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あと十日だけ  作者: 幕神成


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第15話 いってらっしゃい

誰かを手放すということは、もう愛さなくなることではないのかもしれない。


寂しくても、まだ好きでも。


その人が自分のために立ち止まることを、もう望まないことなのだ。

朝五時四十二分。


悠真の部屋には、まだ夜の名残が残っていた。


玄関には大きなスーツケースが一つ。


三週間前まで美咲の荷物があった場所には、海外研修に必要なものがまとめられている。


パスポート。


財布。


スマートフォン。


充電器。


悠真は一つずつ指差して確認した。


「パスポート」


「財布」


「携帯」


そこまで確認して、手が止まる。


「あと何だっけ」


無意識に寝室の方を向いていた。


返事はない。


旅行や帰省の前、美咲はいつも最後に確認していた。


充電器は。


薬は。


鍵は。


悠真が「大丈夫」と答えると、だいたい一つくらい忘れていた。


「……そうだった」


誰に言うでもなく呟き、スマートフォンを手に取った。


美咲とのトーク画面を開く。


別れてから三週間。


完全に連絡を絶っていたわけではない。


「書類届いた」


「ありがとう」


「正社員研修、頑張って」


「海外の準備どう?」


やり取りは、それだけだった。


牛乳を買って。


今日は遅くなる。


何時に帰る。


おやすみ。


そういう生活の言葉は、もう一つもない。


悠真は入力欄を開いた。


「今から空港行く」


そこまで書いた。


少し見る。


消す。


次に、


「今日、行ってくる」


と打った。


また止まる。


これも消した。


結局、何も送らずにスマートフォンを閉じた。


同じ朝。


六時十分。


美咲は新しい部屋の鏡の前に立っていた。


今日から始まる正社員研修のために、いつもよりきちんとスーツを着ている。


髪を整え、胸元の名札を確認する。


高橋美咲。


誰かについていくために手放そうとしていた未来ではない。


自分で選んだ場所に、自分の名前がある。


鏡の中の自分を見て、美咲は小さく言う。


「よし」


鞄を持つ。


テーブルの横を通ったところで、一つのプリンが目に入った。


三週間前のものではない。


昨夜、自分で買った。


一つだけ。


美咲は少し笑って、それを鞄へ入れた。


スマートフォンの画面が光る。


日付が目に入った。


その瞬間、動きが止まる。


もちろん覚えていた。


今日は、悠真が日本を出る日だ。


トーク画面を開く。


新しいメッセージはない。


「もう出た?」


と打つ。


指が止まる。


消した。


スマートフォンを鞄へ入れる。


「……行こう」


扉を閉めた。


空港へ向かう列車の窓から、東京の街が流れていった。


悠真は窓側に座り、隣には小さな手荷物だけを置いている。


住宅街。


高架。


見慣れた駅。


何度も通った街が、少しずつ後ろへ消えていく。


スマートフォンが震えた。


母親だった。


「着いたら連絡して」


悠真は、


「了解」


と返す。


すぐ次が来た。


「忘れ物ない?」


悠真は少し笑った。


「たぶん」


「たぶんって何」


返信欄に、


「大丈夫」


と打つ。


そこで止まった。


少し考えて全部消す。


「忘れてたら現地で買う」


送信。


少しして。


「それでいい」


母親から返ってきた。


悠真は画面を見ながら笑った。


以前なら、忘れ物がないことを証明しようとしていた。


今日は、忘れていたらその時考えればいい。


それだけだった。


美咲は会社の研修室に座っていた。


数十人の新しい正社員が並んでいる。


前方では講師が話していた。


「本日から皆さんは、正式に正社員として――」


美咲はノートを取りながら聞いていた。


机の上には名前がある。


高橋美咲。


講師が言った。


「まずは隣の方と簡単に自己紹介をしてください」


隣の女性が振り向く。


「初めまして」


美咲も頭を下げた。


「初めまして。高橋です」


「高橋さんは、契約社員から?」


「はい」


「何年くらい?」


「三年です」


相手が少し驚いた。


「長かったですね」


美咲も一瞬止まった。


三年。


仕事だけの意味ではない言葉になってしまった。


それでも、笑って答えた。


「はい」


そして少し間を置く。


「でも、やっとです」


その言葉を自分で聞いて、美咲も少し笑った。


空港。


悠真は荷物を預けた。


「お荷物はこちら一点ですね」


「はい」


スーツケースがベルトコンベアに乗り、少しずつ遠ざかる。


悠真はなぜか最後まで見ていた。


黒いケースが完全に見えなくなってから、ようやく歩き出す。


すぐ近くに、若い男女がいた。


女の方が何度も確認している。


「パスポート?」


「ある」


「財布?」


「ある」


「充電器?」


男が答える。


「たぶん」


「たぶんじゃない!」


二人で笑っている。


悠真の足がほんの少し遅くなった。


昔なら、自分たちもあんなふうだった。


けれど、立ち止まりはしなかった。


そのまま前へ進んだ。


昼休み。


美咲は新しく知り合った同僚と社員食堂にいた。


最初は研修の話をしていた。


配られた資料。


会社の制度。


これから配属される部署。


話しているうちに、自然とプライベートの話になった。


「高橋さんって、結婚してます?」


美咲は少し止まる。


「してないです」


相手は何気なく続ける。


「彼氏は?」


また少しだけ間ができた。


三週間前なら、その質問に「別れたばかりで」と説明したかもしれない。


今日は。


「いないです」


そう答えた。


言ったあと、美咲自身が少し驚いた。


悠真を否定したわけではない。


過去にしたわけでもない。


ただ、今の自分には恋人がいない。


それだけだった。


相手が少し笑う。


「じゃあ、今はいろいろ自由ですね」


美咲も笑った。


「そうですね」


嬉しくも、悲しくもなかった。


まだ完全には慣れていない。


でも、事実として受け取ることはできた。


空港の搭乗待合室。


出発まで四十分。


悠真はとうとうスマートフォンを取り出した。


美咲との画面を開く。


少し考えて。


「空港着いた」


今度は消さなかった。


送信。


一分。


五分。


既読にはならない。


悠真は画面を見たあと、少しだけ笑った。


スマートフォンをしまう。


もう一通送ろうとは思わなかった。


仕事中だろう。


ただ、それだけだった。


研修の休憩時間。


美咲は鞄からスマートフォンを出した。


画面を開いた瞬間、表情が変わる。


悠真。


「空港着いた」


二十七分前。


胸の奥で、ずっと静かにしていたものが急に動いた。


美咲は返信欄を開いた。


「そっか」


打つ。


冷たすぎる気がした。


消す。


「気をつけて」


今度は、ただの友達のように見えた。


また消した。


「高橋さん」


隣から呼ばれる。


「休憩終わりますよ」


「あ、はい」


美咲はスマートフォンを閉じた。


結局、何も送れなかった。


空港では、搭乗案内が始まった。


悠真は立ち上がる。


スマートフォンを見る。


まだ返事はない。


「仕事か」


小さく言う。


以前のように、相手の沈黙を勝手に悪い意味へ変えなかった。


美咲は仕事をしている。


自分は出発する。


今日は、それぞれに大事な日だった。


列が進む。


悠真も前へ進む。


搭乗券を差し出す。


読み取り音。


「ありがとうございます」


通路へ進もうとしたところで、スマートフォンが震えた。


足が止まる。


画面を見る。


母親。


「ちゃんと食べなさい」


その下。


「いってらっしゃい」


悠真は笑った。


「行ってきます」


と返した。


そして歩き出した。


午後の研修。


講師が一枚の紙を配った。


「五年後、自分がどうなっていたいか。三分で書いてください」


美咲は白い紙を見る。


少し前まで、五年後と聞けば自然にいくつかのものが浮かんだ。


結婚。


家。


悠真。


もしかしたら、子ども。


今日は何も浮かばなかった。


空白だった。


けれど、その空白は以前ほど怖くなかった。


美咲はペンを持つ。


少し考える。


書いた。


「自分で選べる人」


しばらく見て。


その下にもう一行。


「選んだことを、人のせいにしない人」


ペンを置く。


五年後の隣に誰がいるのかは分からない。


今は、それでよかった。


研修の午後日程が終わった。


「本日は以上です」


全員が立ち上がる。


「ありがとうございました」


美咲も頭を下げ、資料をまとめた。


スマートフォンを取り出す。


時間を見る。


顔が変わった。


すぐに悠真との画面を開く。


最後のメッセージ。


「空港着いた」


一時間以上前。


美咲はすぐに打った。


「もう乗った?」


送信。


未読。


その文字を見ながら廊下へ出る。


機内。


悠真は席に座り、シートベルトを締めていた。


スマートフォンが震える。


美咲。


「もう乗った?」


悠真の呼吸が一瞬止まった。


すぐに返す。


「乗った」


既読になる。


今度は美咲からの返信も早かった。


「そっか」


少しして、入力中の表示。


消える。


また表示される。


悠真は待った。


「一年?」


「うん」


「長いね」


悠真は画面を見ながら少し笑う。


「長いな」


会社の廊下で、美咲はスマートフォンを握っていた。


「会えばよかった」


そこまで打つ。


指が止まる。


消した。


機内では、悠真も同じように入力していた。


「出発前に会いたかった」


しばらく見た。


消す。


機内放送が流れる。


電子機器を機内モードへ切り替えるよう案内が流れた。


もう時間がない。


悠真は入力欄を開いた。


「じゃあ」


違うと思った。


消す。


少し考える。


そして。


「行ってきます」


送信。


美咲の画面に、その言葉が現れた。


一瞬で目が赤くなった。


三年間。


何度聞いただろう。


朝。


玄関で靴を履いた悠真が言った。


行ってきます。


美咲はいつも答えた。


いってらっしゃい。


特別な意味などなかった。


明日も帰ってくることを、疑ったことさえなかった。


何でもない日常の言葉だった。


だからこそ。


今は、ほかの何より胸に刺さった。


美咲は涙を拭わずに打った。


「いってらっしゃい」


送信。


悠真の画面に表示された。


長いこと見た。


それから笑った。


目も赤くなっていた。


でも、もう何も返さなかった。


機内モードを入れる。


画面が暗くなる。


機体がゆっくり動き始めた。


悠真は窓の外を見た。


指輪は持ってきていない。


写真も開かなかった。


ただ、遠ざかっていく東京を見ていた。


美咲も会社を出た。


外は、いつもの東京だった。


信号。


コンビニ。


帰宅を急ぐ人。


電車の音。


悠真が日本を離れても、街は何も変わらない。


美咲は駅へ向かって歩いた。


途中。


一度だけ空を見た。


もちろん、どの飛行機か分かるはずもない。


それでも少しだけ立ち止まった。


スマートフォンには、最後の二つの言葉が残っている。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


美咲は画面を見た。


何かを送ろうとはしなかった。


スマートフォンを鞄へ入れる。


そして、また歩き出した。


その頃。


悠真を乗せた飛行機は滑走路を離れた。


東京の街が少しずつ小さくなっていく。


悠真は窓の外を見続けていた。


寂しかった。


怖かった。


美咲に会いたかった。


それでも。


戻りたいとは思わなかった。


今、自分が向かっている場所も。


自分が選んだ人生だった。


雲の中へ機体が入る。


東京が見えなくなる。


同じ朝から始まった二人の新しい生活は。


もう、同じ場所へは向かっていなかった。


それでも。


どちらも立ち止まってはいなかった。

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