第10話 最後のデート
恋がいちばん残酷なのは、喧嘩をしている時でも、別れを告げる時でもない。
ようやく二人が、ちゃんと愛する方法を覚えた日に限って。
それが、最後の日だったりする。
電車がホームへ滑り込んだ。
扉が開き、人の流れが一斉に車内へ向かう。
悠真と美咲は、まだ手を繋いだままだった。
混み始めた車内で、二人はそのまま扉の脇へ押し込まれる。
悠真が訊く。
「で?」
美咲が見る。
「何?」
「どこ行くの」
美咲は路線図を見上げた。
「悠真決めて」
「さっき、決めないデートって言ってなかった?」
「今決めれば予定じゃない」
悠真は呆れたように彼女を見る。
「その理屈ずるくない?」
美咲が笑う。
「早く」
悠真も路線図を見る。
少し考えたあと。
「じゃあ」
美咲が待つ。
「最初に行ったとこ」
その言葉に、美咲の笑みが一瞬止まった。
「覚えてる?」
「さすがに」
「店の名前は?」
悠真が黙る。
美咲がすぐ笑った。
「ほら」
「場所は覚えてる」
「減点」
「厳しくない?」
扉が閉まった。
電車がゆっくり動き出す。
三年前、二人が初めて正式にデートらしいデートをしたのは、観光地でも有名な店でもない、ごく普通の商店街だった。
電車を降りて、少し歩く。
美咲が途中で足を止めた。
「……ない」
悠真も同じ場所を見る。
「ないな」
二人が初めて入った小さなカフェは消えていた。
代わりに、明るい看板のドラッグストアが入っている。
「ここだったよね?」
「たぶん」
美咲が見る。
「たぶん?」
悠真はすぐ言い直した。
「絶対」
美咲は新しい看板を見上げた。
「なくなっちゃった」
悠真は何も言わなかった。
三秒ほどして、
「三年だしな」
とだけ言う。
「三年か」
二人はしばらく、その場所に立っていた。
買い物袋を持った人が前を通り過ぎる。
自転車が走る。
誰も、そこに以前何があったかなど気にしない。
まして、三年前にその店の中で緊張しながら向かい合っていた二人のことなど、知るはずもなかった。
歩き始めてから、悠真が訊く。
「何飲んだか覚えてる?」
「カフェラテ」
「俺は?」
美咲は考えもしない。
「アイスコーヒー」
「すげ」
「悠真、冬でもそれじゃん」
「そうだっけ」
「そう」
少し歩いたあと、美咲が思い出したように言う。
「あと」
「何?」
「緊張しすぎて、ストローの袋ずっと折ってた」
悠真が止まる。
「俺?」
「うん」
「嘘」
「本当」
「覚えてない」
美咲は笑った。
「私は覚えてる」
悠真は、その背中を少し見つめた。
「そういうの」
美咲が振り返る。
「何?」
悠真は一度、
「何でもない」
と言いかけた。
それから自分で少し笑う。
「……いや」
美咲が待つ。
「そういうの、覚えてくれてるの」
少し照れながら言った。
「嬉しい」
美咲が目を瞬いた。
そして、小さく笑う。
「……うん」
少し間を置いて。
「私も」
二人は商店街のコンビニへ入った。
悠真は迷わずアイスコーヒーを取る。
美咲が横から見る。
「本当に冬でも飲むよね」
「今日は冬じゃない」
「そういう問題じゃない」
美咲は温かいカフェラテ。
レジの横に肉まんが並んでいた。
悠真が見る。
「食べる?」
「いらない」
「本当に?」
「いらない」
悠真は一個だけ買った。
店を出て三十秒もしないうちに、美咲が言う。
「一口」
悠真が振り返る。
「ほら」
「一口だけ」
差し出す。
美咲は思ったより大きくかじった。
悠真が肉まんを見る。
「それ一口?」
美咲はまだ口の中に入れたまま言う。
「一口」
「半分ないんだけど」
美咲が笑う。
悠真も笑った。
二人は、そのまま河川敷まで歩いた。
ベンチに座り、美咲はカフェラテを飲む。
悠真は残された半分ほどの肉まんを食べる。
目の前を、三人家族が通った。
小さな子どもが補助輪のついた自転車を漕いでいる。
少し後ろを歩く母親が声を掛けた。
「ゆっくり!」
美咲の目が、その子どもを追った。
悠真も見た。
二人の間から会話が消える。
今日初めて、触れないと決めたものが勝手に目の前へ現れた。
美咲が先に視線を外す。
悠真は、以前のように何もなかったふりをしなかった。
ただ訊いた。
「寂しい?」
美咲が少し驚いた顔をする。
しばらくして、
「……うん」
と答えた。
悠真も頷く。
「俺も」
それだけだった。
元気づけない。
意味を探さない。
二人はそのまま川を見た。
風が水面を細かく揺らしていた。
少しして、美咲が言う。
「ねえ」
「うん」
「もし」
悠真が見る。
「今日が普通のデートだったら」
美咲は川の方を見たまま訊いた。
「次、どこ行く?」
悠真は少し考えた。
「映画」
「何見る?」
「適当に」
美咲がすぐ言う。
「また寝るじゃん」
「寝ない」
「前寝た」
「仕事忙しかった」
「言い訳」
悠真が笑う。
「じゃあ美咲は?」
美咲は考えた。
「家具見たい」
「デートで?」
「楽しいじゃん」
「買わないのに?」
「買わなくても楽しい」
悠真は立ち上がった。
「じゃあ行く?」
美咲が見上げる。
「今日?」
「うん」
少しして、美咲も立った。
「行く」
家具店の中で、二人は何の目的もなく歩いた。
美咲が大きなソファへ座る。
「これいい」
悠真は値札を見る。
「無理」
「買わないよ」
「じゃあ座るなよ」
「座るのは無料」
悠真も隣へ座った。
身体が深く沈む。
「これ寝れる」
「ソファで寝ないで」
「まだ買ってない」
「買っても寝ないで」
悠真は反射的に、
「はいはい」
と答えた。
その瞬間。
二人とも少し止まった。
買っても。
その言葉の先に、二人で新しいソファを買う未来はなかった。
美咲が先に立ち上がる。
「次」
何もなかったように歩き出す。
悠真も追った。
食器売り場。
美咲が二つのマグカップを手に取った。
白と、濃い色。
「どっち?」
「黒」
「じゃあ私、白」
言ったあと。
二人とも止まった。
以前なら、それで終わった。
一つは悠真。
一つは美咲。
それが当たり前だった。
美咲は何も言わず、二つとも棚へ戻した。
悠真も何も言わずに歩き出す。
数歩進んだところで、足を止めた。
戻る。
白いマグカップを一つ取る。
美咲が見る。
「何してるの?」
「買う」
「なんで?」
「美咲の新しい部屋」
美咲は首を振った。
「いらない」
「一個しかなかったから」
「一人だから一個でいいの」
「客来るだろ」
「来ない」
「母さん来るかも」
美咲が止まる。
悠真は少し笑った。
「俺じゃないよ」
少し間を置く。
「母さん」
美咲も笑ってしまった。
「来そう」
「だろ?」
結局、買った。
白いカップを一つだけ。
昼食は、小さな定食屋に入った。
食事の途中、悠真が何気なくスマートフォンを見る。
十一時四十八分。
美咲が気づいた。
「時間気にしない」
「引っ越し何時?」
「二時」
悠真の手が止まる。
あと二時間ほど。
美咲は手を伸ばし、悠真のスマートフォンを裏返した。
「だから見ない」
「今日は、時間見たら負け」
悠真が笑う。
「何に?」
「知らない」
「じゃあ負けない」
悠真もスマートフォンを少し遠くへ置いた。
食事を終えて外へ出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「行きたいとこある」
「どこ?」
「ここからなら、そんなに遠くない」
美咲が見る。
「間に合う?」
悠真は腕時計もスマートフォンも見なかった。
「時間見たら負けなんだろ」
美咲が笑う。
「そうだった」
電車に乗った。
美咲は何度も訊いた。
「どこ?」
「まだ」
「教えて」
「着いたら」
美咲が笑う。
「こういうサプライズ下手だよね」
「知ってる」
「顔に出るし」
「知ってる」
「今も緊張してる」
悠真が窓の外を見る。
「うるさい」
美咲は楽しそうに笑った。
でも、その通りだった。
悠真は緊張していた。
上着のポケットに、何度か手を入れる。
そこには何もない。
指輪は家に置いてきた。
忘れたのではない。
今日は、持ってこなかった。
二人が降りたのは、海の近くにある小さな公園だった。
有名な観光地ではない。
人も多くない。
遠くに橋と海が見える。
美咲が足を止める。
「ここ……」
「うん」
半年前、一度だけ通ったことがあった。
その時、悠真は、
「ここ、夜きれいそう」
と言った。
それだけだった。
「なんでここ?」
悠真はすぐには答えなかった。
二人で海側の柵まで歩く。
風が強い。
美咲の髪が顔にかかる。
悠真が笑った。
「髪」
「分かってる」
美咲は何度か直そうとする。
余計に乱れる。
最後には諦めた。
「もういい」
「うん」
悠真が言う。
「その方が美咲っぽい」
「どういう意味?」
「そのまま」
「悪口?」
「褒めてる」
少しして。
悠真の表情が変わった。
海を見たまま、言う。
「ここだった」
美咲が見る。
「何が?」
「指輪」
美咲の笑みがゆっくり消える。
「ここで渡すつもりだった」
風の音だけが残った。
「飯予約して」
悠真は少し恥ずかしそうに続ける。
「そのあと歩いて」
「ここ来て」
「普通に」
美咲を見る。
「結婚してくださいって言うつもりだった」
美咲の目が赤くなる。
しばらくして、訊いた。
「……今日、持ってる?」
悠真は彼女を見る。
そして首を振った。
「持ってない」
美咲は少し驚いた顔をした。
「持ってきたら」
悠真は海を見る。
「たぶん俺、渡すから」
美咲の目から涙が落ちる。
「渡したら、美咲困るだろ」
美咲は何も言わない。
「だから置いてきた」
その言葉を聞いて、美咲は泣きながら少し笑った。
「……成長したじゃん」
悠真も笑う。
「十日で」
「遅い」
「知ってる」
二人とも笑った。
でも美咲の涙は止まらなかった。
しばらくして。
悠真が言う。
「でも」
美咲が見る。
「一個だけ聞いていい?」
「何?」
悠真は迷った。
「もし」
一度、息を吸う。
「あの日」
美咲の表情が変わる。
「美咲が別れようって言わなくて」
「俺がここで指輪渡してたら」
声が少し震える。
「どうしてた?」
美咲は何も言わなくなった。
海を見る。
長い時間。
やがて、
「たぶん」
と口にした。
悠真の呼吸が止まる。
「受け取ってた」
悠真の目が赤くなる。
「嬉しかったと思う」
美咲は泣きながら笑った。
「泣いたと思う」
少し想像するように続ける。
「お母さんにも電話したと思う」
悠真は俯いた。
「それで」
美咲の声が小さくなる。
「結婚してたと思う」
悠真はしばらく動かなかった。
「……そっか」
美咲は続ける。
「でも」
悠真が顔を上げる。
「だから」
美咲は涙を拭った。
「別れようって言った」
悠真は、その言葉の意味を考えた。
そしてようやく分かった。
もし、あと一日遅かったら。
もし、指輪を先に見せられていたら。
美咲はきっと頷いていた。
好きだったから。
そしてそのまま、二人とも止め方が分からない人生へ進んでいた。
「好きなのに?」
悠真が訊いた。
美咲は頷く。
「好きだから」
悠真は泣きながら少し笑った。
「それ、ずるいな」
「うん」
「何でもそれで説明できる」
美咲も泣きながら笑った。
「便利でしょ」
悠真も笑った。
そして、笑いながら泣いた。
二人とも抱きしめなかった。
美咲も近づかなかった。
ただ、海の前に並んで立った。
同じ風の中で。
それぞれ泣いた。
帰りの電車。
美咲は疲れて、また悠真の肩で眠っていた。
悠真は動かない。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
一度。
少しして、もう一度。
以前なら、誰からか確認した瞬間に立ち上がるような気持ちになったかもしれない。
今回は、少し待った。
美咲が目を覚ます。
「電話」
「うん」
「出なくていいの?」
悠真は少し考えた。
「出る」
スマートフォンを見る。
母。
悠真は電話を取った。
「もしもし」
母親が訊く。
「今、大丈夫?」
悠真は一瞬止まった。
隣の美咲を見る。
そして言う。
「今、美咲といる」
電話の向こうが少し静かになる。
「そっか」
母親はそれだけ言った。
「じゃあ、またでいい」
「うん」
悠真は続ける。
「夜、俺から電話する」
「分かった」
通話を切る。
その少しあと、美咲のスマートフォンも震えた。
画面を見る。
引っ越し業者からだった。
美咲は一瞬だけ悠真を見る。
それから電話に出る。
「はい、高橋です」
少し話を聞く。
「すみません。今、戻っています」
時計は見なかった。
「はい。もう少しで着きます」
通話を切る。
二人とも、何も言わなかった。
悠真は窓の外を見る。
さっきまで見ないことにしていた時間が、向こうから追いついてきたような気がした。
駅に着く。
二人は家まで歩いた。
悠真が訊く。
「楽しかった?」
「うん」
「ちゃんと言うんじゃなかった?」
美咲が笑った。
それから少し真面目な顔になる。
「楽しかった」
悠真も答える。
「俺も」
数歩。
美咲が言った。
「寂しい」
悠真の足が少し遅くなった。
「俺も」
それ以上は言わなかった。
アパートまであと少し。
美咲が急に立ち止まる。
「悠真」
「ん?」
「ありがとう」
悠真が少し笑う。
「今日?」
美咲は首を振った。
「三年」
悠真の笑みが消える。
その言葉が何を意味するのかは、分かった。
でも、まだ受け取りたくなかった。
「まだ」
悠真は前を見る。
「家着いてない」
美咲の目が赤くなる。
「……うん」
「だから、まだ言わなくていい」
少しして。
「分かった」
二人はまた歩き出した。
角を曲がる。
アパートの前に、小型の引っ越しトラックが停まっている。
作業員が二人、荷台の準備をしていた。
一人が美咲に気づく。
近づいてくる。
「高橋様ですか?」
美咲はすぐには答えなかった。
悠真は隣に立っている。
手には、今日買った白いマグカップの入った袋。
作業員がもう一度確認する。
「十四時からのお引っ越しで伺いました」
悠真は反射的にスマートフォンを取り出した。
画面を見る。
十四時六分。
数秒、見つめる。
今日の約束を思い出す。
時間を見たら負け。
悠真は小さく笑った。
目はもう赤かった。
「……負けた」
美咲は俯いた。
涙が落ちた。
作業員は少し困ったように二人を見る。
「あの……」
美咲は手の甲で涙を拭った。
一度、深く息を吸う。
そして、ようやく言った。
「はい」
少しだけ声が震えた。
「高橋です」
悠真は隣にいた。
止めなかった。
「あと五分」とも言わなかった。
「俺が何とかする」とも言わなかった。
ただ、アパートの入口へ先に歩き、扉を開けた。
美咲がその横を通る。
一瞬だけ、目が合った。
悠真が言う。
「行こう」
美咲は頷いた。
「うん」
二人で階段へ向かった。
今日一日、恋人として出かけた二人が。
今度は一緒に、美咲の荷物を外へ運ぶために。
今日。




