第1話 あと十日
人が離れることを決めるのは、愛がなくなったからとは限らない。
ただ、残るための理由を、もう何度も考えすぎてしまっただけなのかもしれない。
東京の夜を、通勤電車が走っていた。
時刻は二十二時四十七分。車内には一日の疲れをそのまま持ち込んだような人々が並び、誰もがスマートフォンを見つめるか、窓にもたれて目を閉じている。佐藤悠真もその一人だった。朝にはきちんと締めていたネクタイは少し緩み、肩に掛けた仕事鞄がいつもより重く感じられた。
スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
「今日、カレー。」
続いて、鍋いっぱいのカレーの写真が届く。見た目は決して悪くない。ただ、写真越しでも分かるくらい、人参が多かった。
「にんじん多すぎた。」
悠真はしばらく画面を見つめ、それから小さく笑った。
「今から帰る。」
送信すると、数秒もしないうちに返事が来た。
「お疲れさま。」
たったそれだけのやり取りだった。それでも、一日の終わりに帰る場所があることを、悠真はこういう瞬間に感じていた。
スマートフォンをしまおうとして、指先が鞄の内側にある硬いものに触れた。
小さな箱だった。
悠真は一度だけ、その感触を確かめた。
取り出しはしなかった。
電車は何事もなかったように、次の駅へ滑り込んでいった。
二十三時十六分、悠真は三年間暮らしてきた部屋の玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
美咲の声はキッチンから聞こえた。
迎えに来ることも、抱きしめることも、キスをすることもない。それを寂しいと思わなくなってから、もうずいぶん経つ。三年一緒に暮らした二人にとって、「おかえり」が返ってくること自体が、いつの間にか親密さの形になっていた。
靴を脱ぎながら、悠真は玄関の端に置かれた一足のパンプスに気づいた。美咲がずいぶん前に買ったものだった。
「それ、履いた?」
キッチンから美咲が顔を出した。
「まだ」
「買って何か月だよ」
「そのうち履く」
悠真は笑った。
「そのうちって、いつ?」
ほんの一瞬、美咲の表情が止まった。
「……そのうち」
悠真はもう靴を脱いでいた。
だから、その短い沈黙に気づかなかった。
小さな食卓には、二人分のカレーとスーパーで買ったサラダ、それから缶ビールが二本並んでいた。テレビでは深夜のバラエティ番組が流れている。
悠真はカレーをひと口食べ、少しだけ動きを止めた。
「何?」
「にんじん、多い」
美咲が眉を寄せる。
「だから言ったじゃん」
「でも、うまい」
「何それ」
呆れたように言いながら、美咲もカレーを口に運んだ。その口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。
テーブルの下で、悠真の足が美咲の足先に触れた。
どちらも避けなかった。
そんな夜だった。
特別なことなど何もない。
だからこそ、幸福だったと言ってもよかった。
「土曜日、休み?」
悠真が訊いた。
「うん」
「じゃあ、どっか行く?」
「どこ?」
「久しぶりに鎌倉とか」
美咲はスプーンを持ったまま、悠真を見た。
少しだけ長い沈黙のあと、
「……いいね」
と言った。
「決まり」
「雨だったら?」
「その時考える」
悠真は何でもないことのように食事を続けた。
美咲だけが、まだ彼を見ていた。
「悠真」
「ん?」
「話がある」
悠真は口の中のものを飲み込みながら笑った。
「怖い言い方すんなよ」
美咲は笑わなかった。
その顔を見て、悠真はゆっくりとスプーンを置いた。
テレビの向こうでは、誰かの冗談に大勢が笑っていた。
「十日後」
美咲は自分の皿を見たまま言った。
悠真は続きを待った。
「この家、出るね」
「……どこに?」
「もう部屋、決めた」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「何それ」
悠真は笑った。
美咲は笑わなかった。
そのせいで、悠真の笑みも消えた。
「え?」
美咲はようやく顔を上げた。
「別れよう」
テレビから、また笑い声が聞こえた。
悠真はリモコンを取り、テレビを消した。
部屋に残ったのは、冷蔵庫の低い作動音だけだった。
「待って」
悠真は身を乗り出した。
「何の話?」
「そのままの意味」
「いや、だから……」
言葉が続かなかった。
頭の中で、今日までの日々を急いで遡った。喧嘩をしただろうか。約束を忘れただろうか。何か、取り返しのつかないことをしただろうか。
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ、好きな人できた?」
「いない」
「仕事?」
美咲は首を横に振った。
「お母さん?」
その瞬間、美咲の指がわずかに止まった。
「違う」
悠真は気づかなかった。
「じゃあ何?」
美咲は答えない。
「何もないのに別れるって、おかしいだろ」
思ったより強い声が出た。
美咲はしばらく黙っていた。
「何もなくないよ」
静かな声だった。
その一言だけで、悠真は何も言えなくなった。
美咲は部屋を見回した。
冷蔵庫にはスーパーの割引券がマグネットで留められている。壁際には二人で選んだ掃除機。ベランダには悠真のワイシャツと自分の靴下。シンクには、三年前から使っている鍋が水につけられたままになっていた。
二人で暮らした時間は、思い出よりも先に、こういうものに染み込んでいた。
「私たち、このまま結婚したら」
悠真の表情が止まった。
「いつか私、悠真のこと嫌いになると思う」
今度こそ、悠真の顔からすべての余裕が消えた。
「悠真も」
美咲は一度、息を吸った。
「私のこと、嫌いになる」
「……何で結婚の話になるんだよ」
「例えばの話」
「俺は嫌いにならない」
「分からないよ」
「分かるよ」
「分からない」
「じゃあ、美咲は俺のこと嫌いなの?」
美咲は答えなかった。
「嫌い?」
もう一度訊いた。
美咲の目がゆっくりと赤くなった。
それなのに、彼女は少しだけ笑った。
「……好きだよ」
悠真は息を止めた。
「まだ」
その一言は、「嫌い」と言われるよりもずっと残酷だった。
悠真は立ち上がり、キッチンへ行った。冷蔵庫を開けた。
何を取りたかったのか、自分でも分からない。
何も取らずに閉めた。
「意味分かんない」
「うん」
「好きなのに別れる?」
「うん」
「十日後?」
「うん」
悠真は振り返った。
「なんで十日?」
美咲は答えず、壁のカレンダーを見た。
十日後の日付に、小さな丸がついていた。
理由を訊こうとした。
けれど、その前に美咲が言った。
「それまでは……普通にいよう」
悠真は思わず笑いそうになった。
笑えるはずもないのに。
「無理だろ」
「……そうだね」
その夜、二人は同じベッドに入った。
背中を向け合えば、その間は三十センチもなかった。
悠真には、それが三年間でいちばん遠い距離に思えた。
「美咲」
返事はない。
「寝た?」
やはり返事はなかった。
それでも悠真は暗闇に向かって言った。
「俺、直すから」
美咲の目が開いた。
「悪いところあるなら、直す。だから教えて」
背中を向けたまま、美咲は何も言わなかった。
目尻から一筋だけ涙が落ち、枕に吸い込まれた。
「そういうところ」
悠真は瞬きをした。
「え?」
「……おやすみ」
それ以上、美咲は何も言わなかった。
悠真も訊けなかった。
翌朝、美咲が目を覚ますと、隣は空いていた。
キッチンから鍋の音がする。
部屋を出ると、悠真が味噌汁を作っていた。
「味噌汁」
「今日、早いんじゃないの?」
「まだ大丈夫」
美咲の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
悠真は気づかない。
昔からそうだった。
彼は「大丈夫」と言うのが上手だった。
自分が大丈夫ではないときほど。
「熱いから気をつけて」
味噌汁を美咲の前に置く。
昨夜のことなどなかったような朝だった。
だから美咲には、余計につらかった。
玄関で靴を履き、悠真はいつもの声で言った。
「行ってきます」
美咲は少し遅れて、
「……行ってらっしゃい」
と返した。
扉が閉まる。
部屋から悠真がいなくなった。
美咲はしばらく玄関に立っていた。
そのとき、足元に置かれた黒い仕事鞄が目に入った。
「……忘れてる」
こんな日まで。
美咲は思わず苦笑し、鞄を持ち上げた。
ファスナーが完全には閉まっていなかった。
傾いた鞄の口から、小さな箱が落ちた。
乾いた音が玄関に響いた。
美咲の動きが止まった。
見覚えのない箱だった。
拾い上げる。
しばらく迷ってから、蓋を開けた。
指輪が入っていた。
美咲は動けなくなった。
昨夜、自分が言った言葉が、一つずつ頭の中に戻ってくる。
――別れよう。
――十日後、この家を出るね。
そして、土曜日の鎌倉の話をしたときの悠真の顔を思い出した。
何でもないように笑っていた。
美咲の指が震えた。
その頃、駅へ向かっていた悠真は、肩が妙に軽いことに気づいた。
数歩進んでから立ち止まる。
「……鞄」
踵を返した。
そして、走り出した。
玄関で、美咲はまだ指輪を見つめていた。
涙が一滴、箱の縁に落ちた。
一方、階段を駆け上がりながら、悠真は昨夜から何度も考えないようにしていたことを、とうとう思い出してしまった。
本当なら今日、渡すつもりだった。
三年間の続きを、一緒に生きてほしいと伝えるつもりだった。
玄関の向こうで、美咲が泣いていることを、悠真はまだ知らない。
そして美咲もまた、なぜ自分が別れを選んだのか、そのすべてをまだ彼には話していなかった。
別れまで、あと九日。




