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里見と北条  作者: 小松徹
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里見と北条(上)

視線の片隅に寄り添うように、一人の老人が身を低くしている。

粗末な軍装。目深に被った陣笠は破れ、薄い腹当ての紐が千切れかけている。 携えた槍は見るからに古ぼけており、彼同様、戦では何の役にも立ちそうに無い。 曲がった腰の所為で少し湾曲している身体は、痛々しいほどに瘦せていた。

それはまるで…… 風に吹かれて、何処からか紛れ込んだ過客のようであり、時に置き去られた幻影のようでもあった。

それでいて、その異質さは城内の張り詰めた空気に何ら水を差す事無く、絶妙な折り合いをつけながら其処に収まっているのだ。

老人から視線を外した大塚四郎左衛門は、ゆっくりと天を仰いだ。

朝焼けの名残を纏う浮雲が、情念と云う獄舎に鎖がれた孤軍をただ漫然と見下ろしている。

生は寄なり。 死は帰なり。

不意に昔読んだ漢書の一文が頭に浮かび、帰らざる日々の情景が鮮やかに蘇る。


号令が掛かり、兵達が一斉に動き出す。

此処、佐貫城に集う軍勢五百の中核を為すのは、主命に従わず、最後まで意地を貫こうとする里見の将兵達と、四郎左衛門のように北条によって主家を失った浪人衆だ。

敵は城外に布陣する北条軍八千。 無論、敗戦は必至。

しかし城内には悲壮感など微塵も無かった。 

寧ろ、天を焦がすような活気が漲っている。

生きて再び還らず。

望みを絶つ。 絶望という、堅牢な意志によって。

やがて数人の騎馬を従えた、六尺はあろうかという大柄の武将が姿を見せた。

正木信茂。 

武門の誉れ高い里見家中で、真っ先に指を折られる勇将である。

紺糸威の具足は漆黒に染められ、水牛の角を模した金箔押しの脇立てが日輪に映えている。 その堂々たる出で立ちは、まるで摩利支天が天界から降臨したかのような神々しさを湛えていた。

「おう、和尚! わざわざ見送りに来てくれたか?」 

信茂の視線の先に網代笠を被り、襤褸の直綴に身を包んだ痩身の老僧が立っていた。

「せっかくだ、念仏の一つでも唱えて貰おうかの。」

「莫迦云え。」  庇を持ち上げた老僧が、ふんっと鼻を鳴らす。

「お前なんぞに念仏を唱えようものなら、この儂まで地獄に落ちてしまうわい。」

周囲がどきりとするような憎まれ口に、信茂は怒るどころか顔を綻ばせ、白い歯を見せた。

「ならば一つ、太郎に伝えてくれぬか?」

逸るようにぶるっと頭を振る馬の頸筋を、信茂が優しくぽんぽんと叩いた。

「俺が全て…… 引き受けるとな。」

馬上の信茂を見上げる老僧が眼を細め、鼻の下に皺を刻んだ。

「後は…… 太郎の仕事だ。」

低く垂れ込めるように、ゆっくりと流れる煙。

城兵自ら放った焔が佐貫城の本丸から立ち上がり、風に煽られながら裾野を拡げようとしている。

「世話になったな、和尚。 長生きしてくれよ。」 

従者から受け取った千鳥十文字槍を小脇に抱えた信茂は、まるで野駈けにでも出掛けるように洒々落々と馬首を城門に向けた。

旗指物が翻り、鬨の声が沸き起こる。 

大きく息を吸い込むと、薄明の澄み渡った冷気が臓腑に満ち、心底にしがみついていた最後の執着を洗い流していく。

心骨に刻まれし想いが、咆哮となって迸る。

そして四郎左衛門も、引き返す事の無い一歩を踏み出した。



貴方は憶えているのだろうか?

下総小弓城下から、真っ直ぐ南へ伸びる街道。 その両脇に拡がる稲田を渡る風が、初夏の到来を告げ、雨上がりの空から降り注ぐ陽光が、光の雫となって沃野に散りばめられていく。 

ふと足を止めた貴方は、遠く甍を並べる南房総の翠嶺を見詰めながら、小さな溜息をついた。


(安房って……  どんな処?)

(どんな処って…… 此処と同じじゃ。 海があって、山がある)

(そう……)

(ほら、あの山…… あれを越えればもう安房じゃ。 此処から歩いて行っても一日と掛からん)

(……)

(それに…… 千代姫は公方様の娘御じゃ。 皆、千代姫を大事にしてくれる)

(……太郎殿は?)

(え……?)

(太郎殿は如何じゃ? 千代を大事にしてくれるのか?)

(あ、当たり前じゃ。 そんな事……)

(それは…… 千代が公方の娘だから?)


狐狸の棲み家と揶揄される内裏で余喘を保つ帝と、都を追われ、朽木谷の寒郷に逼塞する室町将軍。 権勢の前に背を丸める権威と、猖獗を極める下克上のうねり。 

それは関東でも同様であった。

下総古河に御所を構える関東公方は、先鋭化する政争により疲弊し、勢利の交わりを重ねる中で自らの存在を毀損していった。 それに付け込んで公方を影響下に収めたのが、旭日昇天の勢いで関東を席巻していた北条氏である。 

一方、それに対抗する房総の諸侯が旗頭として担ぎ上げたのが、古河公方の叔父に当たる足利義明であった。 

こうして関東に、二人の公方が並び立った。 

その義明の娘、千代姫の輿入れを望んだのは、里見の方からであった。 無論、陣営内での主導権争いが背景にあってのものだが、当時未だ七つだった自分は、そんな事情など知る由も無く、元服を待っての縁組みという決定を、何の感慨も無く受け止めた。

輿入れを承諾してくれた御礼の為、赴いた小弓御所で初めて仰ぎ見た義明の姿。 それは想像していたのとはまるで違う。 高貴な雲上人というよりも、匂い立つような武人だった。

そして…… 貴方と出会った。 

鮮やかな桜色の小袖に、愛くるしい顔立ち。 貴方が足を踏み入れた途端、部屋の中が一気に華やいだような気がした。 

しかし、その小さく可憐な花には、思いも掛けない棘があった。

まるで招かれざる客でも迎えたように、そっぽを向いたまま此方をまともに見ようともしない。 当惑する此方を尻目に、やがて貴方は挨拶もそこそこに部屋を飛び出していった。

(ああ見えて、あれは中々の跳ねっ返りでの……) 

義明が零した笑みは、苦笑いと云うよりも、恰も此方の反応を愉しんでいるかのようだった。

だからな、婿殿。 覚悟した方が良い、と。 

その棘の正体に気付いたのは、安房へ帰る日の事だった。 

城下の外れまで見送ってくれた彼女が吐露した、家族から離れ、見知らぬ土地で暮らさねばならない不安。 そして何よりも…… いつの日か、時代が公方と云う存在を必要としなくなった時、自分は周囲に如何扱われるのだろうと云う、漠とした恐怖。

なのに俺は…… 答えを求めようとする彼女の視線に戸惑いながら、ただ黙って顔を伏せた。



中天に差し掛かった八月の太陽は、愈々その炎威を示し、膨れ上がった熱波が馬の背に揺られる北条綱成を閉口させた。 

鎌倉の鎮守、鶴岡八幡宮を抜けると、鎌倉山の切り通しに入る。 

傾斜はきついが、両側に屹立する木々が陽光を遮ってくれる為、暑さは大分紛れた。 

暫く進むと、左手に太平寺の山門に続く石段が見えてくる。

「此処で待っておれ。」

綱成は供の者を残し、一人山門に向かった。


綱成が訪いを告げると、取次ぎの若い尼僧がくすりと笑ったような気がした。 そう云えば、前回の訪問から未だ日が経っていない。微かな狼狽と、きまりの悪さが頸の裏筋を火照らせた。

山門を潜って右手には、取次の尼僧たちが常駐する坊舎があり、それに隣接する一画に寿徳庵と呼ばれる小さな庵が設けられている。 男の訪問者が入れるのは其処までだ。 太平寺は鎌倉に在る他の尼寺と同様、戒律が厳しい。 仮令大名であっても、濫りに境内へ足を踏み入れる事は出来ない。

若い尼僧に導かれて庵に入ると、綱成は火照りを覚ますように、直垂の襟元に風を入れた。

やがて、一人の尼僧が姿を現した。

「青岳尼殿。 ご息災かな?」 

引き始めていた汗が、再び珠となって額に浮かぶ。

「玉縄から小田原へ行く途次での……」 玉縄は鎌倉を守護する綱成の居城である。

「ところが、この暑さで往生してしまいましてな……」

綱成はそう云って懐紙を額に当てた。

「それでまあ…… 未だ日も高い事だし、涼みがてらにちと寄らせて貰った次第じゃ。」

太平寺は鎌倉山の山頂付近に在り、夏は比較的過ごし易い。 来訪の理由としては、何らおかしくは無いのだが、如何にも言い訳がましさが先に立つ。 綱成の心中を知ってか知らずか、青岳尼は慣れた手つきで茶の用意を始めていた。 

彼女は耳が聞こえず、声を発する事も出来ない。 

しかも、右半身には今でも障害が残っていた。 右足を僅かに引き摺っているのも其の所為だ。 しかし眼の前で茶を点てる彼女の所作には、身体の不自由さを忘れさせるほどの優雅さを纏っていた。

それだけでは無い。 常に携帯する楮紙に筆を走らせて言葉を伝え、相手の唇の動きで話の内容を読み取る事すら、自在に出来るようになっていた。

今では、この太平寺の庵主としての不足を、口の端に乗せる者とていない。

(大したものだ……) こんな華奢で、未だ二十歳を超えたばかりの彼女の何処に、これほどの強靱な精神力が秘められているのだろう。

少し温めの茶は何の抵抗も無く臓腑に染み込み、喉の渇きを癒していく。 彼女の点てる茶には、何処かしら凜とした気高さがある。 綱成が所望する前に、二杯目が用意されていた。

開け放たれた濡れ縁から見える瀟洒な庭。 

此処では、時がゆっくりと流れる。


二杯目の茶は先程よりはやや熱く、濃い目だった。  

今度は時間を掛けて、それを呑み干した。 

木立を抜けた一陣の風が、堂宇の軒に吊られた青銅の風鐸をカランと鳴らす。 手当たり次第に組み伏せようとする夏の日差しも、此処ではまるで恥じ入るかのように穏やかな様相を帯びる。

それから暫く、彼女と取り留めの無い話をした。 

天気や、院内での事。 市井の様子。 

他愛の無い話だが、綱成はいつになく饒舌で、彼女も笑みを湛えて相槌を打ち、紙に筆を走らせた。

やがて昼餉が供された。 

湯漬けに梅干し。 山菜の煮物と胡麻豆腐である。 

お口汚しですがと青岳尼は恐縮していたが、味付けは絶妙だった。 

(井戸に梨を冷やしております。 宜しかったら、お持ち致しましょうか?)

昼餉が済んで一息ついていると、そう彼女が訊いた。

境内には何本かの梨の木がある。 その種は昔、明に渡った僧が持ち帰ってきたものなのだと云う。

その梨は夏に実を付ける。 大振りで少し扁平だが、瑞々しく、そして驚くほど甘い。

「いやいや、もう十分に馳走して頂いた。 そろそろお暇せねば、尻に根が生えてしまいそうじゃ。」

そう云うと青岳尼が相好を崩し、口に指を添えて笑った。 指の隙間から、小さな八重歯が覗く。

(鎌倉へは、いつお戻りになられますか?)

「それがのう…… しばらくは小田原から動けぬかも知れぬ。」

(また戦でござりますか?)

「ああ。 此度は・・・ 安房の里見じゃ。」

それは、ほんの一瞬であった。 

綱成の六感が、微かな空気の強張りを拾った。

塵一つ無い真新しい畳に、雪を欺くような白い指先が伸びる。

(ご武運を、お祈り申し上げております)

そして時がまた、静かに流れ始めた。



天文二十二年(一五五三年)、冬の安房勝山砦。

黒光りする板の間に、藁で編んだ円座が一つ。 主が去った後も、北条綱成は対面に置かれた円座を暫く眺めていた。

その僧は妙本寺の住持、日我と云った。 妙本寺は北条が本陣を敷く此処勝山砦から、海岸線に沿って十町ほど北に在るが、里見勢との攻防に因って、既に焼け落ちていた。

些か変わり者との評判は綱成も耳にしていたが、成程その様だ。 坊主の癖に、野武士然としたがさつさと、悟達した隠士のような超然さを併せ持っている。 語る言葉は鋭利な鉈のように、不遜で一切の迷いが無い。 しかしそれでいて、何故だか心地良くもある。

今日、日我を呼んだのは、里見義堯と因縁浅からぬ間柄と知っての事だった。 綱成は先ず、図らずも妙本寺に戦火が及んだ事を詫び、相応の償いをする積もりだと告げた。 その上で、日我には降伏勧告の使者として里見の本城、久留里に赴いて貰いたい。 

それが綱成の要請だった。

(まあ、手当が頂けるとあらば、行かずばならんでしょうなぁ)

まるで鼻毛でも抜くような言い方だった。 そしてあの生臭は、ふらりと腰を上げて出て行った。

降伏勧告については、渡海前に当主北条氏康より了解は取っている。

此方の条件は二つ。 人質の差し入れと、安房海賊が横領する浦賀水道での関銭徴収権の譲渡であった。

里見にとっては難しい条件であろう。 ただそれさえ呑んでくれれば、綱成はどんな譲歩にも応じる用意があった。

兎に角、北条には是が非でも安房平定を急がねばならない事情があった。

越後の長尾景虎。

将来、北条にとって最大の敵となるであろう男の存在である。

北条によって関東を追われている関東管領、上杉憲政の庇護者である景虎は前年、兵を上野に差し向け、憲政の居城平井城を奪還していた。 景虎は義を唯一絶対の価値観として標榜し、実践する武将である。 公方家を壟断し、関東管領を追放した北条に対して、彼はその過去を以って悪と断罪するだろう。 

その景虎が自ら軍を率いて関東へ雪崩れ込んで来た時…… 将に生きるか死ぬかの戦いとなる。

それまでに、北条は盤石な体制を整えておかねばならない。

今、関東は反北条と親北条に二分されている。 その根底にあるものは、いずれも北条に対する恐怖であった。

或る者は馬前に額突いて配下となる事を望み、或る者は徒党を組んで対抗せんとしている。

その反北条勢力の一角を担うのが、安房の里見であった。

とは云え、国力の差は歴然だ。 本貫地である伊豆と相模、それに武蔵の大半と下総の一部を版図に加える北条の総石高は六十五万石。 安房と上総南部を領有する里見は、その三分の一にも満たない。

それでも今回、安房侵攻を優先した理由。 それは一にも二にも、江戸湾の制海権の掌握であった。

房総半島の突端に位置する安房の国。

泥岩と砂岩が重なり合った、国土の大半を丘陵地が占める。 狭隘な平野と痩せた土地に縋るだけでは先が見えている。 

安房の民の眼が、海に向いたのは必然であった。 

鋤や鍬を捨てた手に、櫂と網を携えて農民は漁民となり、湊や漁場の権益を守る為に、武器を取った漁民は海賊となった。 時を経て組織化された彼等は、湾内の漁船や商船から船役や関銭を徴収し、権益を脅かす敵対勢力や競合相手に対しては、連携してその凶暴な牙を剥いた。 しかし、所詮は内房に根城を持つ海賊衆の緩い連合体である。 里見とも拠点の提供と保護を受ける対価として、権益の一部を拠出すると云う利害関係で繋がっているに過ぎない。 

里見との関係も海賊衆内の統率も、存外薄く脆いのだ。 事実、海賊衆は北条から提示された利に釣られ、今回中立に転じていた。

里見が降伏に応じれば良し。 否となれば…… 擂り潰すまで。 

いずれに転んでも両岸を押さえている限り、この内海は北条の海となる。 そうなれば迅速な軍勢の展開、確実な兵站網の整備が担保され、何より安定した大きな経済基盤を得る事が出来る。

そしてその時…… 越後の軍神は、初めて敗北の味を知る事になるのだ。


粉塵を撒き散らして疾走する大八車。  

荒い息を吐きながら土嚢を担ぐ人夫。 槍を掲げ、城門へと急ぐ兵。 行き交う群集に苛立つ馬の嘶き。 商家の表戸に、羽目板を打ち込む槌音。 高みに登って、指示を飛ばす将の怒号。 

雑多な感情が肩をぶつけ合って渦を巻き、禍々しい熱を孕む。

じきに万余の北条軍で埋め尽くされるであろう久留里の城下は、すっかり挙措を失い、さながら煮え滾る釜の中のような様相を呈していた。


久留里城内の書院へ向かう廊下。 

其処で一人の僧と出くわした里見義弘は、思わず声を弾ませた。 

「これは上人様!」 

「おう、太郎か。」 薄汚れた法衣を纏った日我が、屈託の無い笑みを返した。

「よくぞご無事で。 妙本寺が焼け落ちたと聞き、上人様の身を案じておりました。」

「ほう、嬉しい事を云ってくれるのう。」 そう云って、さほど嬉しくもなさそうに日我は不精髭で覆われた顎を掻いた。

嘗ては里見家の政策顧問を務めていた時もあった日我は、義弘にとって年少の頃、写経から六韜三略に至るまで徹底的に学問を叩き込まれた師でもある。 

「それで、今日は何か……?」

「何、つまらぬ用事じゃ。 其れより儂は今、円如寺に世話になっておっての……」 円如寺は妙本寺と同じ日蓮宗派の流れを汲む古刹で、久留里城下に在った。 

「まあ、暇な時でも顔を出すが良い。」

(暇な時、か……) 存亡の瀬に立つ周囲が幾ら浮き足立とうとも、矢張り日我はいつもの日我のまま。 彼の後ろ姿を見送りながら、義弘は苦笑いを浮かべた。

「ああ、そうじゃ。」 振り返った日我が、肝心な事を思い出したように声を高くした。 

「来る時は酒を忘れずにの。」


書院には、父の里見義堯と正木時忠がいた。

正木家は安房の有力国人で、里見家とは主従の関係にある。

正木家の棟梁は、久留里の東にある大多喜城を居城とする正木時茂。 弟の時忠は、外房の勝浦城を治めている。

槍の大膳として四隣に名を轟かせる時茂がゴツゴツとした岩ならば、時忠は鋭利な剃刀。 冷徹そうな顔に違わず、頭は抜群に切れる。 謂わば時茂は父の手足であり、時忠は父の智嚢と云えた。

「金谷と造海が落ちたと云うのはまことか?」

部屋に入るなり、義堯は広げた地図に眼を落としたまま訊ねた。

珍しく、落ち着かない様子で爪を噛んでいる。

「はい。 敵は現在、佐貫城攻めに集結している由。 佐貫の備えでは、そう長くは持ち堪えられませぬ。」 上陸後、総勢一万五千の兵で内房諸城を僅か十日で抜いた北条綱成は、騎虎の勢いのまま内房を防衛する最後の牙城、佐貫城に迫っていた。

兎に角、展開が速すぎる。 北条綱成は北条家随一の驍将として知られているが、正直此れ程とは思わなかった。

佐貫が落ちれば、久留里まで北条を遮るものは無い。

佐貫城を護るのは正木時茂。 幾ら武勇絶倫とは云え、雲霞の敵に僅か千にも満たない守兵では落城は必至だった。

「海賊衆は如何じゃ?」

「湊に籠ったまま・・・ 未だ、目立った動きを見せておりませぬ。」 義堯は苛立ったように、小さく舌打ちをした。

内房海域一帯に勢力を張る彼等の助力無しに、捷利も覚束ない。 当然必死の工作を続けてはいるものの、彼等の反応は意外なほど鈍かった。 暫く地図に眼を落としていた義堯は、逡巡を断ち切るように立ち上がった。

「太郎。」

「はっ。」

「佐貫と館山に早馬じゃ。 時茂には早々に城を棄て、大多喜に戻れと伝えよ。」

「御意。 して、安西へは如何いたしましょう?」

安西勝広は館山湊を拠点とする有力海賊である。

足早に座を離れようとする父の背中に義弘が慌てて問うと、怒気を含んだ声が書院に響いた。

「書状を持たす故、馬を待たせておけい!」


父が去った書院で、義弘は時忠と二人、額を寄せながら籠城戦での兵の配置について吟味を重ねた。

ふと日我の事を思い出したのは軽い夕餉の後、一息入れていた時である。

「そう云えば、上人様が此処へ参られていたようだが・・・」

その問いに、時忠は含み笑いを浮かべた。

薄い唇に細い目。 削げた頬が鼻梁を際立たせている。 無口で、滅多に腹の底を見せない。 

義弘は昔から彼が苦手だった。

彼と向かい合っていると、何か心を見透かされているような居心地の悪さを感じさせる。

「如何やら、綱成に仲介の労を頼まれたようですな。」

「何と…… 綱成に?」

「降伏せよとの申し出でござった。」

絶句する義弘をよそに、時忠は涼しい顔で空になった椀に湯を注いだ。

「そ、それで・・・ 父上は何と?」

「大層なご立腹で、刀を抜こうとするお屋形様を諫めるのに骨が折れました。」

「そうでしたか。 流石の上人様も肝を冷やした事でしょう。」

”其れが全く悪びれる様子も無く・・・ 恐らく日我殿も、お屋形様の心の迷いを見抜いておられたのでしょう。“

「心の…… 迷い?」

「左様。 海賊衆の加勢無くば、この戦に勝ちは無い。 只々負けぬよう城に籠って戦うのみ。」

「久留里は堅城。 仮令万余の敵であっても、攻め続けている内に……」

「疲れが出る前に、城の米蔵が空になってしまう。 今年が不作であったのは、義弘様も承知の筈。 兵糧の蓄えは、全く積み上がっておらぬのですぞ。」

「ならば…… ただ黙って降伏せよと申すか?」  

「ただ黙って、お屋形様の下知に従い、運命を共にするまで。」 

皮肉な物言いに、義弘は思わず拳を握り締めた。

「宜しいか、義弘様。 北条の力を侮ってはなりませぬ。」

時忠は初めて義弘と視線を合わせた。

「今の北条は銭も米も、弓矢も、我等が一年掛けて蓄えるものを、ものの一月で蓄えてしまう。 両家の力の差は、今や如何ともし難いほど拡がっておるのです。」

そんな事は云われずとも判っている。 しかし義弘は辛うじて言葉を呑み込んだ。

「義弘様は一介の武者にあらず。 いずれ里見の当主となられるお方。 意地を貫いて、華々しく散るだけが武家の本懐とは申せませぬ。 その事だけは、如何かお忘れなきよう。」

義堯からの呼び出しで時忠が離れた後も、義弘は一人書院で自問していた。 

時忠の言葉は頭では理解出来る。 されど、心が如何しても納得出来ずにいた。 風を見て事大に流れるだけでは、商家と変わらぬではないか。 今や里見を呑んでかかる北条とて、嘗ては至極に詰まった時もあった。


それは今から七年前、上杉憲政が関東管領としての威名を辛うじて保っていた頃。 憲政は北条打倒の兵を挙げた。

当時、北条の影響下に置かれていた古河公方、足利晴氏も此れに同調。 北条討伐を叫ぶ御教書は関東を駆け巡り、反北条の気運は野火のように拡がった。 

それまで北条の威勢に頸を竦めていた諸侯も、時節到来とばかりに続々と錦の御旗の下に馳せ参じ、北条綱成が三千の兵で籠る河越城を囲んだ時には、七万を優に超える軍勢に膨れ上がっていた。 

昼夜を問わず繰り広げられる猛攻。 しかし綱成は頑として此れを阻み続けた。

一方、彼の奮戦とは対照的に、北条氏康の動きは緩慢であった。

小田原から八千の兵で救援に向かったのは、河越城が包囲されてから五ヶ月後。 進軍中においても、和議を求める使者がひっきり無しに憲政に遣わされた。 河越到着後も、戦況を遠巻きに眺めるだけで自ら動こうとしない。

氏康に戦意無し。 両軍の兵力差を考えれば、憲政陣営からそう云う声が出てくるのも無理からぬ事だった。 万全を期して練られた作戦は、全く齟齬の無いまま、憲政の思惑通りに進んでいるものと思われた。  

ただ一つ…… ほんの僅かな油断を除いて。

氏康は、其処に乾坤一擲の勝負を賭けたのである。 

北条の夜襲によって憲政軍は瓦解。 公方晴氏は小田原城へ幽閉の身となり、憲政は命辛々平井城へ逃れるも、その後関東に身の置く場さえ失った。 

北条の躍進を決定付けた河越の夜戦での大捷利は、将に氏康の果断と綱成の不屈によって齎されたと云って良い。 北条が示したように、形勢と云うものは一つの勝敗を境に一変するもの。 

ならば…… 北条に出来て、里見が出来ぬ道理は無い。

新しい関東を創るのは、北条に非ず。

存亡を賭けた決戦の前に、若い義弘の心は逸った。


ドン、と徳利が勢い良く板の間を叩いた。

建て付けの悪い陣屋の扉がガタガタと騒ぎ、灯心に点る炎が身を捩じらせてジリジリと音を立てる。 

風が、また強くなったようだ。

勝山砦の一室。

三浦半島を根城とする海賊、三浦党の領袖梶原景宗は、一人酒を呑んでいた。 北条綱成率いる本軍は既に佐貫城を抜き、久留里城下に達していると云う。 

(其れに比べて、儂は……)

綱成が安房海賊を銭で手懐けた事で、干戈を交える前に三浦党の戦は終わっていた。 今は三浦からの物資を載せた輸送船の護衛役として、ただ時を浪費している。

此れではまるで・・・ 我等の力など端から勘定に入っていないと云わんばかりではないか。

苦々しい自嘲を酒に浮かべて、景宗は乱暴に盃を呷った。

此度は北条にとって大事な戦。 しかしそれ以上に、景宗はこの戦に譲れぬ想いを寄せていた。

北条が力を付ける遥か以前より、この内海に君臨していたのは安房海賊であった。 そんな精強無比な相手を向こうに回し、捨て身の戦いを強いられる中で父が、兄弟が、そして我が子まで海の水屑となった。 何の後ろ盾も、功労に報いる恩賞とて無く。 そんな荊棘の途を、我等は三十年近く潜り抜けてきたのである。

長年煮え湯を呑まされ続けてきた宿怨を、漸く注ぐ事が叶う戦。 それを十分に知っていながら、主君氏康は戦の差配を綱成に預けたのである。 その現実に、景宗は酷く打ちのめされていた。

一方、綱成は陽の当たる場所で数々の武功を為し、今や関東中の耳目を集める存在となっている。 今川家から裸同然で北条に転がり込んだ後、先代氏綱公に如才無く取り入る事で、出世の途を開いたあの男。 特に一門衆や譜代の家臣達の中には、綱成を白眼視する者も少なくない。

兎に角、処世に長けているだけあって、狗のように鼻が利く。 

だが…… 氏康への信頼だけは、微塵も揺らいでいなかった。

平井城攻略の後、小田原で大々的に催された酒宴の席上、氏康から掛けられた労いの言葉。 景宗はその一字一句を、今でもはっきりと憶えている。

(三浦党の働きが無ければ、我等は未だ武蔵の土を踏む事すら叶わなかったであろう。 其の比類無き忠節は、当家の誉れじゃ)

お屋形様だけは…… 判ってくれている。 防人として肺腑を砕きながら、この海を守ってきた、我々の献身を。

あの時、胸に灯された形容し難い高揚が今、焼けるような憤怒となって心の中で逆巻いていた。

惨苦の末に漸く手繰り寄せた筈の、積年の宿望。

そのとば口を前にして、我等は再び光の届かない僻隅へと押しやられようとしている。 我等が血で贖った宿願が、栄耀に驕る者達への報酬へとすり替えられようとしている。

(随分と、虚仮にされたものよ……)

噛み締めた奥歯が小さく軋む。

池沼に浮かぶ蓮の花を見る者達の関心が、泥中に張った根に向けられないのであれば…… 

景宗の目に、昏い光が宿った。

(皆に知らしめるまで)

景宗は床を蹴って立ち上がり、盃を思い切り壁に投げ付けた。


何処かで、茶碗が砕けるような音がした。

船と船を結ぶ艫綱を点検をしていた、初老の水夫(かこ)が手を止めた。

(空耳か……)

再び手許に視線を落とした瞬間、横波を受けた船が大きく揺れた。

慌てて船縁に手を伸ばした拍子に、向う脛を船梁にしこたま打ち付けてしまった水夫は、脚を抱えて悶絶した。

”糞!” 脳天まで突き抜けるような激痛と格闘しながら、水夫は悪態をついた。

(こんな仕事…… ほっぽって帰っちまうか)

そんな考えが頭を過ったが、若し緩んだ艫綱が解けて船が流されたら…… 叱責だけでは済むまい。 下手したら、頸が飛ぶ。

水夫は未だじんじんとする脛を摩りながら、何とか立ち上がった。

風に乗って、浜の陣屋から銅鑼声の喧騒が漏れている。 大将や組頭の不在を良い事に、酒樽でも開けて馬鹿騒ぎしているのだろう。

篝が煌々と焚かれた陣屋を恨めしそうに眺めながら、水夫はもう一度口の中で毒づいた。

水軍を指揮する梶原景宗が、軍船七十余隻を率いて慌ただしく湊を出て、もう半日経とうとしていた。

急な出撃だった。

向かった先は、里見家直属の水軍が拠点とする外房の勝浦湊。

今回の渡海で最大の難敵と目されていた安房海賊衆は、調略によって牙を抜かれている。 この内海で残る敵は、里見水軍のみ。

とは云え、その戦力は今の北条水軍には遠く及ばない。

その所為か、里見水軍は亀が甲羅に身を竦めるように、湊に逼塞したまま動く気配を見せていなかった。

その水軍を、態々叩く意味があるのだろうか?

腑には落ちなかったが、下っ端が彼是詮索しても仕方が無い。

それよりもこの忌々しい仕事をさっさと片付けないと、寒さで身体が如何にかなっちまう。

湊には、約二百艘の輸送船が肩を寄せ合うように係留されていた。

船数も然る事ながら、波が高い夜の作業である。

組の同輩も含め、総勢八人掛かりでも、あとたっぷり半刻は掛かるだろう。

盛大に溜息を吐いた水夫は、暗澹たる気持ちで顔を濡らす波しぶきを手で拭った。

師走の海の水は、肌を切るように冷たい。 風があるから猶更だ。

”カシャン!” びくりと肩が震えた。

(あの音……) あの音が、確かに今・・・

水夫は上体を伸ばし、全神経を夜の海に向けた。

”カシャン!” 今度は近い。

得体の知れぬ不安が、胸の底から這い上がってくる。

何かが…… いる。 

何かが迫っている。

暗い夜の海で、何かが蠢いている。 雲間から零れる月明りを頼りに、水夫は眼を凝らした。

波間に見え隠れする船影。  

味方の軍船が戻って来たのだろうか?

いや…… 違う。 船影が小さ過ぎる。

一つ。 二つ。 三つ。

十で数えるのを止めた。

(こ、これは一体……)

その時、船の中でちろりと灯りが点った。

一つ。 また一つ。

やがて無数に灯された橙色が、闇に潜んでいた船団の輪郭を浮かび上がらせていく。

此処に至って、水夫はその音の正体を悟った。

一斉に放たれる火矢。 油を含んだ帆布が燃え、風を孕んだ焔は瞬く間に隣の船へ。

突如、狂瀾の巷に放り込まれた湊の中で、水夫は夜空に引かれる炎の軌条を呆然と見詰めていた。



貴方は憶えているのだろうか?

銀の背をくねらせながら、渺々たる南の海へ向かう潮の流れ。 

紺碧に沈む浦賀水道を、ゆっくりと通り過ぎていく数艘の漁船。

そして…… その対岸に横たわる、群緑に覆われた鬼の住処。 

岬の突端に立つ貴方の手が、そっと二の腕に触れた。 

心の臓がコトリと動く。  


(北条が……)

(え……?)

(北条が、あんなに近いんじゃな……)

(この海は、里見のものじゃ。 だから北条は絶対に海を渡れん)

(千代はもう、何処にも逃げなくて良いのか?)

(何処にも。 此処が、千代姫の家じゃ)

(嘘……)

(嘘じゃ無い!  里見は、必ず千代姫をお護りする)

(ならば…… 何故、早う千代を太郎殿の嫁にしてくれぬ)

(其れは……)

(……嫌いじゃ。 里見も…… 太郎殿も……)


還俗して下総小弓に公方館を構えた義明は、水を得た魚のように精力的に動いた。 

此れに危惧を抱いた北条は、義明討伐の兵を糾合し、両雄は遂に下総国府台で激突した。 緒戦では勇猛果敢な戦い振りで、北条を大いに慌てさせた義明だったが、血気に逸る余り敵軍に孤立。 奮戦空しく、義明は戦場に散った。

関東に新しい秩序を打ち立てんとする、彼の夢はこうして幕を閉じたのである。 

敗北の知らせを受け、公方館に残っていた御家人達は、女子供を囲むように隊列を組んで必死の脱出を図った。

北条の掃討は執拗で、惨たらしいものだったと云う。 

弟の手を引き、僅かな家人と共に安房へ落ち延びて来た日以来、嘗て力強い光を湛えていた貴方の瞳には、余人を寄せ付けない陰が差すようになった。

足利義明の死が変えたのは、関東の勢力図だけでは無い。

貴方を見る、周囲の視線をも変えてしまっていた。

迎えたのでは無い。 拾ってやったのだ、と。

世嗣の許嫁から、零落した権威の遺孤へ。

(それは…… 千代が公方の娘だから?)

遠い日に聞いた、貴方の言葉。 

そんな貴方の憂いを、不安を。 孤独を……

果たして俺は、本当に受け止めていたのだろうか?



朝の勤行を終えた若い尼僧は、明け切らぬ空を見ながら大きく欠伸をした。 

尼寺の朝は早い。 寅一刻には盤木が打たれる。 

この寺で剃髪して二年。 水汲みや薪割りなどの力仕事は、元々苦にならない。 最近では読経も随分板についてきた。 しかし、辛い朝だけは変わらなかった。 

遊女屋に売られたのは、未だ十を少し超えたばかりの頃だった。

事情も判らないまま、人買いの手に引かれて足を踏み入れた、鎌倉の町。 

ぶつかり合うように、沢山の人が行き来する町の活気に圧倒された。 でも、こんなに人がいるのに…… 誰もあたしの事は知らない。 誰も気にしない。 あたしが生まれ育った東北の寒村とは、何もかも違っていた。

人の波を掻き分けるように、連れて行かれた堀端の屋敷。  

看板が掛かっている訳でも無い。 しかしその異質な佇まいが、こっそりあたしに耳打ちしてくれた。 

お前さんはな…… 売られたのだよ、と。

その表情は、貧しさから娘を売った家を遠巻きに眺めて額を寄せ合う、故郷の村人達のそれに似ていた。 

深刻そうで、しかし何処と無く嬉々として。 

真っ赤に塗られた格子と欄干。 厚い化粧と、派手な打掛で飾り立てられた女達。 酒と香が混ざった、むんっとする匂い。 割れた裾から覗く白い足。襖の向こうから聞こえる、獣のような息遣い。

其処は毒々しい色彩と、濃密な淫臭で溢れた世界だった。

  

其処には、たきと云う上がりの女がいた。  

上がりとは、年を取ったりして遊女として売り物にならなくなった女を指す。 大体は屋敷を出て夜発(やほつ)(私娼)になるか、たきのよう館に留まって下働きをするのが常だった。 

ただ、たきは年を取ったから上がりになった訳では無かった。 

随分前に、客を巡って同じ女郎との喧嘩で疵を負った所為である。 

左目尻から頬にかけて、赤黒く大きく盛り上がった裂傷。

薪で顔を撲られ、ぺろりと顔の皮が捲れたのだそうだ。

その当時は美しかったのだろう。  その面影は有った。

美しい色白の肌だからこそ、その疵は否が応にも目立った。

(ちくしょう!)  

女郎になる前に下働きとして働く娘達の頭を、たきは気分次第でよく撲り付け、身体中を踏み付けた。 その中でも、あたしは特に目を付けられたものだ。 

(ちくしょう!) 山猿と罵られ、毎日のように撲られた。

それでも、たきはあたしの顔だけは決して殴ろうとはしなかった。

恐らく女将にきつく釘を刺されていたのだろう。

売り物に疵を付けるな、と。  

やがてあたしは遊女となり、男を知った。 

なんだ、こんなものか。 最初は痛みだけ。 馴れてしまえば如何と云う事は無い。 何の快感も、高揚も無い。 

それでも不思議と客は付いた。 すると、あたしに対するたきの態度が変わった。 決して怒らず、上目遣いであれこれと機嫌を取ろうとする。 

その卑屈さが、あたしの心の隅にある黒い何かに火を付けた。 

そしてそれ以来、あたしは事在る毎にたきを殴り付けるようになった。   

或る日、打掛が用意されていない事にかっとなったあたしは、化粧箱の角でたきの顔面を思い切り打ち据えた。 

唇が破れて前歯が飛び、たきがもんどりうって倒れた。 

口と鼻から夥しい血が流れた。

如何した? ちくしょうと云って見ろ。 

前のように。  

お前はもう、あたしに指一本触れられやしない。 

でも、あたしはこうやってお前を…… 身体と云わず顔と云わず、思うさま打ち据える事が出来るんだ。 

あぁと呻いて、伸ばした両手で顔を庇おうとするたきの上から、あたしは何度も何度も化粧箱を振り下ろした。 

何故だか判るか?  

それはお前が…… 疵物だから。  

たきは血が滴り落ちる顔面を床に擦り付けて懸命に詫びた。 

床に爪を立てて震える指先が、やけに細く見えた。 

其の頭を……  あたしは上から思い切り踏み付けた。 

ぐしゃりと云う、厭な音が聞こえた。


たきの様子がおかしくなったのは、それから暫く経ってからの事だった。 虚ろな眼で、ぶつぶつと独り言を云っているかと思えば、ニヤニヤ笑ったりする。 

気味が悪かった。 

抑え難い嫌悪の情が、凶具となって益々彼女に向けられた。  

次の日も、次の日も。

たきはどす黒く腫れ上がった顔で詫び続け、そしてあたしは……

理由も無く殴り付ける理不尽さに酔いしれた。

そして或る日。 屋敷からぼやが出た。

数日後、番屋詰めの同心に捕らえられたのはたきだった。 

火付けは重罪。 極刑は免れない。 後ろ手に縛られたたきが、屈強な男達に囲まれて館を出て行く。

風に煽られた解れ髪が、腫れ上がった頬を弄っていた。


その日以来、何と無く塞ぎ込む日が多くなった。 

何か大きな硬い石塊が喉につっかえているように、鬱々として気持ちが晴れない。 しかしそれでも客は来る。 あたしは流されるままに客を取り、やがて誰の子かも判らない命を宿した。 

最後の客が帰った後、上がりの老婆があたしの部屋に来るようになったのは、それから暫くの事であった。  

その老婆が肉厚の砧で腹を叩く。 まるで籾殻でも叩くように。

ぼくぼく。 

ぼくぼく。  

生身の腹に打ち付けられる衝撃に身体が捩れ、呻き声が漏れる。

汗だくでのたうつあたしと、見下ろす老婆の乾いた眼。 

それでも子が流れず、いよいよ腹が膨らんでくると、今度は屋敷の階段に立たなければならない。

自ら飛び降りて、腹の子を流す為。 

その光景は、あたしが屋敷に入った当初から度々眼にしていた。 

けたたましい音を立てて階段を転がり落ちる時、遊女は決まって腹を両手で抱える。 身籠った命を殺そうとしている筈の女達が、無意識にそれを守ろうとするのだ。 

滑稽でもあり、物悲しくもあった。 

それを、このあたしが…… 

じわりと臓腑の襞から滲み出た恐怖が、忽ち奔流となって胸に迫った。 

あたしも、此処から飛ぶ。 飛んで、この子を殺す。

”厭だ。” 心が、壊れようとしていた。

”厭だ……”

その夜。 あたしは屋敷を抜け出した。

人目を避けるように分け入った山の中。 どれほど歩いたのかも判らない。 やがて、木立の向こうに小さな灯りが見えた。

其処は尼寺だった。 

その門を、あたしは力の限り叩き続けた。


結局、生まれた子供は死産だった。 男の子だった。 

その子の為に、庵主様は位牌まで作って弔ってくれた。

庵主様は全く口を利けず、耳も聞こえない。 しかしあたしは忽ち彼女に魅了された。 言葉など交わさずとも、その穏やかな笑顔を見るだけで幸せを感じる事が出来る。 

その差し伸べられる慈愛によって、少しづつ変わっていく自分を実感出来るのだ。 死んでいた筈の感情が、鼓動し始めている。 

獄裡に繋がれていた心が、解き放たれようとしていた。 

全ては、庵主様のお導きによって。

あたしは漸く、終の棲家を見付けられたような気がした。 だからこそ、一つの不安が頭から離れなかった。

やがて、その恐れていた事が現実となった。 

或る日、遊女屋の亭主が奉行所の連中を引き連れ、寺にやって来たのである。 男子禁制の戒律などお構いなしに、境内へ足を踏み入れた彼等によって、あたしは問答無用に寺から引き摺り出された。

(うちはね、そんじょそこいらの遊女屋とは訳が違うんだ) 

何とかと云う、偉いお武家様が後ろ盾になっている。 昔、女将がそう良く吹聴していた。 だからどんな客だって狼藉は出来やしないし、お前達も逃げようなんて努々思わない方が身の為だ、と。  

しかしその目論見通りに事は運ばなかった。 庵主様の後ろには、遊女屋と袖の下で繋がっている奉行所の役人など、尻尾を巻いて逃げ出すような大身が控えていたからである。

何度か取次をした、あの御仁。 

北条綱成様がこの鎌倉を治める領主であると知ったのは、随分後になってからの事だ。 

お陰で何の咎も受けず寺に戻されたあたしは、以前にも増して庵主様を慕い、仏の教えを熱心に学ぶようになった。 

そんなあたしを、庵主様は月に一度托鉢に連れて行って下さる。

脚絆を巻いて饅頭笠を被り、丸々一日掛けて家々を廻るのだ。 

昼餉は食べられないし、ずっと歩き詰め。 其れでもあたしは、其の日が待ち遠しくてならなかった。

庵主様は道々、色々な話をして下さる。 小さな木片に消し炭で書かれた文字は、嫋やかな調べとなって心に染み渡り、云いようの無い充足感に包まれるのだ。  

空桶を二つ手に取った若い尼僧は、朝露に光る玉砂利に足を踏み入れた。 井戸から見える鐘楼の傍らに、無縁仏を供養する小さな祠がある。 其処に向かう、すらりとした一人の尼僧の姿。 少し右足を引き摺っている。

(庵主様だ!) 

若い尼僧の顔に、零れるような笑みが浮かんだ。



玉縄城内に設けられた堂宇。

其処に安置されている八幡大菩薩像が、一人座禅を組む北条綱成を見下ろしている。

月に一度参詣する鶴岡八幡宮の本堂にあるのは武人の像だが、此処にあるのは僧形である。

八幡大菩薩は、綱成が生まれた福島家の守り本尊である。 その昔、父も熱心に拝んでいたものだ。

掌中にあった筈の捷利が、梶原景宗の抜け駆けによって水泡に帰した。 上陸した軍勢は無傷であったものの、輸送船団は突如として里見に転じた安房海賊によって壊滅状態に陥った。

軍を収めて帰還した綱成に、何故あのまま久留里に踏み止まらなかったのだと、声高に非難する者達もいた。

その急先鋒が江戸城主、富永直勝であった。 直勝は三浦党を含む北条水軍を統括する任にある。

恐らく景宗の抜け駆けによって自らに降り掛かるかも知れない火の粉を、無傷の軍を撤収させた綱成の責任を問う事で相殺しようとしたのだろう。

払拭出来ない心理的圧迫は、一つの躓きによって統制の瓦解を誘発するものだ。 突如として補給路と同時に退路まで失った綱成には、そのまま戦場に留まると云う選択肢は無かった。 それは、今でも正しい決断だと思っている。 しかし敢えて、景宗の処遇には口を挟まなかった。 

景宗に下された沙汰は切腹では無く、蟄居であった。

正直失望はしたが、予想もしていた。

良くも悪くも、それが北条なのである。

一門衆や御由緒家に代表される譜代衆が、盤石の重みを持つ故に、その力関係によって恩賞や沙汰に濃淡が生じる。

富永直勝は北条幻庵の一派に属する。 

幻庵は氏康の叔父に当たり、家中で隠然たる影響力を持つ。 今回の甘い沙汰も、恐らくは幻庵の口添えがあったからなのだろう。

だからこそ、綱成は責任を糾弾する声に対して、一切の抗弁もしなかった。

この北条に根を持たぬ自分が、周囲に如何見られているか?

氏康から厚遇されればされる程、綱成は常に自問し続けていた。

家中だけでは無い。

自分には妻がいる。 北条家の前当主、氏綱の娘。

妻としても彼女の存在は、氏綱が見積もった自分への評価であり、北条家中枢の座を約束される手形でもあった。

そしてその事は、妻も十分に承知していた。

お前様は、私のお陰で幸運を掴んだのだ。 言動の節々に、そんな念を含ませる。 だからと云って、特段気に障る事は無かった。

彼女は確かに出世の扉を開き、二人の男子を含む四人の子を授けてくれた。 何の不足や不満があろう。

だから側室も取らなかった。 元々女に執着があった訳では無いし、先代は既に亡くなっているとは云っても、妻は当主氏康の妹である。

ぞんざいな扱いは、構えて慎まねばならぬ。

どれ程の高みにあっても、転げ落ちる時は一瞬。

それは父が教えてくれた。


「殿。」 呼ばれた声に目を開ければ、気の早い冬の夕暮れが堂宇の中に忍び込んでいた。

格子窓の向こうに警護の組頭が控えている。

「何だ?」

「ご舎弟様が小田原よりお越しにございます。」

「何、勝広が?」

綱成の実弟、福島勝広は氏康の母衣衆を務めている。

本来ならば警護の為、氏康の側に控えているべき彼が玉縄へ来たと云う事は、恐らく氏康からの主命を携えているのだろう。


天守の書院で対面した勝広は、暫く見ない間に若武者特有の角が取れ、凛とした威が備わり始めているように見受けられた。

お互い手を取り合って今川から逃れてきた勝広も、今や母衣衆の筆頭である。

彫りが深い顔立ちに、柔らかい光を湛えた双眸。 涼やかな、すらっと伸びた顎の輪郭。 しかしその優男然とした容貌とは裏腹に、河越の戦では何度も敵陣を突破するなど、激しい気性も内に秘めている。

聡明でありながら、才に溺れず、勇ありながら慎重。

将としての素質も申し分無い。

今では氏康の寵愛を最も受ける側近であった。

「お屋形様の言伝を預かっております。」

挨拶もそこそこに切り出した、勝広の顔が傍目から見ても強張っているのが判る。

(何か、良からぬ事でもあったか)

心に差した不安を見せず、綱成は黙って頷いた。

しかし内容は、既に綱成も聞いていた話だった。

今川家との縁組が、愈々来年早々執り行われる事。 その誓紙を取り交わす為、近々今川から使者が遣わされる事。

その後に続いた話に綱成は耳を疑った。

「何と……」 思わず声が漏れた。

「寿桂尼が?」

「はい。 今川からの書状によると、寿桂尼が使者として参られるとの事でした。」

寿桂尼は今川家当主である義元の母にして、三代の当主を支えてきた今川の柱石である。 その影響力は義元をも凌ぐ。

その寿桂尼が、齢七十にして態々使者として小田原に赴く事など、考えも及ばない事だった。 噂される上洛戦に向けた、彼女の並々ならない覚悟が窺えた。

勝広が一拍置いて話を続けた。

「兄者には…… 国境(くにざかい)から小田原までの道中、寿桂尼様を確りお護りせよとの仰せにござります。」

辞を低くして拝命する綱成の心の中に、何か苦いものがぽとりと落ちて滲んだ。



天文二十三年(一五五四年)、二月。

汐入川を隔てて隊列を組む安房の土豪、神余(かなまり)修理大夫の軍勢。 

里見義弘は弓隊二百を前面に出した。  

号令と共に、矢が唸りを上げて敵陣に吸い込まれていく。

同時に正木信茂率いる五十の騎馬隊が、迂回するように川を渡る。

幅十五間、深さは膝くらいまでしか無い小さな川だ。  

水牛の角を模した金箔押しの脇立と、漆黒の具足。 六尺を超える信茂の巨体が一際眼を引く。

残寒厳しい底冷えのする早暁。 凍て付いた一葦の水が、馬蹄に跳ね上げられて光の珠となる。 

川を渡った信茂が騎馬を二つに分けた。 一手はこのまま川筋を真っ直ぐ、敵側面へ。 もう一手は後方へ馬首を巡らす。

敵の指揮に一瞬迷いが生じたのか、隊伍が僅かに乱れた。

信茂が千鳥十文字槍を前方に向けた。 

“突っ込めぃ!” 信茂の大音声が、早暁の川辺に響く。 

音を立てて敵陣が二つに割れる。 

其の時を見逃さず、馬上の義弘がすらりと太刀を抜く。

「全軍突撃!」

おう!と云う地鳴りのような声と共に、徒が川へ殺到した。 

此れで勝負は決した。  

散り散りになる敵には目もくれず、義弘は全軍を修理大夫の館へ向かわせると、敗残の兵と共に館に籠っていた修理大夫は、最早此処までと、妻と未だ僅か五歳の嫡男の胸を鎧通しで突き刺し、自刃を遂げたのである。


「全く…… 胸糞悪い。」 

修理大夫の頸桶を見ながら、信茂が吐き捨てた。

今年二十になる信茂は正木時茂の嫡男で、二年前義弘の妹種姫を正室に迎えていた。

「海賊どもの歓心を買う為に、此処までしなけりゃならんとは……全く、義父(おやじ)殿は呆けたとしか思えんわい!」

周りにいる兵の耳など一向に気にする素振りも無く、そんな辛辣な言葉を口にする。 

「おい、平七。口が過ぎるぞ。」

諫めた義弘に、信茂は口を尖らせた。

「本当の事を云って何が悪い。 大体、修理大夫殿は共に北条と戦ってきた味方だろうが! 己の身を削り、血を流して貫いてきた信義の成れの果てが、あれかと思うと遣り切れぬわ!」 

そう云って頸桶を指した信茂は、兵達を押し退けるように館を飛び出て行った。

前年の北条来襲の際、一旦は中立に立っていた安房海賊衆が、突如北条軍へ夜襲を敢行した事で、里見は危機を脱した。

海賊衆の突然の転向は、父が提示した条件によって齎された。 彼等が根城とする内房の湊に隣接する村々について、その領有を認めたのである。 当然、所領の一部を割譲しなければならない土豪達の反発は相当なもので、中には神余修理大夫のように蜂起する者も少なく無かった。

義弘とて彼等の不満は十分に理解出来た。 しかし、近年水軍戦力の充実が目覚しい北条との戦いに於て、海賊衆の協力が不可欠である事は先の戦で証明されている。 

忸怩たる思いは、父とて同じの筈。 

目の前に置かれた、檜の頸桶。 彼の事は義弘も良く知っていた。

戦で見せる剛勇さとは裏腹に、普段は温厚で子煩悩な武人だった。待望の嫡男が生まれ、義堯から大層なお祝い品を頂戴したと、山のような返礼を携えて久留里を訪れた時の彼の笑顔が目に浮かぶ。

此れも…… 北条と云う巨大な敵に立ち向かう上で、避けては通れぬ痛みなのだろうか? 

ならば…… 受け止めるしか無いではないか。

義弘は頸桶に手を合わせ、ゆっくりと頭を垂れた。


この年、古い権威の形骸化を決定付ける一つの事件が起こった。

河越の夜戦での敗北以降、北条の影響下に置かれていた古河公方、足利晴氏が反旗を翻したのである。

正室と離縁させられ、その座に収まった北条氏康の妹が男子を設けると晴氏の嗣子であった藤氏が廃嫡された。 頭を散々小突き回された末の、捨て身の決断だった。

しかし古河城内には北条の目も耳も在る。 極秘裏に練られていた筈の企ては、事が動き出す前に露見。 氏康の命により古河城へ急行した富永直勝が率いる三千の軍勢の前に、晴氏は為す術無く降伏した。 

そして晴氏は囚われの身となり、共に企てを図っていた藤氏は城を落ちて影を隠したのである。



初夏の夕暮れは、黄金色に染まった海面に揺蕩(たゆた)い、水平線の向こうへ立ち去る気配も無い。

楢と杉が混在する木立を通して、風が運んで来る潮の香りを大きく吸い込むと、臓腑にまで染み込んでいた疲労や鬱気が、ゆっくりと洗い流されていくような気がした。  

膳の水菜に箸を伸ばす。 

サッと湯通しして、少量の練り味噌が添えてある。 パリパリとした小気味良い食感の後、口中に拡がる控え目な苦味と味噌の濃厚な味わい。 ゆっくりと咀嚼して、それをよく冷えた水で胃の中に流し込む。 舌を鳴らして思わず旨い、と声を上げると、青岳尼がにこりと微笑んだ。 

「水菜は苦いだけのものと思うておったが、これならば幾らでも食べられそうじゃ。」

(茹でる前に軽く塩揉みをすると、苦味が薄まります)

「成る程、こう云う食べ方もあるんですのう。 昔、儂が未だ今川におった頃、籠城戦がありましてな…… 」

遠江の土方城。 今では高天神城と名を変えているが、当時、今川家の重臣であった父、福島正成が居城としていた。

「何しろ急な戦だったもので、城内には蓄えも無い。 唯、下小笠川と云う川から城内に水を引いていた所為か、其処此処に水菜が生えておった。」

自分が今川にいた頃の話を青岳尼にするのは初めてだった。

それは恐らく、初めて寿桂尼を見てしまったからなのだろう。

二百を超える随員を従えた駕籠の中から、超然と睥睨する一人の尼僧。

封印されていた、過去との邂逅。 

「米が底を突くと、毎日茹でた水菜ばかり食べておりました。 

ところが味噌も無ければ、醤も無い。 苦いばかりで、ちいとも美味しく無いのですな。あの時のひもじさは、今でも忘れられぬ。」

身動ぎもせず話を聞く青岳尼の睫が、微かに揺れた。

「あれからもう……三十年、か。 道理で儂も年を取る筈じゃ。」

綱成が、今川から逃れなければならなかった理由。 

今川が割れた日の出来事は、彼女も当然知っていよう。


その騒乱の中心に、寿桂尼がいた。

京の名門公家、中御門家の出でありながら、周囲を田舎者と蔑む事も無く、奥に篭もって侍女に傅かれる事も無く、仮令下っ端の兵卒であっても、戦で夫を失った寡婦あれば此れを慰め、見舞いの品を届けさせたと云う。 そんな彼女を今川家中の者は皆、万感の親しみを篭めて大方様と呼ぶ。

しかし表層を照らす光が眩ければ眩いほど、その裏に穿たれる陰影が濃くなるように、彼女には全く異なる別の一面もあった。

寿桂尼の長子であり、英明と謳われていた今川家当主、氏輝が病により夭折した日。 後継と目されていた次男を、寿桂尼の手の者達が強殺したのである。 

そして時を置かず、彼女は当時僧籍に入っていた庶子、義元を還俗させて家督を継がせた。

実子を殺し、庶子に家督を継がせた理由。

それは、寿桂尼が次男の背後に北条の影を見ていたからであろう。

北条家の祖、早雲は元々今川家の客将。 両家の結びつきは浅からぬものがある。

何度か小田原にも足を運んでいた次男は、北条氏綱からその才を大いに買われ、まるで我が子のように可愛がられていた。 一方、若くして父を失っていた彼も氏綱を父のように慕い、傾倒するようになっていた。 

若さ故の直情径行が先に立つ彼は、氏綱の評価に対して余りに無防備で、実母の視線に対して余りに無頓着だったのかも知れない。

寿桂尼は代替わりの混乱に乗じて、彼女が感じた影の一掃を図る。 真っ先にその標的となったのが、次男の側近として家中でも重きを置かれた父、正成であった。 

北条との謂れの無い密通を糾弾する寿桂尼は、一切の弁明も許さず、父の切腹と転封を迫った。 こうして父は、追い詰められるように兵を挙げたのである。 

しかし予め行動を想定していた今川軍の動きは早く、此れまでと悟った父は城兵の助命を条件に切腹。

しかし約定は反故にされ、城内に雪崩れ込んだ今川軍により城内に残る者は全て、撫で斬りにされたのである。

土方城を落としても尚、寿桂尼はまるで血に飢えた餓狼のように、福島家の系譜に連なる国人排除の手を緩めなかった。 恩賞を餌に陣営を分断し、狙った獲物を一つ一つ的に掛けていく手法は緻密で大胆。 本当にこれが仏に仕える女のやり方か、と思える程の鮮やかさと狡猾さであった。 

中には挙兵に及ぶ者達もいたが、その悉くが憤怒の中で命を散らした。 残党狩りは峻烈。 見るに堪えない程、惨たらしいものだったと聞く。 妻子は云うに及ばず、まるで根絶やしにせんとばかりに一族郎党も悉く皆殺しにされた。

今川館の在る駿府の西を流れる安倍川の河原に刑場が在った。 

その死臭は五町先まで漂い、屍を啄む烏が連日空を覆ったと云う。

(出迎え大儀である) 国境で謁見した綱成に対し、駕籠に乗ったままの寿桂尼は小さな笑みを浮かべながら一言、そう労った。

当然、此方の素性は承知済みの筈だが、心の機微は全く伺わせなかった。

まるで自分の心に凝結した拭い難い過去を、ぞんざいに箒で払われたような気がした。


(少し…… お伺いして宜しいでしょうか?)

「何なりと。」

(此度今川が北条家との輿入れを望んだのは上洛の為と聞き及んでおりますが、それはまことでありましょうか?)

「左様。 上洛は寿桂尼の悲願。 当家ばかりか、甲斐の武田とも縁戚を結んだ今川に後顧の憂いは無い。 恐らくは総力を挙げて西へ向かうでしょうな。」

(上洛は叶うとお思いですか?)

綱成は京までの途上で今川とぶつかるであろう大名を、頭の中で挙げていった。 

「まあ…… 口惜しくはあるが、左程難儀な事ではあるまい。」

(若し今川の入京が成就した時、この世の戦乱は収まりましょうか?)

「それは無い。」 綱成が言下に否定した。

「恐らく寿桂尼の腹積もりは、三好によって京を追われている将軍足利義輝を廃し、御一家としての家格を以って今川が取って代わる積りなのであろうが…… それでこの世は到底収まらぬ。」

青岳尼が小さく息を吸い込んだ。 法衣の襟から覗く白い喉元がことりと動く。

「かのお方の望みは天下を束ねる事では無く、己が膝下に組み伏せる事。 そのような修羅の心がある限り、数多の無用な血が流され、怨声が雲を焦がす世となる。」

風が、出てきた。   

ひやりとするような、冷たい風だ。 夕闇が近付いている。

閉門の時刻を知らせる鐘の音。

(恨まれておりますか?)

「寿桂尼殿を、でござるか?」 青岳尼が頷く。

城から落ちよと言い残し、汚名を背負い自死した父の無念。 

立ち尽くして見送る、母の孤影。

「いや……」 綱成は頸を振った。 

「それに、もう昔の話じゃ。 寿桂尼殿は義元の親政の為、そして何より今川の為、鬼になられた。 簡単な事では無い。 今のお屋形様を見れば、それが良く判る。」  

戦で苦しむ民を思い、泪を流す。 或いは、奸智を巡らし、罪無き者達を陥れて殺戮を敢行する。 

寿桂尼にとって、そのいずれにも偽りは無かった。 今だからこそ、そう思える。

青岳尼は立ち上がり、障子に手を掛けた。

庭からは、木立を抜けて海を望む事が出来る。

彼女は暫くの間、じっと海を見ていた。

黒い法衣に縁取られた柔らかな曲線。 風に乗って、仄かに甘い香りが鼻孔を擽る。 

女の…… 匂いだ。

いっそ此のまま抱き竦めて、己がものにしてみたら…… 

影のようにすっと入り込んだ情動が、綱成の耳許で囁く。

「青岳尼殿は、おありか?」 微かに語尾が掠れた。

「儂には見えぬ…… 例えば、鬼にもなれる青岳尼殿が……?」

カタン、と障子が閉められた。 

部屋の隅に蹲っていた闇が、そろりと足を伸ばす。

躊躇う筆先。 やがて、堰を切ったように言葉が余白を埋めていった。

(人には負わされた業が有り、この世は不条理で満ち満ちております。 しかし、業に抗えば新たな業を生み、不条理を退けようとすれば、また違う不条理を招く事となりましょう。 たとえ鬼になろうとも仏になろうとも、其処から何人(なんぴと)たりとも逃れられませぬ)

肯定なのか、否定なのか?  

彼女はそれ以上、応えようとはしなかった。

はぐらかされた。 そんな気がした。 



侍烏帽子に山吹色の素襖を纏って、上座に座る一人の男。

亡き父、足利義明から公方職を正式に継承した頼純が、義弘の弟堯次の酌を受けている。 堯次は本日より頼純の近習筆頭として仕える身となる。 それは彼自身も強く望んだ事だった。

堯次は温厚篤実。 智も有り、勇も有る。 武将の資質は兄の眼から見ても申し分無い。 彼ならば頼純を良く盛り立ててくれるだろう。

しかし父は、堯次の起用について最後まで渋っていたようだ。

父の心中は手に取るように判っている。 堯次を手許に置いておきたかったのだろう。

父には寵愛する側室がいる。 元安房の宮司の娘で、絶世の美女と謳われたその側室は、齢四十を超えても尚、妖艶な色香を漂わせている。 その所為なのか、父は兄弟の中でも彼女の一粒種、堯次を殊の外可愛がった。 

お屋形様は正室が生んだ嫡男では無く、側室の子を跡継ぎに据える積りでは? 家中には真剣にそんな声もあった程だ。 かと云って兄弟仲が悪かった訳では無い。 寧ろ兄弟の中では、堯次と一番馬が合う。

そんな彼が頼純の片腕となってくれる事は、義弘にとっても心強い限りだった。

堯次が上座から離れると、待ち兼ねたように座の者達が入れ替わり立ち替わり、提子を持って頼純の前に列をなした。 頼純はその一人一人の酌を受け、丁寧に声を掛けている。

(御所様も酒が強くなられたものだ)

姉の千代姫と共に、彼が安房へ落ちて来たのは未だ四つの時。 

その当時の千代姫にあったのが索漠とした暗さだとしたら、彼には塗り固められた怯えのようなものが付き纏っていた。 

徐々に変わり始めたのは、同年代の義弘と正木信茂が御供衆として頼純に付くようになってからであった。 

義弘は頼純よりも四つ上。 信茂は同い年である。

その彼が今日、安房公方として正式に父義明の遺業を継ぐ。

しかし彼の周囲に対する物腰には、未だに遠慮が先に立つ所があった。 それを弱さと取る者達の中には、彼に対して露骨に軽んずる態度を取る者もいる。 それを改めさせるのは、此れからの彼自身の行動に懸かっている。

彼ならば必ず出来る。 義弘はそう確信していた。


「太郎。 如何した?」 徳利を片手にやって来た土岐為頼が、顔を顰めた。 大分酒が過ぎているのだろう。 少し足許が覚束ない。 

彼の娘は義堯の正室であり、義弘にとっては姻戚上の祖父に当たる。 初老に差し掛かっているとは云え、がっしりとした体躯と脂ぎった厳つい容貌には、幾多の戦場を駆け抜けてきた者だけが持つ風格が醸し出されていた。

「酒が進まぬようじゃな。 何ぞ、あったか?」

「いえ…… 何も。」 酒を受けながら口を濁す義弘を見て、為頼は舌打ちをした。

「ならば、もうちっと座を盛り上げたらどうじゃ? 御所様の晴れの日じゃと云うに、里見の跡取りのお前が隅っこで辛気臭そうな顔をしては、皆の尻も温まらぬわ。」

どやし付けられるように前に進み出た義弘を見て、頼純が安心したように相好を崩した。

「何だか・・・ どうにも落ち着かぬ。”

「何の。 傍から拝見しておりましたが、堂々たるお姿。 亡き義明公も、さぞお慶びでござりましょう。」 

「それはどうかな・・・」 頼純が苦笑いを浮かべた。

「恐らく父上は、お前に棟梁など務まるものか、と嗤っておられよう。」

「御所様……」

「自分の弱さは…… 自分が良く知っている。」 

威勢の良い言葉が飛び交う座を一瞥しながら、頼純が盃を置いた。

「今更、それを恥じる積りも無い。 どうあっても、私は父にはなれぬ。 私は…… 私なのだからな。」

義弘は黙って頷いた。

誰かが戯言を飛ばしたのか、座の後方では若い郎党の間からどっと歓声が上がった。 その輪の中心では、諸肌脱ぎの正木信茂が赤ら顔で手を叩いている。

気が付けば、あの降伏勧告の一件以来、久留里への出入りを禁じられている筈の日我までも、ちゃっかり列席して痛飲している。

十万石に満たない里見家が公家を戴いた。 笑顔が弾ける座には、そんな高揚が溢れていた。

「皆、私が公方になった事を喜んでくれている。」 

自分が吐露した言葉を、そっと掌に載せて眺めるような、そんな語り口だった。

「こんな私をこうやって支えてくれる皆の為に、何が出来るか? この身を捨てて、その答えを出そうと思う。」

義弘の心に何かが灯され、じわりと熱いものが胸に拡がっていく。

「今日、この日を以って……」 義弘の胸を満たしたその熱い何かが、言葉となって口を衝いた。

「安房は、一つになり申した。 何人(なんぴと)も虐げられず。 何人も奪われず。 何人からも侵されない。 そんな国を創る為に。 

そして御所様には、弓矢で束ねられぬ人の心を束ねて頂きたい。」

「出来るかな? 私に……」

「御所様でなければ……」

薄く朱が差した頼純の顔が緩み、そして笑みが零れた。



先の安房侵攻から間もなく、北条は甲斐の武田から姫を娶った。 こうして北条と武田、それに今川は婚姻を通じて盟約を結んだ。 所謂甲相駿の三国同盟である。

これにより今後、北条は安房攻めに専念出来るようになった。

北条の動員可能な兵力は、およそ四万。 単独で此れと四つに組める関東の大名はいない。 反北条勢力を結集したとしても難しいだろう。 里見が北条と対抗する為には、強力な後ろ盾が必要とされた。

意中の大名が居ない訳では無い。

越後の長尾景虎。 彼は北条によって関東を追われていた管領上杉憲政を庇護しており、既に北条討伐も公言していた。 しかしその一方で、景虎は武田に蚕食されつつある北信濃の豪族達の要請により、武田信玄と信濃川中島で泥沼の抗争を繰り広げている。 

つまり景虎の身一つを挟み、北信と関東で手を引っ張り合っている構図であった。 越山を請う里見からの使者に対しても、今のところ景虎から明確な返答は無い。

果たして景虎は、本当に越山するのか?

焦燥と不安が募る中、北条が再び安房侵攻に向けて動き出した。



貴方は、憶えているのだろうか?

裸足で歩く、茫漠たる原野。 ゴツゴツとした石礫を踏む、生々しい感触。 

それでも不思議と痛みは感じない。

冥界への扉が開くように低い雲が割れ、垂れ込む漆黒の闇。

夢か現か? 何処からか聞こえる、くぐもった太く低い声。 

唸りとも呻きともつかない、臓腑を震わすような厭な声だ。

死霊の呪詛か、或いは魍魎の誘いか……?

急いている筈の足許が覚束無い。 

地を満たしつつある、この無間の闇に身体が溶けていこうとしている。

為す術も無く、俺と云う存在が塗り潰されようとしていた。

もう…… 歩けない。 

このまま、身を委ねて楽になってしまえ。

もう一人の自分が、そう耳許で囁いた。

しかし…… 何かが引き止めようとしている。 俺の中の何かが、懸命に奮い立たせようとしている。

……そうだ。 この、左手に感じる温もり。

心許無く、消え入りそうな存在の中で、この左手だけが堅牢な意志を宿している。

そしてその温もりに導かれるように、俺は目を覚ましたのだ。

其処には俺の手を握ったまま、褥の傍らで小さな寝息を立てている貴方がいた。 

息遣いに併せて、微かに上下する萌黄色の小袖。 うっすらと汗ばんだ掌。

白い項に掛かった髪にそっと触れると、貴方の睫が微かに揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。


(千代姫…… ずっと、此処にいてくれたのか?)

(……)

(水を、くれないか? 喉が、からからだ……)

(夢を…… 見ていました)

(どんな夢を?)

(見覚えは無いのに、何故かひどく懐かしい、そんな浜辺・・・ 子供たちがいました。 暗い海に浮かぶ、たくさんの舟の中から、身を乗り出して…… 泣いている。

浜には親達がいて、何故だか皆笑っている。 舟はどんどん、海の向こうへ流されていくのに…… 

手を伸ばして、泣きじゃくる子供達を見ながら、晴れ晴れとした顔をして、手を振ってるの……)


里見家にとって、麻疹は呪われた病。 父はその昔、二人の兄弟を幼くして失っていた。 

その麻疹に罹った俺は、同時に肺病まで患い、五日間死線を彷徨っていた。

貴方が病床に姿を見せたのは、俺が死線を彷徨うようになって直ぐの事だった。 休むように勧める周囲の声にも耳を貸さず、露骨に煙たがるような母や親族の視線にも臆する事無く、貴方は枕頭を離れなかったと云う。

北条によって小弓公方が滅ぼされた事で、当り前のように二人の縁組の話は解消されていた。

それまで意識すらした事も無い、時代と云う禍々しい存在が二人を引き裂こうとしていた。

それなのに俺は…… 目を瞑り、耳を塞ごうとしている。 そんな己の弱さを運命として受け止めろ、と時代が急き立てている。 

そうして俺は、生まれて初めて絶望と云う痛みを知った。



天文二十四年の十一月。

北条は北条綱成を大将として、二度目の安房侵攻を敢行した。 

渡海する兵は一万五千。 これに呼応して、北条に与する上総の国人衆も安房の国境を越えた。 しかも安房海賊を除く、内房の海賊衆も陣営に引き入れている。 

一方、迎え撃つ里見勢は約四千。 圧倒的な戦力差に加え、先の戦で義堯が海賊に領地を割譲した事への反発も有り、安房国人衆の反応が鈍い。

綱成は先ず上総の国人、真里谷義信に北から久留里を圧迫するよう命じた。 それによって、大多喜城に拠る正木軍の動きを牽制出来る。

真里谷家は嘗て房総に広く勢力を張り、上総の諸勢力を束ねる程の名家であった。 しかしその後、後継を巡る内訌で家中が混乱。 それに乗じて実権を掌握したのが、筆頭家老の地位にあった義信だった。 当主を傀儡化して隠然たる力を内外に示しながら、着実に小弓公方陣営内での発言力を強めていった一方、その当時から里見とは反りが合わず、色々波風を立ててきた男でもある。

しかも下総国府台で足利義明が散り、河越の戦いで北条が捷利を収めると一転、北条と和議を結んで矛を里見に向けた。

それによって安房は殺戮の巷となり、数多の将兵が戦場に散った。 抗争は数年に及び、苦戦を強いられながらも正木時茂や時忠等の働きにより此れを漸く撃破。 義信は海を越えて北条へ逃れた。

その義信が、前当主の嫡男信高を推戴して再び房総の地を踏んだのは、先の安房侵攻戦の折であった。 以来、義信は真里谷城に拠り、上総での反里見の急先鋒として里見の伸張を阻み続けていた。

真里谷を動かす一方、北条軍は軍を二手に分け、水軍主力を館山の海賊領主安西勝広に当たらせ、本軍は佐貫城を目指した。

それに対して里見は軍を細かく分け、地の利を活かした奇襲戦で北条の出鼻を挫く態勢を敷いていた。 


森が懐に抱く深い闇の中で、義弘は前方に眼を凝らしていた。

地を踏む低い跫音。 峠に通ずる夜の山道を、真っ直ぐ此方に向かって来る軍勢。

七百…… 否、千を少し超えた程か。

雲が切れた月明りの下、カチャカチャと音を立てながら蠢動する具足の群れは、青白く光る眼下の道筋を忽ち呑み込んでいく。 その様は、恰も地の底から這い出て来た巨大な百足にも似ていた。

義弘の隣で下知を待つ小倉忠宗が、そっと顎の下の汗を拭った。

年は未だ十六。 今年近習に取り立てられたばかりの彼にとって、此れが初陣となる。 矢張り緊張しているのか、固く結んだ唇の先が小刻みに震えている。

忠宗は取り立てて利発な訳でも、武芸に秀でている訳でも無いが、少年特有の浮つきが無く、ひたむきで己を飾ろうとしない。

義弘は、この寡黙で不器用な若武者を気に入っていた。

夜襲を警戒しているのか、眼下の敵から哨戒を怠るなと伝令を飛ばす声が聞こえる。

眼の前を、真里谷の中軍が通り過ぎて行く。

真里谷義信。 

心に抱き続けてきた宿執が、ヒリヒリするような憤怒を呼び起こす。 里見家中の憎悪を一身に集める彼の名は、敵としてと云うよりも、仇として義弘の胸に深く刻まれていた。

義弘は噛ませた枚(ばい)を取って馬に跨った。 

関東に覇を唱えた嘗ての上総の梟雄が、北条の走狗として最後の幕を下ろす。 奴には、そんな死に方こそ相応しい。

「弓。」 低く声を発した義弘が右手を上げる。 

極限まで引き絞られた弓が、ギリギリと音を立てる。 

「放てぇ!」 義弘が右手を振り下ろした瞬間、弦から放たれた矢が闇を切り裂いた。  

眼下で湧き上がる怒号。 断末魔の絶叫。

冷え込んでいた空気が、忽ち熱を帯びる。  

「突っ込めい!」 

地を震わすような喚声と共に、三百の軍勢が急斜面の坂を一気に駈け下りた。  見る見る黒い影が迫る。 

先頭に立ったまま義弘は敵中に突入した。 義弘隊の勢いに、敵が大きく左右に揺れる。 ぴたりと寄り添うように、忠宗が七尺の長槍を携えて堂々の戦いを繰り広げている。  

やがて敵の小荷駄から火が上がった。 怯える馬達の嘶き。 

里見の騎馬が、闇夜の礫となって敵陣を縦横無尽に駈け回る。 敵の乱れが拡大する闇の中で、義弘の眼はただ一人の男を追っていた。

「義信! 義信は何処じゃ?!」

解き放たれた憤怒が全身を駆け巡る。

その時、一団となって逃走を図ろうとしている数人の騎馬武者を、義弘の眼の端が捉えた。

炎に浮かび上がる黄金色の前立てが、輪の中で見え隠れしている。

眦を決した義弘が馬腹を蹴り上げると、鬣を振るわせながら馬が更に脚を速めた。


泥に塗れた筒袖の肩口を、一匹の烏がしきりに啄んでいる。

篠突く雨を浴びたまま動かぬ瞳。 喉を掻き毟るかのように曲げられた両腕。

未だ若い。  少年と云って良い年だ。  僅かに開いた口。 

この少年の口から最後に漏れたのは、断末魔の呻きだったのだろうか? 或いは故郷で待つ、父や母への呼び掛けだったのか?

二の曲輪から尾根伝いに繋がる獅子曲輪。 その片隅に掘られた大きな穴に、戦で死んだ骸をまとめて埋葬していた。 

烏が羽音を立てて飛び立つ。  やがて荒い息を吐く二人の兵が、少年の骸の上に新たな骸を放り込んだ。

「兄者、此処でしたか。」 

里見義弘が振り返ると、弟の堯次が立っていた。

連日連夜の籠城戦で、顔に浮かぶ疲労の色が濃い。 

久留里城下をうねる小櫃川の曲流部に設けられた砦は、既に北条の手に落ちた。 其処から二の曲輪に向けて、北条の猛攻が続いていた。

「大多喜からの援軍は難しそうです。」

「まあ、そうだろうな。」

大多喜城も北条に囲まれている。 いかな正木時茂でも、敵の囲みを破る事は出来ないだろう。

残る兵糧も僅か。 しかし久留里への糧道は、蟻の這い出る隙も無いほどに塞がれていた。

飢餓が、跫音を響かせてこの城へ近づいていた。

「綱成と云う男、矢張り生半な相手ではないようですな。」

雨に煙る眼下の砦に蠢く北条軍には、明確な意思が感じられた。

「うむ。」 河越城の僅かな守兵で、管領上杉憲政率いる雲霞の敵を向こうに廻し、半年近くも持ち堪えた男。 守る術を知る者は、攻めるべき急所が見えるものだ。

この獅子曲輪は防御の要である。 此処が落とされれば、久留里は喉元に刃を当てられたに等しい。

「御所様は、どうしておられる?」

雨が滴る目庇の下で、堯次の表情が緩んだ。

「本陣で、将兵を励まされておられます。」

「そうか。」 

これが安房公方となった足利頼純の初陣である。 その為にも、自分は此処を死に場所とせねばならない。

(此処から、一歩も引かぬ)

義弘は決死の臍を固めた。


雨。 東の山に居座る黒雲が、此方を威嚇するように唸りを上げている。 痩せ尾根に、蜘蛛が足を伸ばして張り付いたような久留里城の曲輪を、北条綱成は忌々しそうに見上げていた。

秋の長雨は収まる気配を見せず、愈々激しさを増している。

安房上陸から六ヶ月。 久留里城の西をうねるように流れる小櫃川。 その西岸に本陣を敷いた向郷には、兵馬を収容出来るような大きな伽藍を持つ寺が無い。 雨露を凌ぐ為、村の家々を接収してはいるが、如何せん数が足りなかった。 その為、殆どの兵は野営である。 疲労は濃く、この長雨で疫病も出始めていた。 

山河襟帯の地、南房総の中央に位置する久留里は、南北に伸びる山城である。 東側一帯は、この地方特有の標高は高くないが急峻な山々が尾根を野放図に延ばし、急崖や入り組んだ渓谷を形成している。 

唯一の平野部である西側は小堰川を外堀とし、執拗なまでに断ち割られた堀切が至る所に配されている。 更にその尾根で繋がる上の城と呼ばれる枝城が、裏へ廻ろうとする敵に北から睨みを効かせていた。 

まさに、うんざりするほどの堅固さである。 しかも将兵は剽悍。

それを束ねる里見義堯の将器も然る事ながら、彼の両翼に控える社稷の臣、正木時茂と時忠の存在も大きい。 

城に籠もるだけだった先の戦とは違い、今回の敵の動きは活発で、

北条本軍が久留里に到着する前に、少なくない部隊が奇襲戦によって被害を受けていた。 特に、真里谷の軍勢は大将義信が手傷を負う程の痛撃を蒙った。 北条本軍が久留里へ達すると、今度は徹底した籠城戦。

しかも久留里城の東、大多喜城からは時茂と信茂が機を見て軍勢を繰り出し、此方の攻勢を鈍らせた。 

それでも何とか大多喜城を封じ込め、小櫃川の曲流部の台地に設けられた敵砦を落とし、久留里城二の丸へ。 更に要塞堅固で知られる、獅子曲輪まで手を掛けた。

しかし、一段と強くなった雨足がそれを阻んだのである。

堀切や削平地周辺は地表が剥き出しになっており、雨を吸って滑り易くなった足場が進撃を阻み、刈り取られた田圃は泥濘へと変わる。 そして、穏やかにまどろんでいた小櫃の流れは、忽ち凶暴さを孕んだ奔流となって岸辺を侵し始めた。

事ここに至っては、押さえていた曲輪を放棄し、全軍を向郷まで戻す以外、綱成に選択肢は無かった。 

川が溢れ始めたのは、その直後である。

切歯痛憤する綱成に、更に追い討ちを掛けるような早馬が届く。 上総土気城の酒井胤治が、北条陣営から里見へ寝返ったとの報告であった。 

北条にとって土気酒井氏は、真里谷と並ぶ安房攻略の重要な先兵。

彼の裏切りによって、軍の後方にも気を配らねばならなくなった。 雨によって足を奪われたまま時だけが過ぎ、疲労と厭戦が自軍を蝕んでいく。  

しかし前回の苦い経験が、綱成を踏み止まらせていた。

そんな中で、小田原から更なる凶報が届く。

武蔵で有力国人達が蜂起。 

(一度ならず、二度まで……)

綱成は撤退を命ずる書状を握り潰し、砂利を噛むような無念さを呑み込んだ。



囲炉裏を囲む二人は、暫く無言で燃える薪を眺めていた。  

外は霙交じりの雨。 今夜の寒さは格別だ。 

長助はそっと白湯の入った椀を掌で包んだ。

パチンと跳ね上がった火の粉が、胡坐をかく喜八の膝に落ちた。 節くれ立った指先がゆっくりと動き、それを物憂げに払う。

「太治兵衛如きに、一体何が出来る。」 まるで吐き捨てた言葉を、囲炉裏に燃べるように喜八が云った。

彼は怒っていた。 

今年も不作。 もう三年続きだ。 

最早やっていけぬと、村の主だった者達が密かに集まったのが今夜。 席上、喜八は村人全員で直接領主に徳政を掛け合い、それが叶わぬ場合は、酒屋や土倉を打ち壊すべきと声高に主張した。 

つまり、村一揆である。

明日の糧にも窮している者達の血で潤うのが、酒屋や土倉のような高利貸し達である。 金利は五文子(元金百文に対して月五文の金利)から六文子。 計算に疎い百姓は何とかなるだろうと思ってしまう。 そうやって返す当ての無い銭を借りた者達は、法外な金利に忽ち押し潰されてしまうのである。 

しかし流石に喜八の意見に賛同する者は無く、結局領主との交渉は村の乙名である太治兵衛に一任する事で話が収まったのだった。 

切羽詰まった状況に於いても尚、捨て身の覚悟を示そうとしない。 そんな村人に対する歯痒さが、喜八を苛立たせていた。 元々杣人だった彼には、矢張り百姓の考え方に馴染めないところがあるのだろう。

「精々、領主の髭の塵でも払うのが関の山じゃ。」

「喜八さん…… そりゃあ云い過ぎじゃ。 太治兵衛さんだって、今まで領主様との間に入って色々と骨を折ってくれたっぺさ。」 

「骨を折っただと……?」 喜八がぎろりと眼を剥いた。 

「おい長助…… 奴が身体張って免租を認めさせた事が、今まで一度でもあったか? 余計に取られていた矢銭を、ちいとばかし安くしただけじゃねえか!」 

窪んだ眼窩の中で、焔が猛っている。 

乱暴に投げ込まれた木の枝が、囲炉裏で火の粉を吹き上げた。 

喜八には孫がいた。 借金の取立てに追われ、頸を括った娘が残していった一粒種である。 

不憫に思う気持ちも手伝ったのだろう、喜八はそれこそ掌中の珠のように育てた。 長助も喜八が杣仕事で家を空けている時など、よく家で預かって面倒を見たものだ。

そうやって大切に育ててきた孫を去年、北条との戦で失っていた。戦が始まって以降、軍役が厳しさを増している。 

徴兵に際し、それまでは加味されていた年齢も、最近ではまるで考慮されなくなった。 喜八の孫も、未だ十六と云う若さだった。 

彼を失った無念。 喜八の中で、それが怒りとなって蜷局を巻いていた。 

「横っ面を張られても背中を丸めているだけじゃあ、何も変わらねえ。 他人(ひと)に頼っても、仏に縋っても…… その前に先ず手前(てめえ)等が本気になって怒らんで、一体何を変えれるっちゅんだ!」

長助にも、彼の悔しさは理解出来た。 一方で、一揆によって引き起こされる不確かな結果に、全てを賭けるのを躊躇う村人達の気持ちも尤もな事だと思う。 

狡い云い方だ。 判っている。

旱魃や水害、それに戦や疫病。 百姓には、己の力では如何しようも無い現実の中で身に付いた習癖がある。 諦観と楽観が、斑模様となって染み付いた思考様式がある。  彼等が喜八の怒りには共感出来ても、彼の覚悟まで共有出来ない理由が其処にあった。

押し黙る長助に背中を向けた喜八は、そのまま敷き藁に横になった。 冷たい石のような頑なさが、薄い背中に張り付いている。 

彼が山を下りたのは十年前、肺病を患ってからだ。 昔から相当の偏屈者だったが、孫を失って以来益々度が外れるようになった。

今では煙たがって長助の他には誰も寄り付こうとしない。 しかしその二人の関係さえ、今では昔とは違っていた。 

それは恐らく、自分の所為だろう。 独り身の喜八とは違い、前年妻には先立たれたものの、自分には息子夫婦と孫がいる。 それを嫉むような喜八では無いが、彼と接する時は如何しても後ろめたさが付き纏った。

「じゃあ、喜八さん……、 もう、帰るで……」 

返事は無い。

薪を少し囲炉裏に足した長助は、そそくさと喜八の家を後にした。



カッカッと耳障りな爪を弾く音が響く。 

小田原城に在る公方館の一室。 眼の前には新公方となった足利義氏がいる。 隣席では、母芳春院がこめかみに青筋を浮かべ、綱成を睨み付けていた。 芳春院は北条氏康の妹でもある。

「何故、兄上は此処に参られぬ?」

神経質そうな、甲高い声音が綱成に浴びせられた。

氏康は湯治の為、湯河原に逗留中であった。 彼の不在を詫びた綱成は、預かった誓紙を差し出した。 誓紙には、臣として今後とも裏表無く公方を盛り立て、犬馬の労を厭わんとする氏康の言葉が記されてあった。 ひったくるようにして受け取った彼女は、短い文面をまるで舐めるかのように何度も読み返している。 今回、彼女が誓紙を求めた理由は、恐らく義氏の古河城への動座計画が関係しているのだろう。 

古河城は歴代公方が、百年に亘って本拠としている城であるとは云え、此処、小田原からは遠く離れている。 その不安と心細さを、誓紙を取る事で埋めようとしているのだろう。

芳春院の隣では、立烏帽子を被った仏頂面の義氏が、まるで綱成など眼中に入らぬように、長くなった爪を弾き続けていた。  

如何やら不機嫌さを装う事が、威厳を醸し出すものだと思っているらしい。 吊り上がった目と、荒淫で浮腫んだ顔。

彼には何かと良からぬ噂が付き纏っていた。 兎に角、癇癖が強く、ちょっとした手違いや不手際、果ては言い掛かりに近い理由で身の回りの者達に容赦無い折檻を加えるのだと云う。 中には、問答無用に手討ちにされた者もいるらしい。

芳春院が内々に処理し、厳しい緘口令を敷いていても、義氏の行状は彼の近習を通して耳に入ってくる。 彼等は氏康が直々に義氏へ付けた者達。 義氏の峻烈な癇癪も、彼等にだけは向かない所を見ると、幼さが抜けない義氏であっても、その辺りの処世は確り働いているようだ。

義氏は氏康の甥。 

しかし幾ら傀儡とは云え、お仕着せの権威に安住し、埋没してしまうような暗愚では困る。 確かに今の北条には力が有る。 それは管領を屠り、公方を膝下に据えるほど強大なものだ。 

しかし関東諸侯を糾合していくには、それだけでは足りない。 彼等の体面の落とし所、つまり旗頭となる権威が必要なのだ。 

越後の長尾景虎が、関東管領上杉憲政を庇護したのも然り。 安房の里見が、足利義明の遺児頼純を安房公方としたのも然り。

義氏がそれを理解した上で、有能にして忠実な代弁者になってくれるのであれば、北条は一歩でも二歩でも下がる用意があった。

義氏は未だ十五。 今は無理でも、年と共に器が備わってくる事もあろう。 しかし・・・ 今の義氏を見る限り、その望みも薄い。 そう思わざるを得なかった。


「綱成。」

「はっ。」

「誓紙の事じゃが…… 重臣一同からも同じように取って給(た)も。」

当然のように云った彼女の言葉に、綱成は唖然とした。 それは主君の言葉に家臣が裏書きをするようなもので、氏康の体裁を汚しかねない。

「しかし芳春院様、お屋形様から斯様な誓紙が出ている以上……」

「口答えは許さぬ!」

「ははっ!」

「お前も兄上の臣であると同時に、公方の臣であろう。 黙って私(わらわ)が申す通りにすれば良いのじゃ!」 

恐らく彼女は、氏康死後の事まで念頭に置いているのだろう。 

周到と云うよりも、執念と云った方が近い。 夫の足利晴氏が実兄によって公方職を剥奪された挙げ句、自害させられた事など歯牙にも掛けていないようだ。 ただ自身が腹を痛めて産んだこの一粒種を、北条が決して見捨てない事。 

彼女は其処だけに拘っているようだった。 

「縁組みの話は、皆々の誓紙を受け取ってからの事じゃ。 そう兄上に伝えよ。」

(縁組み……?) 初耳だった。

「縁組み、と申されますと……?」

「何じゃ、兄上から聞いておらぬのか?」 

芳春院は、つんと鼻先を上に向けた。

「公方と太平寺の何とかと申す尼僧との縁組みじゃ。 何でも、足利義明の忘れ形見じゃそうな。」

音を立てて心の臓が跳ね上がった。 

「せ、青岳尼殿と……?」

目の前がすうっと暗くなり、身体中から厭な汗が噴き出してくる。

「ふん、そんな名じゃったかのう。」 

釣り合いが取れぬ、とでも云いたげに、芳春院は小馬鹿にするように吐き捨てた。 

「訊けばその尼僧、耳も聞こえぬばかりか、口も利けぬと云うではないか。 況して、幾ら同じ足利一門とは申せ、その者の父は宗家に弓引いた逆賊ぞ。 それを態々還俗までさせて……」

芳春院の言葉が、乾いた音を立てながら小さくなっていく。 

心が…… 耳を塞ごうとしていた。 まるで、口の中にごみを押し込められたような不快さ。

(何故だ……) 今更何故、彼女が政略の贄として引き摺り出されねばならぬ?

危うい均衡の峰筋に刻まれた、絶対に超えてはならぬ一線。

引き返せ。 運命が勝ち誇ったようにそう告げる。 

耳障りに響く爪を弾く音が黒い粘糸を吐き出しながら身体中を這いずり回る。 一度も外の光を浴びる事の無かった彼女への秘めた想いが今、厚い繭の中に封印されようとしていた。



貴方は憶えているのだろうか?

砂浜と岩場が混在する、夜の入り江。

二人で息を呑んだ瞬間、其処にはまさしく神々がいた。

まるで瑠璃を砕いて散りばめたような、碧く発光する海。  

言葉を発するのさえ躊躇われる。 そんな、玲瓏たる華胥(かしょ)の汀(みぎわ)。

氏子達が担ぐ神輿からそっと降りた神々が、民の願いを小脇に抱えて海へ帰ろうとする夜。 

貴方はじっと海を見詰めていた。


(……済まぬ)

(……)

(結局俺は…… 千代姫を護る事が出来なかった)

(それを…… 詰って欲しい?)

(えっ……?)

(自分の弱さを、千代に認めて欲しい?)

(千代姫……)

(狡いのですね、太郎殿は…… でも、私はもう大丈夫)

(……)

(太郎殿の事も恨みませぬ。 罰として、此れからもずっと……)


ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた貴方は帯を解き、そして小袖を脱いだ。 腰巻を払い、海へ向かう。 生硬だが、瑞々しい肢体が月明かりに躍動する。 

彼女を迎え入れるかのように、ざわざわと輝きを放つ海。

碧い隻影。 風も、波も。 月も固唾を呑んで。  

そして貴方は、神に抱(いだ)かれた。


九月の風が凪いだ夜。 

安房の何処かの海辺に、海ぼたるが一斉に集まるのだと云う。 それを見る事が出来るのは、海の神に祝福を受けた者だけ。 館山の海賊領主、安西勝弘から聞いた話だ。 

そして鶴谷八幡宮の国司祭、やわたんさいの夜。 

俺は千代姫を其の浜辺に連れ出した。 

彼女が安房を離れる前夜の事だ。

千代姫を当主の養女として迎えたい。 国府台敗戦の後、小弓公方家とは因縁浅からぬ真里谷家の家宰、真里谷義信の申し出を、父義堯は誰に諮る事無くあっさりと許した。 

恐らく、この申し出は父にとって渡りに船だったに違いない。 

没落した公方の娘を、今更嫡男に娶らせる利は何も無かったからだ。 当然、自分は納得出来なかった。 元々千代姫との婚儀を願ったのは、里見の方なのだ。

しかし当時十六だった自分にとって、父の決定は絶対であり、その意に従う他は無かった。

真里谷が突如北条に転身したのは、千代姫が久留里から離れて直ぐの事だった。 そればかりか、義信は臣従の証として当主の嫡男信高と共に、千代姫を人質として北条に差し出したのである。  

その後の経緯も耳にしていた。

三浦湊に着いて小田原に移送される途中、彼女は監視の眼を盗んで逃げ出したのである。

しかしその当時彼女は未だ十四。 逃げ果せる筈も無い。

やがて追い詰められた彼女は、切り立った崖の上から身を投げたのだと云う。 しかし彼女は助かった。 

崖の途中に身を寄せるようにへばり付いた巌松と、崖下に点在する砂地。 重なった二つの幸運が彼女を救ってくれたのだ。 

しかしその代償として、彼女は聴力と言葉を失った。


あれから、もう十年の月日が過ぎていた。

安房からも望める三浦の岬。 躍進する北条と、房総の突端で藻掻く里見。 そして二度にわたる北条の侵攻。 多分に幸運はあったにせよ、我々はそれを跳ね退けた。

そして今日…… 千代姫を迎えに行く。  自分の妻として。

あの夜から、途切れたままの時を再び紡ぐ為に。


弘治二年(一五五六年)十月。 

安房館山湊を出た八隻の関船と、大小二百を超える小早船が波頭を切って進む。

櫓を漕ぐ水夫達の掛け声と波の音。 

嘗て無いほどの嵐が、相模湾一帯を襲ったのは十日前。 間者の報告によると、三浦水軍の殆どの船が損壊流失し、壊滅状態にあると云う。 

無論、此方にも被害が無かった訳では無い。 特に内房沿岸は酷い状況だったが、里見方の損害は比較的軽く、甚大な被害は北条方の海賊衆に集中していた。

一方、里見が海を越える事など想像だにしていないのか、北条氏康と綱成は武蔵へ遠征中。 まさに、天与の機と云えた。  

義弘は父義堯に三浦水軍の拠点、新井城攻略を進言。 父は最後まで慎重だったが、里見水軍を統括する正木時忠が義弘に同調した事もあり、今回の出陣となった。  

総勢二千五百の選りすぐりの精鋭。 采配は時忠が執り、副将として義弘と正木信茂、それに安西勝弘が脇を固める。 奇襲戦とは云え、北条本国への侵攻は里見にとっては初めてだ。

痺れるような緊張と興奮。 

三浦の岬はもう目の前であった。


「鎌倉ぁ!?」  正木信茂が目を剥いた。

「ああ、此れから鎌倉を攻める。」 

白煙を噴き上げる新井城を見上げながら、義弘はそう告げた。 

三浦半島の南端、相模湾側に位置する新井城は三方を海と断崖に囲まれ、小城とは云え本来ならば決して柔な城では無い。 その昔、あの北条早雲でさえ落とすのに三年要した城だ。 しかし散々乱飛乱外した嵐の爪痕は、想像を遥かに超えていた。 外壁が崩れ、城の一部が海へ落ち込んでいる。  

裸同然の城に篭る兵もごく僅かで、落とすのに半日と掛からなかった。

落城後、義弘と信茂が率いる五百の兵を後詰として残し、時忠は海賊三浦党の本城、三崎城攻略へ向かっていた。

信茂が探るように眼を細めた。 

「太郎…… お前、一体何を企んでいる?」 

時忠の後詰に廻ろうとしないどころか、北条の懐に更に深く攻め入ろうと云うのだ。 信茂が訝しんで当然だった。

「平七、お前は千代姫の事を憶えているか?」

「ああ、御所様の姉上であろう?」

「今、鎌倉の尼寺にいるそうだ。」

「……まさか、お前。」  義弘は黙って頷いた。  

「良いのか? 義父(おやじ)殿が黙ってはおらんぞ。」  

「構わぬ。 勘当したければすれば良いさ。 息子は俺だけでは無い。 父も世継ぎには困るまいよ。」

「ふむ。」 信茂は鼻の背に小皺を寄せた。

「お前も来いとは云わぬ。 ただ、俺の手勢だけは……」  

「馬鹿野郎!」 

信茂の怒鳴り声に、周りの兵が此方を振り返った。

「水臭い事を云うな。」 そして顔を綻ばせた信茂が、しかしなぁと愉快そうに頸を振った。 

「糞真面目だけが取り柄の男と思っておったが、太郎も中々思い切った事をやるものだ。」

「ふん。 面白がっておるだけだろう、お前は。」

「当たり前だ。 こんな面白い企て、俺が黙って見過ごすと思うか?」 そして二人は破顔して天を仰いだ。



由比ヶ浜に上陸した義弘と信茂が率いる五百の兵は、鎌倉を南北に貫く若宮大路を疾走していた。 

兜は被らず、袖や草摺も無い。 薄い胴丸と鉢金、篭手を付けただけの軽装である。 

今回の戦は千代姫奪回の奇襲戦。 時間との戦いでもあった。   

小田原と並ぶ北条の牙城。 京に比せられる東の古都を貫く幅二十二間にも及ぶ大路沿いには、重厚な門構えの問屋や武家屋敷が軒を連ねている。 嵐の爪痕は其処此処に散見出来るものの、その端然とした町並みの気高さは、悔しいが矢張り久留里や館山には無いものだった。

無人の通りは、何処か張り詰めたような緊張感を漂わせている。 戸板の向こうでは数千、数万の民が息を殺しているのだろう。

前方に敵の一団。 恐らく鎌倉侍所の一党だろう。

急襲を予期していなかったのか、隊伍が乱れている。 

先頭を行く信茂隊が矢のように突入し、戦端が切って落とされた。

鎧袖一触。 

崩れる敵には眼もくれず、後続の敵にぶつかっていく。

信茂隊の得物は太刀。 敵味方が密集する市中戦では、槍よりも太刀がものを云う。 大振りの太刀を振り回し、前線で縦横無尽に暴れ廻る信茂が兵で埋まった行く手を抉じ開けている。 

飛び交う怒号。 

目前に、鶴岡八幡宮の巨大な鳥居が見えて来た。   

その鳥居から右に折れ、外塀に沿って八幡宮の裏に抜ける。 

やがて右手に、太平寺へ続く切通しが見えて来る。 

もう此処まで来たら前を塞ぐ敵はいない。 否が応にも昂ぶる心が、足を急かそうと逸る。 

狭く、急勾配な切通し。   

右手に寺に通ずる石段が現れた。 義弘は小倉忠宗等数人を伴って一気に駈け上がった。 

まるで雲の上を奔っているような感覚。 

寺の門は外の喧騒など素知らぬ顔で、秋色に染め抜かれた木立ちの間に佇んでいた。

(この扉の向こうに……)  

義弘は大きく息を吸うと、二度三度門扉を叩いた。  


山裾から聞こえてくる干戈の響き。  

動転し、狼狽える寺内の中で庵主様はただ一人、いつものように観音堂で手を合わせていた。

庵主様の様子が変わったのは、此処最近の事だった。 堂に籠もりきりで、ろくに食事も取らず、朝から晩まで何かに取り憑かれたように一心に拝んでいる。 

声を掛けるのも憚れる程、その表情には鬼気迫るものがあった。

庵主様は、心の中で戦っておられる。 あたしにはそう思えた。 彼女を内側から喰い尽くそうとする、邪悪な何かと。 

しかし、今日の庵主様は何処か違う。 まるで、憑きものが落ちたかのように恬としていた。 

「あ、庵主様……」 

庵主様がゆっくりと眼を開けて、手を下ろした。

庵主様に寄り添うように置かれた、菖蒲色の袱紗。 

あたしの視線は、それに釘付けとなった。 心奥にうねる皺襞に埋もれていた不安が、むくりと鎌首を擡げる。 あたしは、その中身を知っている。 それは、お武家様の娘御達が持つような懐剣。

鞘には、二つの引両が配された家紋が描かれている。 庵主様がいつも文机の引き出しに仕舞ってあったものだ。

(庵主様は、選ばれしお方……) 

昔聞いた、古株の尼僧の言葉。 まるで記憶の中の故郷のように、薄墨を流し込んだような視界の中で…… その袱紗だけが鮮やかな色彩を帯びていた。

「外に…… 里見義弘様と申されるお方が……」 云い知れぬ不安が、その輪郭を現わそうとしている。

「その…… 庵主様を、お迎えに上がったと……」 

庵主様が小さく頷いた。 

(寺の皆を仏殿に集めて下さい)  

「あ、あの……」 如何しても訊かずにはいられなかった。 

「庵主様はもしや…… 此処を、お出になるお積もりでは……?」

里見義弘とは?  迎えに来たとは、如何云う意味なのだ? 

(はい。 私は、安房へ参ります) 

紙に書かれた文字が、凛とした声となって心に突き刺さった。

庵主様が…… この寺を出て行く?  

胸の奥深くに塗り篭めていた筈のものが蠢き始め、パラパラと心の壁が崩れていく。 

(お前は、棄てられる……) 

後ろから抱き竦めた絶望が、そう耳許で囁いた。

厭だ……  過ぎ去った筈の過去が、後ろからひたひたと追いかけて来る。 白い眼を睨め上げ、薄笑いを浮かべながら。

(お前の、相応しき処へ……) 

砧を振り下ろす、上がりの老婆の視線。 

膨れた腹を抱えて、階段をのた打ち回る遊女の呻き。 

そして…… 刑場へ向かう、たきの左頬に張り付いた疵。   

「ど、如何して……?」

立ち尽くすあたしと…… あたしの知らない庵主様。

寺に入って以来あたしを包み込んでいた筈の優しさが今、凶悪な刃となって臓腑を抉ろうとしている。  

(最後に棄てるのなら…… 如何してあたしを拾った?)

そして、声にならない呻きが口から零れた。



夏の間、天を目指して丈を競っていた木々も、近づく秋の気配に促されて装いを変え始めようとする頃。 

森の空気は湿りを帯び、翠煙となって山峡へ下る。

山とは不思議なものだ。 遠くから望めば無愛想に佇んでいる癖に、一旦懐に入れば俄然その存在感を主張してくる。 

一つとして同じ山は無いのだと知らしめてくれるのだ。

様相も。 そして流れる空気も。

「じっちゃん!」 唐松の根元に屈み込んでいた新吉が声を上げた。 新吉は今年三つ。 早く見せたくて堪らないように飛び上がると、覚束ない足取りで駆け寄ってこようとする。 

慌てて腰を浮かせた長助が、手を大きく振った。

「新坊、走っちゃあなんねえ!  じっちゃんが今そっちへ行くから。」

濡れた土や倒木に足を取られて、剥き出しの石に頭でも打ったら事だ。

「ほぉ、此れは凄い。」 新吉が指差す先には、赤茶色の傘を被った茸がびっしりと群生していた。 

「やったな、新坊。」 長助が頭に手を載せると、新吉は得意げに鼻の頭をひくつかせた。

「これ、なめこ?」

「うん、ちょっと似とるがの……」 表面はなめこのようにヌルヌルしているが、一回りほど大きい。 

「此れはな、花猪口ちゅう茸じゃ。」 

「食べれるの?」

「あいさ、新坊のおっ母の大好物じゃ。 此れを持って帰ったら、喜ぶっぺなぁ。」 

新吉の顔にぱっと喜色が溢れ、摘んだ茸をそそくさと籠に入れ始める。 

そんな一挙一動に心が奪われた。 

「新坊。 そんなに慌てて摘んじゃあなんねえ。 柄を傷めてしまうでな。 良えか? こうやって……」 新吉の背中から腕を伸ばした長助が、茸の根元の土を人差し指でそっとほぐし、傷つけぬようにそっと引き抜いた。

「出来るか?」  頷いた新吉の頭を撫でた。 

「良し。 それからな…… 沢山あるからちゅうて、茸は全部取っちゃあなんねえぞ。」

「あじょして?」

「山の神さんに少し残しとかんと、神さんが怒って次から此処には茸がのうなってしまうでな。」

「そしたん、また此処で沢山茸が取れるの?」

「ああ来年も。 再来年もな。」

二人で摘んだ花猪口は思いのほか量があり、籠は直ぐに茸で一杯になった。


帰りしなに平吉の墓に寄った。  

山の中腹、村を見下ろす場所に共同墓地がある。 

墓はその一角にあった。

長助の一人息子、平吉が戦に出るため家を出たのは今年の春の事。じゃあ行ってくる、とまるで畑仕事にでも行くように家を出た息子を見送ったのが、つい昨日の事のようでもあり、もう何十年も昔のようでもあった。   

結局、平吉を見たのはそれが最後だった。 同じ村から徴兵された者が持ち帰ってくれた、槍だけが戻って来た。 遺品、と云うやつなのだろう。  

彼の話によると、内房にある金谷と云う城を北条から守る為の戦だったそうだ。 多くの兵が死んだらしい。 平吉の骸は、城外に掘られた穴の中に他の骸と共に埋葬されたのだそうだ。

骸の無い、墓。 

それは長助の反対を押し切って、嫁のおゆうが作らせたものだ。

半月前に刈り取った下草が、もう膝まで伸びている。 

小半時ほど、長助は草を刈り、新吉と二人で平吉の墓に手を合わせた。

卒塔婆に書かれた文字が、風雨で滲んでいる。

(何も無いからこそ、せめてちゃんとした墓を) 

そう云ってなけなしの銭を払い、寺から戒名まで貰った。 

周囲には、珍妙な家だと思われただろう。 

長助も理解出来なかった。 そんな中身の無い、形ばかりの墓を作って何になるのだ、と。  

しかしあれから半年経って、そう云っていた自分がこうやって読めない戒名を眺め、仏のいない墓標に手を合わせている。  

(なるほどなぁ……) 長助は思い至った。    

この墓には、もう既に中身が確りとあるではないか。 

残された家族の祈り、想いがぎっしりと詰まっている。 二度と還れぬ故郷を想い、二度と其の胸に抱けぬ我が子を想って死んでいったであろう夫の為、父の為。 そして息子の為。  

(平吉よ…… お前はつくづく良い嫁を貰ったもんじゃのう……) 

神妙な顔で小さい掌を重ねている新吉も、口には出さぬが、きっと淋しい筈だ。 気が小さくて控えめで、居るのか居ないのか判らないような男だったが、大層な子煩悩で新吉も躾に厳しい母親よりは、父親の方に良く懐いていたものだ。   

「良し、新坊。 そろそろ帰っぺさ。」 

今日は茸が沢山採れた所為か、随分時が短い。 

東の山際がもう薄暗くなっていた。  

家路に向かおうとする長助の手を、新吉が振り解いた。

「あじした?」  新吉が籠の中から茸を両手で掬って、父の墓へ向かう。 

落とさぬよう、足を忍ばせるように。   

墓の前に茸を供えると、またちょこんと手を合わせた。

通い慣れた途。 来年も、再来年も。 新吉と二人、こうやってこの山を歩くのだろうか?

やがて大きくなった新吉は、土に塗れて田圃仕事をし、そしていつか…… 嫁を貰う。 

器量なぞ如何でも良い。 働き者で、優しい嫁であれば…… 

その時には、自分はもう死んでいるだろう。

曾孫の顔を見れないのは少し惜しいが、それで良い。 年寄りがいつまでもあんな小さな家に居たんでは、新吉夫婦が可哀相だ。 

そうだ。 自分が死んだら、あの墓に入れて貰おう。  

そしたら新吉は子供の手を引いて、自分に会いに来てくれるのだろうか? その時に、その子が自分の取った茸を供えてくれたら…… どれほど幸せだろう。

「新坊……」 新吉が長助を見上げた。

「新坊が茸を見つけたあの処な…… 誰にも云っちゃあなんねえぞ。」 

掌を新吉の柔らかい髪の上に載せる。

「あそこはな…… 新坊とじっちゃん、それに山の神さんだけが知っとる秘密の場所にすっぺ。」

少し思案顔を浮かべた新吉が、「うん」と云ってにこりと笑った。



平安期に安房国の総社として創建された鶴谷八幡宮。

幣束が高く掲げられ、祝詞を奏上する宮司の声が拝殿に響く。  神妙に頭を下げる義弘と千代姫の後ろには、足利頼純、里見堯次、正木信茂や妻種姫、その他股肱の臣達が賀儀に連なり、共に神の加護を願った。

鎌倉から千代姫を連れ出して一年。 彼女は安房での暮らしにも大分馴れ、髪も肩に掛かる位まで伸びた。 

あの堂宇で、一体何があったのか? 千代姫は明かそうとはしなかったし、此方も敢えて訊きはしなかった。 或いは、生涯知る事は無いのかも知れない。 

それでも良い。 そう思った。 

大事なのは…… 今、俺の側に千代姫がいる。  

妻として。 それで充分ではないか。


神前での婚礼を終えた翌日、久留里で祝宴が盛大に催された。

鈴なりになった大広間。 普段であれば、石のように無口で武骨な正木時茂が自ら銚子を取り、上機嫌で列席者に愛想を振り撒いている。 満面の笑みを浮かべて、姉の千代姫と話に花を咲かせているのは頼純だった。 今日は、彼にとっても特別な日となった。  

彼と義弘、それに義弘の妹を妻とする信茂は、この日を以って血縁と云う、もう一本の絆で結ばれる事となったのである。

座の一角では、緊張した面持ちの酒井胤治が、土岐為頼からの酌を受けていた。 整った目鼻立ちに秀でた眉。 色白の顔にうっすらと汗をかいている。 下総との国境に近い、上総土気を領有する酒井家当主である彼は、未だ二十一と云う若さながら、あの北条氏康からその前途を嘱望されていた程の麒麟児である。 しかし義弘にとっては、彼の器量も然る事ながら、何より清廉実直な性格に好感が持てた。

家中の主だった者が集うこの宴席に一人、姿を見せなかったのが、婚姻に最後まで反対していた父義堯であった。  

子供の頃から厳しい父だった。 いや、厳しいと云うよりも疎まれていたと云った方が正しい。 自分のやる事為す事、頭ごなしに否定され、拒絶された。 他の弟達に対するものとは明らかに違う、そんな父の接し方に戸惑い、悄然とし、そして反発心を募らせたものだ。 

しかしそれも、もう過去の事。 

自分は父に無断で鎌倉を攻め、今こうやって意に沿わぬ祝言を挙げている。 

絶対的な存在として君臨してきた父権と云う軛は、最早自分を縛り付ける事など出来ない。 

自分はそれに気付き、父は悟った。

ざわめきの向こう側。 千代姫が此方を見ている。 

自分は今、その眼差しを確りと受け止める事が出来る。 

過去からの問い掛けに、もう苦しめられる事は無いのだ。

義弘が盃を掲げると、顔を綻ばせた千代姫が小さく頷いた。



「何、晴助が呑んだ?」 

北条氏康が意外そうに目を見開いた。 北条綱成が頷く。 

「今朝、関宿から知らせがまいりました。」  

氏康はまるで舌打ちでもしそうな顔をして、指を尖った顎にゆっくりと這わせた。 

何か熟考する時に見せる彼の癖である。

氏康はよく果断の人と云われる。 確かにそうだ。 しかしその断を下すまでには、じれったい程に時を掛ける。 決して勘などと云う不確かなものに頼らず、状況や背景、決断が齎す影響をじっくりと舐めるように検証するのだ。 そして一旦こうと決めたら、絶対にぶれない。 怯まない。

関宿城を新公方足利義氏の居城として明け渡し、簗田晴助は古河城へ移るべし。 小田原に幽閉されていた足利晴氏が相模野に移送されて三年目の今年、氏康が突然晴助にそう迫った。 

いざと云う時の守りに不安を残す古河城よりは、堅城で知られる関宿城に公方を置く方が望ましいとの理由であったが、それは飽くまで表向きのものだった。

関宿城を手に入れる事は、一国を得るに等しい。   

常々氏康が云う言葉である。 関宿城は西を曲流する太日川(江戸川)から引き込んだ環濠に守られた堅城である。 しかしその価値は、守りの固さだけにあるのではない。 川に連なる無数の支流や湖沼、それに水路を通じて下総一帯と東武蔵、更に常陸と下野の一部までに及ぶ、水運の要衝としての重要性を看破してのものである。

その関宿を領する簗田家は、代々古河公方家の筆頭家老を務めている下総でも有数の実力者だ。 その力の源泉は、代々古河公方に其の娘を嫁がせる事で練り上げられてきた血の系譜であり、水運が生み出す膨大な富であった。 北条打倒を企てた足利晴氏が厳しい処断を受けたのとは対照的に、それに賛同した簗田晴助が不問に付されたのは、簗田家の力を当面利用しようとする氏康の思惑が有ったからである。

急拡大する戦線の維持には、簗田の財力が。 そして晴氏幽閉に因って生じかねない、下総の国人達の不穏な動きを牽制する為にも、簗田の血の重みが必要だったのである。 

しかし北条の力が確固たるものになった今、晴助に対する遠慮は最早無用になった。 つまり今回の城替えは、同盟者としての扱いが変わったと云う、晴助への通告でもあった。 

しかし、当てが外れた。  氏康の表情がそれを物語っていた。

「晴助め…… 中々尻尾を現さぬわ。 予想以上の狸じゃの。」

氏康はそう云って、苦笑いを浮かべた。 

元々氏康は晴助の恭順に懐疑的だった。 

晴氏の嫡男、足利藤氏は彼の甥。 古河城を落ちて後、杳として知れぬ彼の行方に、晴助が関わっていると踏んでいる。  

「まあ、いずれ落ちる柿を、今無理に叩き落とす事もあるまいが……」 

脇息に肘を乗せた氏康は、サバサバとした視線を宙に飛ばした。

「して、長尾の越山はいつ頃になりそうじゃ?」

「間者の報告によれば、景虎出奔騒動後も依然として家中の不満は燻っておるようです。 そんな中では、景虎とて、おいそれと関東に眼を向ける訳にもいきますまい。 恐らくは後一年か、二年……」

前年の夏、所領の帰属を巡って家臣達が内輪揉めを繰り返す状況に嫌気した景虎が、当主と云う地位にありながら出奔すると云う前代未聞の事件が起きた。 これに慌てた家臣達が過ちを詫び、今後一層結束を固める事を誓う誓紙を差し出す事で、何とか景虎を連れ戻す事が出来たのだと云う。 

しかし問題の根は聖戦を謳い、徒に領土拡大を望まない景虎の考え方そのものにある。

それが改まらない限り、彼に従う将達は徒労の戦いに追われ、犠牲を強いられ続ける事になるのだ。 

特に近年は川中島を巡る武田との攻防が激しさを増し、将達は嵩む一方の戦費に苦しんでいる。 彼等が猫額の土地に血眼になるのも当然だった。

「越後の毘沙門天様は、相変わらず上を見るばかりで下が見れないようじゃ。」 

小馬鹿にするように氏康が鼻先で笑った。

「とは云え、折角貰った時間を無駄には出来まい。」

景虎越山は、北条にとって最大の懸案事項だった。 景虎が関東に現れた時、北条は否応無く存亡を賭けた戦いに直面する事になる。だからこそ、今の内に関東で確固とした足場を築かねばならない。

そして氏康は意外な事を口にした。


「な、何と…… 里見を味方に…… と仰せにござりまするか?」

「うむ。 臣従せよとは云わぬ。 和議でも構わぬ。 必要とあらば、上総の領有を認めてやっても良い。」 

氏康らしい割り切り方だ。 が、予感めいたものはあった。

安房侵攻の目的は、里見制圧と云うよりも江戸湾の制海権奪取を主眼とした戦略性の強いものだった。 余力を残しながらの撤退と云う、綱成には煮え湯を呑まされた結果となったが、絶え間なく増強を続ける北条水軍は内房の海賊衆を傘下に入れ、今や安房勢を凌駕するまでになっている。

つまり、勝敗は兎も角、本来の目的はほぼ達成されているのだ。

高々十万石程度の小国と云えど、里見は剽悍。 その上、彼等が拠る久留里は堅牢無比の天険である。 その攻略に費やされる時間と兵の消耗を考えれば、対決では無く宥和へと傾くのも無理からぬ事だった。 青岳尼を足利義氏に娶せようとしたのも、そんな思惑からだったのだろう。 

太平寺の庵主は、代々足利の血筋を引く者が務めてきた。 彼女がその座に就いたのは、その不文律に従っただけに過ぎない。

しかし青岳尼の弟、足利頼純の安房公方就任によって、彼女は太平寺庵主と云う以上の価値を、否応なく負わされてしまったのだ。 

あの縁組みの狙いは、安房勢の結束に楔を入れる為。 両公方家の血を受け継いで生まれてくるであろう嗣子を、里見の体面の落とし処にする為。 

「確か……」氏康が遠い目をした。

「日我とか申す坊主がおったのう。」 

綱成は頷いた。 日我は里見義堯とは昵懇の仲。 面識もある。 

以前義堯に降伏を呼び掛けた時、仲介の労を頼んだのも彼だった。

(如何足掻いた処で、里見が勝つ目は無かろうし…… まあ、手当が頂けるとあらば、行かずばならんでしょうなぁ)

まるで目の前に掌を突き出して、催促するような云い方だった。 

評判通りの変わり者だったが、不思議と親近感も覚えた。

「如何だ? その坊主、使えぬか?」 

返答の言葉を探しあぐねる綱成の心中を見透かすように、氏康が頬を緩めた。

「まあ、やって駄目ならば、また違う方策を考えれば良い。 取り敢えず、一当てして見る事じゃ。」

「はっ。」

「それから、下総平定の先乗りは、晴助に任せよ。 但し、当家からは兵も銭も出さぬ。 動くのは、梁田の軍兵のみじゃ。」

「承知仕りました。」

「ついでに義氏も送ってやれ。 弓矢の届かぬ処でふんぞり返っているだけでは、公方の務めを果たせぬ事をたっぷりと教えてやるが良い。」 

そう云って氏康はにやりと笑った。



雨に削られた山肌を晒す山々が、間際まで迫る海岸線。 

同じ内房でも、上総と安房のそれは全く趣を異にする。 遠浅の海に寄り添う上総の広い砂浜と、波にぶつかりながら紺碧の海に落ち込む安房の荒磯。 安房の海岸線は何処と無く男性的だ。 

義弘はそんな安房の海が好きだった。   

潮の香りをたっぷりと含んだ冷たい風が心地良い。  

細い刷毛でなぞったように横たわる浜を、義弘は千代の背中を抱えて馬を駈っていた。

奥州産栗毛の駿馬。

筋肉が隆起した頸を前後し、強靭な後ろ足が砂を蹴り上げている。少し怖いのだろう。 

義弘の腕にしがみ付く彼女の身体が固い。  

「千代、身体を楽に。 何も心配は要らぬ。」 

義弘が耳元で囁くと、彼女は強張った笑みを返した。

昔の彼女も物静かであったが、気高い芯の強さを秘めていたように思う。 しかし長かった尼寺での生活がそうさせたのか、或いは耳と声を失った所為なのか、今はそれが陰を潜めていた。

義弘には、それが少し物足りなかった。

背中に乗る千代が馬に慣れていないと感じ取っているのだろう。

馬の足の運びはいつもより控えめだった。 賢い馬だ。  

義弘は手綱を緩め、ぽんぽんと馬の首筋を叩いた。


海辺に一軒の小屋が在った。  

恐らく地元の網元が物置として使っているのだろう。 

魚網や漁具が乱雑に積み上げられている小屋の中で、義弘は千代を抱いた。  

最初は羞恥に身を捩じらせながらささやかな抵抗を試みた彼女だったが、襟元から手を差し込まれると、やがて義弘の愛撫に身を任せるようになった。

絡み合う互いの荒い呼吸。  帯を解き胸元をはだける。

形の良い乳房が波打つ。 その突起に口を付けると、千代が息を呑んで顎を上げた。 

割れた裾から伸びる腿の付け根に手を潜り込ませると、其処は既に湿りを帯びていた。  

むんとする雌の匂いが脳髄を擽る。 汗ばんだ背中に触れる、ひんやりとした指先。 

獣欲が脳天を貫く。 

「俺の子を産んでくれ、千代。 俺の子を……」  

そして義弘は、彼女の肢体の中に深々と沈んでいった。



お春が一心不乱に乳房を吸っている。 

重くなる一方の瞼に抗うように、目を開けたり閉じたりしながら。

平吉が最後の戦に出る前、おゆうがお腹に宿していた子だ。

忙しない口の動きに合わせて、たおやかに律動する乳房。 陽光に照らされたその隆起は、はっとする程に白い。 おゆうは荒く結った髪に竹で作った笄を通し、赤い押櫛を挿していた。 漆塗りの押櫛が黒髪に良く映える。 それはおゆうが嫁に来た時、平吉が買ってやったものだ。 

何の贅沢もさせてやれない家に嫁いで来てくれたのだから、せめて最初くらい。 平吉はそう云って笑ったものだ。 平吉が生きていた頃は、疵でも付けたら大変と、仕舞ったまま滅多に使おうともしなかったおゆうだったが、最近では野良仕事の無い日など、よく髪に挿すようになっていた。

田圃の方から声が聞こえる。 おゆうが顔を上げた。 

声の方に振り返ると、田圃の畦道を、数人の子供達が歓声を上げながら此方へ向かって来るのが見えた。 

先頭は新吉のようだ。 得意気に長さ一間程の槍を翳している。

気が付けば、おゆうが新吉等へ足早に歩を進めていた。

「新吉!」 

子供達の声がぴたりと止む。 

新吉の前で、おゆうが手を振り上げた。

バチン!  取り巻きの子供達が、忽ち蜘蛛の子を散らしたように逃げて行く。

「こっちへ来んさい!」 

耳を引っ張り上げられた新吉が、短い悲鳴を上げて手足をバタつかせた。 庭先まで引き摺って来たおゆうが、もう一度新吉の頬を張った。

乾いた音が響き、小さな身体がよろめいた。 

「またこんなん持ち出して! お前は…… 侍にでもなる積もりかね?!」 

投げ捨てられた槍が、遠くでカランと音を立てた。


おゆうが家の戸口へ消えても、新吉は顔を伏せたまま立ち尽くしていた。

何故叩かれたのかという困惑よりも先に、理由は判らずとも母親を酷く傷付けてしまったらしいという事に悄気ているようだ。

口には出さないが、おゆうは夫の死を未だ引き摺っている。 その受け止め切れない苛立たしさを、武士と云うものに対する憎悪に置き換えているのだろう。 そして、いつか新吉も父親と同じ途を辿ってしまうのではないかと云う、漠とした不安。

拾い上げた槍は軽かった。 長い事手入れをしていない所為か、柄の塗料が所々剥がれ落ち、石突きが取れている。

長助は新吉の前にしゃがみ込んだ。

「新坊…… おっ父を殺した北条が憎いか?」 

頬を赤く腫らした新吉が、こくりと頷いた。

「そうか…… だっけん、新坊。 北条の奴等だって、家に帰りゃあ親がいる。嫁や子もいるかも知れん。 自分が死んだら、哀しむ家族がいる。だあもん、そん人はお前のおっ父を殺さにゃあならんかった。」 取り出した手拭を広げ、新吉の泪を拭う。

「お前のおっ父も同じ。 殺したく無い者同士が、生きる為に殺し合いをせにゃならん。 戦っちゅうもんは、そう云うもんじゃ。」

新吉の眼から、ぽとりとまた泪が零れた。 新吉が乱暴に袖で眼をこする。

「誰かが…… 我慢しなけりゃならん。 誰かが悔しさを腹に収めにゃ、人は、ずっと殺し合いを続けにゃならんのじゃ。」

手を引かれて家へ向かう新吉は、未だべそを掻いていた。

五年先か、十年先か。 この国を蝕んでいる戦国と云う熱病も、いつかは終わる。 

若し北条の捷利がそれを早められるのならば、里見などさっさと滅んでしまえば良いのだ。 

その日まで…… 父親を失った悔しさや怒りがあるのなら、何かを勝ち取る為では無く、生き続ける為の糧とすれば良い。 

自分等百姓は、そうやってずっと生き抜いてきたのだ。

長助は杖にした槍に眼を落とした。 平吉がもうこの世にいないと云う、忌まわしい証。 今まで何度棄てようとした事か。

でも、もうそろそろ…… 終わりに出来そうな気がした。



囲炉裏で炙られる鰯から滴る脂が、熾火の上で小さく爆ぜている。

そのたびに立ち昇る炎が、香ばしい匂いを鼻孔へと運ぶ。

そろりと串へ伸びた手を、日我が眼にも留まらぬ速さで叩き落とした。 

「痛っ! おい、和尚! 何するんじゃい!?」

正木信茂が手を押さえてがなり立てる。

「ふん。 酒も持ってこん奴が…… 厚かましい。」

串を摘まんだ日我はそう云うと、元の絵柄も判別出来無いほど煤けた皿にそれを載せた。 

所々欠けているが、当然彼は気にも留めていないだろう。

白いものが目立つ長い眉の所為で、随分と老けては見えるが、年は未だ五十を超えたばかりである。 戦火によって全焼した妙本寺は未だ再建の目処は立たず、勝山砦から十町ほど離れた小高い丘に小さな庵を結び、今は其処を仮の居としていた。

「それで? 義堯は真里谷の合力を許したのか?」

串の両端を摘まみながら、日我がゆっくりと鰯に歯を立てた。

「はい。 家中には異を唱える者もおりますが……」

義弘は小さく嘆息した。 「父は全く耳を貸す積りは無いようです。」

「悪い話ではあるまい。 これで少しは里見も強くなるんじゃからの。」

「莫迦ぬかせ!」 目を剥いた信茂が囲炉裏の框をドンと叩くと、眼の前の欠けた茶碗が吃驚したように湯を零す。

「あんな白鯰、味方になぞ出来るか! 我等の寝首を掻く積もりに決まっておろうが! 」

白鯰。 信茂を始め、真里谷義信を毛嫌いする者達は彼をそう呼んでいた。 色白で髭が薄く、つるりとした顔立ちは、なるほど何処と無く鯰を連想させる。

その義信が突如、里見へ同盟を申し込んだのは数日前の事だった。 

真里谷と里見の過去の経緯も然る事ながら、彼はその昔、千代を北条に売った男。 その男を陣営に迎え入れるなど、何より安房公方となった足利頼純への裏切りにも等しい。

あらかた魚を食べ終えた日我は、食べ残しの骨と頭を自在鉤に架かった鍋に放り込んだ。

「太郎、お前は如何じゃ? お前も其処の阿呆と同じ考えか?」 

信茂は、まるで犬の糞でも鼻先に衝き付けられたような顔をした。

「某も、平七と同じ考えにございます。」 

それを聞いた日我は、出来の悪い教え子を持った己の不幸を嘆くように、軽く頭を振ってつるりと頭を撫でた。

「上人様もご記憶でござりましょう。 義信はその昔、同じ陣営にありながら、常に里見を目の敵にしておりました。 それでも我々は国府台の戦の後、窮地に立つ真里谷に助力を惜しまなかった。 

小弓公方家再興の為。 打倒北条の為。 その我々に対し、真里谷がどのように報いたか? 里見の血と骨には、真里谷への宿怨が染み付いております。」 

信茂が大きく頷いた。

河越の夜戦を境に真里谷が見せた変節の露骨さは、北条と里見、両者の間に広がった力の差の投影でもあった。 その隔たりの大きさが誰の眼にも明らかだったからこそ、家中の者達は真里谷に憎悪を向けた。 それは、彼等が抱く不安そのものだったからである。

「過去は如何あれ、公方家再興は既に成った。 それに打倒北条を掲げるのなら、一人でも味方が多いに越した事はなかろう。」

日我の云う事も判る。 二度に亘る安房侵攻が失敗に終わっても尚、上総には未だ北条に与する国人達が多い。 里見は勝ったのでは無く、負けなかっただけ。 

彼等はその事を良く知っているからだ。 そんな上総の中で、真里谷は抜きん出た力を持つ。 義信の転身は、反里見陣営に大きな動揺を誘うだろう。 されど……

「真里谷と云う数を手に入れる事で、失われるものもある。 某は寧ろ、それを恐れます。」

「儂が妙本寺の門徒となったのは、未だ六つの時じゃ。 その頃は未だ北条も小さく、管領上杉がふんぞり返っておった。 それが今や、北条は関東の半分を分捕り、管領はその身一つ置く処さえ失った。」

日我は柄杓で鍋から湯を椀に注いだ。

「何故、かくも北条は強くなったか判るか?」

眼で促された義弘は答えに詰まった。 

「それはな、北条がよそ者だったからよ。」

「何だそれは?」 信茂が眉を顰めた。

「平七、此れを飲め。」

そう云って日我は、お湯の入った椀を突き出した。

一瞬、怪訝な顔をした信茂だったが、椀を受け取り、音を立てて飲んだ。

「どうだ? 旨いか?」

「まあ…… 悪くないな。 良い出汁が出ておる。」 

そう云って、信茂が一気に飲み干した。

「さっきまで味も素っ気も無かった湯が、旨い汁になった。」

信茂と義弘は顔を見合わせた。

「云って見れば、この古い鍋が関東で、焼いた魚が北条と云う事よ。」

北条の開祖、早雲は京の足利幕府の重臣、伊勢氏の一族だと聞く。

関東という古井戸に投げ込まれた一個の異物。

関東では、畿内の武家を指して上方侍と云う。 その言葉の裏には、単に上方、主上(帝)が御座す地の武士と云う意味だけでは無く、利に敏く、節操が無い武士と云う侮蔑の意味合いも込められているように、関東の武家には、嘗て鎌倉が日の本六十余洲を束ねていた古き良き時代への憧憬と、強烈な自負心がある。 武家のあるべき姿を体現しているのは、我々坂東武者である、と。

恰も鈍重な牛の群れに放たれた、一頭のしなやかな豹のように……関東諸侯が名を惜しんで汲々とするのを尻目に、北条は己の野心を糊塗しようとしなかった。

「和尚は一体何が云いたい? 俺にはさっぱり判らんぞ。」

「お前はそれで良いんじゃよ。」 

日我は煩わしそうに、手であしらった。

「太郎。 お前は先程、義信を受け入れれば、失うものもあると云ったな?」

義弘は頷いた。

「先ずは、お前だけの大義を見付ける事じゃ。 但し、忘れぬな。 大義は正義に非ず。 善悪のみで事を量っては、決して北条には勝てぬぞ。」

「随分、北条を買っているようだな、和尚。」 

「おい、平七。」 何か云いたげな信茂を、義弘が窘めた。

「何じゃい。 云いたい事があるなら、はっきり云え。」

「最近、和尚ん処に何やら人が出入りしとるそうだの。 皆、和尚は北条の間者になったと噂しとるぞ。」

「何じゃお前ら。 義堯に云われて参ったのか?」

「無論、上人様を疑っておる訳では無いのですが…… ただ父が、ご機嫌伺いがてら話を訊いてくるようにと……」

「ご機嫌伺いと云うなら、猶更酒でも持って来んかい。 それに北条には寺を燃やされるわ、里見には建て直す銭も無い。 機嫌が良い訳が無かろう。」

立ち上がった日我は、開け放った蔀戸から見える勝山砦に向かって口を尖らせた。

「普段は愛想良くしておきながら・・・ 油断も隙もあったもんではないの。 しかしまあ、此れで久留里まで態々足を運ぶ必要が無くなった。」

「何か…… 父に言伝でも?」

”氏康が里見との和議を望んでおる。」

「何ぃ!? やい、和尚! 坊主の癖に、北条の間者に成り果てたか!?」 

いきり立つ信茂に、日我は薄い胸を反らせて小鼻を膨らませた。

「仲立(なかだつ)と云え、仲立と。 良いか? 此度は、あの氏康が儂に頭を下げてきたのじゃぞ。 若し首尾良く和議が成れば、寺の再興も約定してくれておる。」

「おう、北条に建てて貰うが良い。 建った後、俺がまた燃やしてくれるわ。」

「云うたな、この罰当たりが。」

「和尚の念仏など、何処でやっても変わらんだろうが。 寺の中でも、橋の下でも。」

信茂をひと睨みした日我が、義弘に眼を向けた。

「如何じゃ? 言伝、頼まれてくれるか?」

「申し訳ござりませぬが、聞かなかった事に致しとうございます。」 

日我は左程残念な様子も無く、そうか、と云ってどかりと腰を下ろした。

「しかし和議とはのう。 北条は余程我等が怖いらしい。」 信茂が痛快そうに白い歯を見せた。

それは義弘にとっても意外だった。 北条との力の差を考えれば、確かに解せない。

「だからお前はお目出たいと云うんじゃ。」 

そう云って、日我は鍋の中から鰯の骨を箸で摘まんだ。 

「北条にとって、この骨を呑み込むのは造作も無い事じゃ。 呑み込んだとて死ぬ事も無い。 が、後で往生する事になる。」

濃い鈍色の空から吹き下ろす風に、庵の近くにある梅の枝がざわざわと騒ぐ。 

「今宵は如何する積もりじゃ? 泊まっていくのならば、酒が少し残っておるぞ。」

「いえ……生憎と、今日中に久留里へ戻らねばなりませぬ。」  

「そうか…… ならば早目に出た方が良い。 直に雨になる。」


庵から出ると、眼前に海が拡がっている。 

岩礁にぶつかる波が、扇を広げたような白い飛沫を上げていた。 屹立する鋸山の麓、波洗う岩場にへばり付きながら安房へと続く街道を、のんびりと荷駄が進んでいる。

先の戦から、早いもので三年が経とうとしていた。 

安房水軍が数十年掛けて到達した高みに、北条は僅か数年で駈け上ってしまった。 時を経れば経る程、重く圧し掛かる如何ともし難い国力の差。 海を渡る風が運んで来るのは、雨雲だけでは無い。

北条の大船団が海を埋め尽くす様を思い浮かべながら、義弘は遠くで雷鳴を聞いた。


永禄二年(一五五九年)四月。 上杉憲政より再三持ち掛けられていた関東管領職の継承を、長尾景虎がとうとう引き受けるらしいとの噂が流れ始めた頃。 

春日山に六千の兵が集結、と云う報告が飛び込んで来た。 

すわ、愈々関東出兵か? 里見を始め、関東諸侯は色めき立った。

が、景虎が精鋭六千と共に向かった先は西。 京であった。 

上洛の理由は、幕府から景虎の関東管領就任への許諾を得る為。

しかしそれは表向きの理由で、幕府からの要請に応えて幕政を壟断する三好氏を討つ為と云うのが衆目の一致する所だった。

北条との戦を目前に控えた里見の落胆は、特に大きかった。

景虎が管領職に就く決意を固めたのは、慶事である事には違いない。 しかし所詮は肩書きの事。 幕府からの承認など、北条との決戦後でも事足りる。 況してや六千の軍勢を引き連れ、畿内を中心に九カ国の版図を持つ三好と干戈を交えるとなると、一年や二年の在陣では済まない可能性もあった。 

果たして景虎は、今後頼むに足りるのか? 

彼の度が過ぎた律儀振りを見るにつけ、そんな疑念が浮かんでは消えた。



「あっ!」  新吉が恨めしげに空を見上げた。 

お春が両手を伸ばす先に、薄い羽を小さく震わせて一匹の蜻蛉が悠然と舞っている。  

「だから云ったっぺ、手を離しちゃなんねえって……」 

お春は空を指差しながら、新吉の褌を揺すってべそを掻き始めた。 

「新吉。 あじしたの?」 

軒先の畑で土を鋤いていたおゆうが、顔を上げて汗を拭った。

「おらが折角捕まえた蜻蛉を、お春がしっかり掴んどらんから……」 そう云って新吉は口を尖らせた。

「ほんなら、又捕まえてあげたらええじゃないの。」

山で採った舞茸を干している手を休めた長助は、口を尖らせる新吉を見詰めて微笑んだ。

新吉は手を離すなと云うが、お春は蜻蛉が飛んで行ってしまった事に泣いているのでは無い。 

飛ばした蜻蛉が、離した手に戻って来ないのが不満なのだ。 

新吉が膨れっ面のまま畦に下りていく。

畑ではおゆうが再び仕事に取り掛かり始めていた。 長年土に塗れてきた者だけが持つ、ゆったりとしていながら正確で、流れるような動き。    

(この腰さえまともに動けば……) 

未だ新吉が生まれる前、茸採りの折りに沢で滑落して痛めた腰。 じっとしていれば如何と云う事は無いのだが、腰を屈めていながらの野良仕事となると痛みが出る。

その為、田圃や畑の仕事は専らおゆうが引き受けてくれていた。

平吉の出征の日。 お腹にお春を宿していたおゆうは、牽衣頓足する訳でも無く淡々と夫を見送り、大黒柱を失ったこの家を女手一つで支えてきてくれた。 泣き言一つ云わず。 二人の子供と、野良仕事一つ満足に出来ないこの年寄りを抱えながら。 

そんな彼女に、長助はいつも心の中で手を合わせていた。 

しかし子供達は幼く、おゆうは未だ若い。 皆の幸せの為にも、矢張り新しい夫が、そして新しい父親が必要なのでは?  ひょっとして、自分の存在が、それを思い留まらせているのだとしたら……  

時として、感謝の念が負い目にもなった。

今まで嫁入りの話が無かった訳では無い。しかし彼女は全く興味を示さず、此方が勧めようものなら露骨に厭な顔を見せた。 

おゆうはもう、女として生きる事を棄ててしまったのだろうか?

ただ二人の子の、守護者として。 


村の乙名、太治兵衛が家を訪ねて来たのは、昼餉が済んで暫くの事だった。

「太治兵衛さん。 今日は大漁のようですなぁ。」 

そう云われて太治兵衛の顔が綻んだ。 腰に括りつけた大きな魚篭からは、魚の尾びれが幾つも覗いている。 太治兵衛の釣り好きは村でも知らぬ者はいない。 腕前も相当なものらしい。

「あぁに、たまたま運が良かっただけじゃ。」 

四角い顔に白髪を後ろで確り束ね、ニコニコしている顔はいかにも福々しい。 長助よりも五才年長であるこの好々爺は、村政全般に関わる実務は随分前から息子の甚助に任せているものの、村人の台所に直結する領主との折衝だけは今でも彼が担っていた。 

実際の処、こうも戦続きでは若い甚助ではとても務まらなかっただろう。 

「その後、腰のあんべえは如何じゃな? 長助さん。」  

「いやぁ最近は日和も良えで、大分楽になっとります。」  

「そうか、そりゃあ何よりじゃ。」

そう云いながら、魚篭の中から取り出した数匹の山女魚を長助の目の前に置いた。 

いずれも尺近い。 長助の傍らで石を弾いて遊んでいたお春が、早速興味をそそられたように、魚の眼を指で突っつき始めた。 

「ほれえ、お春。 幾ら死んどるからちゅうて、そんなに食べ物を粗末にしちゃおいねえ。」 

「こん魚な……」 太治兵衛がお春の頭に手を載せた。 

「塩焼きにでもして、新坊とお春に食わせてやってくれ。」 

「本当に太治兵衛さんには、いっつも気ぃ遣って貰うて……」  

「あぁに、どうせ余りもんじゃ。 遠慮は要らん。」  

村には長助のように戦で身内を失った家が多い。 太治兵衛はそんな家々の相談に乗ったり、こうやって余りものだからと魚や山菜、塩や米を届けていた。 

「それから……」 太治兵衛が山女魚をもう二匹、取り出した。 

「いつも済まんが、此れを喜八さんに届けてくれんか?」

どんなに時が経とうが、埋める事の叶わぬ溝と云うものがある。 喜八のようにあからさまで無いにしても、細る一方の活計の中で、村人の太治兵衛を見る視線も厳しくなりつつあった。 

己の境遇。己の行く末。 皆、何処かで絶望している。 

絶望しながらも、足掻いているのだ。 その足掻きが、理不尽な憎悪となってこの人の良い老人に向けられようとしている。 

長助にはそう思えた。


ゆっくりと遠ざかる太治兵衛の背中を見送りながら、長助は腰に両手を添えてゆっくりと伸びをした。 

時々こうやって身体を伸ばさないと、腰が詰まった感じになる。 

筵は舞茸で一杯になっていた。 今日のような日和だったら、三日もあれば干し上がるだろう。

喜八の紹介で馬借の銀蔵に干した舞茸を卸し始めてから、もう一年経つ。 長助にとっては貴重な現金収入だった。 

銀蔵は喜八が杣をやっていた頃からの知り合いで、熊のような強面だが、性格は至って気さくで彼是と世話を焼いてくれる。 この間も良い値で買い取ってくれた。

銀蔵は其れを一旦倉に入れ、ある程度量が纏まったら館山の廻船問屋に持ち込むのだと云う。 上方では結構な値が付くらしい。

おゆうは身体を気遣って余り無理はしてくれるなと云うが、野良仕事が出来ない分、こうやって埋め合わせ出来る仕事があるのは有り難かった。 もう少し銭が貯まれば、木綿を買って新吉とお春に新しい着物を作ってやれる。

そう考えると、心が浮き立った。



今川義元から届けられた書状を、北条氏政は時間をかけて読んでいた。

氏康が嫡男氏政に家督を譲ったのは、先月の事。 四十四での早すぎる隠居であった。 前年に起こった未曾有の大飢饉に苦しむ領民の救済の為、代替わりを徳政令実施の名分としたのである。 とは云え、全ての実権は引き続き氏康が掌握している以上、彼の隠居は北条に大きな変化を迫るものでは無かった。

氏政は今年で二十一。 

大柄な体躯。 昔から聡明を謳われた俊英である。

「左様か…… いよいよ義元殿が立たれるか。」

氏政が感慨深げに一つ頷いて、書状を脇に控える綱成に廻した。

書状には、来年を目処に上洛軍を催し、京まで攻め上ると云う決意を綴る義元の言葉が踊っていた。

「義元殿自らがご出陣されるのであれば、京への途も左程遠いものにはなるまい。 我等と今川家とは身内も同然。 此方で合力出来る事があれば、何なりとお申し出頂きたい。 

義元殿にはそうお伝え下され。」 

氏政らしい、そつの無い、やけに老成された物言いに今川からの使者は感激の面持ちで畳に額を擦り付けた。


使者が辞去しても、氏政は動かなかった。

閉じた扇子の先を額に当てて、何事か考えに耽っている。

「儂は正直…… 今川は上洛せぬと思っておったが、如何やら思い違いだったようだな。」

氏政は誰に語るともなくそう呟いた。

彼がそう思うのは無理は無い。 甲相駿三国同盟が結ばれて、もう六年の歳月が流れていた。 

「某の愚察ですが……お屋形様のお見立て通り、義元に上洛の意図はありますまい。」

「ほう、綱成の存念が聞きたい。 申してみよ。」

興味をそそられるように氏政が身を乗り出した。

「前年、義元は何の前触れも無く隠居し、家督を嫡子の氏真に継がせました。」 

氏政が頷いて先を促した。

「つまり、氏真を表に据え、自身は裏に廻った。」

氏政が薄い唇を僅かに歪めた。

「判らぬ。 何が云いたい?」

「裏に廻るには、それまで裏にいた者を除かねばなりませぬ。」

氏政は合点がいったように顎を揺らした。

「それは、つまり……」

「はい。 寿桂尼は既に、今川の政から離れていると云う事でござりましょう。 元々、上洛に執着していたのは寿桂尼。 その寿桂尼が関わらぬ上洛戦など、俄かに信じ難き事。」

自ら退いたのか、或いは義元から退けられたのか?

恐らく後者だろう。 あの修羅に生きる尼僧が、自ら実権を手放すなど考えられない。

「況してや今、京には六千の軍勢を率いる長尾景虎がおります。

上洛の兵を挙げる時機としては、聊か解せませぬ。」

軍勢を率いて京に上った景虎は、三好討伐の御教書を待っている状況である。 長尾と三好が角突き合わせる鼻先で上洛を為す事など、摩利支天でも無ければ叶わないだろう。

「そうじゃ。」 氏政が扇子でパシリと膝を叩いた。 

「それを儂も思うておった。 ならば、此度の挙兵で上洛を掲げる義元の真意は何処にある?」

「恐らくは東美濃の制圧。」

氏政は、千両箱から石塊が出て来たような顔をした。

「若し東美濃を今川が押さえれば、武田は国境を越えて西には行けませぬ。」 

「つまりは…… 武田に悟られず、その野心に蓋をする為か?」

「御意。」

北条の開祖、早雲は元々今川家の客将であったように、両家には多少の諍いはあったものの、長い間育まれてきた膠漆の交わりがある。 家督を継いだ氏真の諱も氏康から与えられたものだ。

しかし武田は違う。 武田にとっての三国同盟は、利害によっての結び付きに過ぎない。 同盟に益無しと見れば、今川北条に対して牙を剥くのに、一片の躊躇も無いだろう。 同盟者でありながら、常にその動向を注視せねばならない、警戒すべき相手。

それが武田晴信と云う男だ。

東美濃は武田にとって、西へ大部隊を展開出来る唯一の玄関口。

其処を押さえられれば、彼の野心は北へ向かうしかない。

そう、あの虎がいる北へ。 

竜虎相搏つ戦いは、いずれ両者を疲弊させるだろう。 つまり東美濃は武田と長尾、両家の力を封じ込める為に欠く事の出来ない要衝なのである。

「成程…… 父がそなたを重用する理由が判った気がする。」

感心では無い。 得心でも無い。

何か、潤色を施す言葉の裏に潜む狐疑の念を綱成は感じ取った。

嫉妬と警戒。 家中には、綱成に対して面白からざる思いを抱く者が多い。 氏政はその事を良く知っていた。 何しろ、綱成嫌いで知られる北条幻庵の薫陶によって氏政は育てられたのである。 

周囲から疎まれる自分に同情はあるまい。

「では、北条は此れから如何動くべきと考える?」

「それについては、御本城様が思案しておられる筈。」 御本城様とは隠居した氏康を指す。

「某如きが彼是とは申せませぬ。」

「……うむ。 道理じゃな。」 

少し鼻白んだ気配を隠しながら、氏政はパチリと扇子を鳴らした。


今川からの使者との接見が終わり、綱成はその足で湯河原に向かった。 

其処には氏康の保養所がある。 

子供の頃から病気がちだった氏康は、元々身体が丈夫な方では無い。 しかし母親の勧めで、この湯河原の温泉に浸かるようになってからと云うもの、不思議と病気をしなくなった。 それ以来、月に何日かは湯河原で養生するのを常としていた。

湯河原は東海道でも有数の温泉地として知られている。 千歳川の清流が縫う谷を覆う鮮やかな緑と、噴気孔から立ち上る湯気。 旅人達が憩いを求めて立ち寄る宿は、何処も繁盛しているようだ。 川向こうの様子を横目で見ながら、上流に向かって更に進む。 

川の西側一帯は氏康の御料地であり、許可の無い立ち入りは厳しく制限されている。 

やがて屈強な兵に守られた竹矢来が見えてきた。 

氏康の保養施設はその奥にあった。


質素ながら堅牢な館の周囲では、警護の兵達の眼が抜かり無く光っている。 

綱成は館内の広大な中庭に通された。 中央には色とりどりの躑躅に、綺麗に刈り込まれた松が配された築山。 そして周囲には、大振りの景石や燈籠が、絶妙な位置取りで配置されていた。 

氏康は、庭の一角に設えた岩風呂に隣接する四阿にいた。 

丁度湯から上がったばかりなのだろう。 湯巻き姿でくつろぐ氏康の額には、玉のような汗が浮いていた。 全体的に骨太なのだが、なかなか肉が付かない。 寧ろ痩せ過ぎと云っても良い位だ。 

綱成が持参した今川からの書状を見ても、氏康は何の表情も示さなかった。 

無関心、と云った方が近い。

書状を脇に置いた氏康は、綿布で額の汗を拭った。 

「都の将軍は、愚図愚図と未だ迷っておられるようじゃの。」

都の情勢は、逐一知らされている。 上杉勢との対決は何としても避けたい三好側が、将軍の歓心を買う為に躍起になっているらしい。 今では媚薬を嗅がせられた幕府の有力者や、朝廷内部からも仲を取り持つ動きが出ているようだ。

今のところ、それが功を奏しているのだろう。 幕府側が一旦振り上げた拳を下げる気配を見せていた。 況してや今回の今川の挙兵は、上洛戦と銘打たれている。 幕府側に、後ろ盾は長尾だけでは無いのだと云う、心の油断が生まれていても不思議では無かった。

「和歌だの茶会だの…… 景虎も大分暇を持て余しているようにござります。」

「まあ、いずれ痺れを切らすであろうが……」

何しろ六千の軍勢を半年近く京に張り付けているのだ。 出費も相当嵩んでいよう。

「その前に、里見を如何にかせねばなるまいの。」

景虎が京にあり、武田の同盟が利いている内に上野に手を伸ばす策もある。 しかし氏康ならば、来たるべき景虎来襲に備える為、房総を完全に手中に収める方を執るだろう。 

安房攻めは綱成も予期していた事だった。 

「それで……? 日我とか云う坊主、あれから何か伝えてきたか?」

そう云って、氏康は竹筒に入った水を含んだ。 

庭内に在る湧き水は万病に効くとされ、氏康は数年前から其の水を愛飲していた。

「はっ。 久留里には書状を届けたと申しておりますが、返事は北条が勝手に貰いに行け、と」

それを聞いて、氏康は口の中で笑った。

「受けると思うか? 義堯が、和議を。」

「難しいと思われます。 我々と和議を結ぶとなれば、家中を二分するような騒動になるは必定。 義堯に其処までの覚悟があるとは思えませぬ。」

「我々との和議に異を唱えるのは?」

「先ず、嫡男の里見義弘が黙ってはおりますまい。 そうなれば正木時茂や土岐為頼等、重鎮達も後ろ盾に廻るやも知れませぬ。」

強固な主従関係で組織化された北条とは違い、里見陣営は南房総の有力国人達の連合体である。 里見が総領と云う立場に収まってはいるものの、はっきりとした主従の関係で結ばれている訳では無いのだ。 一旦結束にひびが入れば、毀れるのもあっと云う間だろう。

「里見義弘、か……」 氏康は薄い笑みを浮かべた。 

「そう云えば…… 鎌倉を襲ったのは、青岳尼を連れ戻す為だったそうだな?」

「……御意にござります。」

「泣かせる話だ。親父の義堯も、さぞや心打たれたであろうよ。」

義弘に向けた氏康の冷笑は、己の情念で多くの兵を犠牲にした、彼の見境の無い行動に対する侮蔑であった。 しかし自分は…… 氏康のようには義弘を嗤えない。

まるで喉の渇きを訴える者が命の水を求めるように、如何しようも無く彼女に惹かれながら、結局一歩も踏み込もうとはしなかった。いや、出来なかった。

氏康が貫く冷徹な信念や、義弘が示した烈々たる激情は、この矮小で中途半端な自分にはただただ眩しく見えた。 

「良し。 此度は儂が采配を執ろう。 留守居役を除き、総動員を掛けよ。 糧秣は三浦城と玉縄城にそれぞれ二十万石。 手筈は全てそなたに任せる。 足りぬものがあれば、儂への伺い立ては無用じゃ。 何でも奉行衆に申しつけよ。」

総量四十万石の糧秣。 小田原城に在る全ての米倉を空にしても追いつかない。  

里見との戦いに、四度目は無い。 そんな氏康の決意が窺えた。



正木時茂が越後に向けて発ったのは、景虎がとうとう帰国の途についたとの報が流れ始めてからであった。

里見にとって時茂は弓矢の要。 その武名は四隣に響き渡り、景虎も格別の好意を寄せる武将である。

対北条との戦いに於いて欠かせぬ彼を、敢えて越後に向かわせたのは、腰の重い景虎への里見の苛立ちの表れであり、決断を迫る覚悟の現れだった。 

そして時茂が発った一ヶ月後。 

東の空に張り付く雲を透かして、曙光がぼんやりと差し込む風の強い十一月の朝。 

万余の兵を満載した北条の大船団が、三浦湊から白い波頭を刻む海へ乗り出した。

北条にとっては満を持しての出陣である。

北条の威信と、里見の存亡を賭けた戦い。 

関東の将来を決める戦いの幕は今、此処に切って落とされたのである。



遠くで、鉦が鳴っている。  

ややもすると風に吹き消されてしまうほど、小さな音。

銀蔵に舞茸を納めた帰りの山道。 長助は足を止め、耳を欹てた。

何か切羽詰ったように、一心不乱に叩いている。 

そして鉦は唐突に止んだ。

(子供の悪戯じゃろうか……?)

異変に気付いたのは、木立ちが天を覆う山道を抜けて、杣の伐採地へ差し掛かった時であった。 

視界が開けたその場所からは、村を一望する事が出来る。  

白煙を上げている家。 それだけでは無い。  村の其処彼処で何かが蠢いている。 

長助は目を凝らした。 

(あ、あれは……)  北条の兵…… 

勿論、戦の事は知っていた。 内房に在る里見の城は悉く落ち、年を越えて更に兵を増やした北条軍は、今では五万近くに膨れ上がっているのだ云う。

(まあ、里見も今回ばかりは如何にもならんだろうて)  

銀蔵は肩を竦めてそう云っていた。 しかし村に禍が降り掛かる事はあるまい。 長助はそう高を括っていた。 実際前回も、前々回も北条は村を素通りするだけだった。 乱取りを禁ずる制札が出されていたからである。

云いようの無い不安が、冷たい刃先となって長助の背中をすうっとなぞっていく。 

混乱する頭の中に、ありったけの問い掛けを詰め込みながら、長助は転がるように山道を駈け下りて行った。


三人の兵に呼び止められたのは、山を下りて直ぐの事だった。 

三人とも粗末な腹当と鉢金を付けただけの軽装で、見るからに雑兵と思しき風体だ。 

略奪した米なのだろう。 引いた馬の背に、口を開けた米俵を縦にして括り付け、銭を通した銭紐を頸からぶら下げている。 

大柄の男が目の前に立った。 

泥と汗で黒光りした顔に、ぎょろりとした目。 短く太い髭に覆われた頬には、顎まで伸びる深い刀疵が走っている。

長助が背負う空の背負子にちらりと視線を向けて、「行商の帰りか?」と尋ねた。

「持っとる銭出せ。」

「い、いや……  おら…… ちょっくら山に……」  

鼻で笑った髭面は、いきなり拳を顔面に飛ばした。

「ぐっ……!」 ガツンと云う衝撃と共に、火花が弾けた。  もんどりうって倒れる。 

頭の芯がじんじんと痺れ、顔の感覚が鈍磨していく。

「おい、じじい。」 見下ろす髭面の眼が凶暴な眼光を帯びている。 のろのろと躰を起こした長助が、髭面の足許に手を突いた。 鼻が潰れたのか、滝のように滴り落ちる鼻血が止まらない。

「俺ぁ虫の居所が悪いでな、舐めた真似しくさるとぶち殺すぞ。」

「へ、へい……」 カチカチと歯が鳴り、口に流れ込んだ錆臭い血が舌に絡む。

「おうおう、可哀想にのう。 震えてやがる。」 

髭面の男の後ろで、しゃくれた顎の男が囃し立てた。 馬の口を取る若い兵は傷を負っているようだ。 脇腹を押さえる手が血で滲み、脂汗で光る額に苦悶の皺を刻んでいる。 

「もう一遍云うぞ。 銭を渡せ。」

「お…… お侍さん。 ほ、本当じゃ。 おらぁ、あんも……」

足が飛ぶ。 腹にめり込んだ。  

臓腑が悲鳴を上げて捩れ、苦い液が込み上げて来る。 君臨する者としての昂ぶりを抑え切れないように、今度はしゃくれ顎が手を伸ばす。 髪を掴まれ引き摺り上げられた。 

腰が抜けたように力が入らない。 

そして拳が顔面に打ち込まれた。 

数本の前歯が、根元から吹っ飛んだ。 

倒れた躰に再び足。 皮膚が裂け、骨が軋む。  

殺される。 そう思った。 

「お、お待ち下せえ!  だっ、出しますで、今……」

懐から差し出した銭袋が、乱暴にもぎ取られた。 

「端っから大人しく渡してりゃぁ、痛い目会わずに済んだのによぉ。」 

小馬鹿にするような声が浴びせられ、項垂れる長助の頭に唾が飛んだ。


三人が立ち去っても、長助は暫く動けずにいた。

まるで石で骨を削られるような身体の痛み。 口に纏わり付く血を吐き出し、漸く腰を上げた。 

厭な耳鳴りがして、焦点が定まらない。 足を踏み出す度に、毛穴から脂が滲み出てくる。

其れでも歯を食い縛りながら、ふらつく足で家路を急いだ。


家の様子は、普段と同じだった。

お春が一人、外で石を弾いて遊んでいる。 胸を満たしていた不安を安堵感が掻き消していく。

(皆、無事だったか……) 

縁側に置かれた湯桶も、竿竹に架けられた筵も。 軒下に吊るされた大根も。 全て見慣れた光景。 

出た時と寸分変わらぬ佇まい。

しかし…… 何かが違う。 

何年も打ち棄てられた廃屋のような、この形容し難い寂寥感は……一体、何だ?

「お春……」 

血に塗れた長助にびっくりしたのか、お春は泣き出しそうな顔をして後退りした。 

「お春、此処にいたらなんねえ。 早く……」

その時、視線の端に何かを捉えた。 

大きく開かれた表戸から覗く白い…… 肢?

心の臓がゴトンと落ち、一瞬全く知らない場所に放り込まれたような、そんな奇妙な戸惑いが心を支配した。 

(ま、まさか……) 

無我夢中で駈け寄ると…… 土間に裸に剥かれたおゆうが転がっていた。 

散々殴られたのか、顔が変形する程腫れ上がっている。 腰巻の端が口に押し込まれ、かっと見開いた眼が虚空を睨み付けていた。 

まるで獲物の専有を誇示するかのように刻まれた凄惨で、執拗な陵辱の痕跡。 

心の中で、何かが音を立てて潰れた。

長助は土間にへたり込み、両手で頭を抱え込んだ。

(な、なんて事じゃ……) 

細い頸にくっきりと浮かぶ、赤黒い締め痕。 

震える指先で、口の中から腰巻を取り出した。

もう…… おゆうは、しゃべらない。 動かない。 

業塵を貪る獣欲が排泄した、掃き溜めの中で……

そして不意に、ぞくりとするような現実感に引き戻された。

新坊は……? 慌てて視線を周囲に巡らす。 

外に出て、幾ら名を呼んでも返事が無い。 

(山にでも逃げていてくれれば……) 

縋るような思いで、畑を抜けて家の裏側に廻ろうとした時…… 

血の気が、一気に足先まで転げ落ちていった。  

槍が…… 落ちていた。 

確かめるまでも無い。 平吉の槍だ。 

土手の向こうに広がる青苗が、引き返せとでも云うようにざわざわと騒ぎ出す。 

竦む足を励まして歩を進めた。 

田圃の前を流れる、小さな堀切。

覗き込む長助。 そして…… 凍えるようなしじまの中で、時が止まった。 

長助は両膝をついた。

背中を丸めて横たわる新吉の前で、浅い流れが蹈鞴を踏み、その淀みに血がゆっくりと筋を引いている。 顔は蝋のように血の気が失せ、紫色に変色した唇。 

小さく開いた目の中の瞳は、もう何も見ていない。

長助は、ただじっと見詰めていた。 ぎゅうっと狭まった視界に、必死の言葉を投げ掛けながら。 

心はこんなに急いているのに…… 躰が、動かない。

触れたら最後、夢から醒めないような気がして。  

そう、これは…… 夢なのだ。 土を咬むこの手の感触も。 

横たわる新吉の姿も。 穿たれた途方も無く大きな虚に心が吸い込まれ、音も無く崩れていく砂のように自分が毀れようとしている。 

夢の出口は…… 何処だ?



立ち昇る黒煙が、ゆっくりと山肌を舐めている。

兵達が怒号を上げ、殺戮が充満するこの戦陣。 この空気。

匂い。 しかし、いつもとは違う感覚。

久留里城が睥睨する野。 至る処に配された逆茂木が炎を吹き上げている。 

小櫃川沿いの曲輪に雪崩れ込んだ綱成の軍勢は、縦横に敵陣を切り裂いていた。  

押し太鼓が鳴り響く。 

敵兵の腰が浮き立ち、顔に恐怖が貼り付いている。 

側面から迫る新手の敵。 

三つ引両の旗指物。 正木の軍勢のようだ。   

正木時茂は今、越山を請う使者として越後へ赴いている。 とすれば、率いているのは嫡子の信茂か?  勇猛で、真っ直ぐな戦をすると聞く。 

しかし所詮、猪武者。 父には及ぶまい。 

福島勝広の騎馬が、土を跳ね上げて飛び出して行く。 

両者は真っ正面からぶつかった。 

猛将として名を馳せるだけあって、信茂の勢いが尋常では無い。 

しかし、勝広も腰を割らず互角に渡り合っている。 

右に迂回した綱成の騎馬隊が、側面に廻る。 その動きを察知した敵に動揺が走った。 

綱成は間髪を入れずに突撃を敢行。 

血飛沫を上げながら敵を断ち割っていく。 

敵陣を突き抜け、そのまま馬を疾らせた。 

山の頂に本丸が見える。

(青岳尼殿……) 

今から二十数年前。 国府台の戦いで主を失った公方館に差し向けられた軍勢を指揮していたのが、自分だった。

館には紅蓮の炎が上がり、略奪と狼藉が跳梁する中で青岳尼の母は喉を突いた。 そして幼い彼女を守り、南へ奔る決死の一団は、まるで蟻が群がる羽虫のように切り刻まれ、屍を野に晒した。

あの頃の自分は若く、飢えた野犬のようにぎらついていた。 何の後ろ盾も無い余所者が、この北条家でのし上って行く為に。 

それを知っていながら、彼女は仇である自分を受け入れ、微笑みを投げ掛けてくれた。 

時の隔たりとは、そう云うものだ。 

滔々たる時の流れは、人の感情さえも平板な記憶に変えてしまう。

この戦で里見は滅び、そして恐らく……彼女もまた、己の業に殉ずるのだろう。 

そして全てが永遠に記憶の中に封じ込まれるのだ。 彼女に向けた想いや、味わった惨めさと共に。

前方に敵。 

綱成の視線は一人の男に釘付けとなる。 栗毛の馬に跨がる騎馬武者。 

白い紙の上に、黒く滲んだ一点の染み。 

魂は遥か死線を超え、形容し難い激情が躰を衝き動かす。 

里見義弘。

綱成は心の中で、その男の名を呼んだ。


太刀を握る手が、微かに震えていた。

山裾から小櫃川にかけて縄張りされた広大な曲輪。 焼け落ちた逆茂木の一角から、濁流のように殺到する敵軍。 里見の精鋭達が為す術も無く狩り立てられていく。 

算を乱す味方に向かって声を嗄らすも、動揺は収まる気配が無い。

槍を繰り出す敵。 里見義弘は馬上から力任せに斬り伏せた。  

前方に騎馬の一団。 真っ黒になって迫ってくる。

朽葉色に染め抜かれた旗指物。 地黄八幡の旗。  

その中央……  漆黒に塗られた筋兜。 振り上げられた太刀。 

陽光を浴びて、影を落とす眉庇に遮られた表情は見えない。 

しかし、ビリビリと感じる強烈な視線。

そしてその男は……  笑った。  

身震いする程の恐怖が、躰を抱き竦める。 

あっという間に目前に迫る敵。 小倉忠宗を始めとする馬廻りが、慌てて脇を固めた。 

ドスン! 巨大な土嚢にぶつかったような凄まじい衝撃。 

息が詰まり、骨が軋む。

組んだ陣形は、一撃で粉砕された。 

棹立ちになる馬。 

義弘の背中に、鈍い音を立てて何かがぶつかった。 具足の背板が砕ける。

再び敵騎馬。 今度は横から揉み上げる。 

口を衝いた叫びが、千々に破れて兵馬のうねりに呑まれていく。

断末魔の嘶きと共に、馬がどうっと倒れた。 投げ出された義弘もまた、全身に傷を負っている。 気が付けば敵に囲まれていた。 

息苦しいほどの圧力。 

手負いの義弘を押し潰さんと、左右から敵の壁が狭まる。

兜が弾け飛ぶ。  最早、声を上げる余裕すら無い。  

殺到する敵兵のぎらつく眼光。 真っ赤な口。

躰の芯が焼け、心の臓がせり上がる。 

最早此処までか…… そう思った時、絶望的なまでに厚かった敵の囲みが動いた。  

兄者!と呼ぶ声。  

視線の先に、先ず飛び出して来たのは、弟の堯次だった。

そしてその後ろには…… 敵の刀槍を掻い潜りながら、必死に馬を操る足利頼純の姿があった。


氏康親征の所為か、北条の攻めの厚みが今までとはまるで違う。 

関東の半分を版図に呑み込んだ大北条の国力を、まざまざと見せ付けられるような思いだった。 

四万五千の軍勢をを二手に分け、富永直勝が率いる江戸衆は下総で最大勢力を誇る大名、千葉胤富と合流して陸路上総へ侵入。 

そして本軍は海を渡り、安房勝山湊へ。 

まるで無人の荒野を行くが如く、北条は里見を圧倒し、南房総の村々を劫掠の嵐の中に放り込んだ。 

今回の侵攻戦に於いて、氏康は略奪や狼藉を禁ずる制札を一切出さなかった。 

当然、村々には怨嗟の声が巻き起こっている。 

しかしその声はやがて、彼等を守れなかった里見へ向かう拳になるかも知れない。 

氏康にはそんな狙いもあるのだろう。  

そして久留里での籠城戦。 

敵の先陣となって鬼神の如く暴れ廻った北条綱成の凄まじい攻撃の前に、里見の将兵達はまるで案山子のように次々と薙ぎ倒されていった。 

北条の兵で埋まった城下。 昼夜を分かたず繰り返される攻撃。 泥のような疲労に、炙られるような焦燥が糾う。 湧き上がる北条の鬨の声と、立ち竦む久留里の本丸。  

絶望が、重く覆い被さろうとしていた。

そして、辛うじて余命を繋ぐ城山に今日もまた、戦いを強いる残酷な朝日が昇り始める。 狭隘な久留里の平野に晒される夥しい屍。 ゆっくりと流れる朝靄を衝いて、舞い降りる烏の群れ。 

しかし何故か、敵に動きが無い。 時だけが過ぎる。 

やがて朝靄が晴れ、雲の白さが際立つようになった頃…… 潮が引けていくように、敵軍が引き始めた。 粛々と北を目指して。  

その様子を呆然と見詰めていた城内に、ざわめきが走り、やがて歓声が拡がっていく。  

越後の虎が…… とうとう山を越えた。  

その瞬間だった



手から離れたお春が、近くの野草を摘んでいる。 

あの日以来、お春は殆ど口を利かず、笑顔を見せなくなった。  

そして長助も…… 大きく穿たれた心の虚を埋める事も出来ないまま、終の途の際に立ち尽くしていた。 

久遠の闇に封じ込められた幻影を追い、絶弦の上を指でなぞりながら、奏でられる事の無い音色に耳を欹てる。 そんな日々をこれから何日、何年過ごさねばならないのだろう?

真新しい盛土。 

長助はその上に両手を這わせた。 夏だと云うのに、其処だけがひんやりとしている。 

埋めるべきものとて無かったこの墓に今、おゆうと新吉が眠っている。

夫を殺した者達の手によって、我が子の眼の前で嬲り殺しにされた、おゆうの無念さを想う。

勇ましくなくとも良いのだ。 生き続けてこそ…… 

争う事の無意味さを説いたのは自分だった。

それでも新吉は槍を取り、小さい躰で見上げるような大男達にぶつかっていった。 

ただ、母を守る為に…… その必死さを思う。

そして自分は…… 唯々、二人に救いを求めている。 

この苦しみから…… この絶望から…… 

如何か、救い出してくれ、と。

低い、嗚咽が口から漏れた。 

哀しみの言葉が、泪となって溢れ出す。 

小刻みに震える肩に、お春の小さな手がそっと触れた。 

せがむように。 慰めるように。

お春の手に擦られて、揺れながら……  

長助はやがて大きな声を上げて泣き伏した。




   









 
















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