第14話 選んだ
成長することは、正しい答えを選べるようになることではない。
たとえその先で後悔するとしても。
「これは、自分が選んだ人生だ」と言えるようになることなのかもしれない。
会社のデスク。
悠真のパソコンには、海外研修参加意思確認の画面が開かれていた。
選択肢は二つだけだった。
「参加する」
「辞退する」
マウスカーソルは、「参加する」の上にある。
その横には、伏せたスマートフォン。
少し前に届いた配送通知も、まだ消えていない。
高橋美咲様よりお荷物をお届け予定です。
悠真はそれを見なかった。
画面だけを見る。
六か月前なら、この先にいくつもの人の顔を並べていた。
母親。
美咲。
上司。
一年後の自分。
その全部を先に考えてから、自分の気持ちを最後へ回していた。
今日は違った。
指先が動く。
クリック。
確認画面が開く。
「参加でよろしいですか?」
悠真は一度読んだ。
今度は迷わなかった。
「はい」
画面が切り替わる。
「参加意思を受け付けました」
それだけだった。
何か劇的な音が鳴るわけでもない。
胸のつかえがすべて消えるわけでもない。
悠真は椅子に座ったまま、しばらくその文字を見ていた。
そして、ゆっくり息を吐いた。
嬉しい。
怖い。
少し後悔するかもしれない。
全部、同時にあった。
それでも。
決めた。
上司が後ろを通り、画面を見て足を止めた。
「決めた?」
悠真は振り返る。
「はい」
少しだけ間を置いて。
「行きます」
上司が頷いた。
「そうか」
それから笑う。
「今回は早かったな」
悠真も少し笑った。
「半年遅かったですけど」
「それでも、決めたならいい」
上司はそれ以上何も言わず、去っていった。
悠真はもう一度画面を見る。
そして、スマートフォンを手に取った。
最初に開いたのは、美咲とのトーク画面だった。
自分でも、その速さに少し驚いた。
文字を打つ。
「海外研修、行くことにした」
送信ボタンの上で指が止まる。
数秒。
全部消した。
今度は、
「俺、決めた」
と打つ。
また止まる。
これも消した。
悠真はスマートフォンを持ったまま、椅子の背にもたれた。
なぜ今すぐ美咲に言いたいのか。
考えているうちに、少しだけ分かった。
たぶん。
自分が決められたことを、いちばん分かってほしい人に見てほしかった。
変わったと言ってほしい。
よかったと言ってほしい。
悠真は小さく息を吐いた。
今は、それをしなくていいと思った。
スマートフォンを閉じる。
ポケットへ入れる。
今日は、言わないことを選んだ。
同じ頃。
美咲の会社では、上司が新しい名札を机の上へ置いた。
「高橋さん」
「はい」
美咲が見る。
そこには、
高橋 美咲
と書かれていた。
来月から、正社員として使う名札だった。
美咲は指先で名前をなぞった。
隣の同僚が覗き込む。
「おめでとう」
美咲が笑った。
「ありがとう」
「今日、飲みに行かない?」
「今日?」
「今日」
美咲は反射的にスマートフォンを見た。
以前なら、まず悠真の帰宅時間を確認していた。
夕食はいるのか。
遅くなるなら連絡しなければ。
そんなことを考えていた。
今は、確認する相手はいない。
美咲は少しだけ画面を見た。
それから顔を上げる。
「行く」
同僚が目を丸くした。
「珍しい」
美咲は笑う。
「たまには」
夜。
小さな居酒屋。
「乾杯!」
何人かの同僚がグラスを上げる。
美咲も合わせた。
「ありがとうございます」
仕事の話。
上司の話。
来月の研修。
忙しくなること。
少し先のキャリア。
一人が言った。
「来月、正社員向けの研修もあるんでしょ?」
「うん」
「忙しくなるね」
「そうだね」
別の同僚が笑う。
「でも正社員になったら、選択肢増えるじゃん」
選択肢。
その言葉に、美咲の手がほんの少し止まった。
けれど何も言わず、グラスを口へ運んだ。
少しして。
以前、美咲が別れたことを聞いていた同僚が、慎重に訊いた。
「……まだ、好きなの?」
美咲の指が止まる。
考える。
けれど、答えは意外なほど早かった。
「好きだよ」
言ったあと。
自分自身が少し驚いた。
同僚も少しだけ目を見開いた。
「じゃあ、戻りたい?」
今度は、美咲はすぐに答えなかった。
長い時間。
「分からない」
そう言った。
好き。
それでも戻るかどうかは分からない。
以前なら、その二つは同じものだと思っていた。
今は違う。
誰かを好きでいることと。
その人と一緒にいることは。
同じ答えではない。
同じ頃。
悠真の部屋。
インターホンが鳴った。
「佐藤様、お荷物です」
玄関に届いた箱。
送り主。
高橋美咲。
悠真はサインをして受け取った。
部屋へ運ぶ。
床へ置く。
すぐには開けなかった。
手を洗った。
上着を脱いだ。
湯を沸かした。
冷蔵庫を開けた。
明らかに、開けるのを先延ばしにしていた。
最後には、自分でも諦めたように箱の前へ座る。
テープを剥がす。
中にあったのは、灰色のパーカーだけだった。
便箋はない。
付箋もない。
美咲からの言葉は、一つもなかった。
悠真はしばらく箱の中を見る。
それから小さく笑った。
「何も書いてない」
少し前なら、寂しいと思ったかもしれない。
今は、その何も書かれていないことの意味が少し分かる。
行けとも。
行くなとも。
言わなかった。
決めるのは自分。
悠真は灰色のパーカーを持ち上げた。
何気なく顔へ近づける。
洗剤の匂い。
一瞬止まる。
すぐに離した。
「何してんだ」
自分で笑う。
美咲が数日前、同じことをしたとは知らない。
箱の中には、それ以上何も入っていなかった。
それが少し寂しくて。
でも、少し安心した。
美咲は、自分の部屋から悠真のものを一つずつなくしている。
恨んでいるからではない。
戻ってきてほしくないからでもない。
ただ。
二人の生活を、本当に分けようとしている。
夜。
悠真は一人で夕食を食べていた。
スマートフォンが鳴る。
母親。
「もしもし」
「決めた?」
悠真は少し笑った。
「うん」
一度、息を吸う。
「行く」
電話の向こうが一秒ほど静かになる。
「そっか」
悠真が眉を寄せる。
「それだけ?」
母親が笑った。
「何。泣いてほしい?」
「別に」
少しして、母親が言う。
「寂しいよ」
悠真の表情が変わった。
以前なら。
大丈夫。
私は平気。
そう言ったかもしれない。
でも今日は違った。
「でも」
母親は続ける。
「行ってほしい」
悠真は何も言わない。
「母さん」
「何?」
「寂しいって、言えるんだな」
母親が少し呆れた声を出す。
「誰に似たと思ってるの」
悠真が笑った。
「俺じゃないな」
「そうね」
二人とも笑った。
寂しい。
だから行くな。
ではない。
寂しい。
それでも行ってほしい。
二つの気持ちは、同時にあっていい。
悠真はようやく、それを少し理解した。
その夜。
悠真は机の上で、海外研修に必要な書類を整理していた。
パスポート。
健康診断。
語学研修。
現地での住居。
書き込む項目がいくつもある。
最後の方に、
緊急連絡先
という欄があった。
悠真の手が止まった。
ほんの少し前まで。
迷わず書いていた名前がある。
高橋美咲。
今は、書けない。
悠真は空欄を長いこと見た。
やがて。
佐藤和子。
母親の名前を書く。
ペンを置く。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が急に空いたような感覚がした。
美咲はもう、自分の緊急連絡先ではない。
別れとは、こういう場所にも現れるのだと初めて知った。
美咲が新しい部屋へ帰った頃には、少し酒が残っていた。
靴を脱ぐ。
一足だけ。
白いマグカップ。
小さな鍋。
数日前より、少しだけ生活の匂いが増えている。
冷蔵庫を開ける。
中にはプリンが二つあった。
同僚が持たせてくれたものだった。
一つ取る。
蓋を開ける。
食べる。
そして、もう一つを見る。
以前なら、何も考えず冷蔵庫の奥へ入れていた。
悠真の分。
美咲の手が止まる。
数秒して、そのまま冷蔵庫へ戻した。
小さく言う。
「明日食べよ」
明日の自分のために。
その言葉が、思ったより寂しくなく聞こえた。
翌日。
悠真は海外研修の手続きを進めていた。
隣の同僚が書類を見て言う。
「一年か」
「うん」
少しして、
「彼女、大丈夫?」
と訊いた。
悠真の手が止まる。
「別れました」
同僚が目を見開く。
「え」
「最近」
同僚は少し困ったあと、悪気なく言った。
「じゃあ……ちょうどよかった?」
悠真はすぐ顔を上げた。
「違う」
声が思ったより強くなった。
同僚が黙る。
悠真も一度息を吐いた。
「すみません」
それから、落ち着いて言い直す。
「別れたから行くわけじゃないです」
同僚は何も言わない。
悠真は続けた。
「行きたいから行きます」
その言葉を言ったあと。
悠真自身が少し驚いた。
でも、もう言い直す必要はなかった。
昼休み。
美咲のスマートフォンにメッセージが届いた。
悠真の母親から。
「少し電話できる?」
美咲はしばらく見た。
それから、屋上へ移動して電話を掛けた。
「もしもし」
「美咲ちゃん」
「はい」
「仕事中?」
「今、昼休みです」
母親が言う。
「正社員になったって聞いた」
美咲が少し驚く。
「悠真から?」
「うん」
胸の奥が、わずかに動いた。
悠真は、自分にではなく母親へそのことを話していた。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
少しの間。
母親が続けた。
「悠真も」
美咲は黙る。
「決めたよ」
分かるような気がした。
それでも訊いた。
「何を?」
「海外」
美咲は目を閉じた。
「……そうですか」
「一年」
「はい」
母親は少し笑ったようだった。
「行きたいって」
美咲の目がゆっくり赤くなる。
「初めて聞いた」
母親は言う。
「悠真が、自分から」
少し間を置く。
「行きたいって言うの」
美咲はスマートフォンを強く握った。
そして、泣きそうな声で笑った。
「……よかった」
母親は何も言わない。
美咲はもう一度。
「本当に」
息を整える。
「よかったです」
少しして。
母親が訊いた。
「美咲ちゃん」
「はい」
「寂しい?」
美咲が止まった。
大丈夫?
ではなかった。
寂しい?
そう訊かれた。
美咲は目を閉じた。
今度は迷わなかった。
「……寂しいです」
母親が少し笑う。
「私も」
美咲も泣きながら笑った。
電話を切ったあと。
美咲は会社の屋上に一人で座っていた。
涙は止まらない。
でも口元には、小さな笑みが残っている。
悠真は自分を待たなかった。
自分に許可を求めなかった。
海外へ行くことを、復縁の材料にも使わなかった。
ただ。
自分が行きたいから、選んだ。
美咲はスマートフォンを開いた。
悠真との画面。
今度は文字を打っても消さなかった。
「海外、行くんだね」
送信。
悠真の会社。
スマートフォンが震える。
美咲。
悠真の手が止まった。
文章を見る。
少しして。
「うん」
と返す。
美咲から次。
「行きたかった?」
悠真は読んだ。
小さく笑う。
「行きたかった」
送る。
美咲はその言葉を見た。
目からまた涙が落ちる。
「そっか」
続けて。
「よかった」
悠真の目も赤くなった。
あの時、もし美咲が嫌だと言えば。
そんなことを考えそうになる。
でも、今は違う。
返信する。
「ありがとう」
それで終わるはずだった。
少しして、美咲からもう一通届く。
「いつ?」
悠真は行程表を見る。
「三週間後」
美咲は、その文字を長いこと見ていた。
三週間。
思っていたより早い。
入力欄を開く。
「会う?」
そこまで打つ。
指が止まる。
送らない。
一方。
悠真も入力欄を開いていた。
「出発前に一回会える?」
打ち終える。
見つめる。
送らない。
別々の場所で。
二人はほとんど同じことを考えていた。
そして。
美咲が先に文字を消した。
少し遅れて、悠真も消した。
三週間後。
悠真のカレンダー。
その日には一つの予定が入っている。
「出発」
同じ日。
美咲の会社の予定表。
「正社員研修初日」
それぞれが選んだ新しい生活は。
偶然にも、同じ朝から始まることになった。




