第13話 行きたかった
本当に失った人生は、誰かに奪われたものとは限らない。
まだ何も言っていないのに。
まだ誰にも反対されていないのに。
自分から先に、「やめておこう」と手放したものかもしれない。
昨夜、美咲から届いた言葉が、朝になっても悠真の中に残っていた。
――行きたいか、ちゃんと考えたら?
食卓の上には、海外研修の資料が置かれたままだった。
昨夜、引き出しから出したあと、戻さなかった。
悠真はコーヒーを飲みながら、その表紙を見る。
海外研修候補者選考について。
数か月前。
一度は手にした。
けれど、ほとんど何もしないまま閉じた話だった。
悠真は資料へ手を伸ばす。
表紙を開く。
その瞬間。
半年前の記憶が戻ってきた。
六か月前。
会社の会議室。
上司が一冊の資料を悠真の前へ置いた。
「一年」
悠真が顔を上げる。
「海外拠点での研修」
資料の表紙には、海外研修制度の文字。
上司が続けた。
「佐藤、候補に入ってる」
悠真の目が、ほんの少し大きくなった。
「俺ですか?」
上司が笑った。
「その反応なら、興味あるだろ」
悠真はもう一度資料を見る。
ページをめくる。
研修内容。
現地での業務。
滞在期間。
帰国後の配置。
その時の悠真の顔には、今までとは少し違うものがあった。
母親をどうするかでもない。
美咲に何をしてあげるかでもない。
会社に何を求められているかでもない。
ただ。
自分がやってみたいと思った時の顔だった。
「まだ候補だから、確定じゃない」
上司は言う。
「でも応募するなら推薦する」
悠真はすぐに訊いた。
「いつからですか?」
「来年四月」
「一年行って、戻ってきたらこっちでポジションも考える」
悠真は資料を読みながら、口元の笑みを隠せなかった。
「……いいですね」
「だろ?」
その時。
机の上のスマートフォンが光った。
美咲からだった。
「今日何食べたい?」
続けて。
「スーパー寄る」
悠真は画面を見る。
そして、手元の海外研修資料へ視線を戻す。
さっきまであった笑みが、少しずつ消えた。
その夜。
二人で夕食を食べていた。
美咲が仕事の話をしている。
「来期、また正社員登用の試験あるって」
悠真が見る。
「受ける?」
「受ける」
美咲は少し笑った。
「今度こそ」
悠真も笑う。
「いけるよ」
美咲がすぐ言った。
「その大丈夫みたいな言い方嫌」
その頃は、まだ冗談のように言えた。
「まだ大丈夫って言ってない」
「顔が言ってる」
二人とも笑った。
悠真の仕事用バッグの中には、海外研修の資料が入っていた。
何度か手を伸ばした。
出そうとした。
でも、そのたびに止めた。
美咲が言う。
「来年くらいには」
少し考える。
「もうちょっとちゃんとした部屋、住みたいね」
「引っ越す?」
「できたら」
悠真が笑う。
「二人で?」
美咲が呆れたように見る。
「他に誰がいるの」
美咲が笑った。
悠真も笑った。
そして。
鞄へ入れかけていた手を、そっと戻した。
現在。
悠真は食卓の前で、資料を開いたまま動かなかった。
昨夜、美咲に自分から話した。
海外研修の候補に入っていたこと。
ずっと考えないふりをしていたこと。
そして。
「まだ分からない」
と答えた。
美咲は責めなかった。
ただ、
――行きたいか、ちゃんと考えたら?
そう返した。
悠真は資料を一枚めくった。
自分は、あの時なぜ応募しなかったのか。
答えはもう、かなり分かっていた。
昼休み。
悠真は会社の屋上にいた。
手には、昨夜持ってきた海外研修の資料がある。
スマートフォンを取り出す。
美咲との昨夜の会話をもう一度見る。
「海外研修の候補に入ってる」
「行くの?」
「まだ分からない」
「じゃあ、行きたいか、ちゃんと考えたら?」
悠真はしばらくその画面を見ていた。
それからスマートフォンを伏せる。
誰かに答えを求めるためではなく。
自分の中にあるものを探すために。
六か月前。
自分は確かに、最初の瞬間だけは嬉しかった。
資料を見て。
一年という時間を見て。
海外で働くという言葉を見て。
胸が少し高鳴った。
それなのに。
美咲。
母親。
結婚。
仕事。
生活。
一つずつ頭に浮かんだ瞬間。
「行きたい」は、すぐに「でも」に変わった。
その夜。
美咲が正社員登用の話をしていた。
引っ越しの話をしていた。
来年の話をしていた。
悠真は、まだ何も聞いていないのに考えた。
自分が一年海外へ行きたいと言ったら。
美咲は仕事をどうする。
二人で住む話はどうなる。
結婚は。
母親は。
全部が変わる。
誰かが困る。
誰かが何かを選ばなければならなくなる。
そう思った。
だから。
最初から、自分が行かないことにした。
応募もしなかった。
美咲にも言わなかった。
母親にも。
誰にも。
反対される前に。
自分で諦めた。
悠真は資料を閉じた。
小さく呟く。
「……行きたかった」
声にしてみる。
思っていたより、はっきりしていた。
「結構」
少し間を置く。
「行きたかった」
その言葉を誰かに聞かせる必要はなかった。
でも。
自分には聞かせたかった。
午後。
仕事をしていると、上司がやってきた。
「佐藤」
「はい」
一枚の資料が机へ置かれる。
悠真の手が止まる。
「何ですか?」
「例の海外研修」
悠真が顔を上げる。
「……終わった話ですよね」
「一人辞退した」
上司は資料を指す。
「追加で一人、推薦できることになった」
悠真の表情が変わる。
「前回候補に挙げた中から、もう一度出せる」
少し間を置く。
「佐藤、まだ行く気あるなら推薦する」
悠真の呼吸が少し変わった。
会議室。
半年前とよく似た資料が、もう一度彼の前に置かれていた。
違うのは、日付だけだった。
「いつまでに?」
「明日」
悠真が思わず笑う。
「急ですね」
「向こうも急なんだよ」
上司も少し笑う。
「前は、家のこともあるって言ってたな」
「はい」
「今は?」
悠真はすぐには答えなかった。
以前なら、
母親。
美咲。
仕事。
いくつも理由を並べただろう。
でも。
「今は」
資料を見る。
「ちゃんと考えます」
上司は頷いた。
「分かった」
その日の夜。
美咲は新しい部屋で、発送用の箱を準備していた。
灰色のパーカーをきれいに畳む。
悠真のもの。
昨日連絡したあとも、部屋の隅に置いたままだった。
箱へ入れる。
封をしようとして、手が止まる。
引き出しから付箋を一枚取る。
ペンを持つ。
「行けばよかったのに」
書いた。
しばらく見る。
違うと思った。
破る。
もう一枚。
「今度は、自分で決めて」
そこまで書く。
また長いこと見る。
これも違う。
美咲はゆっくり破った。
最後には、何も書かなかった。
パーカーだけを箱へ入れる。
封をする。
今度は。
行けとも。
行くなとも。
言わない。
決めるのは悠真だった。
同じ頃。
悠真は母親へ電話を掛けていた。
「もしもし」
「どうしたの?」
「今平気?」
「うん」
悠真は食卓に置いた研修資料を見る。
「俺」
一度、息を吸う。
「一年くらい、海外行くかもしれない」
電話の向こうが静かになる。
悠真の指に少し力が入る。
一人になる。
困る。
帰ってきてほしい。
以前の自分なら、母親がそう言う前提で話していた。
けれど母親が訊いたのは、一つだけだった。
「行きたいの?」
悠真が止まる。
この数日。
何度も聞かれた質問だった。
美咲からも。
自分自身からも。
今度は少しだけ早く答えられた。
「……うん」
母親はあっさり言った。
「じゃあ行けば」
悠真が目を瞬く。
「え?」
「何」
母親が少し笑う。
「もっと困った方がいい?」
悠真も少し笑った。
「いや」
「一年でしょ」
「うん」
「何かあったら電話するし」
少し間を置く。
「私も、一人で何とかする練習する」
悠真が黙る。
母親の声が少しだけ柔らかくなる。
「悠真も」
「自分のこと考える練習したら?」
悠真は俯いた。
「……うん」
電話を切ったあと。
悠真はしばらくスマートフォンを見ていた。
母親は、行くなとは言わなかった。
困るとも。
帰ってきてとも。
父親のあの一言を、自分がどれだけ大きくしてきたのか。
今さら少し分かった。
食卓の上に紙を一枚置く。
線を引いて二つに分けようとする。
右と左。
何を書くかは、すぐに思い浮かんだ。
母親。
仕事。
収入。
一年。
美咲。
帰国後。
危険。
生活。
ペンを持つ。
止まる。
悠真はその紙を丸めた。
ゴミ箱へ投げる。
新しい紙を出す。
今度は、真ん中に一つだけ書いた。
「俺は行きたいか」
悠真は、その一文を長いこと見ていた。
そして、その下へ。
ゆっくり書く。
「行きたい」
ペンを置いた。
そのあとに、
でも。
とは書かなかった。
スマートフォンが鳴る。
会社からのメールだった。
海外研修参加意思確認。
回答期限。
明日十七時。
悠真は画面を見た。
同じ頃。
美咲の部屋。
インターホンが鳴る。
「集荷に伺いました」
美咲は箱を持って玄関へ行く。
宅配業者へ渡す。
相手が受け取る。
でも、美咲の手はすぐには離れなかった。
「あの?」
美咲は我に返る。
手を離す。
「お願いします」
扉が閉まる。
何も書かなかった箱が、悠真のところへ向かっていく。
それでよかった。
翌朝。
悠真は会社のパソコンの前に座っていた。
メールが開いている。
回答欄。
参加する。
辞退する。
マウスが、その間で止まっている。
スマートフォンが震えた。
配送通知。
「高橋美咲様よりお荷物をお届け予定です」
悠真は、その名前を見る。
少しだけ手が止まった。
美咲が何を入れたのかは分かっている。
灰色のパーカー。
それだけ。
メッセージも。
答えも。
入ってはいない。
半年ほど前の自分なら。
ここからまた考え始めただろう。
美咲はどうする。
母親はどうする。
誰かが困らないか。
でも。
悠真はスマートフォンを静かに伏せた。
画面を下にする。
もう一度、パソコンを見る。
マウスを動かす。
「参加する」
その文字の上で止めた。
指が、ゆっくりマウスへ沈んでいく。
まだ。
クリックはしていなかった。
別れて、三日目。




