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里見と北条  作者: 小松徹
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里見と北条(中)

戦の勝敗を分けるもの。

それは兵の多寡であったり、錬度や士気。 或いは差配の妙味と、深遠な計略。

勿論、時の運にも大きく左右されるだろう。

この常識に当てはまらない戦を、里見は今回の長尾景虎の越山で初めて目の当たりにした。 

今迄、北条の髭の塵を払っていた諸侯等が、矛を交わす事無く次々と恭順の意を示したのである。 

斯くして関東の情勢は、まるで机をひっくり返したように一人の男の武名によって一変した。 

今までの苦労は一体何だったのだ? そんな思いを抱かせる程の呆気無さで。

戦国の黎明を告げる北条早雲の伊豆討ち入りから六十余年。 伏流胎動する新しい時代の流れは、此処にきて大きなうねりとなりつつあった。

そしてそのうねりは東海道の西、尾張でも世間の耳目を驚かせた。

久留里で火の出るような攻防が繰り広げられていた頃、風雨を衝いて織田信長率いる二千が今川軍を急襲。 今川は大将義元が討ち取られると云う大惨敗を喫したのである。 

一方、里見は北条の影が消えた房総を縦横に駈け回った。 

里見義弘と正木信茂らは、敵対する上総の国人衆を斬り従え、正木時忠は水軍で勝浦から房総東岸を北上し、下総小見川まで進出。

越後から帰国した正木時茂は、真里谷義信、酒井胤治らを従え、胤治の同族酒井敏房が拠る東金城を囲んで此れを降伏させ、更に余勢を駆って下総千葉家を攻めた。

こうして景虎越山と同時に兵を展開させた里見は、瞬く間に上総全域、下総の南半分まで勢力を伸ばし、過去最大の版図を持つに至ったのである。  


永禄四年(一五六一年)二月。

上野厩橋城で年を越した景虎は、北条の傀儡となっていた古河公方、足利義氏の関宿城へ進撃。 

義氏は既に城を棄てていた。 

その間も馬前に列を為して馳せ参じる関東諸侯は引きも切らず、その数八万を超えるまでに膨れ上がっていた。 長尾勢八千に対し、実にその十倍の兵が参陣した事になる。  

それは剽悍な国人勢力が跋扈する越後を、年少ながら短期間の内に平定した景虎の武威に対する恐怖と、期待の表れだったのだろう。

新しき関東の秩序を。 

充満する高揚の中で、関越軍の気炎は天を衝いた。 


関宿城の大広間。 

景虎は諸将を集めた。 新公方選定の為である。 

父の名代として、義弘も座に連なっていた。

初めて見る景虎。 毘沙門天の化身。 不敗の軍神。   

その称号から思い描いていた姿と、実際の印象は大分かけ離れている。 色白で、華奢とも云える体躯。 潔癖さを漂わせる整えられた薄い髭。 何処か神経質そうな顔立ち。 しかし凛とした精神性を宿す眼光と、全身から醸し出される威圧感は徒ならぬものがあった。 

良く通る声が広間に響く。

「嘗て此処関東には、崇高な理念があった。 雄々しい大志があった。 しかし今、乱臣賊子が蔓延り、大義忠孝を嗤う我欲が罷り通っておる。 此れは関東だけの話では無い。 都も、そしてこの日の本全てが変わってしまった。」 

景虎は瞳に怒りを湛えていた。 矢張り、将軍の心変わりで三好征伐を果たせなかった無念さを、未だ引き摺っているのだろう。

「北条はいずれ正義の力によって、この関東の地から消え失せるであろう。 しかし同時に、我等は己の胸に問わねばならぬ。 この関東に蔓延る病巣は、果たして北条のみに求めるべきなのか? 

稀代の奸賊、北条を産み出したものは一体何であったのか、と。」

彼の言葉に、七十畳敷きの広間は水を打ったように静まり返った。

「その答えを見つけた時、関東は嘗ての気概を取り戻す事が出来る。 心の闇に惑うこの国に、正しき途を指し示す事が出来るのだ。 皆に申し渡しておるように、儂は新公方の選定に一切口を挟む積りは無い。 がしかし…… 此れだけは申しておきたい。」

景虎がぐるりと座を見回した。  

「君臣蹇蹇(けんけん’)たり。躬(み)の故に匪ず。 皆々が表も裏も無く新公方を盛り立てていく覚悟を示す限り、越後長尾は常に関東と共にある。」

景虎の一言一言が心に響き、義弘は打ち震えるような感動を覚えていた。 

この戦の捷利の向こう側。 夢の形は、其処にこそある。

風を頼んで右顧左眄するだけだった関東は、この日を境に生まれ変わるのだ。 そう確信した。


景虎が座を離れ、広間には新公方選定の合議の為、主立った大名達が残った。 

口火を切ったのは下総関宿領主、梁田晴助であった。

予想通り、彼の推す新公方は足利藤氏だった。  

藤氏は公方職を追われ、幽閉先で失意の内に憤死していた足利晴氏の嫡子である。 

彼は晴助の庇護の下、下野に潜伏していた。

「まあ、藤氏様しかおるまい。」 

「筋目から云っても当然じゃ。」 

座の彼方此方から賛同の声が上がる中、義弘が声を上げた。

「各々方に申し上げたい。」 皆の眼が一斉に義弘へ注がれる。

「景虎公が管領職を継がれる事で、この関東は新しき時代を迎える事となり申す。 新しき関東には、新しき棟梁。 今までのような担がれるだけの旗頭では務まりますまい。」

藤氏、公方の器にあらず。 全く予期しなかった異論に、晴助が顔を強張らせた。 

「藤氏公を…… 木偶呼ばわりするお積りか?  義弘殿。」

「上に立つ棟梁の強いご意志が無ければ、新しい時代など創れぬ。そう申しておるだけにござる。」

北条への恐怖が染み付いている藤氏が、反北条の旗頭となる事に尻込みしているのは周知の事実だった。

「ご承知の通り、当家は三度北条の襲来を受け、いずれも退けております。」

「義弘殿。些か僭越であろう。 北条と戦っていたのは里見だけではあるまい。」

それまで瞑目していた常陸守護、佐竹義昭がぎろりと一瞥した。

田舎大名の分際で。 顔にはそんな不快感が張り付いている。 

河越の戦で惨敗を喫した上杉憲政が、管領職の委譲を餌にして最初に頼った先がこの義昭であった。 しかし継承するには家名を上杉姓に改めねばならない。 清和源氏の末裔である名家の誇りを、鼻の先からぶら下げているような義昭が渋ったのも頷ける。

「何もひけらかして申し上げておるのではござらぬ。 当家は高々十万石。 まともな力勝負では勝敗は見えている。 運もあったのでありましょうが、当家が北条に打ち勝つ事が出来たのは、何より足利頼純公の強い御意志があったればこそ、と考えております。 その御身を陣中に置き、北条との戦いを通じて示された雄々しい御意志によって導かれ、里見は危難を脱する事が出来た。」

重苦しい沈黙が支配する座から、ざわめきが漏れた。

「新しい公方は、頼純公こそ相応しい。 当家はそう考えております。」 

義昭は不機嫌そうに腕を組み、思案顔の諸将は義弘と晴助の様子を交互に窺いながら、如何したものかと頭を捻っている。 

「そう云えば……」 

忌々しそうに義弘を睨み付けていた晴助が、ふっと皮肉っぽい笑みを口端に浮かべた。 

「義弘殿は、頼純公の姉君を娶られているそうですな。 義弘殿には、ちと身贔屓が過ぎるようじゃ。」 

義弘を身贔屓と云うなら、藤氏とて晴助の甥。 

古河公方家に代々娘を輿入れさせている梁田家に云われる筋合いでは無い。 

色を為した義弘を、晴助が掌を翳して鷹揚に制した。 

「無論、里見家には里見家なりのお考えがおありだろう。 それはご自由じゃ。 しかしのう……」

仰々しく困惑顔を作った晴助が、これ見よがしに溜息をついた。 

「せめて意見は一本に纏めて貰わねば、此方としても議論の仕様が無い。」  

「それは、一体如何云う事でござる?」 義弘は眉を顰めた。

「中身を検めて下さらぬか?」 小姓が恭しく捧げ持ってきた絵巻を晴助が指し示した。 

それは、藤氏公方就任に同意する連判状だった。 梁田晴助は無論の事、佐竹義昭に武蔵岩槻城の太田資正等、反北条陣営の中核となる諸侯の名が並ぶ。 上総の真里谷義信の名も。 下にはそれぞれの花押と日付が記されている。 

膝下からザワザワと這い上がって来る、厭な予感。 

そして…… 義弘の眼が父の名で止まった。 

「出過ぎた真似とは思うたが、景虎公に予め関東の総意をお伝えしておかねばとの一心でな……」 

そう云って晴助は、絶句する義弘の顔を覗き込んだ。 

満座の中、この鼻持ちならない小癪者に恥をかかせてやった。 

そんな痛快さの上に、揚々たる笑みを被せて。


眼前に横たわる関東随一と謳われる要塞、小田原城。 

東西二十五町、南北二十町にも及ぶ広大な縄張りを持ち、東に酒匂川、西には早川が天然の堀を為し、南には蒼茫たる相模湾が拡がっている。 そして北側一帯には大堀切りが穿たれ、それを本丸が睥睨しているその威容は、関越軍の度肝を抜いた。

北条家の開祖、早雲が大森氏を追って小田原城を奪取して以降、氏綱、氏康と代が変わる度に城は拡張を続け、それと共に北条の版図も広がっていった。  

そんな隆盛の歴史を歩んできた北条の象徴たる巨城は、八万と云う大軍を眼の前にしても揺るがなかった。 昼夜を問わず総攻めを繰り返した関越兵の屍を累々と足下に積み上げ、一ヶ月に及ぶ猛攻を浴びても尚、悠然と佇立している。

大掛かりでありながら、緻密さも兼ね備えた城郭と相俟って、城兵の動きもまさに水を得た魚の如く俊敏であった。 

なかなか端緒を掴めないまま、時だけが過ぎる。 

そして陣営に倦労感が漂い始めた頃、包囲戦の只中にありながら、景虎は管領就任式を敢行した。

場所は幕府揺籃の地、鎌倉の鶴岡八幡宮。 

新たに公方となった足利藤氏を上座に据え、正式に上杉憲政の養子として管領家の家督を継いだ景虎は、憲政から一字を賜り、諱を政虎と改めた。 まさに北条へ当てつけるような、小田原の軒先での襲名披露であった。

襲名式に連なった者の中には、下総の千葉胤富の姿もあった。 

如何やら上杉憲政に泣き付いて、景虎への橋渡し役を請うたらしい。 しかも、系譜を辿ると帝に通ずるという家格が物を云ったのか、襲名式では胤富に首座の席次まで与えられたのである。 

此れには義弘も裏切られたような思いがした。

義弘には、北条の草刈り場と化していた関東に在って、唯一身体を張って抵抗していたのは里見なのだと云う自負があった。 それなのに、昨日まで北条の尻馬に乗って、己の庭先を拡げる事のみに現を抜かしてきた胤富を、政虎は里見と同列に扱うどころか上に据えようとまでしている。 

政虎の言葉によって点された昂揚と、忸怩たる思い。 

斑模様の心を持て余す義弘を尻目に、就任を祝う宴は三日三晩続いた。

次々に酒樽が開けられ、いつもであれば近寄りがたい雰囲気を醸し出している政虎も、この時ばかりは人が変わったように誰彼と無く言葉を交わし、屈託の無い笑顔を見せた。

それにも増して上機嫌だったのが、前管領上杉憲政であった。 

此れで漸く関東のゴタゴタから開放される。 

そんな晴れ晴れとした顔をしながら酒席を盛り上げていた。 

政虎等が鎌倉で盃を重ねている間も、北条はさながら閉じた貝のように何の動きも見せなかった。 

膠着状態が続く中、関越軍の士気が明らかに緩み始めたのは、滞陣が二ヶ月を過ぎた辺りからであった。 先ず佐竹義昭が政虎の制止も聞かずに帰国。 そうなると組織は持たない。 

帰国を願う声が日増しに増える中、入道して名を信玄と改めた武田晴信が、北信濃善光寺平制圧に向け、一万五千の兵と共に甲斐の躑躅ヶ崎を発ったとの知らせが越後から飛び込んだ。 

こうして政虎は、憤悶の中で囲みを解いたのである。


兵の剽悍さだけで見れば、北条は武田に及ばないかも知れない。 

しかし流石、戦い方は知っている。 一旦咥えた獲物は決して離そうとしない武田の執着とは対照的に、今回北条は全てを棄てて小田原一点に力を集中させた。 

捷利の要因は、その決断にこそあったと云えるだろう。

一方、八万の大軍を以てしても、曲輪一つ落とせなかった小田原城攻略の失敗は、当然ながら関東諸侯の動揺を誘い、政虎の求心力を失墜させた。 

早速北条への帰参に動いたのが、七千の兵を挙げて臼井城を急襲した下総の千葉胤富である。

前年、里見が落とした臼井城は、千葉の本城である本佐倉城から僅か二里の距離。 

臼井城は忽ち敵軍に囲まれた。 

急を告げる早馬を受け、下総の軍政を掌っていた正木時茂は、自ら兵を率いて常駐している小弓城から出陣。 土気の酒井胤治と東金の敏房には、城を出て本佐倉を伺う構えを取らせ、更に真里谷義信へ使いを飛ばし、臼井城から三里南にある和良比城で合流するように命じた。 

数では劣るが、臼井城の守備隊と連携しながら三方から圧迫を加えれば、いずれ千葉軍は撤退に追い込まれるだろうとの判断からだった。

しかし時茂の目論見は崩れた。 それも思い掛けない形で。

草木が一気に人の形に転じたように、千葉家重臣、原胤貞率いる敵軍が現れたのは、時茂が和良比城に入って直ぐの事だった。 

しかもそれに呼応するように、臼井城を囲んでいた千葉本軍が南下。 砦と云ってよい小城は、予期せぬ大軍の襲来に晒されたのである。 

この一連の動き。 それを見れば、敵の本当の狙いが浮かび上がって来る。 

狙いは臼井城では無く、時茂の頸一つ。 

時茂軍は僅か一千。 合流する筈の真里谷軍は未だ見えない。

最後を悟った時茂は、一間半の素槍を扱きながら先頭に立った。 正木の精鋭がそれに続く。 

火の玉のような突撃。 

敵の分厚い包囲を突き破り、原胤貞の本陣に斬り込んだ。 剛の者として名を馳せる胤貞が、まるで兎のように追い捲くられる。 しかし千葉胤富の本軍が到着すると形勢は一転。

衆寡敵せず、時茂軍は分厚い包囲陣の中に没していったのである。

時茂死すの報に里見義堯は眼を剥いたまま絶句し、唇を噛み締め、正木時忠は黙って頷いたと云う。 

こうして里見は、武を象徴する支柱であり、国人勢力との間を繋ぐ重しであった掛け替えのない人材を失ったのである。



雨が降っているのに、ぼってりとした暑さが篭もる寝苦しい夜だった。 

雨音に誘われるように、一斉に鳴き始めた蛙の声が喧しい。 

その声は縁側を越え、雨戸の隙間から家の中へ入り込んで、そこいら中を傍若無人に這いずり回る。 

じっとりと纏わり付く汗が、滴となって脇の下を伝う。 

不快で……  酷く息苦しい。 

如何にも堪えられず、寝床から這い出て雨戸を開けた。 

家の中とは明らかに違う、濃密な空気が忽ち肺腑を満たしていく。

外に立ち籠める青白い光。 月明かりとは違う。 まるで雨に流れて溶け出した闇の中から、夜の正体が姿を現したかのようだ。

草叢に…… 蛙がいた。 

見たことも無いような大きな蛙だ。 滑りを帯びた躰に、毒々しい色彩。 

前脚を踏ん張り、胸を反らした格好のまま身動ぎもせず、飛び出た眼だけがぎょろぎょろと忙しない。 

何かを咥えている。

目を凝らすと、一匹の蛙が口の中から頭を覗かせていた。 

共喰い。 

もう観念しているのか、咥えられたまま、ただじっと此方を見詰めている。  

一段と高くなる蛙のざわめき。 その声は今、頭の中から響いている。

やがて咥えられている蛙が、ゆっくりと頭を左右に振った。 

拉げたように薄く開いた口から、ちろりと舌が出る。 

真っ赤な舌、 それはくねくねとうねりながらどんどん伸びて、草の上を滑り、手前の水溜りで…… 

滲んで消えた。 

水溜りが見る見る赤く染まっていく。 

いつしか蛙の声は、読経に変わっていた。 まるで何かを訴えかけるように。 声音が切迫の度合いを強めていく。 導かれるように蛙に視線を戻す。 その顔は……   


新吉の名を叫んで、長助は跳ね起きた。 

がらんとした部屋。 僅かに開いた雨戸の隙間から、月の光が差し込んでいる。 

長助は大きく溜息を吐き、顔を両手で拭った。 

(夢、か……) 

汗を掻いた所為か、喉がからからに渇いている。 鍋に張られたままの水を、椀で掬って口に含む。  

せり上がった心臓が冷えて固まり、ゆっくりと下へ落ちていく。 

人の身体とは酷いものだ。 哀しみから明ける事は無くとも、喉は渇き、夜になれば眠気が襲う。 

腹も減るし糞も垂れる。 

生きる意味を失ったこの老い耄れを、有無も云わせず日常に戻そうとする。

早いもので、二人を失ってもう一年。 

お春も、もういない。 銀蔵相手の卸の仕事では、しょっちゅう家を空けなければならないし、上がりも知れている。 かと云って田圃仕事が出来る訳でも無く、自分には未だ幼いお春をまともに養っていく事もままならない。 

そんな事情を察した太治兵衛が、妻の実家の養女として預かる事を申し出てくれたのだ。

お春を手放す事は、生身を削られるように耐え難かったが、太治兵衛の口利きならば向こうの家でもお春を大切にしてくれるだろう。

そう自分を納得させ、その申し出を有り難く受け入れた。

太治兵衛に引き取られた時、お春は未だ二つになったばかり。

いずれ時が、全てを消し去ってくれる。

あの日の事も…… そして、家族の事も。   

それで良いのだ。 おゆうも、きっとそう望んでいよう。

この世に神や仏がいるのなら…… お春に手を差し伸べてくれる。いや、差し伸べねばならぬ。 

お春が幸せでいてくれさえすれば…… 自分には最早何も望むものは無い。 

(それで…… 本当に良いのか?) 

無表情に見下ろす黒い天井が、そう語りかけた。

他に何がある? 二人はもう…… 還って来ない。 

何をどうやった所で……

(奴等は……) そう、未だ生きているだろう。 

おゆうと新吉から…… そして自分から、明日を奪った奴等。 

あの日…… 二人を恐怖で舐った口で笑い、虫けらのように踏み潰した足で闊歩している。 

嬲り殺したその手で妻に触れ、我が子を抱いて…… 

手に掛けた二人の事など、最早覚えてすらいないかも知れない。

”だっけん…… このおらに一体何が出来る?” 

長助は縋るように、声を上げた。

報いる術があるのなら…… 教えてくれ。 

しかし天井は黙ったまま、もう語りかけようとはしなかった。



この年、永禄四年(一五六一年)の九月。

西上野に武田軍が進入。 これに呼応するかのように、北条氏政が采配する二万の北条軍が古河城の足利藤氏を追い、返す刀で太田資正の武蔵松山城を囲んだ。 

資正は直ぐさま越後に救援を求めた。 

上杉政虎が越後勢八千を率いて再び雪の三国峠を越えたのは、その三ヶ月後であった。 

上野沼田に着陣した上杉軍は、武田軍との小競り合いを経た後、松山城に向けて進撃を開始した。


同じ頃、里見義弘は久留里城下の公方館に居た。  

政虎の檄に応える形で、父義堯は総勢五千を率いて出兵中だった。 今頃は下総辺りで、原胤貞や千葉胤富らと戦っている事だろう。 上杉越山の一ヶ月前に届いた政虎からの書状の中で、実は松山城救援依頼とは別に二つの要請が記されていた。

先ずは下総の状況が安定するまでの、一時的な足利藤氏の受け入れ。 更に藤氏の妹楓姫を、正室として義弘に輿入れさせたいとの要請であった。 既に簗田晴助にも同意を得ているらしい。 

末尾には念を押すように、良き返事を期待すると結ばれていた。

その要請には当然政虎なりの思惑があった。 未だ基礎が固まっていない古河公方家を護るべき立場の簗田家は、幾ら実力は有るとは云え、所詮は一介の国人である。 

若し北条が総力をかけて攻め込んで来た時…… 上杉が軍容を整え、三国峠を越えるまでのせめて半年間。 公方を守り通せる力を持った忠実な庇護者、つまりは番犬が欲しい。 

そう云う意味では、北条の侵攻を三度凌ぎ切った里見以上の適任者はいないのだろう。

しかしどんな事情があるにせよ、義弘にとってこの申し入れは到底呑める内容では無かった。 

ただでさえ里見は、藤氏推戴に同意する事で足利頼純を裏切っている。 

頼純の事は、いずれ必ず関東が彼を必要とする時が来る。 それまでは里見が確りと支え、古河足利家との共存を図れば良い。 里見が揺ぎ無い姿勢を示す限り、いずれ風向きも変わってこよう。 

そう思って自分を納得させた。

しかし今此処で藤氏受け入れ、楓姫との縁組みとなれば、それは頼純に対する追放宣言にも等しい。 それに、正室の座を奪われる千代はどうなる? 千代との婚姻は政略などでは無く、彼女と初めて会ったあの日からの、自分自身に対する契約なのだ。  

(政虎は…… あの足利晴氏と同じ役回りを、この俺に強いる積もりなのか?)  

しかも父は、それを受けようとしていた。

小田原攻城戦以降燻っていた、政虎や父に対する怒りが頭を擡げた。 

義弘は父に公然と異議を唱えた。 

今回、義弘が遠征軍から外されたのは、その事で父の勘気を蒙った所為であった。


義弘は乱暴に酒を呷った。   

心の中で疑念と失望、憤怒が渾然一体となって逆巻いていた。 

政虎の要請を諾々と丸呑みにし、里見が共に歩まんとした権威をあっさり放り投げようとする父の胸の裡にあるのは、一体何だ?  

大義の名の許に下される、断罪への恐怖か? 或いは、上杉と云う大木に結ぶ、一巣一枝の栄達か?  

「今宵は、大分酒が過ぎておるようですな。」 

対面に座る里見堯次が、労わるように声を掛けた。 

目の下の黒い縁取り。 堯次もまた、眠れぬ夜を過ごしているのだろう。

「そう見えるか?」 義弘は銚子を掴み上げ、力無く笑った。 

「過ぎてはおるが、幾ら呑んでも酔えぬ。」 

今夜の酒は、まるで生ぬるい水のように味気無い。  

「上様は…… もうお休みか?」

「はい。 今日は如何も御身体が優れぬとの事で、随分早くに後寝所にお入りになられました。」

「そう…… か。」 嘘なのは判っている。 

新公方選定の一件は、頼純も納得してくれていた。 しかし、藤氏下向の話が持ち上がって以降、頼純は明らかに自分を避けるようになっていた。 

「兄者……」 

何処から入り込んだのか、一匹の蛾がパタパタと耳障りな羽音を立てて、燭台に纏わりついている。 そのたびに身を捩じらせる灯心が、ジリジリと音を立てた。 揺れた火影に照らされた、堯次の突き出た喉仏が小さく動く。

「父上は、目的の為には手段を選ばぬお人。 その昔、北条の力を借り、主君を追って当主の座を奪われた。」

誰もが知っていながら、誰もが口にするのを憚る話。 

それは、義弘が未だ産まれたばかりの頃。 もう三十年近くも前の話である。 陣代として家中の実権を握っていた義堯の父が、主君である甥の里見義豊によって稲村城内で襲撃、殺害された。 家督簒奪を恐れての行動であったと云う。  それを憎んだ義堯が盟友正木時茂と謀り、謀反を決意。 安房の犬掛で義豊を撃破、自害に追い込んだのである。  

「事の善悪はさて置き…… 今は戦国の世。 武家として、そう云う生き方もあるのでしょう。」 

涼やかな切れ長の双眸が、静かな怒りを湛えている。 

「ならば……  今度は、兄者が……」

「ま、待て……」

「躊躇っていては何も変わりませぬ。」

「討て、と申すか……?  父上を?」

「この安房は、上杉の属国ではござらぬ!」 誠実で、実直な顔に隠された激情。 家の乗っ取りを迫る堯次の顔には、腹を固めた者が持つ決意が漲っていた。  

「後は…… 兄者のご決断一つ。」 

堯次の瞳の中で、ゆらりと炎が揺れた。


政虎との正面対決を嫌ったのか、北条軍は上杉軍の到着を前に松山城の囲みを解いた。 

無類の犬好きで知られる太田資正は、居城岩槻城と松山城の連絡に、犬を使うと云う奇策で北条の猛攻を単独で凌ぎ切ったのである。 

一方、醜態を見せたのが、北条に囲まれる前に城を捨てた足利藤氏であった。 

矢張り藤氏では立ち行かぬ。 

我が身可愛さに汲々とする腰の軽さを見るにつけ、足利頼純に心を寄せる者達の藤氏に対する嫌悪は深まっていった。


藤氏下向の儀。 

戦から戻った義堯は義弘らの反対を押し切り、政虎の要請を受け入れた。 但し、直ぐに久留里へは入れず、里見家累代の家臣、多賀信家の許に当座預けられる事となった。 

信家は武将と云うより、有能な官吏として内政に手腕を発揮している忠臣である。 儀典礼式に詳しく、万事如才無い。 藤氏の相伴役としては適任であった。 久留里入りが見送られたのは、不満を抱く親頼純派の不穏な行動を警戒してのものと思われた。 

割れる家中。 沈黙を守る足利頼純。 上杉政虎が投げ入れた一つの波紋。 

それはやがて大きなうねりとなって、里見家の土台を揺るがしていく



その年の九月。  

鶴谷八幡宮の例大祭、やわたんまちの日。  

「そーれこい! そーれこい!」   

境内から出発した神輿は、威勢の良い掛け声と共に館山の町を練り歩く。 

担ぎ棒を縦に二本通した神輿が、白丁を身に纏った屈強な氏子衆によって、左右に大きく振られたり、高々と差し上げられたりする。 その度に沿道から大きな歓声が上がった。 

沿道には所々桟敷が組まれ、その一つには多賀信家と共に祭りを見物する藤氏の姿もあった。   

日が暮れ、夜になると祭りの熱気は最高潮を迎える。  

篝が焚かれ、男衆の掛け声にも熱が篭る。 

神輿同士の間隔が狭まり、担ぎ手達が躰をぶつけ合いながら、周囲を興奮の渦に巻き込んでいく。

その時。 沿道の一角で、歓声とは明らかに異質な怒号が湧き上がった。 

桟敷が大きく揺れる。 藤氏のいる桟敷であった。

抜刀した数十人の武士が、藤氏目指して襲い掛かる。 

突然の襲撃に動転しながらも、多賀家の者達が応戦。 

逃げ惑う群集。 横倒しになった神輿に弾かれた篝籠から、ぱあっと火の粉が舞う。 

「逃がすな!」 

「後ろを固めよ!」  

藤氏の盾となって防戦していた信家が、凶刃を浴びて崩れ落ちた。

異変に気付いた近くの桟敷から、押っ取り刀で駆けつけた者達が襲撃隊の後方から斬りかかる。 

しかし強靭な殺意は一向に怯む様子も無い。 

桟敷が軋み、くぐもった呻き声に被さるように、火花を散らす刃が高い金属音を放つ。 

やがて時と共にその音も疎らになり、それはぷつりと途切れた。


藤氏襲撃の報は、その夜の内に久留里へ届けられた。

信家は斬殺。 藤氏は負傷を負ったものの無事だった。 

襲撃隊二十八名は全員斬り死にであったが、首謀者はほどなく判明した。 襲撃隊の一人に、里見堯次の郎党がいたのである。 すぐさま公方館へ兵が疾り、館は封鎖された上、頼純を含む公方衆全員に禁足が科せられた。

頼純は全くの沈黙を守る一方、堯次は襲撃は独断で決行したものであるとし、一切の責任は自分一人にあるとした。 

上杉も事態を重く見ている。 うやむやの沙汰では、上杉との関係が崩れかねない。 

二人の処遇を巡って里見陣営は紛糾した。 

頼純、堯次の切腹は無論の事、この騒動の責任は藤氏受け入れを独断で強行した義堯にこそあるとし、彼の隠居を求める声まで上がっていた。 それを主導したのは土岐為頼と真里谷義信である。 

特に為頼は元々義堯と折り合いが悪い。 自分の娘である正室を蔑ろにして、側室に入れ揚げる義堯への不満。 堯次はその側室の子である。 為頼としては、一日も早く孫である義弘後継を確実なものにしたい。 今回の不始末の責任を義堯に負わせる事で、それを一気に実現しようとする彼の意図が見え隠れしていた。

家中に不穏な空気が漂う中、正木家は曖昧な態度に終始した。

正木時茂存命中ならば、彼が万鈞の重石となって陣営を纏めていたのだろうが、彼の死後、目に見えてその箍が緩み始めていた。

時茂の後を継いで正木家の棟梁となった時忠は、掛け値無しに有能な将だ。 しかし彼の性格にも因るのか、或いは意図してのものなのか、時茂ほどの存在感を発揮出来ずにいる。 

それぞれの思惑が錯綜し、対立が先鋭化する中、義弘が父に呼び出されたのは、藤氏襲撃事件の詮議の為、管領上杉家の名代として梁田から険断使が遣わされて直ぐの事だった。 


こうやって父と二人きりで顔を合わせるのはいつ以来だろう?  

父はいつものように不機嫌そうに一瞥すると、脇息に身体を預けて小さく溜息をついた。 

気まずい沈黙の後、それは突然告げられた。

「家督はお前にくれてやる。」 

まるで犬に餌でも放り投げるような物言いだった。

「ただお前にも、腹を括って貰わねばならぬ。」

父の瞳が冷酷さを纏い始める。

「堯次は切腹。 頼純公の仕置きは、管領家たる上杉の裁きに委ね、御身を直ちに越後へ移送する事とする。 そしてお前には、藤氏公の妹君を正室として迎えて貰う。」

「合点がいきませぬ!」 義弘は声を張り上げた。

「ならばうぬは廃嫡じゃ!」 鉈で断ち切るような怒号が響く。

「云うておくぞ。 お前が逃げようが逃げまいが仕儀は変わらぬ。 口惜しかろうが、それが今の里見の身の丈じゃ。」

義弘は見下ろす父を睨み付けた。 

家督など要らぬ。 喉の先までせり上がって来たそんな言葉をぐっと呑み込んだ。

「だからこそ里見は大きくならねばならぬ。 強くあらねばならぬ。 青臭い情や意地で前に進めぬようでは、北条や上杉どころか、鼻面を飛び回る蝿すら追えぬわ!」

そう云うと、父は足を踏み鳴らして部屋を出て行った。 

乗り越えたと思った父権と云う軛が今、分厚い壁として立ちはだかり、捻じ伏せようとしている。 

頼純を囲んで祝ったあの日の高揚が、泥の中に投げ捨てられようとしていた。


その一ヶ月後。 

堯次の切腹は、義堯の命により義弘立会いの下、執り行われた。

三方に載せられた、白鞘の短刀。 堯次はそれをじっと見詰めていた。 自分の処分には全く頓着しなかった彼だったが、頼純の越後移送については額を床に打ち付けんばかりに再考を懇願した。 

しかし決定は覆らなかった。 義堯は自身の隠居と引き換えに、この騒動の幕引きを図り、義弘は父に屈服する形でその決定を呑んだのである。 

この一ヶ月で堯次の形相はすっかり変わり果てていた。 

痩せた顔。 口中で何か唱えているのか、髭に覆われた頬が微かに上下している。 

堯次が顔を上げた。 

強い情念によって封じ籠められた結界の中で、二人の視線が対峙する。

堯次の手が短刀に伸びる。 

義弘を凝視したまま、それを無造作に腹に突き立てた。 

短い呻き。 青筋立った手を震わせながら、ゆっくりと横に引く。吹き出る脂汗。

(上手く立ち回ったものよ…… のう、兄者) 

窪んだ双眸から浮き上がる眼球が、鈍い光を湛えている。 

受け止めるのだ。 堯次の憎悪を。 絶望を。

不意に短刀が抜かれ、そして放り投げられた。 

居並ぶ検使役と、介錯人達の間からどよめきが湧く。 

ゴトンと音を立てて、義弘の膝元に血に塗れた短刀が転がった。

「何をしておる! 介錯せよ!」 

腰が引けたように後退る介錯人へ怒号を飛ばす。 

傾いだ躰を、辛うじて片腕で支えながらも、堯次は血走った眼を向けていた。 

恰も…… 最後の心の叫びを、塗り込めるかのように。空を斬る音。 

(狡いお方だ…… 兄者は) 

そして、ふっと笑った…… ような気がした。


その夜、義弘は久し振りに千代を抱いた。  

彼女を妻としてもう五年が経つが、懐妊の兆しは無い。

若し男子でも産まれていれば……  

少なくとも、楓姫の輿入れなどと云う話に振り回される事は無かったろうに。 

彼女は妻として懸命に尽くしてくれている。 どんなに遅くなろうが、こうやって主人の帰りを待ち、身の回りの世話も下女任せにせず、自らこなしている。 

しかし時々、まるで白湯を呑むような味気なさを感じる時がある。 従順や献身だけでは満たされない何かが、自分を苛立たせていた。 独り善がりで、身勝手なもう一人の自分が彼女を責めていた。

義弘は彼女を荒々しく組み敷き、乳房に爪を立てた。

眉間に刻まれる、微かな苦悶の表情。 それでも痛みに堪えながら、じっと義弘を受け入れようとする。 

左胸に残る瑕痕。 その瑕痕をきつく咬むと、短い喘鳴が彼女の口から漏れた。 

身を捩る千代の両足を押し広げ、怒張したものを突き立てる。 

昂ぶる獣性が脳天に衝き上がり、陰惨で黒い憎悪が鎌首を擡げる。

お前さえ……  お前さえ、いなければ。  

心の暗渠に沈溜する、腐泥にも似た感情。 

そして千代の中に、その一切を叩き付けるように放出した。  


堯次の切腹から一月を経た吉日、義弘は越後から藤氏の妹、楓姫を妻として迎えた。 

九つ年下の新しい正室は美しく、初めての土地に在っても全く臆する所が無かった。 洗練された驕傲さ、とでも云うのだろうか。 傅かれるのに馴れた者だけが持つその立ち振る舞いは、まるで何年も前から其処に収まっているかのようだった。

一方、千代は義弘の裏切りを従容と受け入れた。 それは最初から予想はしていた。 安房に来る前からなのか、来てからなのかは判らない。 彼女は、確かに変わってしまった。 

昔の記憶に在る彼女は、暗い陰を引き摺りながらも決して変わろうとしない、染まろうとしない、凛とした何かが有ったように思う。

しかし……  変わったのは、義弘とて同じであった。  

忸怩たる思いを抱きつつも、自分は自分を曲げてしまったのだ。 

しかも、この上も無く醜悪で、非道な形で。

禁足が命じられていた頼純は、結局最後まで沈黙を貫いた。 

彼の越後移送の任には、楓姫の安房入りに同行した百人を超える上杉の兵が当った。 一行は先ず海路で常陸に向い、下野から上野に抜ける経路を取った。 無論遠回りにはなるが、親北条勢力と、藤氏襲撃を憎む簗田晴助の息の掛かった豪族達が混在する下総を避ける為である。  

しかし事件は起こった。 

常陸の筑波山付近で、馬賊に襲われたのである。 

三十騎程の騎馬だったと云う。 

精々が筑波山麓を根城にする山賊の類。 丸腰の民を襲って小銭を漁る破落戸など、何程の事やあらん。 

しかし、上杉の兵達の予断は、敵を迎え撃った瞬間に打ち砕かれた。 雷のような突撃に、越後兵は為す術無く崩れ去ったのである。 

そしてそのまま、頼純の姿が消えた。



木槌で思い切り叩かれたような痛みが走り、長助は腰を押さえて呻き声を漏らした。 

腰から背中にかけての筋が、引き千切られるように悲鳴を上げている。 呼吸すら儘ならない。 

四つん這いになって、じっと痛みが去るのを待つ。 

痛みと云うのは厄介なものだ。 どんなに長く付き合っていても、馴れると云う事が無い。 

痛みが和らぐのを見計らって、長助はゆっくりと立ち上がった。  

一つ息を吐く。 そうっと腰を曲げて槍を握る。

左前半身に構え、突き上げる。 素早く戻して今度は横に払う。 再び渾身の力で突く。 同じ動作を何度も繰り返す。 腕の立つ使い手ならば、空を斬る音がするのだそうだ。

しかし自分が打ち込む槍筋は、一年以上続けているのにも関わらず、もどかしいくらいに緩慢だった。 

引いていた汗が、再び湯気を立て始める。 

闇が迫る森の中で、長助は無心で槍を繰り出した。 

新吉とおゆうの仇を討つ。 そう心に決めた。 奴等で無ければ、北条の誰でも良い。

二人の痛みを…… 無念を…… 二人の命は、何の償いを求められぬほど、軽いものであってはならないのだ。  相手は修羅場を潜り抜けてきた連中。 十中八九、自分が死ぬ事になるだろう。 

ただ、せめて一突き。 それに全てを籠める為に。 

悲嘆や憎悪を喰らいながら、自分は鬼となって燎原を進むのだ。 

この命が尽きる、その瞬間まで…… 


村に徴兵が掛かったのは、それから間もなくの事だった。

招集の日、太治兵衛の屋敷の前には、既に徴兵された村の若い衆が並んでいた。 若い衆とは云っても皆、十八を過ぎたか過ぎないかぐらいの、子供と云って良い年頃だ。 中には知っている顔もあった。

「何だ? 長助の爺様でねえか。 槍なんぞ担いで、あにしとるんじゃ?」 

点呼を取っていた太治兵衛の息子の甚助が、長助を見て眉を顰めた。 

皆の視線が、一斉に珍妙な闖入者に注がれる。  

「あ、あの……  おらも戦に……」

「はぁ?」 甚助が眼を丸くした。  

「おらも戦にって…… あんた、まさか……」

「へ、へい。 甚助さん、どうか……」 

甚助の顔が忽ち険しくなった。 

「長助さん、惚けちまっただか? あんたみたいな年寄りを連れてったら、この俺まで弥七郎様にお叱りを受けるっぺさ。」

横井弥七郎とは、この近郷に在る村々を治めている領主である。

「いや、甚助さん  おらぁ…… ずっと槍の稽古を……」

「駄目だ、駄目だ!」 纏わりつく蝿でも追い払うように手を振った甚助は、関わり合っていられぬとばかりに背中を向けた。 

「帰んな、帰んな。」  

まるで取り付く島も無い。 膨らんでいた気力が萎んでいく。

溜息をついた長助が出口に向かおうとした時…… 

ぼつり、と何かが背中に当たった。

後ろを振り返ると、小さな礫が転がっていた。

村の若衆が、此方をじっと見ている。 

心ならずも死地へ向かわねばならない彼等の…… 寒々しい視線が突き刺さる。

長助は追い立てられるように、背中を丸めて館を後にした。


太治兵衛が訪ねて来たのは、その日の夜の事だった。

いつもと特段変わりが無い穏やかな表情で、彼の妻の実家で暮らしているお春の近況を話してくれた。 

お春は今年四つ。 今では大分家にも馴れ、読み書きも教えて貰っているらしい。 利発で、そして何よりも人を気遣う心を持っている。 そう云って、太治兵衛は眼を細めた。 

実家の嫁も、そんなお春を大層気に入っており、それこそ実の子のように可愛がってくれているのだそうだ。

(有り難い事だ……)  長助はお春の周りにいる人全てに、両手を合わせたい気持ちだった。

「長助さん……」

「へえ。」

「お前さんは、これからもずっとお春に会わない積もりかね?」 

「いやぁ…… おらは、お春を棄てたも同然だで…… 今更おめおめと会うなど、思いもつかねえだ。 

それにおらと会う事で、お春に厭な事を思い出させてしまったら元も子も無えで。 

どうか、それだけは……」 そう云って長助は頭を下げた。

「そうか。 なら、無理強いはせんが…… じゃが、此れだけは覚えておいてくれんか。」 

口調こそ柔らかいが、その表情はいつに無く真剣だった。 

「お春が昔の事を忘れていようがいまいが、お前さんはお春のたった一人の肉親じゃ。」

「……」

「厳しい事を云うようじゃがの……  辛い思いをしているのは、何もお前さんだけじゃ無い。 みんなそれを心に押し込めて、その日その日を生きておる。 自分一人が不幸を背負い込んでいるような顔をせん方が良え。」

領主館に集められていた者達の、自分に向けた視線が脳裏に浮かぶ。

「お前さんの役目は、死んだ者の為に槍を担いで戦に出る事じゃあ無く、生きているお春の為に、たとえ陰ながらでもその行く末を見届ける事じゃと思うんだがの…… 死んだおゆうさんや新坊だって、それを望んでいるんじゃあないのかね?」

長助は黙ったまま目を伏せた。 

太治兵衛の言葉、その一々が尤もだった。  

生きていてこそ…… 昔の自分も、そう思っていた。 傍から見れば、今の自分は何処にいるのかも判らない仇を求めて、犬死にしに行くような阿呆にしか見えないだろう。 

昔の自分と、今の自分…… 長助にとって、そのどちらが正しいかなどと云う問いは無意味に思えた。 

云ってみれば…… どちらも正しく、どちらも間違っている。 

「得心、してくれるな……?」

長助の沈黙を諒と取ったのだろう。 

太治兵衛はゆっくりと頷いて、来た時と同じ福々しい笑みを見せた。



海岸線が山裾まで迫り、北には屏風のような鋸山がゴツゴツした岩肌を晒している。

北条侵攻で焼け落ちて以来野晒しだった妙本寺の境内には、去年漸く造営された鉦堂だけがぽつねんと立っている。 

小倉忠宗を伴った里見義弘が足を止めた。

女が蹲っている。 痩せた女。 

一抱えもある焼け爛れた丸太に向い、何かを彫っていた。 

木槌が乾いた音を立て、鑿が筋を刻む。手際はお世辞にも巧みとは云えないが、一心不乱に鑿を打ち込むその姿には、鬼気迫るものがあった。

鉦堂の脇に立つ小さな小屋を覗く。 

暗い部屋の中には褥が一枚。 その上に、日我が横臥していた。

中に入ろうか入るまいか思案していた義弘に、日我は薄目を開けると、もそりと上体を起こした。

「何じゃ、太郎か……」 欠伸をしながら薄い胸板に浮いた汗を掌で拭う。 

「何ぞ用か?」

「お休みの処、申し訳ありませぬ。 実は…… 上人様にお頼みがあって参りました。」

「頼み、じゃと?」 

「はい。」

「その前に儂の頼みは如何なっておる? 寺が焼けてもう十年にもなろうと云うのに、漸く鉦堂一つ建てただけではないか?」 そう云って日我が口を尖らせた。

「その儀については、今暫く……」 

この十年で北条から侵攻を受けたのが三度。 その他に領内の叛乱などを挙げれば切りが無い。 膨大な戦費に加えて、荒廃した田畑の復旧。 拡大する一方の支出に加え、江戸湾の制海権を北条に奪われた事に因る関銭収入の激減。 更に、打ち続く飢饉が、経済的困窮に拍車をかけていた。 

今の里見家にとって、たとえ銭倉を引っくり返したとしても、妙本寺の再建に銭を廻す余裕は無かった。

「お前が当主になれば、ちいとはましになると思っておったが……如何やら、儂の買い被り過ぎだったようじゃの。」 日我の憎まれ口を、義弘は苦笑いで遣り過ごすしか無かった。 

「まあ良い。 それよりも水をくれ……」

瓶から水を汲んだ忠宗から柄杓を受け取ると、日我は喉を鳴らしながら呑み干した。

「それで? 頼みとは何じゃ?」

「市之介が事でござる。」

「市之介?…… 何じゃい、あの悪たれの事か?」 

日我が眉を顰めた。

里見市之介は義堯の末子で、未だ十四になったばかり。 しかしこの市之介、父が大切にしていた池の鯉を捕まえて食べたり、鶴谷八幡宮の狛犬を馬に引かせて引き倒したりと、父が持て余す程の大変なやんちゃ者であった。

しかしそれでも、以前までは子供の悪戯と片付ける事も出来た。 様相が変わってきたのは、義弘が楓姫を正室として迎えてからだ。頑是無い市之介であったが、不思議と昔から千代には懐いていた。その千代に対する処遇に、我慢がならなかったのだろう。 

父の非情と兄の不義を公然と詰り、やがて酒や女を覚えると、城を出て館山の女郎屋に入り浸るようになった。 しかも素性も知れぬ浮浪の輩を従えて、商家や土倉を脅して諸役を横領したり、勝手に関所を設けたりと、その傍若無人な振る舞いは、最早看過出来ぬ事態になっていたのである。 

父は彼を日我の手許に置いて出家させる事を決め、義弘も反対はしなかった。

事情を聞いた日我は、これ見よがしに渋面を作った。

「銭は出さんわ、厄介者は押し付けるわ。 やれやれ…… こんな事では、北条に鞍替えした方が良かったかも知れんのう。」 

あっけらかんと、ぶっそうな事を口にする。

「幾ら北条でも、上人様は手に余りましょう。」 

義弘がにやりと笑うと、ふん、口ばかりは達者になりおって、と鼻の下に皺を作った。

昔からの彼の癖だ。 決して機嫌が悪い訳ではないらしい。

「お前は如何じゃ?」

「は……?」

「矢張り、未だ北条と組む気にはならぬか?」 

聞き捨てならない事を。 そんな様子で、隣の忠宗が顔を強張らせた。

「上杉は当てになりませぬか?」

「ならぬな。」 日我は、鶴のような細い頸を振った。

「政虎と云う男…… 存外小さい男やも知れぬ。」

「何と……?」

「あれだけ忙しなく軍勢を西に東に動かして、あの毘沙門天は一体何を得た? 独り善がりの大義を振り回して、一体どれだけの銭を使い、どれ程の屍が積み上げられた? 己の声望を守る為、周りを不幸にするのも欲。 儂に云わせれば、あれが一番たちが悪い。」 

大義は正義に非ず。 以前、日我が自分に云った言葉だ。

藤氏と楓姫の一件以来、確かに政虎に対しては含む処がある。 

しかし、名を惜しんでこそ政虎なのだ。 実を取るのみでは、北条と何も変わらないではないか。

大義とは、為すものでは無く、根付くものだ。 たとえ徒労であったとしても、続けていかねばならない時もある。

今、自分達が創り上げようとしているのは、この後何百年も続く秩序の礎。 大義を持たぬ力は、いずれ力によって駆逐される。

そう云う思いがあるからこそ、政虎のやり方を日我のように徒労と切り捨てる事は出来なかった。  

「あのう…… 和尚様。」 いつの間にか、身体を小さくした女が、入り口で両手を衝いていた。 

くりっとした眼。睫が長い。年の割には愛くるしい顔をしている。

しかし改めて見ると、どことなく陰りのある女だった。 憂いとか嘆きと云った感情に根ざしたものでは無い。 何か禍々しい業が彼女を支配しているような、そんな徒ならぬ暗さを漂わせていた。

「おらは、此れで……」

「おぉ、この暑い中、骨じゃったの。 どうじゃ、茶でも呑んでいかんか?」

困惑したような顔で、女が真っ黒に煤けた手で額を拭った。

「だっけん、おら…… 帰って畑に水をやらんと……」

「そうか…… まあ、あまり根を詰めぬ事じゃ。 ああ、ちょっと待っとれ。」 日我が思い立ったように、義弘に掌を突き出した。

「は……?」

「ほれぇ、何をしておる?  持っておる銭を全部出さぬか。」

「あ、あぁ…… おい、忠宗。」 促されるままに忠宗が懐から取り出した銭袋を引っ手繰ると、日我がその女に差し出した。  

「さあ、此れを持って行け。」  

「い、いえ…… そんな事して貰わんでも……」 恐縮する女の手に、日我は銭袋を捻じ込んだ。 

「良い良い。 何、遠慮は要らん。どうせ儂の銭じゃ無いでの。」

「上人様の云う通りじゃ。 受け取るが良い。」 

義弘がそう口を添えると、女は戸惑いながらも銭袋を押し頂き、そそくさと小屋を出て行った。


「あの女は……?」  

「家無しでな…… 儂が前に住んでおった庵に住まわせておる。 

頼んでもおらんのに、寺の畑まで耕しておるわ。」

「独り身、でござるか?」

「息子が一人、おったんじゃが……」 

日我が、ふっと薄い息を吐いた。 

その女はこの寺にほど近い村に住んでいた。 北条との戦で夫を無くし、家族は息子一人。 その息子に兵役が課せられると、彼女は息子の手を引いて村抜けを図ったのだと云う。

通常、家長を失った家の跡取りが徴兵される事は希なのだが、水害や旱魃などで租税が規定通りに払えぬ村に対しては、その分兵役を増やされる事が往々にしてあった。 

村抜けは重罪。 特に徴兵忌避となれば村全体に影響を及ぼす。 

見せしめの為、磔は免れない。 結局、彼女は死を免れたものの、息子を失った。 未だ十五前だったと云う。

「あの女が彫っているのは……?」

「息子と、夫よ。 夫は戦で死に、咎人として殺された息子の埋葬も許されなかった。 供養ができんとなると、あの世で会えんちゅうて…… だから像を彫って、それを二人の亡骸とするんじゃと。」

開け放たれた表戸。 泥と埃で埋もれた瓦礫の中から、黒く焼け爛れた柱が、まるで救いを求めるように天に向かって伸びている。 

獄裡に繋がれた心を抱き、その四角く縁取られた冥府の中で、死んだ夫と、我が子を彫る女。  

「あの女は、死ぬ為に生きておるようなものじゃ。」

自分は、領民に死ねと命ずる事が出来る。 彼等に示す明日の為、苦痛を強いる事が出来るのだ。 

覚悟を持って引き受けた筈の重み…… それが今、改めて自分を試そうとしている。 貫き通す事が出来るのか、お前に? 

そう問い掛けていた。



その年の八月。 

武蔵松山城攻略に向けた北条の出兵が、世間の口の端に上り始めた頃、密かに進行する驚くべき企ての全容が、城主太田資正の使者より明かされた。

北条の武蔵経営の要衝、江戸城の城代である太田康資が密かに上杉方に通じているのだと云う。 予てから北条での扱いに不満を募らせていた康資に対し、眷属である資正が数ヶ月前から仕掛けていた調略が漸く実を結んだのだ。

思い掛けない情報に、里見陣営は俄然色めき立った。

首尾良くいけば江戸城乗っ取りは無論、北条の掌中に落ちかけている武蔵を、再び混沌に引き戻す事が出来る。

そして十月、予想通り北条が動く。

上杉政虎が一向一揆鎮圧の為、越中へ遠征している隙を衝いての出陣だった。 氏康と氏政が率いる三万が松山城へ向かう。 

申し合わせの通り、義弘が一万の兵と共に久留里を発ったのは、松山城が囲まれたのを見届けてからであった。 氏康は恐らく、里見の進軍を食い止める為、江戸城の富永直勝に国府台への出陣を命ずるだろう。 その隙に康資が空となった江戸城を押さえ、反旗を翻す。 それが資正の描いた筋書きだった。

しかし吉報は届かなかった。

富永直勝の軍が、突如康資の江戸城三の丸を襲撃したのである。 康資は反撃する余裕すら無いまま、命辛々岩槻まで落ち延びた。

それでも義弘は進軍を止めなかった。 此処で里見が引けば、松山城の命脈は完全に絶たれる事になる。

下総と武蔵を隔てる太日川を見下ろす国府台の砦に、里見軍が陣を敷いたのは年も押し詰まった十二月下旬の事だった。


砦内にある広間。 

重苦しい空気に堪えかねたように、誰かが一つ咳払いをした。

泥塗れになって飛び込んで来た久留里からの早馬。 

足利義氏と梶原景宗が三千を率いて渡海。 佐貫城が落とされたと云う知らせだった。 

康資の企てに賭けていた里見は、この戦に持てる兵力の殆どを注ぎ込んでいた。 本国は空に近い状態。 時機を捉えた積りが、まんまと裏をかかれた形となった。

「お屋形!」 頭から湯気を上げた正木信茂が、どんっと床を振るわせた。 普段は呼び捨てだが、皆の前ではお屋形と呼ぶ。 

それが彼なりの配慮と云うものらしい。

「俺に二千…… 否、千を預けてくれい。 義氏如き似非公方……三日で捻り潰してくれるわ!」

松山城を囲む北条本軍、江戸城共に未だ動きは無い。 今、兵を割こうと思えば割けない事は無かった。 しかし佐貫城は上総西岸を扼する拠点。 野戦ならばいざ知らず、信茂の剛勇さを以てしても、千や二千の兵で簡単に落ちるほど柔な城とは思えない。

「頭を冷やさんか、平七。」 

義弘より先に信茂を諫めたのは、正木時忠だった。

「叔父貴!」 信茂が眼を三角にして噛み付いた。

「義氏連れに庭先を汚されながら、黙って指を咥えていろと仰せか?!」

「目の前に虎が迫ろうとしておるのだ。 頭の上の蜂など放っておけば良い。」

「それは…… 敵の本軍が動くと云う事でござろうか?」 

真里谷家一門の庁南豊信が呻くように尋ねた。 

未だ二十手前と若い。 丸い顔に厚い唇。 愛嬌がある顔で物腰も柔らかく、武将と云うよりは問屋の若旦那と云った風情だ。 

しかしこの男、戦となると年の割には老練で堅実な戦をする。  

「江戸城での企てが事前に漏れていた時点で、敵にはそれに乗ずる策があると見るべきであろう。 義氏と云う寄せ餌に喰いつけば、更に後手を踏む事になる。」

何処かで、ごくりと唾を呑み込む音が聞こえた。

敵は必ず国府台に押し寄せる。 時忠はそう見ている。

今此処で軍を割れば苦戦を免れず、決戦を避けて退いたとしても敵は追撃の手を緩めないだろう。 そうなったら、獅子の分け前に与らんとする者達によって本国に火が付く。 ただでさえ佐貫を足利義氏に押さえられているのだ。 そうなれば、我々は蓋をされた房総の片隅に封じ込まれる事になる。 

それは、最早抜け出す事の叶わない、棺のような空間だ。 

今の我々には、退路など無い。

気が付くと座は静まり返っていた。皆、義弘の決断を待っている。

肚は決まった。 義弘はゆっくりと座を見廻し、口を開いた。


太日川にはがらめきの瀬と呼ばれる場所が在る。 

干潮時になると、水位が下がって扁平な岩盤が露出する地点だ。 

朝靄を透かして見える対岸が蠢いている。 恐らく干潮を待ってこの瀬を渡る積もりなのだろう。 

対岸には富永直勝率いる江戸勢三千と、松山城から駆けつけた北条氏政の一万五千が布陣している。 

氏康と綱成は、引き続き松山城攻略に当たっているようだ。

敵は既に渡河の構えを見せ始めている。 

迎撃の備えを取るよう、既に伝令は飛ばしていた。 

後は、敵が如何動くか。

その時、義弘の立つ高台に近づいて来る者がいた。 

「おう、太郎。 此処だったか。」 

六尺を超える巨躯を屈めながら、正木信茂が白い息を吐いた。 

「今朝は特に冷えやがるな。」 

そう云って、信茂は忌々しそうに今にも泣き出しそうな空に眼を遣りながら、丸めた掌に息を吹きかけた。

「じきに敵が川を渡るぞ。」

「あぁ、そのようだな。」 ふんっと小さく鼻を鳴らす。 

「来るなら勿体ぶらずに、さっさと来りゃあ良い。 躰を動かせれば、ちいとは寒さも紛れると云うものだ。」  

信茂は義弘の隣に並ぶと、顔を綻ばせた。  

「おい、見ろよ。土岐の爺さん、大分張り切っているようだぜ。」

見下ろすと、古めかしい甲冑姿の土岐為頼が、兵達に指示を出しているのが見える。 軍を川の上流へ移動させているようだ。 恐らく渡河してくる敵の脇腹を狙う積もりなのだろう。 

為頼も今年で六十半ば。 堅物の武人で、昔はああせいこうせいと義弘にとっては煙たい存在だったが、年と共に随分と丸くなった。それでもいざ戦となれば、未だ若い者に遅れを取るものでは無い。

「なあ、平七……」

「ん?」

「御所様を連れ去ったのは…… お前の仕業だな?」

信茂の表情は変わらなかった。 ただ、敵の様子を眼で追っている。

(安房の狐共めが! 下手な三文芝居を打ちおって!) 

足利頼純の移送隊への襲撃の報を受けた政虎は、そう吐き捨てたと云う。 義堯の怒りもまた、相当なものだった。 彼とすれば当然だろう。 折角自分が隠居してまで何とか形を作ったものを、土壇場で台無しにされたのだ。

疑いの眼は、真っ先に義弘に向けられていた。

「御所様は何処だ?」  

「それを知ってどうする?」 

前方へ眼を向けたまま、信茂がぶすりと呟いた。

「……」

「知ると云う事は、お前にも責任が及ぶと云う事だ。 お前は……知らん方が良い。」

「……そうか。 お前には、骨を折らせてしまったようだな。」

「気にするな。お前と俺とでは、背負っているものが違う。」 

せせらぎの調べが途絶えた川面を、朝靄がゆっくりと流れている。二人はもう、言葉を交わす事は無かった。 


凍てつくような朝の冷気に、禍々しい殺気が充満していく。  

両岸ではもう咳き一つ聞こえない。 初めての北条軍との野戦。

敵が動いた。 川面に飛沫が上がる。

黒々とした巨大な影が、川に注ぎ込んでいる。 

自軍から鉦が鳴った。

最前線に布陣する正木時忠。 

迫り来る黒い濁流に向かって一斉に矢を放つ。 

敵が二手に分かれる。 その一方が大きく迂回し、時忠隊の背後に廻る構えを見せる。 しかしその側面から、北に陣を移動させていた土岐為頼隊が突っ込んだ。  

更に時忠隊の後方から、信茂の騎馬隊が飛び出して行く。

敵の真っ正面から突入。 

義弘が手を挙げると、馬廻りの小倉忠宗が前へ出た。

義弘が手を下ろす。 空気を振るわせる喚声と共に、騎馬隊が一斉に地を蹴った。

元々、里見家には騎馬隊は多くない。 中軍の騎馬を掻き集めても、五百を僅かに超える程度である。 

その半数は義弘の馬廻り衆。 

父義堯が手塩にかけて育て上げた、鉄の忠誠心を持つ選りすぐりの精鋭は、仮令万余の敵を向こうに廻しても怯む事は無い。

義弘が馬腹を蹴り上げる。 びゅんっ、と馬が更に速度を上げた。

激戦は二刻ほど続き、最初に敵の富永直勝が崩れた。 

引き摺られるように氏政軍も後退。 

そしてやがて、敵陣が決壊した。 

富永直勝討ち死に。 北条側の戦死者は実に約二千にも上り、里見軍の損害は軽微なものだった。


里見が国府台での捷利を収めた数日後、太田資正の必死の抗戦も空しく松山城は敵軍に没した。 

越中の一向一揆勢との和議を纏め、軍装を解かずに十二月の半ばには上野沼田に入っていた上杉政虎だったが、大雪のため初動が遅れた事が響き、結局松山城救援には間に合わなかったのである。 

その後、上杉軍は進路を東に取り、北条に落とされていた下総古河城を奪還。 関宿に落ちていた足利藤氏が戻され、政虎は縄張りの再構築と公方家の組織強化に奔走した。

その一環として、里見から土岐為頼が古河城へ入る事となり、他の諸侯からも、一定数の兵を古河城に常駐するよう義務づけられた。 それは恐らく、関東に漂う微妙な空気を察知してのものだろう。

今回、松山城救援の為、いち早く軍を動かしたのは里見のみ。 

他は出陣を躊躇う者。 体裁を繕うだけの者。 中には、完全に無視を決め込む者まで。 

先の小田原城攻略失敗から、明らかに潮目が変わった。 

政虎の号令に対する諸将の反応の鈍さが、それを物語っていた。



「何だ、お前は?」 

横井弥七郎の郎党が、列の端で隠れるようにして小さくなっている長助を認めて目を吊り上げた。

「あ、あの……」 じわりと脇の下から汗が滲む。  

その男は長助の顔を睨み付けたまま、「お屋形」と呼んだ。

館の方から男が大股でやって来る。  

熊のように盛り上がった肩。 頭をツルツルに剃り上げている。 その魁偉さに圧倒された長助は、一層肩を窄めて頭を垂れた。 郎党から耳打ちされた弥七郎が、猪首を傾げて顔を覗き込んだ。

「爺……  お前、何処の者だ?」 

太い眉に、ギョロリとした大きな目。 その眼光に射竦められ、言葉が中々出て来ない。   

「おい!」  

「へ、へい。 おらぁ…… ひ、日笠村の……」

「おう! 甚助は何処じゃ!」 

弥七郎が胴間声を張り上げると、門の処で控えていた甚助が素っ飛んで来た。  

「おい、甚助! こんな棒ッ切れのような老い耄れ、刀除けにもならんわ。 お前は儂に恥を掻かす気か?!」 

弥七郎が腰に手挟んだ野太刀を抜くと、ひいっと甚助が飛び退って地に伏した。 

「め、滅相もござりませぬ! 此れには、じっ、事情が……」

「やかましい! 帰ったら太治兵衛に云うておけ! 今度こんな舐めくさった真似をすると、徒ではおかんとな!」

「御領主様!」

自分でも気付かないうち、長助は地に這い蹲っていた。  

この機会を逃す訳にはいかない。 再三太治兵衛に頼み込んで、漸く納得して貰った徴兵志願である。 

「おい、爺(じじい)。」

「お願えします! 何でもしますで。 如何か、如何か!」

「顔を上げろ!」 ノロノロと顔を上げたと同時に、弥七郎が肉厚の野太刀を横に払う。 

ぶんっと風が唸りを上げ、微かな血の匂いが鼻先を掠めた。

ひゃあと腰を抜かした長助に、太刀が向けられた。 

「爺、戦場では今のように逃げれんぞ。 お前が逃げれば、誰かが逃げる。 誰かが逃げれば…… 其処で戦は負けじゃ。 最初に逃げたお前の所為で、何百何千の味方が死ぬ事になるんじゃ。」 

此処より先…… お前の居場所など無い。 立ちはだかるように見下ろすその切っ先は、妖しい殺気を孕みながらそう告げていた。


「だから俺ぁ厭だったんじゃ……」 

帰る道すがら、小さく毒づいた甚助は、槍を持って後ろを歩く長助を忌々しそうに一瞥し、「全く…… 云わんこっちゃねえ」と、これみよがしにぺっと道端に唾を吐いた。

奇跡を信じている訳では無い。 犬死と云われようとも構わぬ。 

自分はただ…… 惨めな無力感が、長助の心にしたためた筈の決意を黒く塗り潰していった。



「兄者……」  襖の向こうから呼ぶ声がした。

「勝広か? 入れ。」 襖が開き、弟の福島勝広が入ってきた。 北条軍全体に眼を配らなければならない綱成に代わって、この玉縄城を切り盛りしているのが勝広であった。 

鬢に白いものが混じっている。

勝広も、もう今年で四十二。 

(お互い、年を取ったものだ……)

未だ小さかった勝広を連れて、着の身着のままで北条へ落ち延びて来てから味わった屈辱と孤独。 辛酸と苦闘。 勝広だけが知っている。 

お互いに年を重ね、出世もしたが、通い合う心情は昔と何も変わらない。

前に座った勝広が、少し困惑気味の様子で小さく咳払いをした。  

「如何した?」  綱成が眉を顰める。

「実は…… 太平寺にいたと云う女が、兄者に拝謁を願い出ております。」

(太平寺……?) 太平寺は青岳尼が安房に渡って後、氏康の命により破却されていた。

「名は何と云う?」

「恵心、と。」

「恵心……」 綱成は頭を捻った。

一拍置いて、まるで辺りを憚るかのように勝広が声を落とした。

「青岳尼から、兄者への言伝を預かっておると……」

「何?」 

(青岳尼殿から…… この儂に?) 

「青岳尼からの使いとなれば……  矢張り一応、兄者にお伺いを立てた方が良かろうと思いまして……」  

「……会おう。 此処へ連れて来てくれ。」 


その女は見覚えがあった。 

「恵心、と申したな?」 

はい、と云う蚊の鳴くような声。 畏まった身体が、一層縮こまる。

「苦しゅう無い。 面を上げよ。」 

そう云うと、女は漸く顔を上げた。 狭い額と、突き出た頬骨。

どことなく幸の薄さを感じさせる顔。

間違い無い。 髪を伸ばし大分様相は変わってはいるが、訪問をよく取次いでいた、あの若い尼僧だ。 

「青岳尼殿の使いで参ったと聞いたが……」

「はい。」   

「青岳尼殿は息災かな?」

「はい。 あ、いえ……」  女が口篭った。

「あ、あの…… 御身体は、あの…… お健やかであらせられるのですが……” 女の額に忽ち汗が浮かぶ。 

「言伝と聞いておるが…… 書状は無いのだな?」 

「は、はい。 あの…… お話がお話ですので、書状は渡されませんでした。 ただ……」

「ただ、何じゃ?」

「此れを、綱成様へと……」

それは足利家の家紋が施された懐剣だった。 紛れもなく彼女のものだ。 綱成も何度か目にした事がある。

「そうか……」 無論、此れだけで信用した訳では無い。 何らかの姦計の可能性もある。 尤も、謀を為す為の使者としては、眼の前の女はとても適任とは思えないが…… 

「では、聞こう。 ゆっくりで良い。 順を追って話してみよ。」

女は喉の渇きを鎮めるように、碗に手を伸ばした。 そして慌てて引っ込める。  

「遠慮は要らぬ。」

救われたような顔をしたその女は、頭を下げて茶に口を付けた。

そっと口許を押さえた指先が微かに震えている。 

そして、ゆっくりと話し始めた。



トンッ。  思わず息を呑む。   

愚図愚図するな。 背中を押す指がそう云っていた。  

道々つらつら考え込んでいる内、自然に足の運びが遅くなっていたようだ。

(畜生……) 背中にぴたりと張り付く、女の視線。 

出発の前、用心の為と綱成から同行者を一人付けられた。 

表情の無い、まるで石のような女だった。  

此れからの事は館山に帰った後、じっくり策を練る積もりだった。

この綱成からの書状を、如何にして人目に触れさせるか?

多賀家には、女郎屋にいた頃からの馴染み客がいる 前当主信家を足利頼純の手の者に惨殺された恨みを抱く者は、頼純の姉である青岳尼を快く思っていないだろう。 馴染み客と云えば、久留里の奥座敷に出入りする館山の小間物問屋もそうだ。

いざとなったら、関所で厳しい監視の眼を向けられる旅一座や修験者に持たせる手もある。 銭を使っても、色を使っても良い。 何れにしても左程難しい事は無いだろう。

しかし、問題なのはこの女だ。 こうやってずっと付き纏われたのでは、全てが水の泡になってしまいかねない。

(良いか…… この書状には青岳尼殿の命が懸かっておる。 その方の命もだ。 それを肝に銘じ、しかと届けよ)  綱成はそう云って、道中の路銀まで持たせてくれた。 

つっかえつっかえ、冷や汗を流しながらの話だったが、如何やら逆にそれが効を奏したようだ。  

青岳尼の一件が理由で太平寺が取り潰しになった後、あたしは昔の客の口利きで安房館山の女郎屋で働いていた。 

其処で里見市之介と知り合った。 

里見の御曹司と云う話だったが、破落戸達と徒党を組んでは悪行三昧に耽っているような悪童で、女郎屋の主人も扱いに困っているようだった。 女郎達は皆、市之介と寝るのを厭がった。 銭払いが悪い癖に、酔うと度々暴力を振るったからだ。 それに、女の肢体を覚えたばかりの若い彼の攻めは生硬で貪婪だった。 それこそ一睡も許されず、苦痛に耐え続けなければならない。

しかしあたしだけは進んでそれを受け入れた。 夜具の上での男の扱いには馴れている。 若い彼は隠微な技巧を駆使して尽くす、あたしの肢体に忽ち溺れた。 

彼があたしを身請けし、館山に家をあてがってくれたのはその為だ。

そして枕を交わす内、彼の不行状の裏に一つの憤怒がある事を知る。 

今回の企てを思い付いたのは、その時だ。

唯一の気掛かりは、市之介の存在であった。 彼を通じて裏を取られれば、太平寺を出てから後、あたしと青岳尼の間に接点が無い事がばれてしまう。 しかしそれから間も無く、何の事情なのかは判らないが、彼が突然姿を消した。 将に天啓と云えた。 

あの女は自分達だけでなく、仏すら裏切ったのだ。 だからこそ、仏はあたしにもう一度途を開いてくれたのだろう。 

あの時…… とどめを刺せなかった自分の甘さ。 あの女を信じたいと云う気持ちを、最後の最後まで棄て去る事が出来なかった、自分の未練に決着を付けさせる為。

あの女が里見の跡取りの妻となって眩い光の中にいる頃、あたしは掃き溜めの中を這いずり廻っていた。 あたしだけでは無い。 

あの女の所為で、終の住処を失った尼僧達がどんな苦労を強いられたか? あの女には決して判るまい。 

心の深奥に張り付いた瘡蓋の中で、黒い憎悪がじわりと疼いた。 

あの女は、最後の鉄槌を受け入れねばならぬ。 あれほど恋焦がれていた、男の手によって。

胸が空くような痛快さに、あたしの心は踊った。


そろそろ下総と上総との国境。 

上総に入れば、久留里まで半日の距離だ。 それまでに、この女を何とかせねばならない。 

相手は女一人。 いっその事、隙を見て…… 

そんな事も頭を過ぎったが、何しろ綱成が直々に選んだ女である。相当に腕は立つ筈だ。  

風魔の女。 そう云っていた。 北条に仕える忍びなのだと云う。忍びと云われても、あたしには未だぴんとこなかった。  

つまり…… 妖術を使ったり、闇の中を木から木へ飛び移るような連中なのだろうか? 

そう、天狗みたいな。

(全く…… 薄っ気味悪い) 

思わず心の中で毒突き、慌てて其れを打ち消した。  

天狗だったら……  此方の心も読み取れるのかも知れない。

(いや……) 若しそうなら、道中とっくに頚を掻かれていた筈だと思い至り、胸を撫で下ろしたりする。 気が付けば女は横に立っていた。 品の良い小袖に、市女笠。 

白い手甲に、杖を突いている。 如何にも商家の若女将と云った風情だ。 しかし、その顔には特徴と云うものがまるで無かった。 誰の記憶にも残らない顔、と云ったら良いのだろうか。  

やがて関所が見えてきた。 背の高い重厚な外柵がぐるりと囲繞している。 

関所と云うより、砦に近い。 構えに比べて極端に狭い木戸口を進む人の列。 

此処まで来たら、もう腹を括るしかなかった。 

関所の中は物々しい空気に包まれていた。 

兎に角、兵の数が尋常では無い。その女は全く動じる様子も無く、関所手形を手渡しながら、やわたんまちの見物で館山に向かう途中だと関所の役人に告げた。

「ずーっと行きたい行きたいと思っていたんですよぅ。」 

安房のやわたんまち。 つまらなそうに手形を手繰り寄せた役人に、女が眼を輝かせながら科を作った。

「それが今回、店の仕事も一段落ついたものですから、とうとう願いが叶う事になりまして……」 

今までの石のような表情から打って変わって、零れるような愛想を振りまいている。

今しか、無い。 

「……違う。」 あたしは言葉をやっとの思いで捻り出した。 

緊張で喉がからからに渇いている。 ひらひらと手形を眺めていた役人の手がぴたりと止まった。 周りの空気が急に冷え込んだような気がした。 

重い緊張が、じわりと躰の芯から染み出てくる。

「何が?」 役人が訊く。

「こ、この女は…… ほ、北条の…… 忍びで……」 

口が凍えたように強張る。

「何?!」 色を為した役人に、あたしは慌てて手を振った。

「あ、あたしは違う! あ、あたしは、ぜっ、銭で誘われただけで…… 何も……」 

「なぁにを云うとるの? この女は。」

そう云って女は口に手を当てて、大きく笑った。

「申し訳ありませんねぇ、この女はちょっと、悪戯けが過ぎる時あるもので……」

「嘘じゃぁないんです! ほ、ほら…… こ、此処に書状が……」

あたしが自分の結髪に手を伸ばした時、甲高い怒号が響いた。 

「いい加減におし!」 

もう後戻りは出来ない。 あたしは構わず髪の中に仕込んだ書状を抜き出して、役人の足に取り縋った。 

「お、お役人さん、お願いでございます! このまんまじゃぁ、あたし殺される。 だから……」 

受け取った書状を一瞥した役人の顔が、見る見る険しくなった。

おいっと同輩を呼ぶ。

女を見た。眼が血走っている。 

石が…… 割れようとしていた。

数人の兵が女に近づいた。 あっと云う間の出来事だった。  

ぱっくりと喉を斬られた兵が、声も無く仰向けに倒れる。 

杖に仕込まれた刀。

ひいっと仰け反る役人。 湧き上がる悲鳴に、うねる人波。

女が此方を見た。 初めて見る、女の本当の顔。   

口が開く。 悪寒が躰を疾り抜けた。    

それは…… たきの顔だった。 左目尻から頬に走る疵痕。  

恐怖が絶叫となって迸り、あたしは無我夢中で駈けていた

女が跳躍する。 魔笛のような風の音。 

何かが肩にぶつかり、よろけた。  

振り返る。 真っ直ぐあたしだけを見ている。 

殺到する刃を跳ね上げ、そして躱しながら。 

あたしだけを……  

石に躓き、前のめりに倒れた。 両手で頭を覆う。

(もう、駄目だ……)  

耳許で、たきの息遣いが聞こえた。  



一驚一喜。 恵心と申す者より、青岳尼殿の御口上を承り候。 

先ずは御息災の由。 兎にも角にも、安堵致し候。 青岳尼殿の御申出の儀、太平寺再興も含め、確と約定仕り候。 万事ご放念頂き、御身一つ鎌倉へお越し下さるべく候。

拙者も孫を持ち、白髪が目立つ年と相成り候。 此れから後は、お互い世情を忘れ、ゆっくり時を過ごしたいものと存じより候。 鎌倉までの道中の仔細については、連れの者に申し付けて候へば、何なりとお申し付け下さるべく候。

北条上総介。


(何だ、此れは……?)

頭の中が煮えるような思いだった。 

公事場に呼ばれた千代は、じっと書状に眼を落としたまま。

綱成の花押。 それに書状に記された筆跡も、疑いも無く綱成によるものだ。 

縄を打たれ、詮議の場に現れた恵心と云う女は、肩と背中に刀傷を負っていた。 彼女を見た千代は一瞬戸惑いの表情を見せ、そして得心したようにゆっくりと頷いた。 

そして、全てを認めたのである。 

心にへばり付いていた最後の執着が、暗い絶望の中にサラサラと落ちて行く。 命を賭して鎌倉から連れ戻し、父との不和を招こうともお前を妻とした結果が、此れか?

人払いをした義弘は、千代の前に立ちはだかる。

「何故だ……?」 

握り締めた血染めの書状を、力任せに彼女の顔に叩きつけた。 

捩れた書状が、彼女の膝にぽとりと落ちる。

「不満があるのならば、何故俺に云わぬ! 」

確かに自分は、千代を守り通す事が出来なかったかも知れない。

仮令その裏にどれほどの相剋があり、葛藤があり、苦悩があったとしても。 無力な夫と詰るなら、幾らでも受けよう。 しかし正室の座を失おうとも、千代は今でも妻である事には変わり無いのだ。  

それが不満一つ掌に載せ、事もあろうに北条に奔ろうとするとは……  

散々苦心させた俺の為に指一本動かさず、一歩たりとも踏み出そうとしなかったお前に…… 

この俺にとって最大の屈辱を、小さな裏切りの咎として負わせる資格が有るとでも云うのか? 

「如何した……? 何か申す事は無いのか?」 

泣いて許しを請うような女で無い事は判っている。 

この女は、いつだってそうだ。 

本当の自分を、決してさらけ出そうとはしない。 

しかし楓姫は違う。 常に本音でぶつかってくる。 

拗ねて、妬いて……時には衝突も厭わず、己を押し通そうとする。それが、今の俺には心地良い。 

そんな気持ちなど、決して理解出来まい。 

ただ愛されたいと願い続けてきただけの、この女には……

「もう良い……」 筆に伸ばしかけた千代の手が止まった。

「お前の望みを叶えてやる。 心置きなく綱成の許へ参るが良い。離縁じゃ!」 

義弘はそう吐き捨てた。



この年の九月、北条氏康を大将とする二万が古河城に迫ると、足利藤氏は我先にと夜陰に紛れて城を脱出した。 結局、御輿の上に据えられた鳳凰に、魂が宿る事は無かった訳だ。

城兵の殆どは他家から派遣されている混成部隊。 主を失った城は内部から呆気なく瓦解した。 

最後まで残ったのは、土岐為頼率いる土岐勢三百のみであった。 

此処が死に場所。 為頼は恬として踏み止まり、北条軍を城下に迎えた。 

雲霞の敵に対し、門を開け放って突撃を敢行。 

全員玉砕という凄まじい戦い振りを見せ付けて、歴戦の老将は終の途を疾り抜けて行ったのである。


身を切るような十二月の冷気に頭を押さえられた浅い川の流れが、鈍い足取りで南を目指している。 

義弘は上杉政虎の求めにより、一万二千の軍勢を再び下総国府台に布陣させていた。 

情勢は悪化の一途を辿っている。 

古河城を手中に収めた北条軍は、その後、矛先を岩槻城に向けた。 

武蔵に残る上杉方最後の牙城。 湿地帯に築かれた岩槻城は、北から西を流れる元荒川から水を引き込んでぐるりと環濠を穿っている。 所謂、水城だ。 

守る太田資正は、北条にとって喉に刺さった小骨だった。 まるで砂上に描いた紋様が消えるように、再び元の情勢へと帰した武蔵に在って、翻した反旗を頑として下ろそうとしない。

しかし、資正の本当の敵は足許にいた。

資正が江戸城から落ち延びていた康資と共に、城を出て北条を攪乱している隙に、資正の嫡男、氏資が城門を閉じたのである。 恐らく、江戸城乗っ取りの企てが露見したのも、氏資の密告からだったのだろう。 氏資の内応により、拠る城を失った資正軍は一気に潰乱し、散り散りとなった。 

追い風に帆を揚げる北条は、数千の部隊を上杉の備えとして残し、全軍が此処国府台目指してひた走っている。 

今回の相手は氏康と綱成。  苦しい戦になるだろう。

(それにしても……) 不可解なのは上杉勢の緩慢な動きだった。

春日山出陣から上野厩橋に入るまで二ヶ月を要した上、武田や北条に与する上野の豪族等の城攻めに時を費やすばかりで、結局岩槻を見殺しにしてしまった。 

(ひょっとして…… 関東を重荷に感じ始めているのか?)

およそ四里前方に敵勢! 物見からの報告が飛ぶ。

義弘は、床几から立ち上がった。 

政虎の事は、もう頭の中から消えていた。


北条綱成は太日川の東岸、中山法華寺から北に在る国府台砦を遠望していた。 

七千の綱成軍を含め、北条軍の一部はもう太日川を越えている。 

綱成と国府台を挟むように、北の小金城には大石氏照の三千が布陣していた。 

本陣は国府台の対岸、葛西城に氏康父子の一万。 総勢二万の軍勢である。

対する里見軍は国府台本陣に里見義弘、正木時忠と信茂。 それに安西勝弘の五千。 小金城には土岐為頼の嫡男、頼春の二千が当たり、綱成が布陣する中山法華寺と対峙するのは、真里谷義信と庁南豊信の三千であった。 更に、酒井胤治と敏房の二千が国府台の背後を固めている。

既に小金城の氏照と頼春の間で、小競り合いが始まっているようだ。 氏照は氏康の次男で、幼くして武蔵守護代、大石氏に養子に出されていた。 大石氏の居城である滝山城は、甲斐から武蔵に抜ける要衝に位置し、氏照が家督を継いだ後は何度かの改修を経て、今では武蔵随一の巨城として甲斐武田の野心に眼を光らせている。 幾ら本家から相応の援助があったとしても、それを短期間に成し遂げたと云う事は、彼の経営手腕の高さを物語っている。

家中の受けも良いようだ。 父氏康から北条に改名するよう再三勧められても、頑として大石の姓を捨てようとしない。 万事父親の顔色を窺う兄氏政と違い、氏照にはそんな気骨が有った。 大石家譜代の家臣達が感激するのも当然だろう。 そんな鉄の団結を誇る彼等を従えての戦振りにも定評があった。 

宿敵里見には国力では圧倒するものの、北条で一つ懸念されるのが世代交代の遅れだった。 

当主義弘を始め、正木信茂、酒井胤治。そして新たに土岐家を継いだ頼春と、里見には二十代から三十代前半の若い良将が犇めいている。 軍の柱石を担う正木時忠にしても、四十代半ばの働き盛りだ。  

一方、氏照は未だ二十三。 隠居した氏康の意向により、北条軍全体を統括する任にある綱成が、今最も将来を嘱望する人材がこの氏照だった。 

氏照には事前に決して深入りするなと伝えてある。 

彼の事だ、間違いはあるまい。

母衣武者からの報告。 

下総本佐倉の千葉胤富と原胤貞が背後を窺う構えをとった事で、酒井勢が陣を東に一里ほど移動させたとの知らせだった。 

綱成は小さく頷いた。

厚い鈍色の空。 吐く息が白い。  

宴の予兆を感じ取ったのか、頭上では早くも烏が旋回していた。 

そして葛西城からの伝令。北条本隊が城を出て、太日川を渡河中。愈々本格的なぶつかり合いが始まる。 がらめきの瀬は兵で埋まり、小高い丘が喚声で包まれる。 戦は序盤から総力戦の様相を呈していた。

しかし綱成は動かない。

鈍色にくすむ原野。 何処からか足許に舞い降りた大きな枯葉が、風に吹かれてからりと音を立てた。 前方の真里谷軍は、草に潜むように、こそとも動く気配が無い。

北の国府台とは対照的に、此処では重い静けさが支配していた。

湿った空気が流れ始めている。 もう直ぐ日も暮れるだろう。

綱成はその夜をじっと待ち続けていた。


夜襲に備えて焚かれた篝が、岸辺を引いている。   

北条本隊も川向こうに退き、日中の激しい戦が嘘のように辺りは静まり返っていた。 

両軍共にかなりの被害が出ている。 敵も疲れていようが、寡兵で一日中駈けずり回った味方の疲労も相当なものだ。  

そんな中、気に懸かるのが砦の南、中山法華寺に陣を敷く綱成軍だった。 北条軍中核でありながらも、唯一不気味なほどの沈黙を保っている。   

「お屋形様!」 篝の火影に照らされた廊下を渡り、飛び込んで来たのは小倉忠宗だった。  

外へ出ると砦の南、中山法華寺の方角から火の手が上がっているのが見えた。

遠く聞こえる喚声と鉦の音。  

真里谷軍が独断で綱成軍へ夜襲を掛けていると云う。 

腹が煮え、こめかみが疼いた。 戦の前、あれほど勝手な行動をきつく戒めていたのに…… 

義信には庁南豊信も付いているが、彼から見れば義信は主家筋。 彼の律儀さが、義信を諌め切れなかったのか?  

やがて義信軍から使番がやって来た。  

「我が軍の夜襲に因り、綱成軍は川を越えて退却中。 義信様はこのまま法華寺に留まり、その後の北条の動きに当りたいとの御意向にござります。」 晴れやかな笑みを浮かべ、やや誇らしげに胸を反らせる使番に、義弘は怒気を含んだ声を浴びせ掛けた。  

「糞たわけが!」 使番は肝を冷やしたように飛び上がった。 

「義信には直ぐ元の陣に戻れと伝えい!」  

対岸の北条本軍が動いたのは、使番が転がるように出て行って直ぐの事だった。 


夜襲。 鳴り響く押し太鼓を合図に、巨大な闇が奔湍となって押し寄せる。 

迎え撃つのは正木時忠。 

出鼻を挫かんと、兵を散開させて矢を放つ。 信茂の騎馬隊も砦を駈け下りて行く。 

「馬引け!」 義弘の左右に、忠宗等の馬廻り衆が陣取った。  

何か落ち着かない。 緊張の所為なのか?  

いや、違う。  

強い情念の宿った視線を感じる。 じりじりと、焼けるような。 

心が、それに備えよと叫んでいる。 

義弘は辺りを見回した。  

闇の中から……  何かが此方へ向かって疾走している。 

粘りを含んだ汗が背中を伝う。 

(其れは一体、何だ……)  

ざわりと項の毛が逆立った。  振り返る。

闇の中で、怒号が沸き起こった。


夜の闇に溶けた、三千の軍勢が疾走していた。 

真里谷が動く前に、綱成は既に軍を二つに分けていた。 対岸に退却した四千は、国府台の背後に廻る此方の影を消してくれている。

里見軍本陣。 炙り立てられるように錯綜する前方の人影。

聞こえてくるのは、大地を叩く馬蹄の響き。  

それに、胸を打つ血潮の波動。

綱成は槍を掲げて敵軍に突っ込んだ。 綱成の騎馬隊が、人の波を断ち割っていく。 

後に続く福島勝広の徒が、その空隙を衝く。

まるで案山子のように、槍で跳ね上げられる敵兵。 

篝が倒れ、ぱあっと火の粉を散らす。  

繰り出される穂先。 横に払う。 意識の前に躰が反応する。  

火影が舐める敵兵の顔に、はっきりと恐怖が張り付いている。 

敵の壁。 隊伍を整える余裕を与えてはならない。

敵陣が巨大な壁となって迫る。 頭を低くして突っ込んだ。 

砕かれた巨大な影が大きな塊となり、その塊が千々に裂かれて無数の断片となる。

気が付けば、綱成の騎馬隊は敵の反対側に突き抜けていた。 

右肩が熱い。 どうやら傷を負ったようだが、痛みはまるで感じない。 

感覚が鈍磨する中で、神経だけが研ぎ澄まされていく。 

馬腹を蹴り上げる。  

馬が嘶く。 再び敵陣の中へ。 

ただ一個の…… 荒ぶる魂に先導されるままに。  

うねる敵陣の後方に、騎馬の一団。  将旗が見える。

綱成は、足を掛けた鐙に力を篭めた。


激しく交錯する跫音。 獰猛な息遣い。 銅鑼のような喚声。 

まるで雷を打ち込まれたように、地が揺さぶられている。

「落ち着け!  うろたえるな!」  

前線にいる時忠からの伝令が、本陣に飛び込む。

敵の本陣から分かれた一隊が、川を渡って砦の南へ布陣。 

其処は真里谷信応が陣を敷いていた場所。  

此れにより砦は前面の敵本軍、それに南北から押し包まれた格好になった。 まるで世界が暗転したかのように、禍々しい手によって里見は冥府の中へ放り込まれようとしていた。  

絶叫が湧き上がる。 

衝撃。 殺到する人と馬の激浪にもがくように、馬が棹立ちになった。 振り落とされまいと馬の背に必死にしがみつく。 肝が太く、戦でも決して自分を見失わない筈の愛馬が、恐怖で錯乱している。

凄まじい殺気を含んだ槍の一撃。 手綱は放せない。  

義弘は咄嗟に頭を下げ、兜で受けた。 

鈍い衝撃音と共に、兜が吹き飛ぶ。 

間断無く左右から迫る槍の穂先。 

必死に太刀を振り上げ、此れを払った。

不意に躰が軽くなる。 敵の騎馬が衝き抜けたのだ。

「お屋形様!」 駈け寄って来たのは、小倉忠宗だった。

具足が所々千切れ、顔が泥と血に塗れている。

「俺に構うな!  馬廻りを集めよ!」

敵が反転して再び襲ってくるのは明らかだった。

一刻の猶予も無い。 集まった馬廻りは半数に満たなかった。  

「徒に確り纏まれと伝えい!」 

毀れた陣を立て直そうと、馬を疾らせる。 

右手前方から雪崩れ込む敵の徒。 息苦しい程の圧力。 

敵の騎馬隊が荒れ狂う波であるならば、徒は堅牢な壁であった。 

「散るな!  敵の一点を狙って突き崩すのだ!」

味方の徒に向かって、忠宗が声を嗄らして叫ぶ。 

押されながらも、必死の下知に徒が反応し始めている。 

分厚い壁が、少しずつではあるが、動きつつあるのをはっきりと感じていた。 

阿修羅が憑依した如く先頭で暴れ回る忠宗。 騎馬隊は確りと纏まっている。 

此のまま……  あと少し。  

生と死の狭間での攻防。

槍の柄を叩き折り、敵兵の頸を斬り飛ばす。 馬が苦しげに口を開けて頸を左右に振るが、構わず馬腹を蹴り続けた。

そして……  とうとう敵の一角が崩れた。 

微かに差し込んだ光明に、全身全霊を傾ける。  

義弘の口から、咆哮が迸り出た。 行く手を塞ごうと左右から壁が狭まる。 

しかし騎馬隊の勢いが僅かに勝っている。 騎馬隊に励まされるように、蹲うかに見えた本陣も息を吹き返しつつあった。 その時…… 左手後方から敵騎馬の再度の突入。 

未だ混乱の収まり切っていない本陣の脇腹を抉る矛に、次々と味方が薙ぎ倒されていく。 

唸りを上げて迫る無数の凶刃。 

前線で必死の太刀を振るう忠宗が、人馬もろとも乱戦の中に沈んでいく。

周囲を固めていた筈の近習達の姿も見えない。 

押されていた敵が、勢いを得たように盛り返し始めている。 

鳴り響く押し太鼓。

そして、正木時忠と信茂の前線が崩れた。

負けた……  義弘は、此処ではっきりとそれを悟った。


退却は辛酸を極めた。 

綱成軍の追撃は徹底且つ、執拗なものだった。 

国府台から上総まで。 駈けに駈けて辿り着いた時には、身の廻りは数騎だけであった。 

途中で急を聞き付けた酒井胤治が救援に来なかったら、義弘の命も無かっただろう。 

里見方死傷者三千。 義弘の忠臣、小倉忠宗も壮絶な討ち死にを遂げた。 

里見軍の中で最も甚大な被害を受けたのは、最前線の正木時忠隊であった。 実に兵の七割が死傷。 

安西勝弘等、数多の将が戦塵の中に消えた。 

里見軍を粉砕した北条軍は、千葉軍と共に上総との国境まで軍を進め、掃討戦を展開。 この敗戦によって、里見は下総のほぼ全域と上総の西半分を失った。 

錐で石を穿つようにコツコツと版図に加えてきた領地の全てであった。



義堯の居室に通された義弘は、一つ空咳をして軽く頭を下げた。

二人きりで父に会うのは今でも気が重い。 

敗戦の後ともなれば尚更だった。

「父上。 只今参上致しました。」  

義堯は不機嫌そうに頷いて、座るように指で促した。 隠居の身ながら、今でも父は家中で隠然たる力を持っていた。 主だった奉行衆や子飼いの部将等を介して彼是と口を挟み、自分の意を捻じ込もうとする。 最近では家中の不満分子を取り込んで、公然と多数派工作まで仕掛けていた。

未だお前を棟梁として信認した訳では無い。 

そう言外に宣告しているのだろう。

父は座った義弘をじっと見詰め、一拍置いて口を開いた。

「また派手な負けっぷりだったようじゃの。」 

「面目次第もござりませぬ。」

「まあ、相手が北条氏康、綱成ともなれば、お前にはちと荷が重かったのかも知れぬの……」 

義弘は黙って俯いた。

「終わった事を如何こう云った処で始まらぬ。 大事なのは里見のこれからの事じゃ。 本日お前を呼んだのは、当主としてのお前の真意を聞きたいと思うてな。」

「真意、とは?」

「昨日、儂の所へ真里谷義信が具申に参った。」 

「義信が?」 厭な予感がした。  

「この際、北条と和議をする他あるまいとな……」

「お、お待ち下さい!」  思わず声を荒げた。  

「此度の戦で、北条には最早単独で抗し得ぬ事がはっきりした訳じゃ。 藤氏公も、北条に捕らわれの身。 最早、担ぐべき公方もおらん。」

敵前逃亡を企てた足利藤氏は、越後に向かう途中で北条に捕縛されていた。

「義信は、北条との密通が疑われておる男ですぞ! そんな口車に乗っては……」

「それが真であれば却って好都合と云うものじゃ。 北条と話が纏まるのも早かろうて。」

「な、何と……」

「武家は家を保ってこそ。 お前も棟梁ならば、変な意地にとらわれるな。 此処は北条と結んで、時を稼ぐのも悪くはあるまい。」

「和議とは申せ…… 要は北条の軍門に下ると云う事ですぞ! 北条は上杉とは違う!」

北条との力関係を考えれば和議とは即ち隷属であり、時を稼ぐどころか、里見は地を駈ける足の腱を切られ、壁を壊す拳の骨を砕かれる事になる。 爪を隠して雌伏しようとする者達に隙を与える程、氏康は甘くはないのだ。

それは、北条に帰順した武蔵の豪族達の扱いを見れば明らかだった。 皆、他国衆として一括りに編入され、度重なる資材の徴発と人足の徴用、長期間に渡る前線の警固等、彼等の負担は相当なものだ。 中には転封を強いられた者達も少なく無いと聞く。 

「そんな事はお前に云われんでも判っておるわ! それを何とかするのがお前の役目じゃろうが!」 

怒気を含んだ視線が、義弘を射抜いた。

「里見は…… 上杉が山を越える遙か以前から、北条とは共に天を戴かぬと云う鉄の覚悟を示してまいりました。 悪辣な姦計を以って公方家を簒奪した北条を討ち果たし、新しい基軸を関東に打ち立てんが為。 父上はその大義を棄てよと…… そう仰せか?」

自分は頼純を裏切り、堯次の頸を刎ね、そして千代から正室の座を取り上げた。 それを強いた父が、今度は北条に転じよと云う。 

「状況が変わった。 それだけの事じゃ。」 

突き放すように云う義堯に、長年抑え付けていた鬱積が一気に噴出した。

「合点が…… いかぬわ!」 

義弘はきつく握り締めた拳を、力任せに畳へ打ち付けた。

「お、おのれ……」 

義堯が立ち上がった。 形相が見る見る変わっていく。

「分別も判らぬ、この痴れ者が!」 

怒りで震える指先が、義弘の顔を捉えた。

「正義で下の者達の腹が膨れるか? 意地だけで家が保てると思うてか?! 杭(くいぜ)を守る阿呆とは、まさに貴様の事じゃ!」

「家を保つ事こそが武家でござるか?」

「何……?」  

「主君を弑逆し、頼純公を裏切った父上の指図に因ってどれほど多くの者が苦しみ、死んでいったか…… それをお考えになった事はおありか?」 

父の膨らんだ目袋の端が切れ上がった。 見下ろす瞳が鬼火のように揺れている。

「若し、それも家を保つ為と仰せならば…… 私はそんな家など要らぬ!」

「云うたな…… 太郎。 ならば貴様に棟梁の資格など無いわ! 今すぐ投げ出して、何処へなりとも消えうせるが良い!」

「それは出来ませぬな。」 義弘は頸を振った。

「何だと……」 義堯の顔が憎悪に歪む。

「私は、あなたと違うやり方で里見を護って見せる。 それに従えぬと云われるのであれば、出て行くのは父上、あなたの方だ。」 

いずれ、こう云う時がくるのは判っていた。 

謀略一途で里見を大きくしてきた父の眼には、自分のやり方が生温く映るのだろう。 或る意味においては、父が正しい。 里見と北条には、絶望的な力の差が横たわっている。 我々は久留里で北条を三度退け、前年の国府台では敵の江戸衆を散々に打ち破った。 

しかし北条は寸土も失う事無く、里見はたった一つの敗戦で、今、まさに房総の突端から海に追い落とされようとしている。 つまり、北条にとっては里見の戦いは常に局地戦であり、里見にとっては常に総力戦だったと云う事だ。 

他の関東の武家達と同じように損得だけで考えるのなら……  

お家大事と考えるのなら…… 父の考えは正しいのだ。  

ただ……  自分はその考えを取らぬ。 

武家は領民達に死ねと命ずる事が出来る。 我々はその言葉の重みに、最後まで責任を持たねばならぬ。 若し家の存続が武家の本懐なら、彼等は里見の保身の為に犠牲を強いられた事になる。 

それを認めた時点で、我々は生きながら死ぬ事となる。 

武家は…… 滅びる事を怖れてはならないのだ。



南に接する夷隅川に面した台地を削り立てて築かれた大多喜城。 

西に大きく湾曲した痩せた尾根は、北の栗山城へと続く。 まるで西に向けて盾を敷き並べたような縄張り。 機能性のみを追求し、一切の装飾を排除したその面構えは、城主の武骨さをそのまま体現しているかのようであった。 

城下には兵馬が集り、殺気に満ち満ちている。

正木信茂は普段、城下の館を住居として使用していた。 背中を丸めて横臥する竜に抱かれたような、広大な谷戸の一角に、その館は在った。 

険しい顔をした兵達が、周囲に視線を這わせている。 

大多喜正木家当主にしては、呆れるほど質素な屋敷だ。 周囲に立つ武家館のほうが余程見栄えが良い。  

「まぁ、珍しい事。」 

辺りに漲る緊張とはそぐわない明るい声で門から出てきたのは、妹の種だった。

昔は病気がちで細身だったが、今では肉置きも良く、豊艶な色香を漂わせている。 しかし気の強そうな目許だけは昔の侭だ。 信茂との夫婦仲は良い。 ただ一つ残念なのは、未だ子供を授かっていない事だが、特段二人は気にしている様子も無いようだ。

「兄上が大多喜にいらっしゃるなんて……」 

そう云って、ちらりと笑った。 

しかし今の義弘には、ゆっくり種と言葉を交わしている余裕は無かった。

「平七はいるか?」 

種はさほど気分を害した様子も無く、義弘を屋敷に通した。


城下の物々しさには理由があった。 勝浦城の正木時通が、大多喜正木家に属する一宮城を襲撃、此れを占拠したのである。

正木家は大多喜と勝浦の二つに分かれている。 時茂が弟の時忠に勝浦城を与え、分家させたのが始まりだ。 時茂存命中ならば何の問題も無かった両家の関係が強張り始めたのは、信茂が大多喜正木を継ぎ、時忠の嫡男、時通が政に携わり始めてからであった。 

国府台の戦の後、下総攻略に没頭する時忠は、若松浦の南岸、小見川城を根城とし、此処数年は勝浦城の仕置きを時通に任せ切りになっていた。 

時通は武将と云うよりは能吏に近い。 弓矢は得手では無いが、内政全般に関わる事務仕事となると抜群の才を発揮する。 兎に角、頭の回転が速い。 しかもその鋭敏な感覚を過信しない慎重さも持ち合わせている。

一宮城と夷隅川を挟んだ南側に、勝浦正木が治める金山城が在る。 しかし両城とも城主が先の国府台で戦死。 後嗣がいなかったり、未だ幼かったりで城内家老が城を預かっていた。

発端は春先から続く長雨。 夷隅川が氾濫した事に因って川筋が変わり、本来であれば金山城の領地であった土地が夷隅川の向こう側になると云う事態が起こったのである。 

明文化はされてはいないものの、両城の境界線は夷隅川と云う暗黙の了解が在る。 それを盾にして、一宮勢が金山城に相談も無く、自分の領地として編入したのだ。 

しかし暗黙の了解と云っても、川筋が変わる事など最初から想定などしていない。 

当然、金山城の者達は激怒した。 

訴えを受けた時通は土岐頼春を誘い、共に兵を挙げて一気呵成に一宮城を衝いたのである。  

里見の武を支える正木の内訌。 それは里見の崩壊に直結する一大事であった。

信茂は具足姿。 濡れ縁にどっかと腰を下ろし、庭に控える家臣に彼是下知を与えている。 義弘の姿を認めると、おうと云って手を上げた。 予想に反して、その表情は明るい。

「態々陣中見舞いに来てくれたか?」 

眉庇の下で白い歯が日に映えている。 

「そう見えるか?」 隣に腰を下ろした義弘をちらりと見た信茂が、苦笑いを浮かべた。

「おいおい。 まるでこっちに非が有るとでも云いたそうな顔つきだな。」

「非は双方に有る。 元を正せば、一宮勢の強引さが引き起こした騒動だろうが。」 

信茂が、忽ちこめかみに険を含ませた。  

「何を云う! 騙し討ちしたのは向こうの方ぞ! あの末成り瓢箪めが……」 

信茂が眉を怒らせてばしんと拳を掌に叩き付けた。

「攻めるなら手前の力だけで攻めれば良いものを…… 頼春の扶けを借りようと云う、その性根が気に喰わぬ。」

「落ち着かんか、平七。」 

「落ち着けだと? 大体お前はどちらの味方なのだ!?」

「大多喜だろうが勝浦だろうが、正木は正木だ。 里見の当主として、どちらか一方に肩入れは出来ぬ。」

「何ぃ?」 まるで横っ面を張られたような顔をして、信茂が目を剥いた。

「お前は…… 時通如きと、この俺を同等に扱う積もりか!?」

「まあ俺の話を聞け。」

「止めても無駄だぞ、太郎。 一人で戦も出来ぬような男に虚仮にされて、黙っていられるか。」

「儂とて黙ってはいられぬ。 里見が潰れようかと云う時だ。」

「ふん、武士の意地よりお家が大事か? お前は。」

「里見が内輪揉めをしていて一番喜ぶのは誰だ?  それが判らぬお前ではあるまい。」 

信茂は、憮然とした様子で腕を組んだ。 

「それに…… ひょっとして、この一件の裏で父上が噛んでいるのかも知れぬ。」

信茂の碧みがかった瞳が、ゆらりと動く。 

「義父殿が……?  何故?」  

義弘は、父との諍いの仔細を明かした。 

茶を運んで来た小姓を追い返した以外、信茂は腕を組んだままじっと聞いていた。 そして義弘が話し終えると、ばしんと両の膝を勢い良く叩いた。 

「よう云うた!」

声に驚いた家廻りの者達が、何事かと視線を投げ掛ける。

「とうとう腹を括ったか。 義父殿には昔から煮え切らなかったお前がのう……」 

そう云うと愉快そうに義弘の肩を揺った。  

「それにしても義父殿は愈々焼きが回ったと見える。 事もあろうに北条と結べとはな……」

「父は家を守る為に北条と結ぶのだと云った。 しかし俺は違う。北条と戦う為に家を守りたい。」

「うむ。」 信茂が大きく頷いた。

「如何だ? 合力してくれるか?」

「当たり前じゃ。」  

「なら、兵を引いてくれ。」 

信茂がぐっと言葉に詰まった。

「お前ならば、一宮を弓矢で取り戻す事はさほど難しくはあるまい。 だが、それでは何も変わらんのだ。」

「如何云う事だ、それは……?」  

「この家の有り様を変えねば、北条とは戦えぬと云う事だ。

だからこそ、この騒動は俺が間に立って収めねばならぬ。 それがこの家を変える嚆矢になると云う事よ。」 

意図を掴めないのか、信茂が難しい顔をして頭を捻った。 

父の云う通り、今のままでは里見が明日を掴む事など出来ない。 ならば如何する?  結論ははっきりしていた。 今迄の緩い連合体を改めて、国人衆を完全家臣化するしか無い。

簡単な話では無い事は承知の上だ。 

「一宮城は返還させる。 それは約束しよう。 但し、件の土地は諦めてくれ。」


その夜は、種を交えて信茂と久し振りに酒を呑んだ。 

渋々ながら矛を収める事を承知した信茂は、悔しさを紛らわせようとするかのように痛飲していた。

日中の喧騒は嘘のように、谷戸は竜に抱かれながら静かな寝息を立てている。 

子供の頃の話でひとしきり盛り上がった後、ごろんと寝転がった信茂は、既に鼾をかき始めていた。 

種が羽織っていた小袖を彼に掛けてやる。

すっと薄紙が差し込まれたように、途切れた会話。 

「兄上……」 少し躊躇いがちに、種は義弘の眼を見ずに呟いた。

「ん?」

「義姉(あね)上は…… 未だ安房におられます。」 

思わず盃を落としそうになった。 

彼女は今でも千代の事を義姉上と呼ぶ。 彼女は千代を実の姉のように慕っていた。 そんな彼女に対する兄の仕打ちを、納得はしていても許してはいない。 しかし種も武家の娘。 兄の不義を責めても、如何なるものでも無い事も判っている。 だから何も云わず、千代を義姉上と呼び続ける。 

それが彼女の精一杯の抵抗なのだろう。

「何処に、いるのだ?」 平静を装いながら義弘が訊く。

「再び尼となり、館山の大山に在る廃寺で、孤児院を開かれております。」 

大山は館山の南、湾に突出した岬に在る山である。 

(何故……) 義弘は心の中で狼狽していた。 

何故、千代は鎌倉へ向かおうとしないのだ?。 

「大多喜の出入り業者から話を聞いて、訪ねて行ったのですが、お元気そうでした。」

「会いに行ったのか? 千代に?」  種は小さく頷いた。

「戦で親を失った子供達の為に毎日托鉢に出て、小さな畑を子供達と一緒に耕されたりしておられます。」 

言葉が出なかった。

種は信茂にもその事を伝えたのだと云う。 孤児院の活計の足しに援助を申し出ては如何かと云う提案に、「義姉上は受け取るまい」と彼は頸を振ったのだそうだ。 

此方にはそんな積りは無くとも、その申し出は逆に義姉上を傷つけてしまうかも知れない。

だから…… 此のまま、義弘にも知らせず、黙って見守っている方が良いのだ、と。

信茂らしいと思った。 見た目とは違い、本当は人一倍情に厚く、細やかな心配りが出来る男だ。

「そうか…… 千代は、達者であったか……」

「ええ。 にこにことお笑いになって…… 義姉上の、あのようなお顔…… 久し振りに見たような気が致します。」

「そう、か……」 

ひょっとして、千代は漸く自分の居場所と云うものを、見付けたのかも知れない。 

種もそう思っているのだろう。 彼女は、行かないのか?と訊こうとはしなかった。

あの綱成からの書状の一件。 真実だったのか、或いは謀略だったのか?  

今となってはそれを詮索する事すら、何だか酷く賎しい事に思えた。 

遠い記憶の残像を追いかけるように、彼女を鎌倉から連れ戻して以降…… ひょっとして自分は、己の想いを無理強いしていただけだったのかも知れない。

ただ、与える事。 そして求める事。 たったそれだけで、十年の隔絶を埋め合わせようとしていた。 

自分は一体、彼女の何を知っていたと云うのだろう。



扁平な土地が何処までも続く。  

白い波頭を上げる荒磯と、穏やかな波が洗う砂丘。 

甍を競うように連なる山々と、うねる河川を抱く広大な沃野。  

房州の佇まいは、南と北ではまるで違う。 

おゆうと新吉が死んでから、四度目の春。 長助にとっては初めての戦である。 あれほど長助を厄介者扱いにしていた領主の弥七郎が、今回しぶしぶ認めたのには理由があった。 毎年のように課せられる軍役に応じる事が、限界に来ていた為である。

況してや国府台の大戦では、多くの者が命を落とした。 そんな状況下で今、下手に家主や長男を引っ張ろうとすれば、徒でさえ重税に喘ぐ村に一揆の機運が盛り上がりかねない。 

弥七郎としては、数を取るために質に目を瞑るしか無かったのだ。

無論そんな事情など、長助には如何でも良かった。 

この戦で…… 全てが終わる。 

眼前に広がる、刈り取られた田圃。 所々に溜まる水の上で光が弾けている。 

風景は違えど土の匂いは変わらない。 

長助はそれを大きく吸い込んだ。


川から引いた溜池に寄り添うように、その村は在った。 

何処にでもあるような村。 その路地を、しゃなり声を上げながら奔り廻る兵の姿。 

乙名の家だろうか。柵に囲まれた屋敷には、兵達が蝿のように群がっている。 隣接する倉は打ち壊され、荷が運び出されていた。 

「ちっ、もう始まっとるわ。」 長助の隣で、男が舌打ちをした。

「行くべ、行くべ。」  

「おうさ、遅れちゃぁなんねえ。」 

待ち切れぬように、後ろの者達が追い越して行く。

敵地での乱取りを許すと云う事は、最早里見には徴兵に報いるだけの銭が無いと云う事なのだろう。   

報償と云う名の狂宴。 逸る兵達に押されるように入った村。 

其処は、目を覆わんばかりの蛮行が繰り広げられていた。

立ち竦む幼子の傍らで、娘が数人の兵達によって裸に剥かれていた。 横倒しにされた大八車。 兵に取り縋る男が踏み付けられている。家から引き摺り出され、兵達の足許で手を合わせている老婆。 

まるで蹲る亀の甲羅を引き剥がし、肉を抉り出しているように…… 修羅の妄執が、村を足下に捩じ伏せようとしていた。


「けっ! さんざん勿体ぶって此んだけかよ!」 

振り返ると、破れた表戸の向こう側に、気の弱そうな顔をした若い男が跪いていた。 

妻なのだろうか。 彼の背中に隠れるように、女が震えている。

丁度昼餉の用意をしていたのだろう。 土窯の鍋が盛んに湯気を立てていた。

土間に草臥れた麻袋が一つ。 開いた口から米が零れている。 

それは、冬を越す為一粒一粒数えるように蓄えたのであろう、命を紡ぐ糧。 

此処にいる兵達とて皆、百姓だ。 

そんな事は判っている筈なのに。 君臨する者としての陶酔が、彼等を狂わせていた。 

「お前等は客のもてなし方を知らんようだで……」 年嵩の兵が袴の紐を解き始めた。 

「このおらが教えてやらあ。」 男根を引き摺り出して竈に足を掛けた兵は、鍋の中に勢いよく放尿し始めた。 腐ったような臭気が辺りに漂う。

「ほれ、呑め。」 

眼を瞑って顔を背けていた男だったが、やがて観念したように突き出された椀を一気に空けた。 

激しく咽せる。

「おい、女。 お前も……」 しかし女は頸を振って頑強に拒んだ。 

撥ね除けられた椀が土間に転がる。

「こ、このぉ……」  面目を潰された兵が、顔を怒りで赤く染めて女に襲い掛かった。 

荒々しく襟元を掴む手。 それに女が噛み付いた。 

「いてててて!」 

髪の毛を掴んで必死に引き剥がそうとするが、女は頑として離そうとしない。 男が大声で妻の名を呼んでいる。 その時、女の後ろに立つ大柄の兵が槍を振り上げた。 槍の石突が女の背後を襲う。 

ぎゃっと云う声と共に、女が土間に転がった。大きく割れた裾から伸びる、白い両足。 

兵達は無言でそれを凝視していた。 

細く伸ばした目の端が滑りを帯びている。

「か、堪忍してくれ……」 夫が声を震わせた。 

大柄の兵が、女に覆い被さった。 女が短い悲鳴を上げる。

(こいつ等も、北条なのだ……)  

自分に云い聞かせるように、長助は心の中で繰り返した。 まかり間違えば、おゆうや新吉を嬲り殺しにしていたのは、土間で突っ伏しながら頭を抱えているこの男だったかも知れないのだ。

両手を掴まれ、激しくうねる肢体に跨る大柄な男。

荒々しく剥き出された乳房。 其れを取り囲んで凝視する目。 

男の手が裾の割れ目へ伸びる。

「動くな! この、女ァ!」  

足をばたつかせる女の顔に、男が拳を振り翳した。 

一回。 二回……   

気が付けば…… 長助は、女に跨る男に躰ごとぶつかっていた。

「何しやがる! この爺!」 赤鬼のような形相で男が吠えた。

「も、もうやめっぺ。 なっ? こん人達もおら達と同じ百姓でねえか。」

「何が同じだ?! こいつ等は北条の味方じゃろうが!」  

鍋に放尿した年嵩の男が、眉間に皺を寄せて黄色い歯を剥いた。

「だ、だっけん、こん人達は……」 云い終わらない内に、立ち上がった大柄の男の拳を顔面に喰らい、長助は土間の端まで吹っ飛ばされた。 板間の角に腰をしこたま打ちつけた瞬間、息が詰まり、激痛が頭のてっぺんを突き抜ける。 

悶絶する躰から、冷や汗がどっと滲み出てくる。

「お前に何が判る? 俺達が、北条にどんな酷い目に遭ったか。」

見下ろす眼が憤怒で血走っている。 躰が…… 動かない。

「お前に……” 仁王立ちした瞳が、ゆらりと揺れた。 

「俺の痛みの何が判っちゅうんじゃ? おぅ?!」 

足が躰にめり込んだ。 

狂気を孕んだ足先。 顔と云わず腹と云わず。 何度も、何度も。長助は頭を抱えてのた打ち回った。 

頭の芯が痺れ、意識が遠くなっていく。 

男が離れた隙に、周りの者達が嬉々として女に群がっている。

鼻から血を流し、ぐったりした女の肢体を、男達の手が玩弄している。 一人が女に跨った。 

女は、半分気を失いながら泣いていた。 

執拗に振り下ろされる足を全身で受けながら、長助はそれを見詰めていた。 歪んだ視界に、どすんどすんと低い衝撃音だけが響く。

そして辛うじて踏み止まっていた意識は、やがて深い暗渠の中へ落ちていった。



その夜、酒井敏房は上機嫌だった。  

普段ならば殆ど表情を表さない男が、愛想を振り撒きながら正木時忠を上座に上げ、彼是と世話を焼いている。 

この日、時忠の娘と敏房の嫡男の縁組が正式に決まった。 

祝言は嫡男の元服を待って執り行われる。 この縁組には、当然両者の思惑が在った。 

敏房はあわよくば主筋に当る酒井胤治を追って、家督を簒奪せんと云う反逆の刃を胸中に忍ばせている。 時忠に対しては、その後ろ盾としての期待を掛けていた。

一方、東下総制圧を目指す時忠は、下総と接する上総北部に勢力を張る酒井家の協力が如何しても必要だった。 剛勇さでは敏房は胤治に及ばない。 しかし胤治のような清廉な律義者は、時として此方の予想も付かない行動を取るものだ。 ならば詭計多端な敏房の方が、時忠には余程扱い易い。 

「全く…… 今まで散々我々の力を頼っていながら…… 義弘殿には裏切られたような思いじゃ。」 

それまで笑顔を湛えながら盃を重ねていた敏房が、一転不機嫌さを露にしたのは、義弘が唱える新たな式目に話が及んだ時である。 

公事銭などの諸税を里見の定めるところに準ずるものとし、里見への一定額の納付も義務づけられた。 更に領内の検地を徹底して実施し、軍役もその石高に応じるものとする事。 険断権も里見に帰するものとし、領主の不正がある場合は、直接久留里へ申し出が出来る事等、まさに国人領主達の自治権を著しく制限する、分国法と呼べる代物だった。 

つまりは、国人領主達の完全家臣化である。

方向性は間違っていない。 強固な経済基盤を背景に、貪婪な野心で版図を広げる北条に対抗するには、里見は一本の矢になるしかないと云う義弘の考えには、時忠も同意出来た。 

しかし、如何せん時機が悪い。 やるのであれば、国府台の戦の前にやっておくべきだった。 

先の戦で惨敗を喫し、膝元の佐貫で足利義氏が跋扈している状況では、すんなりと進む話では無いだろう。 それどころか、余り強引に進めようとすれば、足許から火の手が上がりかねない。

「矢張り、酒井は呑めぬか?」 

時忠の問い掛けに、敏房が渋面を作った。 反北条を貫く義弘に共鳴する胤治は乗り気だが、それを敏房を始め、周囲が必死に押し止めている状況らしい。  

「時忠殿から義弘殿へ翻意するよう、何とか働き掛けては下さらぬか?」

「無駄であろう。 儂の申し出で引っ込めるような類の話ではござらぬ。」

「ならば、時忠殿は如何されるお積もりじゃ?」

「政に関わる事は、全て時通に任せておる。」

素っ気無い時忠の返事に、敏房は憂鬱そうに溜息をついた。

未だ誰にも打ち明けてはいないが、時忠は一つの決意を秘めていた。 

時忠は来年、兄時茂が死んだ年と同じ四十七になる。

その時を以て、時忠は里見との関係を清算する積もりだった。

義堯と兄時茂の三人で駈け上がってきた階。 しかし兄が死に、義堯が隠居して以降、里見に留まり続ける意味を失っていた。 義弘に対して含むところがある訳では無い。 時忠の眼から見ても、彼は北条氏康と比肩する将器を備えている。  

ただ一つ…… 歯痒いのは、義弘は家の為という視座では無く、己の小さな倫理感で動いているように見える点だ。 

それを義弘自身で気付かない限り…… 家を保つ事はおろか、周りの者すら救えないだろう。

権威は既に権勢に屈し、花言巧語に淫する理念も、欺世盗名の具と化した大義も、新しい時代を欲する歴史の要請に応える事は出来ない。 

力こそ全て。 関東の覇権を賭けて北条と雌雄を決するのは、上杉でも里見でも無い。 

この…… 俺なのだ。 

絵図は出来ている。 先ずは数年に渡る改修によって城郭と呼べる縄張りを持つに至った小見川を根城として、反北条、親北条の小豪族が混在する東下総を斬り従える。 そして千葉家を滅ぼし、下総全土を掌握した暁には、常陸の佐竹、下野の宇都宮や関宿の簗田。 それに里見等と連携し、北条でも上杉でも無い、東関東に独自の共栄圏を創るのだ。 

それに向けて、東下総の豪族達への調略にも既に着手していた。 夢を、形とする為。

時忠に迷いは無かった。



それをゆっくりと撫でた。 若い者だけに許された、瑞々しい張り。 

指を腿の付け根の茂みに這わせる。 其処は未だしっとりと湿っていた。 

足利義氏は手を離すと、両手で顔を覆った。 

女は目を見開いたまま、ぴくりとも動かない。 

薄く開いた口の端から血を流している。 

名前すら知らぬ。 馬で遠乗りをしていた時に拾った女。 

近郷の商家の娘だと云うのは、後で判った事だ。 

やがて、娘を返してくれと父親が御所へ願い出てきた。  

仕立ての良さそうな小袖に、紙子の羽織を重ねた、恰幅の良い四十男だった。

銭で済むなら、幾らでも払う。 そう云って、その男は泪を流しがら頭を地面に擦り付けた。 だから、どうか娘を返してくれと。 その懇願に対し、義氏は娘をその場に呼び寄せ、そして…… 

父親の頸を刎ねさせた。 

この男は…… 苟も公方であるこの俺を匪賊扱いにし、銭で片を付けようとしたのだ。 

頸を落とされて当然だった。 

そして義氏は、半狂乱になって父の名を呼び泣き叫ぶ娘を、力ずくで組み敷いた。 自分はこうして、人の生き死にを指の先、舌の先で支配する事が出来る。 

運命は…… 君臨する者と、従う者の間にこそあるのだ。

この娘はお慕い申し上げていると云い、生涯傍に置いて欲しいと云った。 本心からでは無い事など判っていた。 ただ、云わされている。 恐怖によって。 

それなのにこの娘は、それを取り繕おうと精一杯の愛想を振り撒き、自分の父親を殺した、この俺を懸命に受け入れようとする。 浅ましい。 

そう思った瞬間に、両手で頸を絞め上げていた。  

娘の頸を巡る縊痕を指でなぞる。 呆気ないものだな……

判るか?  お前の死に、何の意味も、理由すら無い事を。

義氏は、そっと娘を抱きすくめた。 冷えていく肢体。

虚空を見詰める娘の頬に顔を寄せながら、義氏は初めて愛おしさを感じていた。


数日後。 拡げた書状を前に、義氏は爪を弾いていた。

久留里城攻略の為、軍兵二万を渡海させよ。 

義氏が出した、その要求に対する北条氏康からの返書である。 文面は短く、今はその時機に非ず。 暫くは佐貫城を確り守り、軽挙妄動を慎むようにと書かれてあった。 氏康の妹である母、芳春院が四年前に病没して以降、義氏に対する氏康の扱いは明らかに変わっていた。 

一言で云うと、遠慮が無くなった。 

「ご返答を承るよう仰せつかっております。」 

眼の前の男もそう。 孔穴の深奥に眼を凝らす蛇のように、此方を窺うその男は、舌の上を滑る言葉とは裏腹に、その表情の裏に潜む心底を糊塗しようともしない。 

北条あっての公方。

(こんな、使い走り風情までもが……)  


渡り廊下から近付く義氏を認めた小姓が、慌てて脇に寄って膝をつく。 

義氏はすれ違いざまに、その小姓を思い切り蹴り倒した。

目に入るもの、耳にするもの全てが癇に障る。 蜷局を巻いた憤悶が、鎌首を擡げて自分を内側から喰い破ろうとしていた。

勘定方の役人から、或る報告を受けたのは御座所で酒を呑んでいる時だった。 頸を刎ねた男の店から押収した帳簿に、聞き覚えのある名が記されていたのである。  

十月某日 大山の青岳尼様 喜捨 米二枡 醤五合。

里見義弘が足利藤氏の妹を正室として迎えた事は聞き及んでいたが、青岳尼が久留里を出ていたとは知らなかった。  

自分の妻になる筈だった女。 婚儀の直前、敵と手を取り合って鎌倉を去った彼女への憎悪が蘇る 

この女もまた…… この俺を愚弄する輩の一人。

義氏の口から薄い笑い声が零れた。 



自分は、差し伸ばされた手を握って先を急いでいる。  

声は立てない。 声を出しては、いけない。  

一言でも発すれば、忽ち獲物を求めて狂奔する搦め手の餌食となってしまうだろう。

母を呼ぶ赤子の泣き声。 影を追う跫音。 荒い息遣い。

あと数歩進めば、此処から抜け出せる。 あと数歩。 

握る手に力を篭める。 冷たい手だ。  

それに…… ぬるりとした嫌な感触。  

不意に悪寒にも似た震えが全身を襲う。

自分は…… 一体誰の手を握っているのだ?  

慌てて手を振り解く。

ぼとりと足許に転がったのは……  千切れた一本の腕だった。

その時、堪えていた恐怖が、叫びとなって口を衝いた。


長助は通い慣れた山道を登っていた。  

濡れた地面に足を取られぬよう、足の親指に力を篭め、足場を確かめながら一歩ずつ歩を進める。 息苦しくなるような濃密な空気の中に漂う、厚い雪の下で冬を越した落ち葉の腐臭が鼻を衝く。 

今日は、肩に担ぐ槍が心なしか重い。

脇腹の痛みはまだ引かないが、何もしないで家にいると、どんどん気力が萎えていくような怯えがあった。 最近、厭な夢ばかり見る。 下総の、あの村で目の当たりにした惨劇の所為だろうか? 

お前に自分の痛みの何が判ると云った、あの男の顔。 憎しみ。 怒り。 彼等も自分同様、家族を失い、絶望の淵を彷徨い歩いた末の行動だったのだろう。 

しかし…… 自分は彼等を止めようとした。 死んだおゆうと新坊の為に、鬼になると誓った自分が…… 躊躇した。  

きっと、自分の覚悟を神さんが試そうとしたのだろう。

明日の無い毎日。 ただ、時間ばかりが無為に重ねられていく。 

もう答えは、既に出てしまったのだろうか?



「あの…… 御膳をお下げ致しましょうか?」

遠慮がちに訊く下女中に、赤ら顔の正木信茂が空の銚子を振った。

「何、そんなものなど明日下げれば良い。 それよりも、もっと酒を持って来い。」

如何やら今日は泊まっていく腹積りらしい。 信茂は二の腕に止まった蚊を忌々しそうに叩き潰すと、膳から摘まみ上げた筍の煮物を口中に放り込んだ。 

サクサクと云う音を立てながら、それを酒で流し込む。  

「里見…… 義政か。」  ふん、と小さく笑った。

「良い名ではないか。」

「ああ……」  義弘は軽く相槌を打った。  

市之介の元服の儀。 今日執り行われた晴れの席には、烏帽子親の正木時忠、それに見届け人として自分と信茂が同席した。

日我に預けられる前に姿を消した市之介が、時忠の許へ身を寄せていた事も意外だったが、彼を養子にし、剰え正木姓では無く、引き続き里見を名乗らせたいと云う、時忠の申し出には驚かされた。

それだけでは無い。 元服の儀が済んで、彼は耳を疑うような話を切り出した。 

それは…… 時通への家督の禅譲。 

つまりは隠居である。

但し、楽隠居を決め込む積もりに非ず。 膝を進めかけた義弘に、時忠は涼しい顔をしてそう続けた。 

彼は、下総の若松浦南岸一帯の土豪達を斬り従え、今や二千近い軍を展開している。 それを勝浦正木家から完全に分離し、今後は自身の手で東下総に独自の勢力圏を築くのだと云う。

突拍子も無い話に、思わず呆気に取られた。 下総での時忠の動きに対し、持ち出しが嵩む状況を憂慮する時通を中心に、家中から相当の反発が出ていたとは聞いていた。 それを当主である時忠が、自ら分家させる事で決着をつけたのだろう。 

一言で云えば、己の野心。 

何の衒いも無く、時忠はそう云い切った。

「まあ、叔父貴が市之介を手許に置いて、下総を固めてくれるのならば、我等にとっても悪い話では無いと思うが……」

そうだろう? そう問い掛ける信茂の視線に、義弘は曖昧に頷いた。 国府台の敗戦で多くの将を失った今、陣営の屋台骨を担う時忠を失う事は大きな痛手だ。 しかし、時忠もゆくゆく考えての決断である事は明らかだった。 

今の里見では、とても下総にまで手が廻らない。 ならば信茂の云う通り、この際、彼の野心を利用するのも一手なのかも知れない。

「それにしても、あの悪たれ坊主…… 中々どうして、立ち振る舞いも様になっておったではないか。 流石、十二や十三で女郎屋に入り浸っていただけの事はある。」 

そう云って、信茂は盃を口に運びながら顔を綻ばせた。

暫く振りに顔を合わせた市之介は、確かに少しだけ大人びて見えた。 ただ、義弘とは一度も言葉を交わさず、眼も合わせようとはしなかった。 頼純に対する仕打ち。 そして、千代に対する仕打ち。 最初から一定の距離を置いていた父の非情さよりも、誰よりも彼等の近くにいた自分の裏切りに対する怒りが、未だ彼の心の根深い処で燻っているのだろう。

その千代が姿を消して、もう二ヶ月経とうとしていた。

今でも少なく無い人数を割いて、懸命な捜索は続けられているが、まるで神隠しにでも遭ったように、彼女の行方はおろか、何の手掛りも掴めずにいる。

彼女が安房の大山で孤児院を開いていると、妹の種から聞かされて以来、義弘は彼女に気付かれないように、時々それと無く様子を窺わせていた。   

孤児は十二人。 その子達を彼女は一人で養っていた。

心強かったのは、そんな彼女を支援する商家達の存在であった。 

彼等は時々綿や米、塩などを差し入れるだけでは無く、人を出して建物を修繕したり、彼女が托鉢に出ている間、子供達の世話を焼いたりしてくれていた。 彼女の徳に引き寄せられるように、そんな支援の輪がゆっくりと、だが着実に拡がっていた矢先……

彼女が忽然と姿を消したのである。 

そして、その知らせが飛び込んできたのは、夜半を過ぎてぽつりぽつりと雨が落ち始めた頃だった。


青岳尼からの使い。

宿直番からの連絡を受けた義弘は飛び上がった。  

未だあどけなさの残る顔立ちの娘。 裸足だった。 

夜の山道を駈け通しだったのだろう、足が所々血で滲み、汗と雨で小袖が濡れそぼっている。 

訊けば、佐貫城から抜け出して来たのだと云う。  

娘は千代から預かった書状を持参していた。 それは帯に縫い込まれた油紙の中に、丁寧に折り畳まれてあった。 中には数通の書状。 

真里谷義信から、足利義氏に宛てたもの。 里見陣営での分断化工作の詳細について記されている。 

内応を呼びかけている相手の名。 土岐頼春と正木時通、それに酒井敏房。 

彼等は皆、義弘が打ち出した式目に強い難色を示す国人達であった。

「あの白鯰めが……」 義弘の傍らで、信茂が低く呻いた。  

書状の内容は、義信がかなり前から北条と通じていた事を窺わせた。 国府台での抜け駆けも、矢張り北条と示し合わせてのものだったのだろう。 

書状の中には、水軍の梶原景宗から義氏に宛てたものもあった。

日付は最近のもの。 佐貫への糧秣輸送の進捗状況を伝える言葉が並んでいる。 輸送する米の量は五千石。 佐貫城の内部構造は、一時期義弘も居城としていただけに熟知している。 五千石の糧秣は、城内の米倉すべてを満たすほどの量だ。 

城で、何かが起きている?  

慌ただしく次の文言を眼で追う。 今後倉役の不正が無いよう徹底して眼を光らせるべし、との北条綱成の言伝を引用する形で釘を刺していた。 倉役の不正とは、横流し?  

つまり…… 佐貫の米倉は今、空同然なのだ。  

(千代は此れを伝える為に……) 

思わず書状を持つ手が震え、束の間から小さな紙切れが、はらりと足許に落ちた。

紛う事無い、千代の筆跡で綴られた文字。


由比の浜 一葉の夢

今は徒(ただ) 永遠(とわ)へ還らん 焔(ほむら)懐きて 


鼓動が早まる。  これは…… 明らかに辞世の句ではないか?

彼女は判っているのだ。 極々限られた者以外、おいそれと入手出来る代物では無いこの書状を持ち出せる者として、真っ先に嫌疑が自分に向けられる事を。

信茂もそれに気付いたのだろう、噛み付くように吼えた。 

“おい、太郎! 直ぐに佐貫を攻めるぞ!” 

佐貫城は内房屈指の堅城。 国府台敗戦の痛手を負った里見にとっては、本来ならばおいそれと攻略出来るような城では無い。 しかし、その攻略への道を千代が開いてくれた。 いや、それよりも何よりも、千代を何としてでも救い出さねばならない。

「平七! 今から馬を飛ばして、大多喜の兵を集められるだけ集めてくれ。」

「いつまでだ?」 

「三日、否……二日後に此処を発つ。」 

時間が無い。 今回は、久留里と大多喜の兵だけで攻める他は無かった。

信茂が切歯扼腕して飛び出して行く。 近習を呼び出して至急兵の動員を命ずると、寝入り端の城内が俄かにざわめき始めた。 


「そなたは、千代…… いや、青岳尼の側に仕える者か?」 

娘がこくりと頷いた。 すっかり怯えていた娘も漸く落ち着いたのか、顔にも生気が戻っている。  

「話してはくれぬか? そなたが知っている、青岳尼が事。 見たもの、全てを……」 

身体を固くして俯いていた娘だったが、やがて言葉を選ぶように訥々と語り始めた。

その娘が千代の給仕を命じられたのが、今から二ヶ月前。 

それは、丁度彼女が姿を消した頃と符号する。

千代は本丸の奥座敷に押し込められたまま、まるで囚われ人のような生活を強いられていたと云う。 

娘は読み書きが出来ない。 つまり、言葉を話せない千代とは意思の疎通が出来ない。 

彼女が選ばれたのは、そう云う理由もあったのだろう。

娘が云い淀む。 口許を這う指先が微かに震えていた。 義氏の淫虐暴戻の振る舞いは、城内に知らぬ者とていない。 それは千代に対しても、容赦無く向けられたのは想像に難くない。

身体は日に日に痩せ細り、顔は腫れ上がって、傷が絶える事は無かったと云う。

彼に関わる悪評は、義弘も随分前から耳にしていた。 無論それらは噂の範疇であり、真偽の程は判らない。 しかしその内容から、少なくとも彼の性癖を窺い知る事が出来た。 

歪んだ虚栄心と、偏執的な嫉妬心。

千代はその昔、政略によって結びつけられようとしていた彼の許嫁である。 

その彼女が、身一つで近くにいると知ったら…… 

何故、もっと早く其処まで思い至らなかったのか?  

そんな仕打ちを受けながらも、彼女は娘の前では笑みを絶やさなかったのだと云う。 

しかし、昨日の彼女は少し様相が違っていた。

自分はやがて死ぬ。 そしてその累は、きっとあなたにも及ぶでしょう。 だから、一刻も早く城から逃げるのだと。 そして、この書状が縫い込まれた帯を渡された。 

これを、久留里へ。 

(出来ますね?)  

千代の側に付いて二ヶ月。 

娘はその間に、千代が伝えようとする文字の意味を解するようになっていた。 余人を交えぬ時を見計らい、毎日少しずつ。 同じ言葉を、繰り返し繰り返し教えられたのだろう。 

全て、この日の為に。

憤怒と焦燥。 追いかけるように、自責の念が胸を締め付ける。 

強くなった雨脚。 重く、低いその雨音は、やがて義弘を糾弾する舌鋒となって心を衝いた。


娘が久留里へ駈け込んでから、二日目の正午。 

恐らく書状が持ち出された事に気付き、直に軍勢が差し向けられる事を察知したのだろう。 義氏が佐貫城を出て西へ移動中との物見役からの報告を受け、義弘と信茂は掻き集めた二千の兵と共に駈けに駈けた。 勝山湊付近で敵の殿軍に追い付いたが、義氏の本軍は急遽手配された北条の船団によって既に岸を離れた後だった。 

小さくなる船影。 義弘は馬上から呆然と見詰めていた。 

千代が…… 記憶の中に再び封印されようとしている。 

ゆっくりと天を仰いだ義弘に、黒い絶望が覆い被さった。



正木時忠の娘と、酒井敏房の嫡男の婚姻の儀が、里見義堯の媒酌の下、久留里城で盛大に催された。 

祝宴には時忠と敏房は無論の事、勝浦正木家を継いだ時通や酒井胤治、更には佐竹や梁田等、近隣の友家も祝賀の使者を遣わせる等、参列者が襖をぶち抜いた大広間を埋め、祝杯が折敷の上で次々と空けられた。 呼ばれたのか、或いは勝手に来たのか、酒を運ぶ給仕の女をからかいながら、旨そうに口へ酒を流し込んでいる日我の姿も見える。 

誰かが叩いた軽口に合いの手が入り、宴の一角でどっと笑い声が沸く。 その中心で、真里谷義信が膝を叩いて相好を崩していた。 

義弘は当初この宴席に、義信は姿を現すまいと思っていた。 しかし彼は平然と宴席に連なり、屈託の無い笑顔を見せている。 ひょっとして書状の件を、北条から聞いていないのか? 

或いは…… この俺を、見縊っているのか?   

(まあ、良い……) 今に見ておれ。 

義弘はこの日、義信に隠居を迫る積りだった。 否とは云わせぬ。

しかし、気になるのは信茂の不在であった。 父、時茂の死にも義信が一枚噛んでいると断じた信茂は、強硬に真里谷討伐を主張したが、義弘は結局同意しなかった。

無論、口惜しいのは義弘とて同じだ。 しかし国府台の敗戦を引き摺る今の里見にとって、真里谷は易しい相手では無い。 久留里の北、約二里半に在る真里谷城は、集落からかなり離れた深山の孤城とも呼べる要害で、腰を据えて守れば無類の強さを発揮する。 

拙速に事を運ぼうとすれば、一門の庁南豊信は云うに及ばず、義弘に不満を募らせる土岐頼春や酒井敏房等も、真里谷に与するかも知れない。 

ならばあの書状を利用し、義信の力を削いだ上で真里谷を里見に繋ぎ止めた方が賢明であろう、といきり立つ信茂を何とか宥めたのだった。

その信茂が廊下を踏み鳴らす音と共に姿を現したのは、宴も半ばに差し掛かった頃だった。 

既に酒が入っているのか、顔が紅潮して眼が血走っている。 誰であろうとも、登城の際は寸鉄も帯びてはならない決まりになっている。 当然、彼も太刀を佩いていない。 が、彼の発する只ならぬ気配が、義弘の不安を鷲掴みにした。

それは一瞬の出来事だった。 義弘が腰を上げるよりも早く、信茂が廊下で控える義堯の太刀持ちを蹴り倒した。 皆が呆気に取られたように静まり返る。  

宴席にずかずかと歩を進める信茂の手には、太刀が握られていた。

「や、止めろ、平七!」  

義弘の怒号は、女中達の悲鳴によって掻き消された。  

騒然となる広間。 茶碗が割れ、逃れようとする者達が折り重なりながら這いずり回る。

義弘の視線の先で、信茂が太刀を振り被った。 

「平七!」 

渾身の力で振り下ろされた一太刀は、泡を喰らって逃げようとする義信の背を袈裟懸けに斬り裂いた。


信茂による義信の殺害は、それまで水面下で蠢いていた動きや思惑を一気に表出させ、里見は抗いようのない、新たなうねりの中に巻き込まれていく事となる。

信茂を切腹に処すべし。 そう義弘に迫ったのは父、義堯だった。

義堯は、北条と義信の密通を随分前から承知していただけで無く、義信の動きを自身が進める北条との和議容認の多数派工作に利用しようとしていたのである。 それを台無しにされた義堯の怒りは大きく、頑として受け付けぬ義弘との対立は、いきり立つ真里谷や大多喜の将兵を巻き込んで一層激しさを増していった。 

緊迫の度合いを深める状況に他の国人衆が戸惑う中、積極的に仲裁の労を執ったのが正木時忠であった。

それによって何とか信茂の切腹だけは免れたものの、大多喜正木家当主の座を剥奪され、追放処分となった。 義堯はそれにも飽き足らず、正木家の菩提寺に信茂の位牌まで作らせた程だった。

新当主には時忠の推薦により、彼の甥に当たる正木憲時が就き、信茂と離縁させられた種は久留里へは戻らず、出家して尼となったのである。



永禄八年(一五六五年)二月。 

下総平定を急ぐ北条は、氏政を大将に一万五千を簗田晴助の拠る下総関宿城へと向かわせた。

関宿城の兵力は約二千五百。 晴助は北条によって幽閉されている藤氏に代わって、彼の弟である藤政を推戴していた。  関東随一の権勢を誇る北条とは云え、梁田家は易き相手では無い。

この一帯の水利権を一手に握る財力を背景に、焙烙や鉄砲などの充実した火力を有する軍備。 農兵では無く、高い錬度を誇る専従兵力を中心とする軍勢。

氏康が一国に等しき城と称した関宿城は、数で凌駕する北条軍の激しい攻めを浴び続けても、確りと四肢を踏ん張って持ち堪えた。 攻勢の端緒を掴めずにいる氏政を更に苛立たせたのが、関宿に続々と集結する反北条勢力の存在だった。 

下野の佐野家の重臣、佐野晴綱が一千二百。 晴綱は北条と上杉の間で揺れる家中に在って、一貫して反北条を唱える硬骨者である。常陸の佐竹からは当主義昭と共に、打倒北条に執念を燃やす客将太田資正が三千の兵を率いて晴助を盛り立てた。 

そしてもう一人。 正木時忠が動いた。 

下総小見川城から一千の兵と共に参陣したのである。 

攻め倦ねる北条。 気勢を上げる関宿勢。 

都合三ヶ月にも及ぶ関宿攻城戦は、結局北条にとって何の得るものも無いままに終わったのである。


正木時忠は思わず苦笑いを浮かべた。

上座では、足利藤政がありたっけの威厳を詰め込んだ胸を反らしながら、諸侯が集う座を眺めている。 この若い公方は、此れから関東を束ねていくのだと云う気負いを、押し付けがましいくらいに発散させていた。 まあ、小心翼々として北条の影から逃げ回っていた藤氏よりは、気負いがある分だけ未だましなのだろうが…… 

「おい! 酒じゃ、酒が無いぞ。」 

隣に座る里見市之介改め、義政が、忙しく給仕をする者達に怒鳴り声を上げた。

名だたる将達が居並ぶ中にあっても、まるで気後れする様子も無く、炙った雉肉にかぶりついている。

里見を出奔したばかりの頃、彼は取り巻きの破落戸達と下総で馬借をやっていた。 馬借とは云っても、実態は傭兵紛いの仕事を生業としていたようだ。 銭が無くなると商家に押し入ったり、領主の荷駄を襲ったりしていた彼の悪名が時忠の耳に届くまでは左程の時を要さなかった。 

興味を覚えたのは、枠に収まりきらない彼の奔放さだった。

箸にも棒にも引っ掛からぬ悪童か? 或いは底知れぬ才を秘めた麒麟児か? 

自分の手許に置いて、それを確かめてみたいと思った。

未だ十六。 戦の仕方も単調で粗い。 が、勝負どころは知っている。 敵の僅かな綻びを、直感的に察知出来る才が元々備わっているのだろう。 それは経験を経ても中々身に付くものでは無い。 更に目を引いたのが、彼に付き従う破落戸達の戦振りだった。 彼等はそれこそ身を挺して義政を守る。 我欲の求めるままに、放埓の限りを尽くしてきた連中がである。 

中々の将器も備えていることを窺わせる。

義政の手が、ふと止まった。 彼の視線の先を追うと、藤政の前に進み出て酌を受けている佐野晴綱の姿があった。 その後ろに控えている男……

時忠は思わず声を上げそうになった。 

(足利頼純……)  

随分と雰囲気は変わっているが、間違い無い。

佐野家と頼純。 考えて見れば成る程と頷けた。

頼純の父、足利義明は小弓公方として迎えられる前、鎌倉での騒乱を避けて下野佐野庄の寺に寄寓していた時期がある。 確か、義明の正室も佐野氏の娘だった筈だ。 

頼純はその縁を頼って、晴綱の許に身を寄せていたのだろう。

如何やら晴綱は、頼純を藤政に引き合わせようとしているらしい。

話を聞いている藤政の顔が、俄に強ばるのが傍目にも判った。  甲高い声が座に響く。

「その方、此れで恩を売った積もりか?」 

戦捷に浮き立つ宴は、水を打ったように静まり返った。 

一斉に注がれる好奇の視線。 慌てた様子の梁田晴助が、肥えた身体を揺すりながら間に入ったが、収まらないのは頼純を面前で罵倒された晴綱である。 

怒りで顔を真っ赤に染めた老将は、頼純を促して立ち上がると、晴助の取り成しを振り払うように広間を出て行った。


川岸に屹立する葦を刈り取っていた農夫が手を休め、ぼんやりと此方を眺めている。

雨で水嵩が増した常陸川を、数隻の船団が滑るように下っていた。

関宿から小見川まで。 陸路では二日の行程だが、船を使えば二刻ほどである。 

この様子では、暗くなる前に小見川に着けそうだ。 

(それにしても……) 

あの頼純の変わり様は如何だ。 昔は遠慮ばかりが先に立ち、皆を引っ張ると云う気概よりも、諾々と据えられた神輿に乗せられているような、そんな薄甘い従順さが目立つ男だった。 

しかし今日見た彼の面構え。 佇まい。 

満座の中心で、顔色も変えずに恥辱を受け入れる彼の姿には、或る種の凄味さえ感じられた。 

確かに足利藤政にとっては兄、藤氏を謀殺しようとした相手。 恨みもあろう。 しかし藤政のように私怨によって白か黒かを断罪していたのでは、大事を為す事など出来まい。 

今は戦国の世。 秋(とき)をただ待つのでは無く、秋を引き寄せなければ何も変わらないのだ。 そう云った意味で、頼純が関わったあの藤氏襲撃は、至極真っ当な行動として時忠は受け止めていた。 

里見から離れた後、彼に何があったのかは判らない。 

ただ一つはっきりしている事は、彼の中で何かが毀れ、そして何かが芽生えた。 自分がそうであるようにあの男もまた、何かに向かって踏み出そうとしているのだろうか。

懐の深い、滔々たる常陸の流れ。 

時忠はそれに身を任せながら、そっと目を閉じた。



この年の暮れ、三十五歳と云う若さで常陸の佐竹義昭が病没した。此れに付け込んだのが、常陸の盟主の座を巡り、長年血みどろの抗争を繰り広げてきた小田氏であった。

佐竹を見限って離反する土豪達を吸収しながら諸城を撃破。 

若干十八で佐竹の命運を託された嫡男義重は、動揺する家中を何とか纏めながら越後へ急使を送り、その要請を受けた上杉政虎は、六千の兵を率いて三国峠を目指した。 

政虎、実に六度目の越山であった。

翌年三月。 上杉軍は上野厩橋城から常陸へ向けて進軍を開始。

野戦に於ける上杉軍の無類の剽悍さは、此処でも遺憾なく発揮された。 愛馬放生月毛に跨り、刃の上から落とした小豆が真っ二つになる程の切れ味を持つとされる、妖刀小豆長光を携えて戦場を疾走する政虎に率いられる上杉軍は古河城を奪回した後、瞬く間に小田軍を常陸から駆逐。 行き場を失った小田勢は下総千葉氏の救援を仰ぎ、千葉家家老、原胤貞の守る臼井城に逃げ込んだ。 

追撃する上杉軍には、梁田晴助と里見陣営の酒井胤治の軍勢も加わり、唯一の進入口である西の城門に殺到。 

必死の防戦をものともせず、二の丸を落とした上杉軍は堀一重を隔てた本丸に迫った。 

捷利は疑いようも無し。 誰しもそう思っていた時、本佐倉に籠っていた千葉胤富が突如として動いた。 

大石氏照を将とする北条の援軍を含めた総勢八千の敵軍が背後に迫っても、政虎はその備えを十分に取らなかった。

「北条など捨て置けば良い。」 今まで頑なに上杉軍との正面対決を避け続けていた北条への侮りがあったのだろうか。

薄い後陣を突破した北条軍は、瞬く間に上杉本軍に雪崩れ込んだ。

同時に城門が開き、原胤貞の軍勢が捨て身の突撃を敢行。 

凶猛な虎が、次第に狭い檻に追い込まれていく。

入り組んだ虎口は兵で溢れ、折り重なるように死屍が重なる。 

身動きが取れなくなった上杉軍は統制を失い、やがて一気に崩れた。死傷者二千。 こうして政虎は、生涯初めてとも云える惨敗を喫したのである。



長さ二十二間、幅六間半の関船が船台から後ろ向きにするすると進水していく。 

飛沫を上げて着水したと同時に、船が大きく揺れた。 

船大工達が最も緊張する瞬間だ。 建造したばかりの船は乾燥しているため重量が軽く、非常に転覆し易い。 何とか揺れが収まると、屈強な水夫達に操られる七十挺の櫓が勢いよく水を掻き、船がゆっくりと浪逆浦に乗り出していく。 

見物していた群集からどっと歓声が上がった。

「やったのう! 時忠殿!」

興奮を抑え切れない様子で、島崎氏幹が時忠の手を握り締めた。 時忠にとっては、下総で初めての大型船の建造。 それは長年暖めてきた構想が、漸く形となった瞬間であった。

下総小見川に進出して以来、硬軟織り交ぜて勢力を扶植してきた時忠は、今や東下総の半ばを掌握するに至っていた。

次はいよいよ、下総の最大勢力、千葉家との戦いとなる。

嘗ての権勢は失われたとは云え、矢張り平安期から下総に土着している彼等には、臼井城で政虎に一泡吹かせたように、未だ未だ侮り難い有形無形の力が有った。 

千葉家の大番頭、原胤貞と大須賀政常を含めた、千葉家全体での動員兵力は約一万二千。 一方、時忠は同盟軍を併せたとしても、精々三千と云うところか。 未だ未だ千葉との力の差は歴然としている。

それを埋めるもの。 それが水軍の創設だった。 

時忠には里見水軍を扱っていた経験がある。 それを駆使しながら、船の設計段階から熟慮を重ねられた。 海とは違い水深が浅い為、矢倉は低く、船底はより平底に近い。 安定を保つのには相当な技量を要するが、幸い波がある訳では無い。 後は調練次第だろう。 

この関船は攻撃用と云うより、大部隊の輸送手段としての活用に主眼を置く。 迅速性の向上の為、通常よりも多めの櫓床を備えているのはその為だ。 前方の矢倉の左右は引き戸形式になっており、上陸の際はその狭間から幅一間程の渡し板を二枚下ろす構造となっている。 

船団の構成は関船一隻と、それを護衛する小早二十艘。 都合五部隊で編成すると、水軍全体で四千近い大部隊が展開出来る事になるのだ。 その拠点となるのが関東随一の水系、霞の浦であり、その中で咽喉の地となるのが、霞ケ浦の水域が回廊のように巡る島崎氏幹の本貫地、常陸国行方郡南部に位置する潮来であった。 

潮来が面する浪逆浦は、謂わば霞ケ浦の玄関口。 

更に其処を通じて、霞の浦は大小の湖沼群を従える常陸川と一水となる。 つまり此処に水軍の拠点を置く事によって、海からの外敵に睨みを利かせる事が出来るだけで無く、霞の浦から関宿付近に至る広大な流域に影響力を及ぼす事が可能となるのである。

上杉政虎を臼井で敗った事により、北条は関東の盟主の座を手中に収めたかに見える。 

しかし関東は、このままでは収まらぬ。 時忠はそう見ていた。

その答えは、甲斐の武田信玄の腹の中にある。

前年信玄は織田信長の養女を、世継ぎと目されている四男の正室として迎えていた。 桶狭間で義元を討ち取った信長は、云うまでも無く今川家にとって不倶戴天の敵。 絶妙な力の均衡によって成り立っていた今川と武田、北条の三国同盟は今、軋みを立てて揺らぎ始めていた。

義元の後を継いだ今川氏真は、頽勢に傾く形勢を拱手傍観するのみで、何ら有効な手立てを講じる事が出来ずにいる。 それどころか、信長の後押しを受けた松平家の離反により三河を失い、遠江まで蚕食され始めている始末だ。 

嘗て海道一の弓取りと呼ばれていた強大国、今川の没落。

今川の本国、駿河には今も昔も武田が渇望して止まない海がある。 山国では望めない、無限の利を齎す海が。 況して駿河には良質の金山もある。 急拡大する版図に比例して伸びる戦線の維持。 

膨大な戦費を山国の狭い沃野で遣り繰りしている甲斐の虎が、隣で蹲る飛べない太った雉を黙って見過ごすとは思えなかった。

いずれ武田は今川を攻める。 それは予測では無く、確信だった。

その時、北条は上杉だけでは無く、武田とも対峙をしなければならなくなる。 

武田信玄は謀略の鬼。 喰い付いたら最後、決して離そうとしない執着心がある。 北条にとっては、上杉政虎以上の強敵となるだろう。 

海を望み、密かに野心を研ぐ武田。 

大義と云う呪縛に囚われ、苦悩を深める上杉。 

そして、武田を注視しながら関東制覇を急ぐ北条。 

たとえそれが荊棘の途であったとしても、血路はその三者の思惑の狭間にこそあるのだ。 

水の色が違う所為だろうか。 海で見る船とはまるで趣が違う。

突き出た櫓が勢いよく水を掻き込み、引いた航跡が波の無い湖面に静かに拡がっていく。

霞の浦の懐に向かって真っ直ぐ疾走するその船影は、まるで新たな戦いに臨む時忠を導いているかのようであった。



(また、あの爺か……) 

横井弥七郎が舌打ちをした。

列の端に頸を竦め、隠れるように紛れている一人の老人。

何度追い返しても諦めようとしない。 

以前、一度だけ根負けする形で戦に出した事があったが、あの老い耄れ…… 戦働きどころか、下総で味方と諍いを起こした挙句、怪我を負って戻されて来た。 

望みを叶えてやったこの俺に、糞をぶっ掛けておきながら、性懲りも無く館に顔を出す。 

本来であれば放り出すところなのだが、今回は事情が違っていた。

兎に角、兵が足りない。 着々と渡海の準備を進める北条。

それを迎え撃つ里見陣営は、櫛の歯が欠けたように寝返る国人達が続出していた。

二本足で歩けるのならば誰でも良い。 掻き集められるだけ集めよ。 寄親からの要求は悲鳴にも似たものだった。 この際、役に立たぬ老い耄れでも、案山子よりはましだろう。 

今度の戦は、今までに無い厳しいものとなる。 あの爺も到底生きては帰れまい。 

だったら、何をあれこれ思い悩む必要がある。

胴間声を張り上げて郎党を呼んだ弥七郎は、寄親へ送る軍役名簿作りに取り掛かるように命じた。



臼井城攻略戦で喫した上杉政虎の惨敗は、里見にも大きな動揺をもたらした。

最早、上杉は頼むに値せず。 

上杉に対する失望は、やがて北条との宥和を求める保身へと変質していく。 関東から上杉の影を消し去った北条が、渡海に向けた準備をいよいよ本格化するにつれて、里見義堯を後ろ盾とするその声は公然と高まり、飽くまでも徹底抗戦を唱える義弘との溝を深めていった。 

更に、正木時通が末弟を人質として小田原へ送った事が明らかになる等、陣営内でも大きな綻びが目立ち始めていた。 真里谷に続き、勝浦正木の離反が決定的となった上、土岐頼春と庁南豊も今後如何転ぶか予断は許さない。

圧倒的な戦力で迫る北条。 しかも此方は、家中すら一本に纏まる事が出来ない。

隠居の身でありながら家中の対立を煽り立てる義堯の振る舞いに憤り、父を討つべしと訴える忠臣もいたが、義弘は決して頸を縦に振ろうとはしなかった。

あの時、自分が臍を固めてさえいれば…… 千代や堯次は死なずに済んだ。 足利頼純が、屈辱を強いられる事も無かったのだ。 そんな未練がましい自責の念が、義弘の心を頑なにさせていた。


そして永禄十年(一五六七年)。 

東の空に張り付く雲を透かして、曙光がぼんやりと差し込む風の強い八月の朝。 

白い波頭を刻む海へ、北条の先陣を載せた大小五百を越える大船団が繰り出した。

総大将は北条氏政。 率いる部将は玉縄衆二千五百を率いる福島勝広、それに岩槻城で父資正に叛旗を翻し、北条に転じた太田氏資であった。 更に別動隊として、陸路を採った大石氏照が、河越城主の大道寺政繁と、千葉家の原胤貞と共に五千の兵を率いて南下していた。

大道寺政繁は北条氏政に重用されて後、めきめきと頭角を現してきた俊英。 原胤貞は先の臼井城での攻防に於いて、一躍武名を馳せた勇将である。 

北条軍の総勢は、優に二万を超える。

一方、迎え撃つ里見陣営は土岐頼春と庁南豊信が沈黙を守る等、足並みが揃わず、参陣した有力国人と云えば信茂が追放された後、大多喜正木を継いだ正木憲時くらいのものだった。

そんな状況下でありながら、義弘は敢えて野戦で迎え撃つ決断を下した。

北条軍の襲来を三度退けた久留里城の堅さは実証済みだが、兵糧も心許無い上に、家中が分裂状態での籠城は自殺行為にも等しい。 

しかし野戦ならば、必ず付け入る隙は出てこよう。

敵陣には北条氏康や綱成の姿は無く、氏政を始め若い将が多い。

最近北条で世代交代が急速に進んでいるのは、衆目の一致する処だ。重病説が流れる氏康は湯河原の保養所に籠りきり。 氏政との折り合いが悪いと噂される綱成は、第一線から退いている。

華々しい戦歴に彩られた氏康や綱成に比べ、未だ此れと云った実績に乏しい若い当主には気負いがあるだろうし、周囲の部将は功に逸っている。 其処に乾坤一擲の勝負を賭けるのだ。

こうして義弘は義堯派の部将を久留里へ残し、それ以外の全兵力を佐貫城付近に集結させた。


噎せ返るような人熱れ。  

一千もの軍勢が、ただ前だけを見て疾っている。 

自分だけが、何か場違いな処に放り込まれたような心細さが身を削る。

後ろを走る兵とぶつかった。 忽ち怒鳴り声が飛ぶ。 皆、極度の緊張で苛立っている。 

もう、どのくらい駈けたのだろう?  夜明け前からずっと走り詰めだ。 喉はからからに干上がり、息は疾うに上がっていたが、気力だけで足を運んでいた。 

痩せた腹当てが、まるで括り付けられた鉄のように重い。 

目指す敵は、既に下総から上総へ入っているらしい。 五千とも七千とも噂される大軍だ。 夜明けを衝いての奇襲。 何があっても遅れるな。 組頭からそう厳命されていた。 

真っ直ぐ北へ向かう味方の兵の肩越しに、薄墨を散らしたような暁天が拡がっている。

(新坊……) 長助は空を見上げた。 

(見とってくれ。 じっちゃんを、確り見とってくれ……)

突然、前で喚声が湧き上がる。

(敵だ!) 

腹の中をぐるぐると駈け回っていた緊張が、頭のてっぺんに突き抜けた。 後ろで鉦がけたたましく鳴らされ、後方の兵達が、次々と長助の脇を通り過ぎて行く。 

長助は槍の柄を強く握り締めた。 

突然、前方の味方が横に割れ、空いた間隙から飛び込んで来る馬の一団。 

長助は悲鳴を上げながら横に倒れた。 

倒れ込んだ躰を味方の足が踏み付けて行く。

漸く立ち上がるが、何かにぶつかり、紐の千切れた陣笠が吹き飛ばされた。 

最早、敵も味方も判らない。 

鬼の眼光。 真っ赤な口。    

唸りを上げる刀槍。 命をやり取りする狂乱の巷に心が竦み、足が萎えた。 うねる波の中に放り込まれた木っ端のように、右に振られ左に押される。 人の叫びが地を揺るがす轟音となって耳を圧する中、頭を亀のように縮こめながら、無我夢中で槍を振るった。

やがて味方が潰走し始める。 一人、二人……  

その小さな流れが、やがて巨大な濁流となって長助を押し流していった。


山裾から駈け上がってくる風が音を立てて通り過ぎ、木の枝が大きく撓む。 

この季節、此処一帯は風の強い日が続く。 

穂が風紋を刻む平原に、痩せた竜の背骨のような低い山が入り組んでいる。 山と云うよりも、丘陵と云った方が近い。 

その中の一つ、虚空蔵山に里見義弘は本陣を置いた。 総勢三千。

対する北条本軍一万は、眼下に横たわる障子谷を挟んだ三船山に布陣している。 

三船山の北に位置する八幡山には、正木憲時の二千。 

三船山を南北から挟撃する態勢だ。

大多喜正木家を信茂から継いだ憲時は、時忠の命とは云え、追放された信茂の後釜に収まるのはさぞ複雑な思いがあっただろうが、こうして旧恩に最後まで報いようとする彼の覚悟が心強かった。

北条の上陸拠点の富津湊は深く内海に突き出た岬に在り、対岸の三浦半島までは直線距離で一里半ほど。 そんな指呼の間を、舳先を連ねるように三浦水軍の輸送船団が往復していた。  今日までに福島勝広率いる玉縄衆も上陸を終え、三船山の西方、神明山に陣を取っている。 富津湊に集積される糧秣の守備と、三船山の本軍を側面支援する陣形か?

義弘は手を翳して、前方にじっと目を凝らした。 

敵の動きが何処か浮ついている。 

矢張り、里見が野戦に打って出るとは全く予期していなかったようだ。

必死に馬を攻めて此方に向かっている大石氏照の五千の到着は、早くても後三日。 それまでに勝敗を決しなければならない。

最初に動いたのは八幡山の正木憲時だった。

三船山の北側斜面からは、既に黒い煙が立ち昇り始めていた。

正木憲時の布陣する八幡山の山裾には、土嚢に似せた枯れ柴を満載した大八車が敷き詰められていた。 枯れ柴に火薬と共に油をたっぷりと吸わせている。

それを押し立てて三船山の敵陣に突入し、火を放ったのだ。 

折からの乾燥した天候と、強い北風に煽られた炎は瞬く間に斜面を駈け上がると、北条本陣を分厚い煙で包み込む。 更に西麓から正木憲時が騎馬を率いて敵陣深くに突入すると、一際大きな喚声が上がった。 さっきまで翩翻と翻っていた敵の将旗が、立ち籠める煙に巻かれながら左右に大きく傾いでいる。

斜面を転がるように、北条軍が障子谷へ駈け下りて来た。

狭隘な谷が忽ち北条軍で埋め尽くされる。 

喫驚は動揺となり、動揺が恐慌となって狭い谷を伝播していく。 焔煙天に漲り、風に乗った火の手は既に三船山の頂上付近まで達していた。 

義弘がすっと右手を上げた。 軍勢に緊張が漲る。

振り下ろすと同時に、攻撃の開始を告げる鉦が鳴り響いた。 

「全軍、突撃!」 

鬨の声と共に、放たれた矢のように騎馬を先頭に飛び出して行く。

先陣を切ったのは岩槻城落城後、里見に客将として寄寓している太田康資だ。

「氏資! 葱坊主は何処におる!」 

六尺を優に超える巨躯に、筋肉の鎧を纏ったような偉丈夫。 

三十人力の膂力を謳われる康資が、八尺の金棒を振り回しながら敵軍に突っ込んだ。 

「姿を見せい! 頸根っこを捻り切ってくれるわ!」 

康資には以前自身が企てた江戸城での叛乱を、氏資の裏切りに因って潰されたと云う積年の恨みがある。 まるで煮え滾った鍋の中で踊る黒豆のように、肩をぶつけ合いながら逃げ惑う敵兵は、次第に障子谷の奥に追い立てられていく。 

この辺の土地の事は、隅から隅まで熟知している。 

其処は地下水が湧き出ている湿地帯であった。 泥濘によって足を奪われた敵は、何の抵抗も出来ないまま屍を重ねていった。

それでも敵は一万。 人の波は次から次へと途切れる事が無い。

しかも恐怖が加わっている分、その圧力は相当なものだ。 

「西方より敵!」  本軍の燃眉の急に、神明山を駈け下りた福島勝広軍が此方へ迫っているのが見えた。 三船山を下りた憲時軍が此れを迎撃する為、馬首を返す。 

義弘も軍を二つに分けて、勝広軍へ当たるべく隊伍を組み直した。

此処が正念場。 ピリピリとした、張り詰めたような緊張感。 

勝広軍とまともにぶつかるかと思われた憲時は、直前で馬首の向きを変えた。 敵が一瞬蹈鞴を踏む。 

その左斜めから、敵陣を騎馬が切り裂いた。

「者共、此処が踏ん張り所ぞ!」 義弘は声を張り上げた。  

「今こそ北条をこの安房から叩きだせい!」  

中天に掲げた太刀を振り下ろす。 

風が後方に流れ、荒い息遣いが馬蹄の響きを糾う。  

両軍がまともにぶつかった。  

具足と具足が相摩し、交錯する刃が火花を放つ。 

「押せ!  押せー!」  

後ろから追いついた徒が、敵の側面に廻って横槍を入れる。 

同時に憲時が再度の突撃。 それに因って生じた前面の綻び。

其処を義弘の騎馬が劈いた。 

身を捩るように大きく揺れる敵陣。

しかし勝広も並の将では無い。 陣形を乱しながらも潰走の一歩手前で踏み止まり、繰り返される突撃を受け止めている。 勝広軍が稼いだ時に扶けられ、義弘の後方では氏政軍が漸く混乱から脱しつつあった。 此処で崩せなければ、背後を衝かれる。

じわりと焦燥が背中を撫でた。 

手繰り寄せた筈の勝機が、乾いた砂粒となって掌から零れ落ちようとするその時…… 

三船山の山裾を掠めて迫る、新手の軍勢。 頭上で千鳥十文字の槍を振り回している、一際目を惹く大柄な騎馬武者。  

「平七……」  

銛を打ち込む様に突入した信茂軍が大きなうねりとなって、氏政軍を狂濤の中へ放り込んでいく。

「お屋形様! あれを!」 傍らの将が指差す方角に、更に別の軍勢が此方に向かっているのが見えた。

二つ引両の旗指物。 足利将軍家の家紋だった。

「ま、まさか……!」

勝広軍も其れに気付いたのか、明らかに動揺しているのが見て取れた。 

形容し難い力が腹の底から漲ってくる。 

「者共、この機を逃すな! 我に続け!」 馬腹を蹴り上げる。 敵の馬群。 頭から突っ込んだ。 

金鼓斉鳴する戦陣を疾駆する馬影。 必死の一撃。

ふっと前面の敵が割れた。 飛び出してくる数騎の武者。  

地黄八幡の旗。 唸りを上げて迫る穂先を辛うじて躱す。

福島勝広。 

馬首を返して、再び突進して来る。  

獰猛な眼光。 義弘の馬廻りが一塊となって此れを迎え撃つ。 

激しくぶつかる両者を中心に、乱戦の渦が拡がっていく。

裂帛の気合が迸る空間に、こだまする怒声。   

両者一歩も退かないぶつかり合いは、頼純の軍勢が勝広軍の背後から襲い掛かった瞬間、唐突に幕を下ろした。

「福島勝広、討ち取ったり!」 槍の穂先に掲げられた勝広の頸。

敵軍は一気に壊乱した。


視界が開けた野に、数人の騎馬を従えた将が一人。 

「御所様……」 思わず声が震えた。

“久しいな、太郎。” 

義弘の許へ馬を寄せた足利頼純が、馬上でにこりと微笑んだ。 

昔の控え目な面影など微塵も無い、一廻りも二廻りも逞しくなった姿。

「大事無いか?」 

血で真っ赤に染まった頸元を見て、頼純が少し眉を曇らせた。

「何のこれしき。」 義弘は頼純と轡を並べる。

後方では信茂と憲時が、氏政軍を翻弄していた。 既に氏資軍は離脱したとは云え、敵は未だ八千近い兵力を保っている。 

しかし、負ける気はしなかった。  

側には頼純がいる。 信茂がいる。

頼純の兵を加えた義弘軍は、立ち竦む敵に最後の突撃を敢行した。


こうやって三人が一緒に酒を酌み交わすのは何年振りだろうか。

大篝が焚かれた佐貫城の本丸近くの曲輪では、兵達が酒宴を張っていた。

「けっ、あの坊主…… よう鼻が利くわい。」 

呆れたように、それでも少し愉快そうに信茂が白い歯を見せた。 信茂の視線の先には、剃り上げた頭が兵達の輪の中に収まっている。 

信茂が引き連れてきた軍勢は、彼が昔から親交があった筑波山を根城とする馬賊。 馬賊とは云っても、元は北条によって滅ぼされた武家に仕えていた者達で、以前頼純奪還の際、あの上杉相手にも一泡吹かせた程の精兵である。 その実力は今回の戦いでも存分に見せ付けてくれた。 

彼等は此のまま信茂の麾下として里見に留まる事を希望し、無論、義弘は喜んでそれを受け入れた。

「確か…… 館山の延命寺だったな? 姉上の墓があるのは。」

昔話で一頻り花を咲かせた後、頼純が思い出したように呟いた。 

「急がせて済まぬが、明日にでも一度寄ってみたいのだが…… 構わぬか?」 

「はっ。 それは勿論、一向に構いませぬが…… しかし、その墓には……」  

「判っておる。」 

事情は委細承知していると云うように、頼純が頷いた。

「左様でござりますか…… 然らば拙者がご案内仕りましょう。 ただ、二三日ゆるりとされてからでも……」

「いや、明日には下野へ発たねばならぬ。 それに…… 富津に泊まっている軍は時忠からの借りものでな、そう何日も逗留してはおられぬのだ。」

傍らで酒を呷っていた信茂が、噎せながら眼を剥いた。 

「何じゃと?! 御所様は…… 此処には戻らぬと仰せか?」

答えを求めるように、信茂が頼純と義弘を交互に見比べる。

義弘も当初はそんな期待もあった。 しかし彼の表情を見ている内、それが思い違いである事を薄々感じ始めていた。

「私は今、下野の佐野晴綱殿と行動を共にしている。 今更、安房へ戻る訳には参らぬ。」

「そんな、莫迦な! こうして三人が、漸くまた一緒になる事が出来たのですぞ。 なのに何故、下野なんぞに帰らねばならぬ? 確かに義姉上は亡くなられたかも知れぬが、だからと云って、兄弟の契りが消えた訳ではありますまい!」

「その通り。 それは死ぬまで変わらぬ。」

「ならば、再び安房公方として立って下され。 もう義父殿には四の五の云わせぬ!」

信茂を窘めようとする義弘を、頼純がそっと片手を上げて制した。

「もう終わったのだ、平七。」

「終わった?」

「私の…… 公方としての役割は。」 

そして頼純は安房を離れた後、初めて足を伸ばした京の都の事を語り始めた。 

其処で目の当たりにした惨状。 

野晒しにされたままの、焼け爛れた家屋で金目のものを漁る人々。路傍に転がる朽ち果てた骸。 武士は賊となり野に蔓延り、困窮する民は我が子を売って糊口を凌ぎ、生き血を啜って肥え太った商家は、銭を忍ばせて権に阿る。 眼前に広がる荒廃は、まさに人心の荒みそのものだった。

最早、室町幕府は死んだ。 

先人達が数多の血で購った侵すべからざる筈の権威は、手垢に塗れ、勢利の交わりを重ねる中で自壊したのである。 そして、頼純の心の中に一つの決意が灯った。 

この関東に、新しい幕府を創るのだ、と。

「その為には、先ず北条を倒さねばならぬ。 北条は、京で政争を繰り広げる大名等と同じ、血の味を覚えた賊徒だ。 その北条に担がれる限り、その権威は決して根付きはせぬ。 だから私は新しい時代を創る為、足利藤政様を支えていくと決めたのだ。 継承を巡る内訌などしていては、都の幕府と同じ轍を踏む事になる。 それに……」  

頼純がふっと夜空に掛かる月を見上げた。屈託の無いその横顔が柔らかい光を帯びる。

「事情は如何あれ、安房公方であった私は上杉に屈したのだ。 一度力に屈した権威が、再び復活する事があってはならぬ。」

(此れがあの…… 御所様か?) 

義弘は只々圧倒されていた。 信茂もさっきの剣幕を何処かに置き忘れたかのように、ぽかんと口を開けている。

上杉に屈したのは彼では無い。 里見なのだ。 

しかし彼は、それも含めて自分の力だったのだと云う。

頼純は確かに変わった。 いや、変わったと云うよりも、彼の心底に張り巡らされていた結界が崩れた。 

そんな気がした。



里見家の菩提寺、館山に在る延命寺。

その境内の一角に在る、真新しい石塔の前で跪いた頼純が手を合わせている。 その墓には千代の法衣、愛用していた数珠。 それに、婚儀で着用した打掛が埋葬されていた。

亡骸の無い…… 墓標。 

鎌倉から連れ出した事が、果たして彼女にとって本当に良かったのか? そんな自問の言葉を、今迄どれほど心の中に投げ掛けてきただろう。  

覚悟はしていた。 しかし彼女が三浦に向かう船上から、生きたまま海へ投げ捨てられたと聞いた時、血が逆流する程に逆上し、そして悄然とした。 

一時の怒りに任せて、彼女と離縁さえしなければ……

詮無き事とは知りつつも、自分を責め続けた。 

「姉上の生き様は…… 何処と無く父上に似ている。」

「……義明公に?」

頼純はゆっくりと頷き、墓標に眼を落とした。

「姉上には諦念が有り、渇望が有った。 宿業に対して従順でありながら、鉄のような意志が有った。 姉上は、そう…… ひたむきに、それこそ貪るように生を全うしたのだ。」

(千代の、生き様……) 

自分が知っている千代とは、まるでそぐわないその言葉が心にぽとりと落ち、生じた波紋が静かに胸を揺さぶった。

「姉上は、幸せだった。 少なくとも、太郎が思っている以上にな……」 



盛り土の上に立つ卒塔婆が、長助を見下ろしている。  

喜八が杣仲間に頼んで上等な木から切り出して貰った卒塔婆も、色がすっかり褪せ、表面がささくれ始めていた。 滲んでいた文字も、今では判別すら出来ない。 

(卒塔婆も……)  年を取るのだな。

辿り馴れた途を伝い、もう何年この卒塔婆を眺めてきたのだろう?

見えぬ姿に眼を凝らし、聞こえぬ声に耳を欹てて……

二人の生きた痕跡をなぞる毎日。 心に刻んだ筈の決意は、今ではまるでこの卒塔婆に書かれた文字のようだ。

哀しみだけで死ねるなら…… どんなに良いだろう。 

長助はゆっくりと筒袖をはだけた。 干し柿のような腹を撫でる手が、微かに震えている。

結局、自分は何をやっていたのだろう? 

やっと願いが叶ったと云うのに、刀槍の中を鼠のように逃げ回るだけで、死ぬ事すら出来なかった。

所詮、自分の覚悟とは、あの程度のものだったのか?

遠巻きに注がれる、村人達の寒々しい視線。 皆、泣く泣く自分の夫を、或いは子を戦に送り出している。 今回の戦でも、多くの者達が死んだ。 それなのに、戦に出る事を願って領主館に日参していたこの老い耄れだけが、刀傷一つ負わずに帰って来たのだ。 

そう考えると、申し訳無さで心が詰まった。

北条の兵は士分の者が多いそうだ。 雇う銭があるからだと云う。

昔、村の者がそう云っていた。 

(連中はな…… いよいよとなったら、自分で自分の腹を斬るんじゃ。 こう……掻っ捌いて、臓物を引き摺り出してな)

そう云いながら、彼は握った拳を腹の上で横に引いた。

(長助さん、あんたに同じ事が出来るかね? そんな連中と、まともに戦える訳ねえっぺさ)

そう云った彼も、戦で死んでしまった。

長助は深い溜息をついた。

(如何した……?) 

心の迷いを見透かすように、森の奥から声が聞こえた。 

長助が槍を取り、錆び付いた穂の根元を掌で包み込む。 

思いを遂げられないのであれば…… 

(お前自身の手で、けりを付けるのだ……)

刃から目を背けるように天を仰ぐ。 

冷たい、ちくりとする感触。 息を止めながら、力を強めていく。

鼓動が早鐘のように耳の奥で高鳴っている。

歯を食い縛り、目を閉じた。

穂先が腹にめり込み、じわじわと襲う疼痛に、額から忽ち脂汗が浮かぶ。 息が荒くなる。

ガタガタと震える手に思い切って力を篭めると、薄い皮膜が厭な音を立てて破れた。

脳天から突き抜けるような激痛に、長助は思わず槍を投げ出した。(駄目だ……)  

自分には、出来ない。 死ねない。   

「ち、畜生……」

己への憎悪が生爪を剥ぎ、絶望が臓腑を押し潰す。

「畜生ぉ!」 そして、窮途(きゅうと)の哭(こく)が口から迸った。


















  



 









 



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