第4話 大丈夫
「大丈夫」は、いつも強さを意味するわけではない。
助けを求める相手が、もう分からなくなった人が口にすることもある。
「……だった?」
悠真は、美咲の言葉を確かめるように繰り返した。
美咲は答えなかった。
産婦人科の前を、仕事帰りの人たちが通り過ぎていく。誰も二人を見ることはない。夕方の街にとって、立ち尽くす男女など珍しいものではなかった。
「だったって……どういう意味?」
さっきよりも声が小さくなる。
美咲は病院の二階を見上げたまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに言った。
「もう、いないから」
悠真は瞬きもしなかった。
「……何が?」
美咲がようやく彼を見る。
「赤ちゃん」
近くの信号が青に変わった。
電子音が鳴り、待っていた人々が一斉に道路を渡り始める。
悠真には、その音がずいぶん遠くから聞こえた。
帰りの電車で、二人は同じ座席の端と端に座った。
けれど、間には一人分の空席があった。
悠真は床を見つめ、美咲は窓の外を見ていた。
一駅過ぎたところで、乗ってきた男が何も知らず、その空席に腰を下ろした。
たったそれだけのことで、二人は完全に分けられた。
美咲はさらに窓の方へ顔を向けた。
悠真は俯いたままだった。
家に着いても、玄関で「ただいま」とは言わなかった。
美咲は靴を脱ぐと、そのままキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
「何か食べる?」
悠真は答えない。
「うどんならあるけど」
「美咲」
冷蔵庫の扉を持ったまま、美咲の動きが止まる。
「いつ?」
「何が?」
「いつ、いなくなった?」
美咲は冷蔵庫を閉じた。
「四か月前」
「それは分かってる」
思っていたより強い声が出た。
悠真自身が、それに驚いた。
「何日?」
美咲はしばらく黙った。
「……十二日」
悠真の顔色が変わった。
覚えている。
その日を。
四か月前の午後二時七分。
美咲は会社のトイレの個室に座っていた。
顔から血の気が引いていた。
手の中にはスマートフォンがある。
悠真の名前を押す。
呼び出し音。
出ない。
一度切る。
数秒待って、また掛ける。
やはり出ない。
「十二日……」
今の悠真は、すでに知っているはずの通話履歴をもう一度開いた。
六件。
指が震えていた。
「これ……」
画面を美咲へ向ける。
「この電話?」
美咲は頷いた。
「うん」
「なんで……」
その先が続かない。
悠真は唇を噛んだ。
「なんで六回も電話して、それで……」
ようやく顔を上げた。
「その後、何も言わなかった?」
美咲は答えない。
「俺、その日の夜、帰ってるよな?」
「帰ってる」
「一緒にいたよな?」
「いたよ」
「じゃあなんで!」
声が部屋に響いた。
美咲の肩がわずかに揺れる。
悠真はすぐに我に返った。
「……ごめん」
俯く。
「ごめん」
同じ言葉を、もう一度口にした。
美咲は食卓の椅子に座った。
しばらく手を膝の上に置いたまま、何も言わなかった。
「最初はね」
やがて、机の木目を見つめながら言った。
「言うつもりだった」
四か月前の朝。
会社の近くにある小さな公園。
美咲はベンチに一人で座っていた。
手には妊娠検査薬。
二本の線。
何度見ても、消えなかった。
最初に浮かんだのは笑顔だった。
そのあと、なぜか涙が出た。
スマートフォンを取り出す。
悠真へ電話を掛けようとして、指を止めた。
代わりにメッセージを送った。
「今日、早く帰れる?」
数分後。
「たぶん無理。どうした?」
美咲は返信欄を開いた。
「話したいことがある」
そこまで打った。
画面を見つめる。
全部消した。
送ったのは、
「何でもない」
だけだった。
「妊娠した時も……」
悠真の声は、ほとんど掠れていた。
「言ってない」
美咲は答えた。
悠真が動かなくなる。
「じゃあ俺……」
喉が詰まった。
「一回も知らなかった?」
美咲は小さく頷いた。
妊娠していたことも。
その命が失われたことも。
悠真にとっては今日、同じ日に初めて知らされた。
「嬉しくなかった?」
美咲がすぐに顔を上げた。
「違う」
「じゃあなんで」
「嬉しかったよ」
初めて、その声が明らかに震えた。
「すごく嬉しかった」
少し間を置く。
「だから怖かった」
あの頃のキッチンが、美咲の中に戻ってくる。
同じ古い鍋。
同じ冷蔵庫。
同じ床。
違うのは、そこに悠真がいなかったことだけだった。
美咲はスマートフォンで何度も検索していた。
妊娠。
仕事。
産休。
出産にかかる費用。
東京の保育園。
貯金。
ページを開いては閉じる。
また別のページを開く。
数字を見る。
条件を見る。
働けなくなる期間を見る。
最後にはスマートフォンを床に置いた。
キッチンの壁にもたれ、座り込む。
手のひらを、まだ何も変わっていない腹部へ添えた。
「どうしようね」
困ったような言葉だった。
けれど、美咲は笑っていた。
今の悠真が言う。
「俺に言えばよかっただろ」
美咲は反論しなかった。
「うん」
その素直な返事が、かえって悠真を苦しくさせた。
「言ってくれたら俺――」
「どうした?」
悠真が止まる。
「え?」
「悠真、どうしてた?」
美咲は責めるようには言わなかった。
それが余計に逃げ場をなくした。
「仕事辞めた?」
悠真は答えない。
「お母さんのところに帰るの、やめた?」
悠真の表情がわずかに変わる。
「私に仕事辞めろって言った?」
「そんなこと言わない」
それだけはすぐに言えた。
「じゃあ、どうした?」
悠真は口を開いた。
しかし、答えが出なかった。
美咲はそれ以上追いつめなかった。
「私も分からなかった」
その言葉だけを残した。
数秒して、悠真の中に別の疑問が浮かんだ。
「待って」
美咲を見る。
「母さんのこと……」
美咲は黙る。
「なんで知ってる?」
返事はない。
「誰から聞いた?」
「それは今、関係ない」
「あるだろ」
「今日はその話したくない」
美咲は立ち上がった。
悠真も立つ。
「俺の知らないこと、あといくつある?」
美咲が止まる。
ゆっくり振り返った。
「悠真は?」
今度は悠真が黙った。
「私が知らないこと、いくつある?」
二人とも答えられなかった。
初めてだった。
どちらか一方が秘密を抱えているのではなく、自分たちは二人とも、相手に見せていない時間を持っている。
その事実だけが、部屋の真ん中に残った。
しばらくして、悠真は座り直した。
「……その日」
声はもう怒っていなかった。
「病院、一人で行ったの?」
美咲は少しだけ躊躇した。
「最初は」
悠真が顔を上げる。
「最初は?」
美咲も、自分が余計なことを言ったと気づいた。
「誰か来た?」
「……あとで」
「誰?」
美咲は答えない。
「家族?」
沈黙。
「友達?」
やはり答えない。
「誰なんだよ」
「今は言いたくない」
悠真の目に、また新しい不安が浮かんだ。
けれど、それ以上は訊かなかった。
美咲は、あの日の続きを話した。
四か月前。
産婦人科の待合室。
美咲はスマートフォンを両手で握っていた。
六度目の発信。
悠真。
呼び出し音が続く。
出ない。
やがて途切れた。
そのとき、看護師が近づいてきた。
「高橋さん」
美咲は顔を上げる。
看護師は少しだけ周囲を見てから訊いた。
「お一人ですか?」
美咲も自分のスマートフォンを見た。
悠真からの連絡はなかった。
画面を消す。
「はい」
その一言だけを答えた。
病院を出た頃には、外はもう暗くなっていた。
美咲は近くのベンチに座った。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
「ごめん、今終わった」
続けて、
「何かあった?」
美咲は、その文字を長いこと見ていた。
返信欄を開く。
「赤ちゃんが――」
そこまで打つ。
指が止まった。
一文字ずつ消した。
最後に送ったのは、
「大丈夫」
だった。
今の悠真は、赤くなった目で美咲を見た。
「なんで……」
ほとんど声にならない。
「なんで大丈夫って言ったの」
美咲も彼を見る。
「……あの日の悠真」
一度、言葉を止める。
「すごく疲れてた」
「そんなの関係ない」
「あるよ」
美咲は初めて強く言った。
「帰ってきた時、顔見たら分かった」
四か月前の夜。
玄関が開いた。
「ただいま」
悠真は、見るからに疲れていた。
美咲はリビングに座っていた。
泣いたあとの目は、まだ少し腫れていた。
それでも悠真は気づかなかった。
鞄を置き、そのまま椅子に座る。
両手で顔を覆った。
「今日、最悪だった」
美咲は口を開きかけた。
「母さんからも電話来るし」
悠真は深く息を吐く。
「会社も訳分かんないし」
それからようやく、美咲を見る。
「美咲は?」
彼女は黙っていた。
「何かあった?」
美咲は悠真の顔を見た。
疲れている顔だった。
困っている顔だった。
これ以上、何かを載せたくないと思った。
少しだけ笑った。
「ううん」
悠真が訊く。
「大丈夫?」
美咲は答えた。
「大丈夫」
その瞬間。
悠真の顔から、ほんの少しだけ緊張が抜けた。
「そっか」
その顔を、美咲はずっと覚えていた。
「その時」
今の美咲の頬を涙が伝った。
「悠真、安心した顔した」
悠真は何も言えなかった。
「だから思った」
声が震える。
「今日は言わない方がいいって」
「次の日言えばよかっただろ」
「うん」
「その次の日でも」
「うん」
「一週間後でも!」
悠真の声が崩れた。
美咲はまた頷いた。
「うん」
その返事に、悠真の感情がとうとう耐えられなくなる。
「じゃあなんで!」
美咲も、初めて声を上げた。
「言えなくなったの!」
部屋が静まり返った。
二人とも、自分の声に驚いたように動かなかった。
美咲は涙を拭いた。
「一日言わなかったら、次の日もっと言いにくくなった」
息を整えながら続ける。
「三日経ったら、なんで三日黙ってたのって思われる」
「一週間経ったら……」
そこで声が途切れた。
「もう、どこから話せばいいか分からなかった」
悠真は俯いた。
反論できる言葉など、もう残っていなかった。
長い沈黙のあと。
「……ごめん」
悠真が言った。
美咲は目を閉じた。
「本当に、ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
悠真は顔を上げた。
「じゃあどうすればいい?」
美咲も彼を見る。
「分からない」
その答えは、責められるより苦しかった。
悠真は急に立ち上がり、キッチンへ向かった。
美咲に背を向けた。
肩がわずかに震えていた。
泣いているところを見せたくないのだと、美咲には分かった。
一歩だけ近づく。
手を上げる。
その背中に触れようとした。
けれど、止まった。
最後まで触れなかった。
二人の距離は一歩もない。
それでも、どちらもその一歩を越えられなかった。
夜が深くなった。
美咲が眠ったあと、悠真は一人でリビングに座っていた。
スマートフォンを開く。
あの日の記録。
六件の未接着信。
十四時七分。
十四時十一分。
十四時二十三分。
十五時二分。
十六時四十八分。
十八時三十六分。
第一の着信を見た瞬間、記憶が戻ってきた。
四か月前。
会議室の外。
スマートフォンが震えている。
表示された名前は、美咲。
悠真は見ていた。
着信を切ったわけではない。
ただ、画面が震え続けるのを見ていた。
やがて止まった。
しばらくして、二度目。
また、美咲。
「佐藤」
上司に呼ばれた。
悠真は顔を上げる。
「はい」
そして、スマートフォンを消音にした。
ポケットへ入れた。
三度目の電話。
悠真は階段の踊り場にいた。
今度こそスマートフォンを取り出した。
親指は、すでに通話ボタンのすぐそばまで来ていた。
その瞬間。
別の着信が割り込んだ。
画面に表示された文字を見て、悠真の表情が変わる。
母。
現在。
暗いリビングで、悠真は六件の着信を見つめていた。
そして、初めて自分の中で認めた。
「……違う」
声が震える。
「気づかなかったんじゃない」
涙が頬を伝った。
「俺……見てた」
四か月前のスマートフォン。
美咲 着信中。
悠真の指は、通話ボタンの上で止まっている。
押さなかった。
その直後。
別の着信。
母。
悠真は、その二文字を見つめていた。
別れまで、あと六日。




