第12話 一人分
別れが本当に始まるのは、扉を閉めた瞬間ではない。
次の朝、目を覚ました時だ。
昨日までいた人が、今日はもう帰ってこないのだと知る。
朝。
アラームが鳴った。
悠真は目を閉じたまま、手だけを伸ばして止めた。
そのまま、いつもの癖で隣へ手をやる。
何もない。
手だけが、冷えたシーツの上で止まった。
数秒して。
悠真は目を開けた。
寝室には、床に敷いた一人用のマットレスしかない。
三年間使ったベッドは、昨日処分した。
悠真はしばらく天井を見ていた。
やがて起き上がる。
洗面所へ行く。
歯ブラシを取る。
コップの中には一本だけ。
歯を磨きながら、鏡を見る。
映っているのも自分だけだった。
悠真は無意識に少し身体を横へずらした。
この時間になると、美咲が後ろから入ってきて、
「邪魔」
と肩を押すことがよくあった。
今日は誰も来ない。
悠真は鏡の中の、自分の横にある空間を見た。
「……広い」
昨日と同じ洗面所なのに。
別の場所のようだった。
同じ頃。
美咲の新しい部屋でも、アラームが鳴った。
目を開ける。
まだ開けていない段ボール箱が、部屋のあちこちに積まれている。
昨夜は片づける気力もなく、床に敷いた布団でそのまま眠った。
美咲は起き上がる。
最初に手に取ったのはスマートフォンだった。
画面を見る。
通知はない。
七時十二分。
以前なら、この時間には悠真がネクタイを探していた。
どこに置いたか分からないと言いながら、結局いつも同じ場所から出てくる。
美咲はスマートフォンを伏せた。
小さなキッチンへ行く。
冷蔵庫を開ける。
牛乳。
卵。
水。
卵を二つ手に取った。
そこで止まる。
掌の二つを見たあと、一つを戻した。
フライパンに落とす卵は一つ。
皿も一枚。
マグカップも一つ。
窓辺には、昨日悠真が置いた白いマグカップがある。
けれど、美咲はそれには触れなかった。
自分用のカップに飲み物を注ぎ、小さなテーブルの前に座った。
自分で作った、一人分の朝食。
箸を取る。
目玉焼きを一口食べた。
味がしないわけではない。
ただ、一人で食べる味にまだ慣れていなかった。
悠真も朝食を作っていた。
食パンを二枚取り出す。
一瞬止まる。
一枚を戻す。
コーヒーを淹れる。
カップを食卓へ置いたところで、キッチンの方を向いて言いかけた。
「牛乳――」
声が消えた。
誰もいない。
悠真はそのまま数秒立っていた。
それから、自分に言い聞かせるように小さく笑った。
「いないって」
スマートフォンが震えた。
悠真の手が、ほとんど反射的に伸びる。
画面を見る。
会社のグループチャットだった。
表情が一瞬だけ落ちる。
自分でもそれに気づいたらしい。
「何期待してんだよ」
誰に言うでもなく呟き、画面を閉じた。
会社では、美咲の机の上に二枚の書類があった。
一枚は、正社員登用に必要な手続き書類。
もう一枚は、昨日まで提出しようとしていた辞退届。
上司が美咲の横で足を止めた。
「高橋さん」
「はい」
「今日までだけど」
書類へ目を向ける。
「どうする?」
美咲も同じ場所を見る。
すぐには答えなかった。
上司は急かさなかった。
「別に、今ここで決めろって意味じゃないよ」
少し笑う。
「ただ、会社としては今日中に返事が必要だから」
「……はい」
上司が去る。
美咲はもう一度、二枚の紙を見る。
これまでは、何かを決めるたびに必ず悠真がいた。
受けたら、悠真はどうする。
地方へ行くなら。
結婚するなら。
子どもを考えるなら。
全部が一つにつながっていた。
今、その問いの中に悠真はいない。
なら、簡単になると思っていた。
けれど実際は違った。
自分のために決めるということ自体を、美咲は長いことしてこなかった。
同じ頃。
悠真の会社では、上司が一枚の資料を机に置いた。
「地方の件」
悠真が顔を上げる。
「後任、決まった」
「……はい」
「だから」
上司は資料を指で軽く叩いた。
「佐藤が断った件は、これで正式に終わり」
悠真は紙を見た。
自分が断った席には、もう別の人が行く。
戻そうと思っても、簡単には戻らない。
「はい」
上司が少し間を置く。
「家庭のこともあったんだろうけど」
悠真の表情がわずかに変わる。
「後悔してる?」
悠真はすぐには答えなかった。
それから首を振るでもなく、頷くでもなく言った。
「まだ分かりません」
上司が少し驚く。
悠真自身も、以前なら口にしなかった答えだと思った。
「でも」
資料を見る。
「断ったのは俺です」
上司は黙って聞いている。
「あとで何かあっても」
悠真は少し迷った。
「誰かのせいにしたくないので」
上司はしばらく彼を見た。
やがて頷く。
「そうか」
資料を取り上げる。
「じゃあ東京で頑張れ」
「はい」
上司が離れる。
悠真は椅子に座ったまま、静かに息を吐いた。
すっきりしたわけではない。
正しかったとも思えない。
後悔していないとも、まだ言い切れない。
ただ。
これは自分が選んだ。
その事実だけは、もう誰にも渡したくなかった。
昼休み。
美咲はコンビニの近くにあるベンチで弁当を食べていた。
少し離れたところで、同僚の女性二人が話している。
「今度の休み、彼氏と箱根行くんだ」
「いいなあ」
美咲は会話に入らず、箸を動かしていた。
一人がこちらを見る。
「高橋さんは?」
「え?」
「彼氏とどっか行かないの?」
美咲の箸が止まった。
昨日までは、何も考えずに答えられた。
悠真。
彼氏。
一緒に住んでいる人。
今日、そのどれも使えない。
数秒のあと。
「……別れた」
自分の声なのに、少し遠く聞こえた。
同僚が目を見開く。
「え?」
美咲自身も少し驚いていた。
誰かにそう言ったのは、初めてだった。
「昨日」
同僚はますます困った顔をする。
「ごめん」
美咲は首を振った。
「ううん」
少しして。
「大丈夫?」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の手が止まった。
以前なら、考えもしなかった。
大丈夫。
そう返して終わりだった。
美咲は少し考える。
そして首を振った。
「……まだ、ちょっと無理」
同僚は何も言わなかった。
慰めの言葉も探さなかった。
ただ、自分が買っていたプリンを美咲の方へ押した。
「食べる?」
美咲が目を瞬く。
それから、小さく笑った。
「食べる」
午後。
美咲は机の上に、正社員登用の書類と辞退届を並べた。
長いこと見る。
そして、辞退届を手に取った。
一度折る。
破る。
もう一度。
細かくして、ゴミ箱へ落とした。
次にペンを持つ。
正社員登用の書類。
署名欄。
高橋美咲。
自分の名前を書く。
書き終わったあと、しばらくその文字を見ていた。
「……これでいい」
小さく言う。
けれど、その言葉に自分で違和感を覚えた。
首を振る。
「違う」
もう一度、紙を見る。
「これがいい」
今度は言い直さなかった。
仕事帰り。
悠真はスーパーへ寄った。
買い物かごに、牛乳。
卵。
うどん。
豆腐。
野菜売り場で、人参の袋を手に取る。
十日前の夜を思い出した。
――にんじん多すぎた。
悠真は袋を見つめた。
棚へ戻す。
二歩進む。
止まる。
戻ってきて、ばら売りの人参を一本だけ取った。
レジで商品が一つずつ通される。
店員が訊く。
「レジ袋は?」
「いらないです」
豆腐が読み取られる。
悠真は何となく見た。
鍋をすると、美咲はいつも最後の一つを先に取った。
口元が少しだけ緩んだ。
別のスーパーでは、美咲も買い物をしていた。
肉売り場。
いつものように二人分のパックを手に取る。
値段を見る。
そのまま戻す。
小さなパックへ替える。
調味料売り場。
悠真が好きだった辛いソースがある。
手が伸びる。
途中で止まった。
もう買う必要はない。
牛乳売り場。
いつも家で買っていた銘柄が目に入る。
悠真が好きだったもの。
美咲は数秒見た。
そして、その隣にある別の牛乳を取った。
どちらが美味しいかは分からない。
ただ今日は、自分で選んだ。
夜。
悠真が玄関を開けた。
扉を閉める。
今日は「ただいま」が出なかった。
靴を脱ぎかけて、悠真自身がそれに気づく。
少し考える。
そして、わざと声に出した。
「ただいま」
もちろん返事はない。
悠真は部屋へ入る。
数秒して。
自分で答えた。
「……おかえり」
言ったあと、自分でも馬鹿らしくなって少し笑った。
夕食を作る。
一人分。
古い鍋。
豆腐。
少しの肉。
一本の人参。
人参を切りながら、悠真は少し迷った。
結局、全部入れた。
出来上がった鍋を見る。
どう考えても、人参が多い。
一口食べる。
「……多い」
思わず笑った。
今度の笑いは、思い出したからだけではなかった。
単純に料理が下手だった。
それが少し可笑しかった。
美咲も、新しい部屋で夕食を作っていた。
小さな鍋。
火を少し強くしすぎた。
汁が一気に吹きこぼれる。
「あっ!」
慌てて火を止める。
布巾を取る。
拭く。
またこぼれる。
ようやく片づけて、鍋を見る。
「小さすぎ」
思わず笑った。
――パスタ折るんだろ。
悠真の声を思い出す。
美咲はもう一度笑った。
目は少し赤くなった。
でも、その夜は泣かなかった。
二十一時十四分。
悠真は一人で食事をしながら、テーブルに置いたスマートフォンを何度も見ていた。
何も来ない。
とうとう手に取る。
美咲とのトーク画面を開く。
最後のやり取り。
その上。
さらに上。
三年間。
ほとんど意味のない文章が延々と続いていた。
牛乳買って。
今日遅い。
鍵持った?
ゴミ出して。
何食べる?
着いた。
帰る?
そんなものばかりだった。
悠真は一年前まで遡る。
そこで、一つの会話に目が止まった。
美咲。
「プリン買った」
悠真。
「俺の?」
美咲。
「違う」
悠真。
「俺のは?」
数分後。
「嘘。冷蔵庫」
悠真は画面を見ながら少し笑った。
そのまま閉じる。
何も送らなかった。
新しい部屋で、美咲は段ボールを開け続けていた。
本。
服。
日用品。
窓辺には、昨日悠真が置いた白いマグカップがある。
次の箱を開ける。
一番下から、見覚えのある灰色のパーカーが出てきた。
動きが止まる。
悠真のものだった。
荷造りの時に紛れ込んだらしい。
美咲は持ち上げる。
少し見る。
そして無意識に、顔へ近づけた。
洗剤の匂いがまだ残っている。
以前の家の匂い。
美咲はすぐに離した。
自分で自分に呆れたように笑う。
「何してんだろ」
きれいに畳む。
袋へ入れようとしたところで、スマートフォンが鳴った。
上司からだった。
「正社員登用の件、確認しました。来月からよろしくお願いします」
美咲は文章を見た。
少しして、返信する。
「よろしくお願いいたします」
送信。
そのあと、もう一度灰色のパーカーを見る。
今度は、仕事の決定と悠真を結びつけなかった。
二十二時三分。
悠真のスマートフォンが突然震えた。
画面に表示された名前。
美咲。
悠真の身体が止まる。
すぐに手を伸ばした。
けれど、一秒だけ待った。
それから開く。
「正社員になることにした」
悠真は長いこと、その文章を見た。
返信欄を開く。
「よかった」
打つ。
止まる。
消す。
「おめでとう」
今度は、そのまま送った。
何をするのか。
東京に残るのか。
これで将来がどう変わるのか。
何も訊かなかった。
数秒後。
「ありがとう」
悠真は少し笑った。
スマートフォンを置こうとする。
もう一度震える。
「あと」
悠真が見る。
次に、写真が送られてきた。
灰色のパーカー。
「悠真の」
続けて。
「私のところにあった」
悠真は思わず笑った。
返信欄に、
「捨てていいよ」
と打つ。
途中で止まる。
写真を見る。
全部消した。
次に、
「今度取りに行く」
と打つ。
送信ボタンの上で指が止まった。
取りに行く。
その言葉が、会うための理由を作っているように見えた。
悠真はまた消した。
最後に送ったのは、
「急がないから、置いといて」
だった。
美咲はそれを読んだ。
ほんの少しだけ、寂しそうな顔をした。
でも、同時に安心したようにも見えた。
「分かった」
返信する。
会話は、それで終わってもよかった。
悠真はスマートフォンを伏せた。
数秒。
また手に取った。
美咲との画面を開く。
文字を打つ。
「あと、俺も一つ話してなかったことがある」
送信。
美咲はすぐには返さなかった。
しばらくして。
「何?」
悠真は机の引き出しを開けた。
奥から、一枚の書類を取り出す。
海外研修候補者選考について。
数か月前、会社から渡されたものだった。
候補者として名前が挙がっている。
参加する意思があるなら、正式な選考へ進む。
断ることもできる。
それだけの話だった。
悠真は書類を見つめた。
以前なら、美咲に言わない理由はいくらでも考えられた。
地方の話もある。
母親のこともある。
結婚するかもしれない。
海外へ行くなんて現実的じゃない。
自分が行きたいのかどうかさえ、考える前に閉じていた。
悠真はスマートフォンへ戻る。
「海外研修の候補に入ってる」
少し迷ってから続ける。
「前から」
送信。
美咲から返事が来るまで、少し時間があった。
「行くの?」
悠真は画面を見た。
以前なら答えを探した。
母親。
会社。
東京。
美咲。
正しい理由をいくつも並べたかもしれない。
今回は、それをしなかった。
「まだ分からない」
送る。
数秒後。
美咲から返事が来た。
「そっか」
それだけだった。
悠真は少し笑った。
もう一通届く。
「じゃあ」
「行きたいか、ちゃんと考えたら?」
悠真はその文章を長いこと見ていた。
あの夜、美咲に訊かれた言葉を思い出した。
――悠真は、行きたい?
あの時は答えられなかった。
今も、答えはない。
けれど今回は。
誰かのために考える必要はなかった。
母親のためでもない。
美咲のためでもない。
結婚のためでもない。
自分がどうしたいのか。
それだけを考えていい。
悠真は返信欄を開いた。
「うん」
送信する。
それ以上、会話は続かなかった。
けれど悠真は、書類を引き出しへ戻さなかった。
食卓の上に置いた。
明日の朝、もう一度見るために。
別れて、一日目。




