


「赤ちゃんが――」


そこまで打つ。


指が止まった。


一文字ずつ消した。


最後に送ったのは、


「大丈夫」


だった。


それから、連絡先を開いた。


悠真。


指は、その名前のところで止まった。


もう一度電話を掛けることはできなかった。


少し下へ動かす。


悠真のお母さん。


長いこと迷ったあと、電話を掛けた。


母親はその頃、自宅に戻ったばかりだった。


近所の知人に付き添われて病院へ行き、鎮痛薬を飲んでから数時間が経っていた。


痛みは残っていたものの、ゆっくりなら歩ける程度にはなっていた。


「もしもし、美咲ちゃん?」


返事がない。


聞こえるのは、呼吸だけ。


「どうしたの?」


しばらくして、美咲の声が聞こえた。


「お母さん」


それだけで、もう泣いていることが分かった。


「……すみません」


「何があった?」


美咲は何度も息を整えた。


「一人で帰るの……」


言葉が途切れる。


「ちょっと、怖くて」


母親は何も訊かなかった。


居場所だけを聞いた。


それからタクシーを呼んだ。


腰はまだ痛かった。


玄関で靴を履くにも時間がかかった。


それでも、美咲のところへ向かった。


現在。


「タクシーで行った」


母親が言う。


悠真は顔を上げた。


「腰……」


「痛かったよ」


母親は少し苦笑した。


「でも」


そのあとは迷わなかった。


「一人にできなかった」


悠真は俯いた。


膝の上に涙が落ちた。


母親は続ける。


「あの子、ずっと謝ってた」


「何を?」


「分からない」


母親は首を振った。


「赤ちゃんにも」


一度言葉を切る。


「あなたにも」


そして、


「私にも」


悠真は口元を手で覆った。


「誰も怒ってないのにね」


母親は立ち上がった。


食器棚の奥から、小さな紙袋を取り出す。


悠真の前に置いた。


「これ」


「何?」


「美咲ちゃんが置いていった」


悠真はしばらく触れなかった。


やがて、袋を開く。


中には、小さな白い靴下が一組入っていた。


あまりにも小さかった。


手のひらに収まってしまうほどだった。


使われた形跡はない。


悠真の指が止まる。


母親は少し迷ってから言った。


「それ、あの日に買ったものじゃないの」


悠真が顔を上げる。


「美咲ちゃん、生理が遅れてるって気づいてから、ずっと気になってたみたい」


数日前。


仕事帰り。


美咲は一人でベビー用品店の前を通った。


まだ何も確かではなかった。


妊娠しているかどうかさえ分からなかった。


それでも、店先に並んでいた小さな白い靴下の前で足が止まった。


何度も通り過ぎようとした。


結局、戻った。


「まだ分からないんですけど」


誰に言うでもなく、小さく呟いた。


そして、一組だけ買った。


四か月前のあの日。


病院から帰る途中、美咲はその靴下を鞄から取り出した。


捨てようとした。


けれど、どうしても手を離せなかった。


最後に母親へ渡した。


現在。


「捨ててくださいって言われた」


母親が言った。


「でも、できなかった」


悠真は顔を上げられない。


小さな靴下を握ったまま、肩が震え始めた。


声は出なかった。


ただ、止められなかった。


母親は向かい側に座ったまま、慰めようとはしなかった。


しばらくして悠真が言った。


「なんで俺に言わなかったの」


「美咲ちゃんに頼まれた」


「なんで」


「あなたが大変そうだからって」


悠真は涙の跡が残った顔で、苦く笑った。


「またそれか」


母親は黙っている。


「みんな俺に、大丈夫って言う」


母親が答えた。


「悠真も言うでしょ」


悠真が止まる。


「昔から」


母親は息子を見る。


「何聞いても、大丈夫」


「疲れてても、大丈夫」


「困ってても、大丈夫」


少しだけ寂しそうに笑った。


「だから周りも、そう言うようになったんじゃない?」


悠真には、返す言葉がなかった。


時計を見ると、もう二十三時を回っていた。


それでも、悠真は立ち上がれなかった。


しばらくして訊いた。


「美咲に、別れないでって言った?」


母親の表情が一瞬止まった。


それだけで答えになった。


「言ったんだ」


「……うん」


「なんで?」


母親は少し考えてから答えた。


「好きだから」


悠真が眉を寄せる。


「美咲ちゃんのこと」


母親は静かに言った。


「好きだから、別れないでって言った」


「美咲は?」


母親の笑みが消えた。


「何て言った?」


母親は答えなかった。


少し前。


同じ家の、同じキッチン。


美咲は母親の向かいに座っていた。


二人の間には、もう冷めてしまったお茶がある。


四か月前のあの日以来、美咲と母親は時々連絡を取るようになっていた。


最初は体調を気遣う短いメッセージだけだった。


季節が変わる頃には、母親から野菜が届き、美咲から菓子が返ってくるようになった。


悠真の話をすることもあった。


けれど、そのほとんどを悠真は知らなかった。


「別れないで」


母親が言った。


美咲は俯いたままだった。


「私のことなら気にしなくていい」


返事はない。


「悠真にも、帰ってこなくていいって言う」


美咲はゆっくり首を振った。


「違うんです」


「じゃあ、何?」


美咲の目が赤くなる。


あの夜、自分が一人で帰れないと言ったとき、腰の痛みを抱えたまま来てくれた人。


四か月の間、誰にも言えなかったことを、少しずつ聞いてくれた人。


その人の前だからこそ、簡単な嘘はつけなかった。


「私がいると」


美咲は言葉を探した。


「悠真は、自分の人生を選ばないから」


母親が黙る。


「お母さんのことも」


「仕事のことも」


「私のことも」


美咲は一つずつ挙げた。


「全部、自分が何とかしようとするんです」


小さく笑った。


涙が落ちた。


「そのうち」


声が掠れる。


「悠真、壊れちゃうと思うんです」


母親は何も言えなかった。


「だから」


美咲は俯いた。


「私がいなくなった方がいい」


母親は長いこと何も言わなかった。


やがて、静かに訊いた。


「それ、本当に悠真のため?」


美咲が顔を上げる。


母親はそれ以上何も言わなかった。


美咲も答えなかった。


現在。


日付が変わっていた。


時計は零時を少し過ぎている。


悠真は母親の家の玄関に立っていた。


手には、小さな白い靴下が入った紙袋。


母親は、美咲があの日最後まで答えなかったことを口にはしなかった。


ただ、


「帰ったら」


と言った。


悠真が顔を上げる。


「ちゃんと美咲ちゃんの話、聞きなさい」


「……うん」


「今度は」


母親は静かに続けた。


「答えを出そうとしないで」


悠真は何も答えなかった。


紙袋の中にある小さな靴下を見た。


これまでの悠真なら、何をすればいいのか考えただろう。


何を直すのか。


何を解決するのか。


何を諦めればいいのか。


けれどその夜だけは、答えを探すことが正しいのかどうかさえ、もう分からなかった。

別れまで、あと五日。

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