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あと十日だけ  作者: 幕神成


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第2話 指輪

約束が遅すぎたのは、もう欲しくなくなったからではない。


かつて、それをあまりにも強く望んでいたからだ。

鍵が回る音がした。


玄関の扉が開き、悠真が顔を出す。


「忘れた。鞄――」


そこまで言って、声が止まった。


美咲は玄関の床に座っていた。


傍らには倒れた仕事鞄。


そして、その手には小さな指輪の箱があった。


悠真の視線が、美咲の顔から箱へ落ちる。


それから、もう一度彼女を見る。


「……見た?」


美咲は答えなかった。


悠真は部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。


三年間、何百回も出入りしてきた玄関が、その朝だけは妙に狭かった。


美咲は指輪を見たまま訊いた。


「今日だったの?」


少しの沈黙のあと、悠真は答えた。


「……うん」


箱の中にあるのは、派手な指輪ではなかった。


大きな石がついているわけでもない。


けれど、美咲には見覚えがあった。


去年、二人で歩いていたとき、ある宝飾店のショーウィンドウの前でほんの少し足を止めたことがある。


店に入ったわけでもない。


欲しいと言ったわけでもない。


ただ、数秒見ていただけだった。


「これ……」


悠真は少し気まずそうに目を逸らした。


「覚えてた」


「何を?」


「去年、店の前で見てただろ」


美咲は顔を上げた。


自分でも忘れかけていたことだった。


「高いやつは無理だったけど」


悠真は言いながら、どこか言い訳をするように笑った。


「でも、これなら……」


言葉が途中で消えた。


今となっては、その先を口にすること自体が場違いに思えたのだろう。


美咲の目から涙が落ちた。


悠真の表情が固くなる。


「泣くほど嫌?」


「違う」


美咲はすぐに首を振った。


「じゃあ何?」


彼女はしばらく指輪を見ていた。


「嬉しいから」


悠真の眉が寄る。


まるで、分からない言葉を聞いたような顔だった。


「だったら――」


「だから困るの」


美咲は静かに遮った。


その声に怒りはなかった。


だからこそ、悠真には余計に何も言えなかった。


ポケットの中でスマートフォンが何度も震えていた。


悠真が画面を見る。


会社からの連絡だった。


時間を確認して、短く息を吐く。


美咲が言った。


「会社行って」


「今それどころじゃないだろ」


「私は逃げないから」


「九日後には逃げるだろ」


言った直後、悠真自身が顔をしかめた。


美咲も何も言わない。


「……ごめん」


また沈黙が落ちた。


「今日、休む」


「休まないで」


美咲はすぐに言った。


「なんで?」


「仕事だから」


「今、仕事の方が大事?」


その言葉に、美咲の表情がほんの少し変わった。


悠真は気づかない。


彼はすでにスマートフォンを手にしていた。


「大丈夫。俺がなんとかする」


美咲の顔から、わずかに血の気が引いた。


「……大丈夫って言わないで」


悠真が顔を上げる。


「え?」


「何でもない」


美咲は目を伏せた。


それ以上は話さなかった。


結局、悠真は会社へ行くことになった。


玄関で靴を履きながら、指輪の箱を食卓に置いたままにする。


美咲が気づいた。


「これ」


「置いとく」


「持っていって」


「嫌だ」


「悠真」


「捨てるなら、美咲が捨てて」


それだけ言って、悠真は扉を閉めた。


部屋が静かになった。


美咲はしばらく動かなかった。


やがて食卓まで歩き、箱を開く。


指輪は朝の光を受けて、小さく光っていた。


美咲は左手を差し出した。


迷った。


それでも、薬指に通した。


驚くほど、ぴったりだった。


その手を長いこと見つめたあと、美咲は鏡の前に立った。


そこに映っているのは、左手に指輪をつけた自分だった。


それだけで、今とは違う人生を選んだ人のように見えた。


「……似合うじゃん」


思わず笑った。


同時に涙が落ちた。


もし昨日だったら。


もし一か月前だったら。


もし、もっと前だったら。


そんな言葉が頭に浮かびかけて、美咲はすべて飲み込んだ。


指輪を外す。


そして、大切なものを壊さないように扱う手つきで、もう一度箱へ戻した。


夜、悠真が帰宅すると、食卓から指輪が消えていた。


「指輪は?」


キッチンにいた美咲が振り向かずに答える。


「しまった」


「どこに?」


「秘密」


悠真は少しだけ笑った。


「何それ」


「捨ててないよ」


その一言で、悠真の笑顔が止まった。


「そっか」


ただ、それだけだった。


けれど、その三文字だけで少し救われたような顔をしていた。


美咲は彼に背中を向けていた。


だから、その顔を見なくて済んだ。


その日の夕食は、スーパーで半額になっていた揚げ物と千切りのキャベツ、それに味噌汁だった。


「今日、作らなかった?」


「面倒だった」


「珍しい」


「たまにはいいでしょ」


悠真は揚げ物を一つ箸で取った。


「これ、半額?」


「半額」


「じゃあ、うまい」


美咲が笑った。


「何その理屈」


ほんの少しだけ、以前の夜に戻ったようだった。


二人とも、それが嬉しかった。


だからこそ、長くは続かなかった。


食事の途中で、悠真が訊いた。


「いつから?」


美咲の箸が止まる。


「何が?」


「別れようって思ってたの」


「……最近」


「最近って?」


「最近は最近」


悠真はそれ以上追及しなかった。


しばらく黙って食べてから、ぽつりと言う。


「俺さ」


「うん」


「来年くらいにはって思ってた」


何のことか、美咲にはすぐ分かった。


「結婚?」


「うん」


悠真は皿を見たまま言った。


「三年待たせたし」


美咲は少し眉を寄せた。


「待ってないよ」


悠真が顔を上げる。


「一緒にいただけ」


それは責める言い方ではなかった。


むしろ優しかった。


けれど悠真には、その優しさが妙に遠く感じられた。


食後、二人は並んで食器を洗った。


悠真が洗い、美咲が拭く。


一緒に暮らし始めたころ、なんとなくそう決まってから、一度も変わっていない。


悠真が皿を渡す。


美咲が受け取る。


一枚。


二枚。


三枚。


「結婚したかった?」


水の流れる音の中で、悠真が突然訊いた。


美咲の手が止まる。


「俺と」


長い沈黙だった。


「したかったよ」


悠真が何か言おうとする。


だが、美咲はその前に続けた。


「すごく」


手の中の皿を見つめたまま。


「すごく、したかった」


悠真は水を止めた。


その言葉の時制を、聞き逃さなかった。


「今は?」


美咲は答えなかった。


夜、美咲が先に風呂へ入った。


悠真は一人でリビングに残っていた。


食卓の端に美咲の財布が置かれている。


邪魔になりそうだったので、少し動かそうと手を伸ばした。


その拍子に、財布が床へ落ちた。


中身が散らばる。


「最悪……」


悠真はしゃがみ込み、一つずつ拾った。


運転免許証。


キャッシュカード。


ポイントカード。


何枚かのレシート。


その中に、一枚だけ少し古びた紙が混じっていた。


悠真は何気なく拾った。


そして、手が止まった。


上部に病院の名前が印刷されている。


その下にあった文字を、もう一度読む。


産婦人科。


日付は四か月前だった。


胸の奥が、妙にざわついた。


その日付には覚えがあった。


悠真はスマートフォンを取り出し、過去の予定を確認する。


やはりそうだった。


あの日、美咲は帰りが遅かった。


会社で急な残業になった。


そう言っていた。


浴室から聞こえていたシャワーの音が止まった。


悠真は反射的に顔を上げる。


手元の紙を見る。


浴室の扉を見る。


数秒迷った末、レシートを元の場所へ戻した。


何も見なかったように財布を整える。


間もなく浴室の扉が開いた。


美咲が濡れた髪をタオルで拭きながら出てくる。


「次、入っていいよ」


「うん」


美咲が横を通り過ぎようとした。


「美咲」


「ん?」


悠真は彼女を見た。


訊けばいい。


たった一言で済む。


四か月前、どうして産婦人科へ行ったのか。


けれど、その質問だけが口から出なかった。


「……何でもない」


美咲は少し不思議そうに彼を見る。


「変なの」


そう言って、寝室へ入っていった。


深夜。


隣では、美咲が静かに眠っていた。


悠真だけが目を開けていた。


スマートフォンを手に取り、さっき見た病院の名前を検索する。


表示された診療案内を読む。


婦人科。


産科。


その先に並ぶ文字の一つで、指が止まった。


妊娠相談。


悠真は画面を消した。


けれど、一度生まれた考えまで消えてはくれなかった。


四か月前の朝が、不意に蘇った。


美咲は食卓の前に座っていた。


朝食にはほとんど手をつけていなかった。


「食べないの?」


「ちょっと気持ち悪い」


悠真はネクタイを締めながら彼女を見た。


「風邪?」


「たぶん」


水を一杯、テーブルに置いた。


「無理すんなよ」


それだけ言って、仕事へ出た。


あのときは、それ以上考えなかった。


今になって、その些細な朝が違う意味を持ち始める。


悠真は再びスマートフォンを手にした。


四か月前の日付まで遡る。


そして通話履歴を開いた。


指が止まった。


美咲 不在着信。


その下にも。


美咲 不在着信。


さらに、その下にも。


一つ。


二つ。


三つ。


六件あった。


悠真はしばらく画面から目を離せなかった。


「……六回?」


声にならないほど小さく呟く。


隣では、美咲が眠っている。


四か月前。


彼女は一人で産婦人科へ行った。


そして、その日に六回、自分へ電話をかけていた。


なのに自分は、その理由を知らない。


悠真は暗い部屋の中で、美咲を見つめた。


頭の中に浮かびかけた言葉を、最後まで考えることができなかった。


まだ、訊くのが怖かった。

別れまで、あと八日。

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