第16話 一年後
あの人がいなければ生きていけない。
かつては、そう思っていた。
けれど一年も経てば、人は一人でも朝を迎え、食事をし、仕事へ行き、笑うことができる。
だからこそ、もっと難しい問いが残る。
一人でもちゃんと生きられるようになったあとで、それでも誰かを愛する必要はあるのだろうか。
朝七時三分。
美咲の部屋にアラームが鳴った。
布団の中から手を伸ばし、音を止める。
以前ならそのままスマートフォンを手に取り、通知を確認していた。
今は違った。
美咲は目を開けると、少しだけ天井を見てから起き上がった。
カーテンを開ける。
朝の光が部屋へ入ってくる。
一年前、この部屋には段ボール箱が積み上がっていた。
床には最低限のものしかなく、キッチンには一人分の食器だけ。
今では、その頃の面影はほとんどなかった。
窓辺には小さな植物。
壁際には本棚。
机の上には仕事の資料と、読みかけの本。
キッチンの棚には二つのマグカップと、三枚の皿。
鍋も一つではない。
一人で暮らすために借りた部屋は、いつの間にか、美咲が暮らしている部屋になっていた。
冷蔵庫を開ける。
卵。
牛乳。
食パン。
迷わず必要なものだけを取る。
卵は一つ。
以前のように、その数で手が止まることはもうない。
フライパンへ卵を落とし、ラジオ代わりにニュースを流す。
スマートフォンが一度鳴った。
会社のグループチャット。
美咲は内容を確認し、短く返信してから朝食を続けた。
それだけだった。
食事を終え、出かける準備をする。
鏡の前。
社員証を首から下げる。
高橋美咲。
もう新人を示す印はない。
美咲は髪を整え、鞄の中を確認した。
「携帯」
「財布」
「鍵」
そこで一度止まる。
それから、自分で少し笑った。
「よし」
誰かに確認してもらわなくても、出かけられる。
玄関でゴミ袋を持ち、照明を消した。
靴を履く。
扉を開ける前に、
「行ってきます」
と自然に口から出た。
一瞬だけ、自分の声に気づく。
一年前なら、誰もいない部屋にそんなことは言わなかった。
今では、いつの間にか習慣になっていた。
美咲はそのまま扉を閉めた。
同じ頃。
雲の上。
飛行機の窓から、日本の輪郭が少しずつ見え始めていた。
悠真は窓側の席に座っていた。
一年前より少し痩せた。
髪も短くなっている。
着ている服も、以前より少しだけ軽い。
けれど、窓の外を見る時の表情は、昔とあまり変わらなかった。
機内放送が流れる。
間もなく到着するという案内。
悠真は窓の下に広がる街を見た。
一年。
長かったようにも。
思っていたより短かったようにも感じる。
やがて、小さく言った。
「帰ってきた」
誰に聞かせるでもなかった。
着陸後、機内モードを解除すると、スマートフォンに一斉に通知が入った。
会社。
海外の同僚。
母親。
母親からは、すでに何件か来ている。
「着いた?」
悠真は笑いながら返信した。
「今着いた」
すぐに返事。
「今日帰ってくる?」
「明日」
「なんで」
「会社寄る」
「一年ぶりなのに会社?」
悠真は少し笑った。
「帰国の報告と手続きだけ」
しばらくして。
「変わってない」
母親から返ってくる。
悠真はその文字を見たあと、
「少しは変わった」
と送った。
通知を整理しているうちに、指が自然と画面を下へ滑った。
一つの名前が目に入る。
高橋美咲。
最後の会話は、一年前。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
それ以降、一度もやり取りはなかった。
悠真の指が、その名前の上で止まった。
けれど、開かなかった。
画面を閉じる。
荷物を持って席を立った。
美咲の会社では、午前中の会議が始まっていた。
彼女はホワイトボードの前に立っている。
以前なら、人の説明を聞きながら必死にノートを取っていた側だった。
今は、新しく入った社員へ仕事を説明していた。
「この部分なんですけど」
資料を示す。
「最初は分かりにくいので、分からなかったら聞いてください」
新人が頷く。
「はい」
美咲は二歩ほど進む。
そこで何か思い出したように振り返った。
「あと」
新人が顔を上げる。
「分からないまま、大丈夫って言わなくていいから」
新人が少し笑った。
「はい」
美咲自身も、その言葉を聞いて一瞬止まった。
そして、小さく笑う。
そのまま仕事へ戻った。
昼休み。
一年前、美咲の正社員登用を祝ってくれた同僚と食事をしていた。
「高橋」
「ん?」
「今度の飲み会来る?」
「誰いるの?」
「営業と企画」
美咲が目を細める。
「合コン?」
「違う」
同僚が少し間を置く。
「半分」
美咲が笑った。
「じゃあ合コンじゃん」
「そろそろ誰かと飲みに行ってもいいんじゃない?」
美咲の箸が一瞬だけ止まる。
「何それ」
「いい人いないの?」
「いない」
「本当に?」
「本当」
同僚が少しだけ美咲の顔を覗く。
「まだ佐藤さん?」
美咲の箸が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「分かんない」
「連絡は?」
「してない」
「一年?」
「一年」
同僚が目を丸くする。
「すご」
美咲は笑った。
「何が」
「待ってるの?」
今度は、美咲はすぐに答えた。
「待ってない」
強がった声音ではなかった。
同僚もそれを分かっているようだった。
「仕事もしたし」
美咲は指を折る。
「旅行も行ったし」
「一人で家具の配置も全部変えたし」
同僚がすぐ突っ込む。
「それ、そんな大仕事?」
「一人でやると大仕事なの」
二人で笑った。
美咲はお茶を一口飲んだ。
そして、少しだけ考えるように言った。
「待ってないよ」
一度止まる。
「でも」
同僚が見る。
「忘れてもない」
空港。
悠真は預けていた荷物を受け取った。
到着ロビーへ出る。
柵の向こうには、迎えに来た人が大勢いる。
名前を書いた紙。
家族。
恋人。
久しぶりに会った人同士が抱き合っている。
悠真はスーツケースを引きながら、その間を通った。
自分を待っている人はいない。
少し周囲を見る。
それから笑った。
別に寂しくはなかった。
いや。
少しは寂しい。
でも、それで困るわけではなかった。
空港のコンビニへ入る。
冷蔵ケースからアイスコーヒーを取る。
店員が、
「温かいものもありますが」
と声を掛けた。
悠真は首を振った。
「これで」
外へ出る。
一口飲む。
懐かしい味がした。
スマートフォンが鳴る。
海外で一緒だった同僚。
「着いた?」
悠真は手にしたコーヒーの写真を撮った。
「着いた」
すぐに返信。
「日本帰って最初がコーヒー?」
悠真は笑う。
「これ飲みたかった」
送信。
その言葉を、何の迷いもなく書いていた。
一年前なら。
自分が何をしたいか。
何を欲しいか。
そんなことを口にする前に、もう一つ理由を探していた。
今は、ただ飲みたかったから飲んだ。
午後。
悠真は帰国の報告と手続きのため、会社へ顔を出した。
「佐藤!」
「久しぶり!」
同僚たちが集まってくる。
「焼けた?」
「室内勤務だから」
「英語ペラペラ?」
「一年でそんなならない」
笑い声が上がる。
その奥から上司が歩いてくる。
「おかえり」
悠真も自然に頭を下げた。
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
悠真は少し考えた。
たくさんのことがあった。
苦労もした。
孤独な日もあった。
思うようにいかなかったこともある。
でも。
答えは短かった。
「行ってよかったです」
上司は一度頷いた。
「じゃあ次の話」
悠真が笑う。
「もうですか?」
「もう」
一枚の資料が置かれる。
帰国後の配属。
以前いた部署ではなかった。
新しいプロジェクト。
役職も一つ上がっている。
悠真は内容を読む。
「どう?」
上司が訊いた。
悠真は資料をもう一度見る。
「面白そうですね」
「やる?」
「はい」
少しだけ間を置く。
「やります」
自分の意思を口にしたあとで、必要な条件はこれから確認すればいい。
以前とは、順番が少し変わっていた。
夕方。
美咲は仕事帰りにスーパーへ寄った。
肉売り場。
二人用のパックが並んでいる。
視線だけ通り過ぎる。
一人分にちょうどいいものを選ぶ。
もう、そこで心が止まることはない。
調味料売り場。
かつて悠真が好きだった辛いソースが目に入った。
一度見る。
そのまま通り過ぎる。
数歩。
美咲は戻った。
一本取る。
裏の表示を見る。
ちょうど品出しをしていた店員へ訊く。
「これ、辛いですか?」
「結構辛いですよ」
美咲は少し考える。
「じゃあやめます」
棚へ戻した。
自分で笑う。
買わない理由は、悠真がいないからではない。
ただ。
自分は辛いものがあまり好きではない。
それだけだった。
夕方。
悠真は一年ぶりに、以前の部屋へ戻った。
海外研修は一年だけの予定だった。
会社の住宅補助も一部継続したため、部屋は解約せず、その間の管理だけを頼んでいた。
鍵を開ける。
閉め切っていた空気が、ゆっくり流れてくる。
「ただいま」
声が部屋へ落ちる。
一年前なら、そのあと自分で、
「おかえり」
と返したこともあった。
今日はしなかった。
窓を開ける。
空気を入れ替える。
家具は以前より少ない。
でも、キッチンの棚を開けると、あの鍋が残っていた。
悠真は少し笑う。
「まだある」
別の引き出し。
奥に、小さな箱。
指輪。
手が止まる。
取り出す。
一年ぶりに手の中へ置いた。
けれど、蓋は開けなかった。
しばらく見たあと。
元へ戻す。
さらに奥には紙袋がある。
あの小さな白い靴下。
それも取り出さなかった。
ただ、そこにあることを確かめる。
そして静かに引き出しを閉じた。
消えたわけではない。
忘れたわけでもない。
でも。
毎日傷を開かなければ、大切だったことを覚えていられないわけではなくなった。
その夜。
美咲は自分の母親と電話をしていた。
「仕事どう?」
「忙しい」
「ちゃんと食べてる?」
美咲は鍋を見る。
「今作ってる」
少し世間話をしたあと、母親が聞く。
「彼氏は?」
美咲は笑った。
「いない」
「誰か紹介しようか?」
「いらない」
「ずっと一人でいるつもり?」
美咲は嫌な顔をしなかった。
「一人でいるって決めてるわけじゃないよ」
母親が少し黙る。
「じゃあ、いい人いたら?」
美咲は鍋の火を弱めながら考えた。
「その時考える」
「そう」
母親も、それ以上は言わなかった。
翌日。
悠真は母親の家へ向かった。
扉が開く。
一年ぶりに顔を合わせる。
母親の第一声は。
「痩せた?」
悠真が笑う。
「最初それ?」
「ちゃんと食べてた?」
「食べてた」
「顔見せて」
「嫌だよ」
母親が顔を覗き込む。
悠真が避ける。
「子どもじゃないって」
母親は平然と言う。
「子どもです」
二人とも笑った。
食卓には、明らかに作りすぎた料理が並んでいた。
悠真が見る。
「多くない?」
「一年分」
「食えるわけない」
「食べなさい」
食事をしながら、一年分の話をした。
海外のこと。
仕事。
近所。
母親の腰。
通院。
母親はもう、一人で病院へ行っていた。
ネットで買い物もできるようになった。
家の中も、一年前とほとんど変わっていない。
悠真がいないからといって、母親の生活は壊れなかった。
悠真はその姿をしばらく見ていた。
そして訊いた。
「俺いなくても平気だった?」
母親は少し考える。
「平気じゃない日もあった」
悠真が黙る。
母親は味噌汁を一口飲んだ。
「でも」
悠真を見る。
「平気じゃない日があるのと、一人で生きられないのは違うから」
悠真はその言葉を少し考えた。
それから笑う。
「そっか」
しばらくして。
母親が何気なく訊いた。
「美咲ちゃんには?」
悠真の箸が止まる。
「連絡してない」
「帰ってきたこと」
「言ってない」
「なんで?」
悠真は少し考えた。
「言う理由がないから」
母親は彼を見る。
「会いたくない?」
今度は少し長い沈黙だった。
でも、答えそのものには迷わなかった。
「会いたいよ」
とても静かな声だった。
母親が言う。
「じゃあ会えば」
悠真は苦笑した。
「母さん、すぐそれ言うな」
「だって会いたいんでしょ」
悠真は少し考えた。
「うん。でも、俺が会いたいだけで決めることじゃないから」
母親は少し考えた。
「そう」
悠真が頷く。
「うん」
それ以上、母親は言わなかった。
一年の間に変わったのは、悠真だけではなかった。
東京。
その夜。
美咲はいつものように帰宅した。
夕食を作る。
風呂へ入る。
翌日の資料を確認する。
いつもと同じ。
テレビでは、海外のニュースが流れていた。
美咲は一瞬だけ画面を見る。
以前なら、それだけで悠真のいる国を考えていたかもしれない。
今日はニュースの内容を聞いて、そのまま資料へ視線を戻した。
夜が過ぎる。
同じ頃。
悠真も以前の部屋で、美咲とのトーク画面を開いていた。
入力する。
「帰ってきた」
少し見る。
消す。
「元気?」
違う。
消す。
「久しぶり」
そこまで打つ。
また消した。
悠真はスマートフォンを机へ置いた。
母親に言った言葉を思い出す。
――会いたいよ。
それは本当だった。
ただ。
以前の自分が美咲に会いたかった理由とは、少し違う。
別れたくないからでも。
戻ってきてほしいからでも。
自分が変わったことを見せたいからでもない。
一年。
美咲がいない場所で生きた。
美咲も、自分がいない場所で生きている。
その上で。
今の美咲が、どんな顔で笑うのか。
どんな仕事をして。
どんなものを好きになって。
何を嫌だと思うのか。
ただ、知りたいと思った。
悠真はもう一度スマートフォンを手に取った。
それでも、その夜は送らなかった。
翌日の昼。
美咲は会社で昼食を取っていた。
スマートフォンが鳴る。
何気なく手に取る。
画面を見た瞬間。
動きが止まった。
佐藤悠真。
一年間、一度も自分から連絡してこなかった名前。
美咲の呼吸が少し浅くなる。
メッセージを開く。
「久しぶり」
たったそれだけ。
美咲は長いこと見ていた。
その四文字を見ただけで、分かった。
帰ってきた。
知らなかった。
誰からも聞いていなかった。
なのに。
胸の奥にあった何かが、一瞬で目を覚ました。
返信を打つ前に。
二通目。
「急にごめん」
そして三通目。
「一つ、聞きたいことがある」
美咲の指が入力欄の上で止まる。
その瞬間。
悠真からもう一通届いた。
「今度の日曜日」
少しして。
「会えない?」
一年。
二人とも別々に暮らした。
別々に仕事をした。
別々に朝を迎えた。
誰かのせいにせず、自分の生活を少しずつ作った。
今、そこには。
引っ越しも。
母親も。
仕事の都合も。
海外も。
二人の代わりに答えを出すものは、何もない。
ただ、一人の人間が。
もう一人の人間に。
会いたいと思っている。
美咲はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。
隣の同僚が気づく。
「高橋?」
美咲は答えない。
「どうしたの?」
それでも目を離さなかった。
入力欄を開く。
一度、
「いいよ」
と打った。
消した。
次に、
「何時?」
と打つ。
また止まる。
以前なら。
何と返すのが正しいのか。
返したら何が始まるのか。
期待させない方がいいのか。
そんなことを先に考えていた。
今は。
自分がどうしたいのかを考えた。
答えは、思ったより早かった。
「会いたい」
打つ。
しばらく見る。
そのまま送った。
悠真の画面に、その三文字が届く。
彼は長いこと見た。
それから、ほんの少し笑った。
美咲の隣で、同僚が小さな声で訊いた。
「誰?」
美咲はスマートフォンから目を離さなかった。
少しして。
とても小さく答えた。
「……会いたかった人」




