最終話 いってきます
別れたのは、愛がなくなったからではなかった。
誰かを愛するために、自分までなくしてはいけない。
それを知るために、二人には離れる時間が必要だった。
そして本当に手放すということは、忘れることではない。
もう一度会った時、心が動いても、苦しくても、それでも相手が自分のいない未来を選ぶことを許せることなのかもしれない。
日曜日の午前十時四十七分。
美咲は鏡の前に立っていた。
白いブラウスを着ている。
しばらく自分を見る。
首を傾げる。
一度脱いだ。
別の服を出す。
着る。
また鏡を見る。
「……違う」
もう一度脱ぐ。
三着目を手に取ったところで、ようやく自分が何をしているのか気づいた。
美咲は鏡の中の自分を見たまま笑った。
「何してんだろ」
結局、最初の白いブラウスに戻した。
特別ではない。
仕事に着ていくほど堅くもなく、デートのために選んだと言うほど気合いも入っていない。
今の自分が、普通に好きな服だった。
鞄を持つ。
玄関へ向かう途中で、スマートフォンが光った。
佐藤悠真。
一年前まで、それだけで胸の奥が大きく揺れた名前。
今も、少し揺れる。
「着いた」
美咲はその三文字を長いこと見た。
今日、本当に会う。
一年ぶりに。
指先を動かした。
「今行く」
送信。
靴を履き、扉を閉めた。
待ち合わせは、駅の近くにある何の変哲もないカフェだった。
悠真は窓際の席に座っていた。
目の前にはアイスコーヒー。
まだほとんど減っていない。
スマートフォンを見る。
入口を見る。
またスマートフォンを見る。
自分でも落ち着きがないと分かっていた。
店員が水を足しながら訊いた。
「お連れ様、もうすぐですか?」
悠真は一瞬だけ言葉に詰まった。
「はい」
答えてから、少しだけ可笑しくなる。
連れ。
友人。
元恋人。
どの呼び方もしっくりこない。
今はまだ、何でもない。
それがいちばん正確なのかもしれなかった。
入口の扉が開いた。
悠真が顔を上げる。
美咲が入ってきた。
目が合う。
どちらも、すぐには動かなかった。
一年。
顔そのものはほとんど変わらない。
けれど、立ち方も。
服も。
表情も。
ほんの少しずつ違っていた。
美咲が先に笑った。
「久しぶり」
悠真も、少し遅れて笑う。
「……久しぶり」
美咲が向かいに座る。
小さなテーブルが一つ。
かつて同じベッドの中で、三十センチにも満たない距離がどうしようもなく遠かった二人が。
今はテーブル一枚を挟みながら、あの頃よりずっと近くにいるように感じた。
最初に話したのは、驚くほどどうでもいいことだった。
「いつ帰ってきたの?」
「火曜」
「仕事は?」
「もう始まってる」
「早」
「美咲は?」
「忙しい」
「正社員?」
美咲が少し得意そうに言った。
「ちゃんとやってる」
悠真が笑う。
「知ってる」
「何で」
「母さん」
美咲が一瞬止まる。
「まだ連絡してるんだ」
「たまに」
「嫌?」
悠真はすぐ首を振った。
「全然」
そこで一度、会話が切れた。
気まずいというより、次にどこまで踏み込んでいいのか、二人とも測っているような沈黙だった。
美咲が先に訊いた。
「海外どうだった?」
悠真は少し考えた。
「楽しかった」
美咲がほんの少し目を大きくする。
昔の悠真なら。
まあまあ。
何とか。
大丈夫だった。
そんな答え方をしていた。
今日は違った。
「そっか」
美咲が笑う。
悠真も続けた。
「しんどかったけど」
「うん」
「帰りたい日もあった」
「うん」
「でも」
少しだけコーヒーを見た。
「行ってよかった」
美咲はその顔を見た。
本当にそう思っている人の顔だった。
「よかったね」
その言葉に、寂しさはなかった。
少なくとも、美咲自身はそう感じた。
悠真が訊き返す。
「美咲は?」
「何が?」
「一年」
美咲は少し考えた。
そして、正直に言った。
「楽しかった」
悠真の表情が一瞬止まる。
美咲が笑う。
「何その顔」
「いや」
悠真も笑った。
「もっと寂しかったとか言うかと思った」
「寂しかったよ」
悠真は黙る。
美咲は続けた。
「でも、楽しかった」
仕事で評価された日。
初めて一人で旅行した休日。
友人と遅くまで飲んだ夜。
熱を出して、一人で薬を買いに行った日。
一人で家具を組み立てて、棚板を逆向きにつけた日。
そういう一年だった。
悠真は数秒、美咲を見た。
それから笑った。
「そっか」
傷ついたようには見えなかった。
むしろ、少し安心したようだった。
「悠真は?」
「俺も」
少し間を置く。
「結構楽しかった」
美咲が吹き出す。
「じゃあ私たち、別れてから楽しそうだね」
悠真が嫌そうな顔をする。
「言い方」
二人とも笑った。
そして。
ほとんど同時に、笑いが小さくなった。
確かに。
少し残酷な事実だった。
好きだった。
離れたくなかった。
それでも、離れたあとに二人とも以前よりちゃんと笑えるようになった。
美咲はコーヒーを一口飲んだ。
「で?」
悠真が首を傾げる。
「ん?」
「聞きたいこと」
「ああ」
連絡をした時、自分からそう書いたのだった。
悠真の表情が少し固くなる。
美咲が訊く。
「何?」
悠真は答える代わりに、鞄へ手を入れた。
「その前に」
小さな紙袋を取り出す。
テーブルの上へ置いた。
美咲は一目で分かった。
笑みが消えた。
袋の中に入っていたのは、小さな白い靴下だった。
あの時、悠真の部屋へ残してきたもの。
美咲はしばらく触れなかった。
「……持ってたんだ」
「うん」
「一年?」
「うん」
少しして、美咲が訊く。
「どうするの?」
悠真は答えなかった。
代わりに、彼女を見る。
「美咲はどうしたい?」
美咲の目がゆっくり上がった。
以前なら。
自分で保管する。
捨てる。
美咲に返す。
何か一つを選び、それを正解のように差し出していただろう。
今は、訊いた。
美咲は靴下を見た。
長いこと。
「捨てたくない」
「うん」
「でも」
言葉を探す。
「私が持つのも、なんか違う気がする」
悠真も小さく頷いた。
「俺も」
二人で黙って見る。
小さな靴下が、二つ。
美咲が突然、少し笑った。
「じゃあ、半分」
「え?」
袋から取り出す。
美咲は一つを自分の前へ置いた。
もう一つを悠真へ押す。
悠真は意味が分からず見ている。
美咲が言った。
「半分持つって言ったでしょ」
悠真の目が赤くなった。
それでも笑う。
「そういう意味じゃなかったけど」
「いいじゃん」
「片方だけ持ってどうすんの」
美咲が肩をすくめる。
「知らない」
二人で笑った。
結局。
一つは美咲の鞄へ。
もう一つは悠真の紙袋へ戻った。
失ったものを半分にしたわけではない。
思い出を分けたわけでもない。
ただ。
あれはどちらか一人だけの人生ではなかった。
それで十分だった。
カフェを出た。
空はよく晴れていた。
歩き始めてすぐ、美咲が言う。
「で?」
悠真が見る。
「まだ?」
「質問」
「忘れてなかった?」
美咲が笑う。
「一年待ったから」
「それは違うだろ」
二人はそのまま歩いた。
少しして。
悠真が足を止める。
「美咲」
「うん」
「今」
一度、息を吸った。
「幸せ?」
美咲は予想していなかったらしく、目を瞬いた。
すぐには答えない。
しばらく考える。
「うん」
少しして。
「たぶん」
悠真が笑う。
「たぶん?」
美咲も笑った。
「毎日幸せとか無理でしょ」
「確かに」
「仕事嫌な日もあるし」
「うん」
「一人が嫌な日もある」
「うん」
「お金もない」
悠真がすぐ言う。
「それは俺も」
美咲が笑う。
でも最後だけは、少し真面目に言った。
「でも」
悠真を見る。
「今の生活、自分で選んでる感じがする」
悠真はゆっくり頷いた。
「そっか」
美咲も訊く。
「悠真は?」
悠真は少し考える。
「俺も」
そして笑った。
「たぶん」
美咲も笑った。
行き先は決めていなかった。
カフェを出てから、そのまま気の向く方へ歩いた。
商店街。
コンビニ。
川の方へ続く道。
気づけば、三年前に初めてデートをした場所まで来ていた。
あの小さなカフェは、今もない。
ドラッグストアの看板がそのまま残っている。
美咲が立ち止まる。
「まだないね」
悠真が呆れる。
「そりゃ戻らないだろ」
「もしかしたら」
「一年で?」
「奇跡」
「そんな奇跡いらない」
美咲が笑う。
二人で、昔店があった辺りを見る。
しばらくして。
悠真が言った。
「俺さ」
「うん」
「海外で」
「うん」
「何回か思った」
美咲が見る。
「美咲と来たかったなって」
美咲は何も言わない。
悠真は少し笑いながら続けた。
「飯食った時とか」
「うん」
「景色見た時とか」
「うん」
「しょうもないスーパーとか」
美咲が吹き出す。
「スーパー?」
「海外のスーパー面白いんだよ」
「そこ?」
悠真も笑った。
けれど、そのあと声が少し静かになる。
「でも」
美咲を見る。
「呼ばなくてよかったとも思ってる」
美咲の笑みが消えた。
悠真は続ける。
「一人で行ったから」
「自分が何好きか」
「何したいか」
「前よりちょっと分かった」
美咲は頷いた。
「うん」
悠真が訊く。
「美咲も」
少し迷う。
「一人でよかった?」
美咲はすぐには答えなかった。
でも、嘘はつかなかった。
「うん」
一言だった。
胸の奥が少し痛む。
それでも悠真は笑った。
「そっか」
午後。
二人は河川敷へ来た。
一年前、最後のデートで座ったベンチが空いている。
並んで座る。
昔のように距離を空けることもなく。
かといって、肩を寄せることもない。
目の前を家族が通った。
小さな子どもが自転車を漕いでいる。
後ろから母親の声。
「ゆっくり!」
一年ほど前にも、よく似た光景を見た。
あの時は、二人とも何も言えなくなった。
今日も、しばらく黙った。
けれど視線は逸らさなかった。
美咲が先に口を開く。
「あの時」
「うん」
「私、ちゃんと言えてなかった」
悠真は黙って続きを待った。
美咲は膝の上の手を見る。
「子どもが欲しいかどうか」
一度、息を吸った。
「私、分からなかった」
悠真はしばらく黙る。
そして。
「俺も」
と言った。
「欲しいっていうより」
言葉を探す。
「そうなるもんだと思ってた」
美咲が見る。
「結婚して」
「うん」
「子どもいて」
「うん」
「家買って」
悠真は少し笑った。
「それが普通だと思ってた」
美咲が訊く。
「今は?」
悠真は空を見た。
それから笑った。
「分かんない」
美咲も笑う。
「私も」
答えはなかった。
けれど。
分からないと言っても、相手が困らない。
それだけで、以前とはまるで違った。
夕方。
駅まで戻った。
改札の前。
そろそろ帰る時間だった。
「今日はありがとう」
美咲が言う。
「こっちこそ」
悠真も答える。
それでも、どちらもすぐには歩き出さなかった。
美咲が名前を呼ぶ。
「悠真」
「ん?」
「まだ聞いてない」
「何を?」
「本当に聞きたかったこと」
悠真が止まる。
美咲は彼の顔を見ていた。
幸せか。
あれが、本題ではなかった。
悠真は少し俯いて笑った。
「バレた?」
美咲も笑う。
「三年付き合ったから」
「もう四年くらい経ってる」
「一年抜くな」
二人で笑う。
やがて笑いが消えた。
悠真は息を吸った。
今度は逃げなかった。
「俺」
「うん」
「まだ美咲が好き」
美咲は驚かなかった。
ただ、ゆっくり目が赤くなった。
「海外行って」
悠真は続ける。
「帰ってきて」
「一年連絡しなくても」
少し笑う。
「まだ好きだった」
美咲は下を向いた。
「……うん」
悠真は訊いた。
「美咲は?」
駅を行き交う人の流れが、二人の横を通り続ける。
誰も二人を見ない。
美咲は長く黙った。
そして。
「好きだよ」
と答えた。
悠真の目も赤くなった。
一瞬。
空気が変わった。
このまま、
じゃあ、もう一度。
そう言えばいい。
たぶん美咲は、すぐには断らない。
悠真にもそれが分かった。
口を開く。
「じゃあ――」
止まった。
美咲が顔を上げる。
悠真は少し困ったように笑った。
「危なかった」
涙を流しながら、美咲も笑う。
「何が?」
「また」
悠真は一度目を閉じた。
「好きだからって、全部戻そうとした」
美咲は泣きながら笑った。
「そういうところ、変わんないね」
「ちょっとは変わった」
悠真も笑う。
「今、止まったから」
美咲が頷く。
「確かに」
悠真は少し黙った。
それから、鞄へ手を入れた。
小さな箱を取り出す。
美咲の表情が止まった。
指輪だった。
一年間、あの部屋の引き出しに残っていたもの。
箱を開ける。
銀色の輪が、昔と同じようにそこにある。
美咲が訊く。
「まだ持ってたの?」
「うん」
「一年?」
「うん」
「海外にも?」
悠真は首を振った。
「これは置いてった」
美咲が少し笑う。
「そこは持ってかないんだ」
「なくしたら怖いし」
「高かったから?」
「高かったから」
二人とも笑った。
そのあと。
悠真は指輪を見た。
「これ」
美咲が待つ。
「売ろうと思ってる」
美咲の笑みがゆっくり消えた。
求婚されるより。
もしかすると、その言葉の方が痛かった。
「……そっか」
「うん」
美咲は必死に笑う。
「いいと思う」
「うん」
「もう使わないしね」
悠真も頷く。
「うん」
美咲の涙が落ちる。
それでも冗談のように言った。
「高かったし」
悠真の目も赤くなる。
「だから売るんだよ」
「そこ大事なんだ」
「大事」
二人とも少し笑った。
悠真は箱を閉じる。
「美咲に許可もらいたいわけじゃない」
美咲が顔を上げる。
「うん」
「ただ」
悠真は箱を見た。
「これ、俺一人の未来のために買ったものじゃなかったから」
少し間を置く。
「黙ってなくすのは、違う気がした」
美咲は長いこと何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「教えてくれてありがとう」
悠真も頷く。
「うん」
かつては、その箱を持っていることが、未来を捨てていない証拠のようだった。
今は違った。
駅のホーム。
二人の帰る方向は違った。
美咲の電車は二分後。
悠真の電車は五分後。
少しの間だけ、同じ場所に立っている。
美咲が突然言った。
「悠真」
「ん?」
「あの十日間」
悠真が見る。
「私」
一度、息を吸った。
「ずっと別れたくなかった」
悠真の表情が止まった。
「毎日」
美咲は言う。
「やっぱりやめようって」
涙がまた出てくる。
「言ってほしいと思ってた」
悠真の目も赤くなる。
「言おうとしてた」
「知ってる」
「何回も」
「知ってる」
悠真は俯いた。
長いこと。
「俺も」
顔を上げる。
「別れたくなかった」
美咲が頷く。
「うん」
「今でも」
悠真は少し迷った。
でも言った。
「別れなくて済んだならって、たまに思う」
美咲も答える。
「私も」
そして。
悠真は、ずっと残っていた問いを口にした。
「じゃあ」
美咲を見る。
「俺たち」
少しだけ声が震える。
「別れない方がよかったのかな」
美咲はすぐには答えなかった。
涙が頬を伝っている。
それでも。
最後には、首を横に振った。
「ううん」
悠真は何も言わず待った。
美咲が続ける。
「別れてよかった」
悠真は一度だけ目を閉じた。
そして、小さく笑った。
「……俺も」
二人とも泣いていた。
それでも笑えた。
あれほど一人で抱えていた別れに。
一年以上経って。
初めて二人で同じ答えを出した。
ホームに放送が流れる。
美咲の電車が入ってくる。
風が吹く。
美咲が涙を拭った。
「来た」
「うん」
電車が停まる。
扉が開く。
美咲は乗り込んだ。
振り返る。
悠真はホームにいる。
一年前。
飛行機へ乗った悠真が、
「行ってきます」
と言った。
その時、美咲は、
「いってらっしゃい」
と返した。
今日は逆だった。
扉の閉まる音が近づく。
美咲が言う。
「悠真」
「ん?」
美咲は笑った。
目はまだ赤い。
「行ってきます」
悠真は一瞬驚いた。
そして。
本当に嬉しそうに笑った。
「うん」
少し間を置く。
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。
ガラス越しに、二人の目が合う。
手は振らなかった。
ただ笑った。
電車が走り出す。
美咲が遠ざかる。
悠真の姿も小さくなる。
最後には見えなくなった。
悠真はしばらくその場に立っていた。
やがて振り返る。
自分のホームへ向かった。
もう、後ろは見なかった。
⸻
それから数か月後。
悠真は小さな貴金属店のカウンターに座っていた。
目の前に、あの指輪が置かれている。
店員が状態を確認する。
「こちら、思い出のお品ですか?」
悠真は指輪を見る。
「はい」
「本当によろしいですか?」
数秒。
「はい」
店員が指輪を取ろうとした。
その瞬間。
「すみません」
店員の手が止まる。
「はい?」
悠真は少し笑った。
「最後に一回、見てもいいですか?」
指輪が戻される。
悠真は掌に乗せた。
あの日、美咲の指にぴったりだった。
そのことは、一生忘れないと思う。
でも。
忘れないために、持ち続ける必要はない。
悠真は指輪を置いた。
「お願いします」
店員が静かに受け取る。
「大切だったんですね」
悠真は頷いた。
「はい」
少し考えてから続けた。
「でも」
何もなくなった掌を見る。
「もう、持ってなくても忘れないので」
店を出る。
ポケットは、少しだけ軽かった。
帰国してしばらくした頃、悠真も三年間暮らしたあの部屋を引き払っていた。
思い出を捨てるためではない。
一人で住むには少し広すぎたこと。
新しい職場へ通いやすい場所を選びたかったこと。
理由は、それだけだった。
引っ越しの時。
古い鍋だけは、新しい部屋へ持ってきた。
同じ頃。
美咲の部屋にも、また段ボール箱が並んでいた。
けれど一年前とは違う。
誰かと別れたからではない。
結婚でもない。
会社から、新しい仕事の話をもらった。
別の街で働く機会。
美咲自身が選んだ。
本。
服。
食器。
一つずつ箱へ入れる。
窓辺で使っていた白いマグカップ。
それも包んで入れる。
最後に。
小さな白い靴下。
一つだけ。
美咲の手が止まった。
長いこと見る。
少しだけ笑う。
そして。
それも箱へ入れた。
捨てないものがある。
それは、まだそこへ戻りたいからではない。
大切だったことを、大切だったまま置いておけるようになったからだった。
新幹線の駅。
美咲はスーツケースを引いていた。
会社の同僚が見送りに来ている。
「本当に行くんだ」
「うん」
「寂しくない?」
美咲は少し考えた。
以前なら。
大丈夫。
そう言っていた。
今は笑って答える。
「寂しい」
同僚も少し笑う。
美咲は続けた。
「でも、行きたい」
「そっか」
同僚が言う。
「いってらっしゃい」
美咲も自然に返す。
「行ってきます」
新幹線へ乗る。
窓際の席。
やがて列車が動き出す。
東京が、少しずつ後ろへ流れていく。
同じ時間。
悠真は店を出て、人の流れの中を歩いていた。
スマートフォンが鳴る。
母親。
「今日来る?」
悠真は返す。
「行く」
「何食べたい?」
悠真は歩きながら少し考えた。
以前なら。
何でもいい。
そう答えていた。
今日は違う。
「カレー」
母親からすぐ返信。
「また?」
悠真が笑う。
「食べたいから」
「分かった」
スマートフォンをしまう。
そのまま歩き続けた。
新幹線の中。
美咲は窓の外を見ていた。
東京の街が遠ざかっていく。
スマートフォンを取り出す。
悠真とのトーク画面は開かなかった。
時間だけ確認して、また鞄へ戻す。
荷物の中には。
白いマグカップ。
白い靴下が一つ。
どちらも一緒に、新しい街へ向かっている。
悠真も、人混みの中を歩いていた。
ポケットに指輪はない。
スマートフォンの連絡先には、美咲の名前がまだ残っている。
消す理由はなかった。
そして。
かつて二人が暮らしていた部屋には、もう別の住人がいた。
ベランダには、知らない服が干されている。
窓の向こうから、知らない笑い声が聞こえる。
あの部屋から、悠真と美咲の生活はもう完全に消えていた。
世界は、何も待ってはいなかった。
⸻
遠い記憶の中。
同棲を始めたばかりの部屋には、まだ家具がほとんどなかった。
少し若い美咲が、安い鍋を持っている。
「これでいい?」
悠真が鍋を見る。
「すぐ壊れるよ」
美咲は笑った。
「壊れたら買えばいいじゃん」
「三年持ったら?」
美咲は少し考えた。
「その時考える」
その時の二人は。
三年後に何が起きるのか知らなかった。
知る必要もなかった。
今。
あの鍋は、悠真の新しい部屋のキッチンにあった。
湯気が上がる。
悠真はカレーを一口味見した。
眉を寄せる。
「辛」
そして、一人で笑った。
新幹線の中。
美咲も窓の向こうを見ながら、ふと笑った。
理由はなかった。
ただ。
今の自分の人生が、少し好きだった。
あと十日。
あの夜、二人に残されていたのは、それだけだった。
けれど。
その十日間で終わったのは、愛していた時間ではなかった。
誰かを愛するために。
自分をなくしてもいいと思っていた。
あの頃の二人だった。
だから。
あの十日間でよかった。
『あと十日だけ』 完




