第3話 四か月前
本当に怖いのは、恋人に秘密があることではない。
いつか突然気づくことだ。
あの人がいちばん自分を必要としていたとき、自分は何も知らなかったのだと。
深夜の寝室には、スマートフォンの光だけが浮かんでいた。
日付は、すでに変わっていた。
悠真は四か月前の通話履歴を見つめていた。
美咲 不在着信。
同じ名前が六つ並んでいる。
一件目は十四時七分。
二件目、十四時十一分。
十四時二十三分。
十五時二分。
十六時四十八分。
そして最後は、十八時三十六分。
悠真の指が、その時刻の上で止まった。
十八時三十六分。
あの日、自分は何をしていた。
どこにいた。
記憶の中を探っていく。
最初に浮かんだのは、会社の会議室だった。
四か月前。
上司が一枚の資料を机の上に滑らせた。
「地方支店の話、考えてみないか」
悠真は資料へ目を落とした。
そのとき、机の端に置いていたスマートフォンが震えた。
美咲。
画面に名前が表示されていた。
悠真は一瞬だけ、それを見た。
だが、上司はまだ話している。
今は出られない。
あとで掛け直せばいい。
そう思った。
スマートフォンはしばらく震え続け、やがて静かになった。
数分後、また震えた。
もう一度、美咲。
そのとき上司に名前を呼ばれ、悠真は反射的に端末を伏せた。
それ以上のことは、今の悠真にはまだ思い出せなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
自分は、最初の電話を見ていた。
知らなかったのではない。
少なくとも、電話が来たことだけは知っていた。
それなのに。
その「あとで」が、どこにも残っていない。
悠真はゆっくりスマートフォンを伏せた。
隣では、美咲が背中を向けて眠っている。
手を伸ばせば届く距離だった。
三十センチも離れていない。
けれど今夜は、自分の知らない場所に美咲がいるような気がした。
翌朝、美咲はいつものように朝食を作っていた。
フライパンの上で卵を返そうとして、黄身が崩れた。
「あ」
小さな声が漏れる。
美咲は少し形の崩れた目玉焼きを自分の皿に載せ、きれいに焼けた方を悠真の前へ置いた。
三年間、何度も見てきた光景だった。
「そっちでいいよ」
「いい」
「俺、どっちでもいいし」
「私も」
二人の声が途切れた。
どちらでもいい。
昨日までなら、それだけの言葉だった。
けれど悠真には、その朝だけ少し違って聞こえた。
美咲が席につく。
悠真は無意識に彼女を見ていた。
「何?」
「別に」
美咲は箸を取った。
悠真も味噌汁へ目を落とした。
少ししてから、できるだけ何でもない口調を作る。
「四か月前ってさ」
美咲の箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど今度の悠真は見逃さなかった。
「何してた?」
「急に何?」
「いや。俺たち、何してたかなって」
美咲は目玉焼きを小さく切った。
「覚えてない」
「そっか」
それ以上は訊かなかった。
美咲も何も言わない。
ただ、箸を持つ指に少しだけ力が入っていた。
通勤途中、悠真は駅のホームで、昨夜見つけた病院のウェブサイトをもう一度開いた。
産婦人科。
婦人科。
妊娠に関する相談。
いくつかの文字を眺めているうちに、昨日までばらばらだった記憶が勝手につながり始める。
四か月前。
美咲はある朝、朝食にほとんど手をつけなかった。
「食べないの?」
「ちょっと気持ち悪い」
「風邪?」
「たぶん」
あのときは、それ以上考えなかった。
今になって思えば、何も知らないまま通り過ぎた朝は、きっとあれだけではなかった。
悠真は病院の電話番号を見つめた。
一度、画面を閉じた。
また開く。
結局、電話を掛けた。
「はい、○○レディースクリニックです」
女性の声が聞こえる。
「あの……」
自分でも、何を訊こうとしているのか分からなかった。
「四か月前に、そちらに通っていた人のことで……」
最後まで言う前に、相手は丁寧な声で答えた。
「申し訳ございません。患者様ご本人以外には、診療内容についてお答えできません」
当然だった。
当然すぎる答えだった。
「……そうですよね。すみません」
電話を切る。
ホームを行き交う人の流れの中で、悠真だけがしばらく動けなかった。
昼休み。
悠真はコンビニの外にあるベンチに座っていた。
手にはおにぎりを持っている。
けれど、一口も食べていなかった。
四か月前の美咲とのメッセージを遡る。
当時は何の意味も感じなかった短いやり取りが、今では一つずつ引っかかる。
「今日ちょっと遅くなる」
悠真は、
「了解」
と返している。
二日後。
「晩飯いる?」
「今日はいい」
さらに翌日。
悠真から、
「大丈夫?」
美咲の返事は、しばらくあとに届いていた。
「大丈夫」
悠真の指が止まった。
大丈夫。
昨日の朝、自分も同じ言葉を使った。
――大丈夫。俺がなんとかする。
そのとき美咲は、
――大丈夫って言わないで。
そう言った。
あの表情まで蘇る。
悠真は画面を消した。
まだ何も分からない。
それでも、一つだけ確かなことがあるような気がした。
あの「大丈夫」は、自分が思っていた意味とは違う。
夕方。
美咲が会社を出ると、道の向こう側に悠真が立っていた。
彼女は明らかに驚いた。
「何してるの?」
「迎えに来た」
「今日早いじゃん」
「たまには」
美咲は少し疑うように見る。
「仕事は?」
「終わらせた」
「本当に?」
「疑いすぎ」
悠真が笑うと、美咲も少しだけ笑った。
二人は並んで歩き始めた。
会社のこと。
同僚のこと。
どうでもいい愚痴。
美咲が話し、悠真が相槌を打つ。
以前なら、ただ聞き流していたような話だった。
けれど今日は、美咲がどこで少し笑い、どこで言葉を止めるのかまで、不自然なくらい気になった。
信号で足を止めたとき、隣に若い父親がいた。
腕の中では、小さな子どもが泣いている。
父親は困ったように何度も身体を揺らしていた。
美咲がその様子を見た。
口元が自然に緩む。
そして、すぐに視線を逸らした。
悠真は何も言わなかった。
信号が青になる。
美咲が先に歩き出す。
悠真は一歩遅れた。
「美咲」
彼女が振り返る。
「何?」
訊きたかった。
四か月前、何があった。
けれど、まだ訊けなかった。
「……今日、何食べる?」
美咲は少し考えた。
「鍋」
「また鍋?」
「楽だから」
そう言って歩き出す。
悠真はその背中を一秒だけ見てから、追いついた。
夜。
三年間使っている鍋を挟んで、二人は床に座っていた。
湯気がゆっくりと上がる。
美咲が最後の豆腐を取った。
「あ」
「早い者勝ち」
「それ俺が買った豆腐」
「じゃあ半分」
本当に半分に割って、一方を悠真の器へ入れる。
悠真はその豆腐を見て、なぜか笑った。
「何?」
「いや」
それでも美咲が見ている。
悠真は少し迷ってから言った。
「こういうのも、あと八日なんだなって」
美咲の笑みが少し薄くなった。
「……うん」
「本当に出てくんだ」
「うん」
「もう部屋もある」
「うん」
「仕事も続ける?」
「続ける」
悠真は冗談のように笑った。
「俺だけいなくなる?」
美咲は笑わなかった。
「そういう言い方、ずるいよ」
「……ごめん」
美咲は鍋へ目を落とした。
謝られると、それ以上責めることもできなくなる。
そんな沈黙だった。
食事のあと、悠真が皿を洗った。
水の音を聞きながら、昨夜の財布のことを思い出す。
テーブルの上には、美咲の財布が置かれていた。
もう一度中を見れば、何か分かるかもしれない。
一瞬だけ、そんな考えが浮かんだ。
悠真は水を止めた。
財布を見る。
それから、自分の手を見る。
やがて視線を逸らした。
人の秘密を知りたいと思うことと、勝手に暴いていいことは同じではない。
そう思った。
美咲が風呂から上がると、悠真はベランダに座っていた。
足元にビールが二本。
「寒くない?」
「ちょっと」
美咲も隣に座る。
悠真が一本渡した。
二人で缶を開ける。
小さな音が、夜に重なった。
遠くを電車が走っていく。
「俺たちさ」
悠真が言った。
「結構、何でも話してると思ってた」
美咲はビールを一口飲む。
「そうだね」
「違った?」
美咲はすぐには答えなかった。
「全部話す恋人なんて、いないよ」
「そうかな」
「悠真だって、全部は話してないでしょ」
悠真は彼女を見る。
何も言い返さなかった。
脳裏に、四か月前の会議室が一瞬だけ浮かんだ。
地方支店。
机の上に置かれた資料。
けれど悠真は、そのことを口にしなかった。
美咲も追及しない。
二人の間に、それぞれ違う沈黙が残った。
その夜、美咲が眠ったあとも、悠真は一人でリビングにいた。
引き出しを開けると、そこに指輪の箱があった。
昨日、美咲が言った通り、捨てられてはいなかった。
悠真は触れなかった。
静かに引き出しを閉じる。
それ以上、何かを探すのはやめた。
四か月前に何があったのか。
知りたい。
でも、美咲の持ち物の中から答えを探すのは違う。
悠真はそう思った。
翌朝。
美咲は玄関で靴を履きながら言った。
「今日、遅くなる」
「何時?」
「九時くらい」
「分かった」
美咲は立ち上がる。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
扉が閉じた。
その日の夕方。
悠真は会社を出てから、何度もスマートフォンを見た。
美咲に訊こうかと思った。
四か月前のこと。
病院のこと。
六回の電話のこと。
けれどメッセージ欄を開いても、一文字も打てない。
そのまま駅へ向かった。
ホームに着いたとき、少し離れた場所に美咲の姿が見えた。
いつも使う路線とは違う方へ歩いていく。
悠真は足を止めた。
声を掛けようとした。
けれど、美咲はすでに改札の向こうへ消えていた。
数秒迷ったあと、悠真も同じ方向へ歩き出した。
途中で何度も、自分は何をしているのだと思った。
帰るべきだとも思った。
それでも、四か月前の六件の着信が頭から離れなかった。
美咲が電車を降りる。
静かな住宅街へ向かう。
悠真は距離を空けて歩いた。
自分がしていることが正しいとは思っていない。
むしろ、間違っていると思っていた。
それでも、声を掛ける勇気も、帰る勇気もなかった。
やがて、美咲が立ち止まった。
悠真も足を止める。
目の前にあったのは、昨夜から何度も見ていた名前だった。
○○レディースクリニック。
美咲は中へ入らなかった。
入口の前に立ったまま、二階の窓を見上げている。
長い間。
ただ、それだけだった。
やがて俯いた。
肩がわずかに震える。
悠真は初めて見た。
美咲が、一人で泣いているところを。
声を上げるわけでもない。
誰かに見せるためでもない。
涙を拭いては、また落ちる。
その姿を見た瞬間、四か月前の六件の着信が、ただの数字ではなくなった。
悠真の足が動いた。
「美咲」
彼女の身体が強張った。
勢いよく振り返る。
悠真を見た瞬間、顔に浮かんだのは驚きだけではなかった。
怯えだった。
「……なんで?」
悠真は答えられなかった。
病院の看板を見る。
美咲を見る。
「四か月前」
美咲の顔から血の気が引いた。
「ここ、来た?」
返事はない。
「六回」
美咲が顔を上げる。
「電話」
悠真の声が震え始めた。
「俺に、六回電話してる」
美咲はゆっくり目を伏せた。
街は静かだった。
遠くを自転車が通り過ぎる。
悠真は何度も言葉を探した。
本当は、訊きたくなかった。
答えを聞けば、何かが戻れなくなる気がした。
それでも、もう知らないままにはできなかった。
「……妊娠してた?」
美咲は答えない。
悠真はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
病院。
四か月前。
六件の電話。
気持ちが悪いと言っていた朝。
そのすべてが、一つの形になろうとしていた。
美咲はようやく顔を上げた。
三年間、同じ家で暮らしてきた男を見つめる。
長い沈黙のあと、ほんの少し頷いた。
「……うん」
一度、唇を噛む。
そして言った。
「悠真の子だったよ」
悠真は動かなかった。
一つの言葉だけが、耳に残った。
だった。
「……だった?」
美咲は答えない。
目から涙が落ちた。
その過去形が何を意味するのか。
悠真はようやく気づき始めていた。
「美咲……」
それ以上の言葉は出なかった。
別れまで、あと七日。




