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あと十日だけ  作者: 幕神成


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第11話 引っ越し

本当の別れは、「さよなら」を口にすることではない。


昨日まで二人のものだった日常を、今日から一つずつ、誰のものにするのか決めていくことだ。

玄関の扉が開いた。


「失礼します」


引っ越し業者の作業員が二人、部屋へ入ってくる。


悠真は邪魔にならないよう壁際へ寄った。


美咲はすでにまとめてあった段ボールを指す。


「この箱からお願いします」


作業員が確認しながら、一つずつ運び始める。


「こちらは?」


「持っていきます」


「これは?」


「置いていきます」


悠真は少し離れた場所から、そのやり取りを聞いていた。


持っていく。


置いていく。


たった二つの言葉だった。


三年間一緒に暮らした生活が、最後にはそのどちらかに分けられていく。


作業員がテレビを指した。


「テレビはどうされますか?」


美咲が答える。


「置いていきます」


悠真が横から言った。


「持ってけば?」


美咲が振り返る。


「新しい部屋、狭いから」


「でも美咲の方が見るじゃん」


「悠真も見るでしょ」


「ニュースくらい」


「じゃあ必要じゃん」


「ニュース、スマホで見れるし」


作業員が二人の間で困ったように立っている。


「……こちらは、どうされますか?」


悠真と美咲が同時に言った。


「置いていきます」


声が重なった。


一瞬、二人とも顔を見合わせる。


それから少し笑った。


作業員も事情を知らないまま、曖昧に笑った。


箱が一つずつ部屋から消えていく。


本棚に空白ができる。


クローゼットの半分が空になる。


洗面所には、今まで二本並んでいた歯ブラシがあった。


美咲が自分の一本を取る。


コップの中には、悠真のものだけが残った。


悠真は洗面所の入口からそれを見ていた。


鏡越しに美咲が気づく。


「何?」


「いや」


少し考えてから言う。


「広いなって」


美咲は小さな洗面台を見る。


「狭いよ」


「昨日まで狭かった」


美咲は何も言わなかった。


キッチンへ移る。


作業員がシンクの近くに置かれた鍋を見た。


「こちらの鍋は?」


悠真と美咲が同時に、その鍋を見る。


三年前から使っている。


少し焦げた跡がある。


取っ手も新品の頃より色が褪せている。


美咲が口を開く。


「……置いて――」


その瞬間、悠真も言った。


「持って――」


二人とも止まった。


作業員も止まる。


美咲が思わず笑う。


「何で?」


「新しいの、小さすぎ」


「一人ならあれでいい」


「パスタ折るんだろ」


「折るよ」


悠真は本気で嫌そうな顔をする。


「それ嫌なんだよ」


「そこ、そんな大事?」


「大事」


美咲が鍋の取っ手に触れた。


「これ、悠真が買ったんだっけ?」


「違う」


悠真は少し考える。


「美咲」


「私?」


「一緒に住み始めた日」


美咲の記憶も少しずつ戻った。


三年前。


まだこの家に、ほとんど何もなかった頃。


二人でスーパーへ行った。


鍋もない。


皿もない。


調味料もない。


美咲が一番安い鍋を手に取った。


悠真が言った。


「それ、すぐ壊れるよ」


美咲は笑った。


「壊れたら買えばいいじゃん」


現在。


美咲は古くなった鍋を見る。


「壊れなかったね」


悠真も見る。


「うん」


「三年」


「意外と丈夫」


美咲は少し笑った。


そして取っ手から手を離した。


「じゃあ、置いてく」


「いいの?」


「うん」


少し間を置く。


「悠真、パスタ折るの嫌いだから」


悠真は笑った。


でも、目は少し赤かった。


寝室では、作業員がベッドの解体を始めていた。


ベッドだけは、引っ越しの申し込みをした時に、処分も一緒に頼んであった。


悠真と美咲は入口に並んで立つ。


この三年間、毎晩のようにここで眠った。


具合が悪い夜も。


くだらないことで笑った夜も。


抱きしめた夜も。


背を向けた夜も。


そして十日前。


三十センチにも満たない距離が、どうしようもなく遠く感じられた夜も。


作業員が確認する。


「こちらのベッドは、処分でお預かりするものでよろしいですか?」


「はい」


美咲が答える。


悠真が横を向く。


「捨てるの?」


「悠真一人には大きいでしょ」


「使えるけど」


「新しいの買いなよ」


「もったいない」


美咲が呆れたように見る。


「こういう時まで?」


悠真も少し笑う。


「高かったんだよ」


「知ってる」


やがてベッドは運び出された。


何もなくなった寝室に、二人だけが残る。


悠真が小さく声を出した。


「声、響く」


美咲も周りを見る。


「ほんと?」


悠真が少しだけ悪戯っぽく、


「美咲」


と呼んだ。


空っぽの部屋に、わずかに声が返る。


「やめて」


美咲が笑う。


悠真はもう一度呼んだ。


「美咲」


「やめてって」


悠真も笑った。


三度目。


口を開いた。


けれど、名前は出なかった。


もうすぐ、この部屋でその名前を呼ぶ相手がいなくなる。


そう思った瞬間、急に声にできなくなった。


リビングには、最後のいくつかの箱だけが残った。


美咲がしゃがみ込み、引き出しの中を確認する。


悠真も隣で手伝う。


そのとき、小さな箱が奥から落ちた。


乾いた音。


二人の手が同時に止まった。


指輪の箱だった。


美咲が見る。


悠真も見る。


すぐには、どちらも手を伸ばさなかった。


最後に、美咲が拾った。


しばらく手の中に置いてから、悠真へ差し出す。


「これ」


悠真は受け取らない。


「美咲が持ってて」


美咲は首を振った。


「持ってけない」


「なんで」


美咲は箱を見る。


「これ持って新しい部屋に行ったら」


少し言葉を探す。


「私、何のために出ていくのか分からなくなる」


悠真は、それ以上言わなかった。


手を伸ばし、箱を受け取る。


蓋を開けた。


指輪は、十日前と同じ場所にあった。


悠真は長いこと見ていた。


そして、少し迷ってから言う。


「一回」


美咲が見る。


「え?」


「一回だけ、つけて」


美咲の表情が止まった。


悠真はすぐに続ける。


「嫌ならいい」


頼んだだけだった。


決めるのは美咲に任せた。


美咲は指輪を見つめる。


しばらくして、左手を差し出した。


悠真は彼女の指にはめなかった。


指輪を美咲の掌へ置く。


美咲は自分で、薬指へ通した。


ぴったりだった。


二人は、しばらくその手を見ていた。


求婚はなかった。


約束もなかった。


ただ、本来ならそこにあったかもしれない未来だけが、一瞬形になった。


「やっぱり」


美咲が言う。


「何?」


美咲は泣きながら少し笑った。


「似合う」


悠真も笑う。


「知ってる」


「自分で言う?」


「選んだの俺だし」


少しだけ、いつもの二人に戻った。


数秒後。


美咲はゆっくり指輪を外した。


箱へ戻す。


そして悠真の方へ押した。


「ありがとう」


悠真は指輪を見る。


言おうと思えば、言えた。


本当にこれでいいのか。


まだ戻れるんじゃないか。


一度だけ考え直してくれないか。


けれど、どれも言わなかった。


箱を閉じる。


「うん」


やがて作業員が最後の箱を運び終えた。


その時、美咲は食卓の端に残っていた小さな紙袋へ目を向けた。


一度手に取る。


袋の中を見たあと、ほんの少しだけ迷った。


悠真は別の箱を作業員へ渡していて、その様子には気づかなかった。


美咲は紙袋を自分の荷物には入れず、静かに元の場所へ戻した。


「こちらで以上になります」


部屋は、見慣れないほど広くなっていた。


作業員が美咲へ声を掛ける。


「新居の方でもお立ち会いをお願いします」


「はい」


美咲が答える。


その横で悠真が言った。


「俺も行く」


美咲が見る。


「荷物、手伝う」


少し迷ってから、


「……うん」


と答えた。


新しい部屋へ、箱が一つずつ入っていく。


昨日まで空っぽだった六畳ほどの部屋に、美咲の生活が少しずつ戻ってくる。


本。


服。


食器。


そして、昨日買った白いマグカップ。


悠真が包装を外し、小さなテーブルの上へ置いた。


美咲が見る。


「そこ?」


「嫌?」


「別に」


悠真は、


「じゃあここ」


と言いかけたところで止まった。


手も止まる。


ここはもう、美咲の部屋だ。


自分が物の場所を決める家ではない。


悠真はマグカップをもう一度持ち上げた。


「どこがいい?」


美咲も、その変化に気づいたようだった。


窓辺を指す。


「あそこ」


「了解」


悠真は言われた場所へ置いた。


搬入が終わった。


作業員が出ていく。


扉が閉まった瞬間、部屋は突然静かになった。


残ったのは二人だけだった。


美咲の新しい家。


悠真は玄関近くに立っていた。


それ以上、奥へは入らなかった。


美咲が訊く。


「座らない?」


「いい」


「電車混む前に帰る」


美咲は少しだけ視線を落とす。


「そっか」


「うん」


もう運ぶ荷物はない。


組み立てる家具もない。


ここにいる理由が、なくなった。


玄関で、美咲はバッグの中に手を入れた。


小さな金属音。


掌に一つの鍵を乗せる。


三年間暮らした部屋の鍵だった。


「これ」


悠真は見た。


すぐには手を出せなかった。


美咲は少し迷ってから言う。


「三年間、ありがとうございました」


悠真の眉が寄った。


「それ嫌だ」


美咲が驚く。


「何が?」


「その言い方」


「会社みたい」


美咲は思わず笑った。


「じゃあ何て言えばいいの」


「普通でいい」


「普通って?」


悠真も分からなかった。


二人で少し困った。


美咲は掌の鍵を見た。


そして、言い直す。


「楽しかった」


悠真の目が赤くなる。


「うん」


「しんどかった」


「うん」


「いっぱい我慢した」


「俺も」


「いっぱい笑った」


「うん」


美咲は鍵を握ったまま、最後の言葉を探した。


「好きだった」


悠真が顔を上げた。


美咲自身も、その過去形に違和感を覚えたようだった。


少し止まる。


そして言い直した。


「……好き」


悠真の頬を涙が伝った。


「俺も」


過去形にはしなかった。


「好き」


二人は玄関に立っていた。


抱きしめようと思えば、簡単にできる距離だった。


悠真の手が少し動く。


でも、止めた。


美咲はそれを見ていた。


そして今度は、美咲の方から一歩近づいた。


悠真の胸に、そっと腕を回す。


悠真の身体が固くなる。


「今日は」


美咲の声が胸元から聞こえる。


「私からだから」


悠真は目を閉じた。


それからゆっくり、腕を回した。


強くは抱かなかった。


引き寄せることもしなかった。


ただ、そこにいる美咲を抱いた。


長い時間だった。


「悠真」


「うん」


「寂しい」


「俺も」


「怖い」


「俺も」


美咲の声が震える。


「別れたくないって」


一度、息を止める。


「ちょっと思ってる」


悠真は目を閉じたまま動けなかった。


十日間。


いちばん聞きたかった言葉だった。


今なら言える。


なら、別れなければいい。


このままここにいればいい。


鍵を返さなければいい。


口を開く。


でも。


悠真はその言葉を飲み込んだ。


美咲が弱くなった瞬間を、自分が望む答えを得るために使いたくなかった。


「……うん」


それだけを答えた。


美咲は彼の胸の中で泣いた。


悠真も泣いた。


それでも決定を変えさせようとはしなかった。


やがて二人は離れた。


美咲が涙を拭う。


「ひどい顔」


悠真も自分の頬を拭った。


「美咲も」


「私はいいの」


「何で」


「今日引っ越した人だから」


「意味分かんない」


最後に、二人とも少し笑った。


美咲は掌の鍵を、悠真へ差し出した。


今度は悠真も受け取った。


指を閉じる。


「じゃあ」


美咲が言う。


「うん」


悠真は靴を履いた。


扉を開ける。


一歩外へ出る。


そこで止まった。


振り返らずに言う。


「美咲」


「何?」


悠真は一瞬だけ、


大丈夫でいて。


と言いそうになった。


止めた。


そして別の言葉を選ぶ。


「困ったら、困ったって言って」


美咲の目から、また涙が落ちた。


「悠真も」


「うん」


扉がゆっくり閉じた。


美咲は中。


悠真は外。


一枚の扉が、二人の間に入る。


けれど閉まったあとも、どちらもすぐには動かなかった。


悠真が一人で元の部屋へ戻った頃には、外は暗くなり始めていた。


鍵を差し込む。


扉を開ける。


そして、三年間の癖で言った。


「ただいま」


自分の声だけが部屋に落ちる。


悠真はその場で止まった。


返事はない。


玄関を見る。


靴は一足だけだった。


「……そっか」


小さく呟く。


リビングへ入る。


テレビはある。


ソファもある。


冷蔵庫もある。


キッチンには、あの古い鍋も残っている。


同じ家だった。


なのに、まるで違う場所だった。


冷蔵庫を開ける。


昨日、美咲が買った牛乳が残っていた。


手に取る。


賞味期限を見る。


少し考えて、また元へ戻す。


別に捨てる必要はない。


そう思った。


でも本当は、まだ美咲が買ったものを一つ減らすことさえ嫌だった。


夕食を作ろうとして、古い鍋を出す。


冷凍庫からうどんを取る。


二玉。


いつもの癖だった。


悠真は手元を見る。


しばらくして、一玉を戻した。


一人分だけ、鍋へ入れる。


湯気が上がる。


美咲の新しい部屋にある、小さな鍋を思い出す。


パスタを半分に折ると言っていた。


悠真は少し笑った。


そして次の瞬間、涙が一滴、流し台へ落ちた。


一人で食卓につく。


スマートフォンを横に置く。


美咲との画面を開いた。


「着いた?」


と打つ。


止まる。


消す。


今度は、


「ちゃんと食べて」


と打つ。


また消した。


結局、何も送らなかった。


スマートフォンを伏せる。


気にかけることと、すぐ相手へ届けることは、同じではない。


その違いを、悠真はようやく少しずつ覚え始めていた。


深夜。


美咲が残していったものを整理する。


読まなくなった本。


古い雑誌。


使っていない充電ケーブル。


食卓の端に、昼間から残ったままの小さな紙袋があった。


悠真の手が止まる。


見覚えがある。


母親から受け取った紙袋だった。


昼間、美咲が一度手に取っていたことを、今になってぼんやり思い出した。


悠真は袋を開けた。


中には、あの小さな白い靴下が入っていた。


息が止まる。


靴下の下に、小さく折られた紙がある。


手紙ではなかった。


ほんの短い、美咲の文字。


「これは、悠真が持ってて」


その下。


「私だけの思い出にしたくないから」


悠真の指が震えた。


床に座る。


二つの小さな靴下を掌に並べる。


すぐには泣かなかった。


ただ、長いこと見つめた。


これは美咲だけが失ったものではない。


自分だけが知らなかったからといって、自分の記憶ではないわけでもない。


悠真は小さく言った。


「……うん」


少し間を置く。


「俺も、覚えてる」


同じ頃。


新しい部屋。


美咲は段ボール箱に囲まれ、一人で床に座っていた。


スマートフォンを手に取る。


悠真との画面を開く。


「ちゃんと帰れた?」


そこまで打つ。


しばらく見る。


消す。


スマートフォンを伏せた。


視線の先には、窓辺に置いた白いマグカップ。


あの部屋なら、少し待てば玄関が開いた。


「ただいま」と声がした。


ここでは、もう誰も帰ってこない。


そう理解した瞬間。


美咲は口元を手で覆った。


そして初めて、悠真のいない部屋で声を出して泣いた。


東京の違う場所で。


悠真も一人、床に座っていた。


掌には、小さな白い靴下。


二人とも相手へ連絡しなかった。


それでも、その夜。


二人が思い出していたものは、同じだった。

別れて、最初の夜。

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