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里見と北条  作者: 小松徹
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里見と北条(下)

三船山での大捷利によって、里見は息を吹き返した。 

それまで去就を曖昧にしていた庁南豊信と土岐頼春が、改めて里見への恭順の意を表したのである。  

一方、福島勝広と太田氏資を失った北条軍は、将兵合わせて実に三千を超える屍を障子谷に晒した。 

将兵の損失ばかりでは無い。 足利頼純に急襲された北条水軍は、百を越える輸送船を一気に失ったのである。 

その当時、輸送船団を護るべき軍船が安房水軍の拠点、館山湊に全隻振り向けられていた事が、北条にとって裏目に出た形となった。海上兵站の壊滅により、対里見攻略の大幅な見直しを迫られた北条は標的を古河、関宿に転じ、翌永禄十一年八月、関宿の梁田晴助と和議交渉を持った。 

しかしその過程で、小田原に幽閉中の足利藤氏が既に処刑されていた事が明らかになり決裂。 それを受けて、北条は下総の栗橋城に兵を入れた。 丁度川を挟んで、古河と関宿の中間に楔を打つような体勢である。 

総指揮を執る大石氏照は精力的に兵を繰り出した。 

しかし関宿城の梁田晴助の守りは固く、一方古河城も以前のような腰の軽さは見られなかった。  

古河城の足利藤政は未だ若く、凡庸との評判であったが、古河城と隣接する下野佐野郷を治める佐野晴綱と、足利頼純が共に城に籠り、藤政を良く補佐していた。

氏照にとって意外だったのは、頼純の働き振りである。 

里見に担がれ、そして良いように捨てられた傀儡。 氏照にはその程度の認識しか無かった。 

しかし頼純は常に軍の先頭に立ち、大軍の向こうを張って一歩も引かない戦い振りを見せつけた。  

関宿は兎も角、古河城攻略は容易いと考えていた当初の目論見は、彼の奮戦によって覆され、膠着状態に陥った戦は月日だけが浪費され、前回に続き結局何の成果を上げられないまま、氏照は小田原へ引き揚げたのである。


そして同年十二月。 とうとう甲斐の武田が動いた。

死しても今川の守護たらんとする今川家の国母、寿桂尼の遺命により今川館の北東に設けられた墳墓が睨む街道から、一万二千の軍勢が砂塵を巻き上げて駿河に雪崩れ込んだのである。 

武田信玄の名は全国に轟いている。 剛在りて勇に流れず、謀在りて策に溺れず。 戦国最強と謳われる武田軍の総帥として、今や甲斐、信濃全域、上野の西半分を斬り従えていた。 

勝敗は戦う前から既に決していた。 今川の重臣達が次々と矛を収め、信玄の馬前で跪く状況に意気阻喪した今川氏真は、一目散に遠江へに逃れ、信玄は一兵も失う事無く駿府城を手に入れたのである。

斯くして甲相駿の三国同盟は此処に至って瓦解、北条は長大な境界線を挟んで武田と云う新たな難敵を抱え込む事態となった。



「氏照はもう発ったのか?」 

削げた頬に刻まれた陰影が濃い。 薬師の話では、今朝も熱があったようだ。 今年に入ってから氏康は床に付く日が多くなっていた。 時々、厭な咳をする。  

氏康の様子が最近如何もおかしい。 彼の相伴役からそう聞かされたのは、武田の駿河乱入直後であった。 何か気の抜けたように投げやりになる時があるかと思えば、瑣末な事で頑なになったりする。 彼を良く知る者から見れば、考えられない事だった。

「今朝、伊豆三島に向けて出陣されました。」 

駿河を併呑した武田の動きに備える為だ。

「氏政は?」

「小田原にて、今後の手当てについて指揮されております。」 

痰が絡むのか、氏康は少し喉を鳴らして顔を歪めた。

以前の氏政には、氏康に近い古参の部将を煙たがり、自分と馬が合う若い将達を重用する傾向があった。 綱成が侵攻軍の編成から外されたのもこの所為だ。 それでも若し大石氏照が本陣にいれば、或いは展開は全く違ったものになっていたかも知れない。 

しかし自分が父に劣らない英傑である事を如何しても家中に示したかった氏政は、戦巧者の弟を敢えて決戦の場に置かない事で、戦の勝利によって付与される威名を独り占めしようとしたのである。

こうして氏政は、見す見すと里見に一糸一毫の勝機を与えてしまったのだ。 つまりあの敗戦は氏政の自負と気負い、そして見通しの甘さに因る自滅とも呼べるものだった。 

それが余程堪えているのだろう。 ここ最近は一頃の気負いが消え、周囲の声にも良く耳を傾けるようになった。 敗れはしたが、未だ北条の屋台骨が揺らぐまでには至っておらず、今の里見に海を越える力は無い。 しかし相手が信玄となると、一つの敗北で全て引っくり返される恐れがある。

あの敗戦で氏政が目覚めてくれれば、それで良い。  

氏康の表情がそう語っていた。 

「綱成。」

「はっ。」

「武田は……  まさか上杉と裏で繋がってはおるまいな?」

「それはありますまい。 武田が北信濃を放棄するならまだしも、何の譲歩も無いまま信玄と結ぶには、政虎の名分が立ちませぬ。」

信玄に屈し、川中島で掲げた大義を棄てたと見られるのは、政虎にとって耐え難い事だろう。

「では、此方に…… 政虎を取り込めるか?」

「易くはありませぬが、或いは……」

「良し。 此方の条件は、義氏を公方として認めて貰う事。 それだけで良い。 後の判断はお前に任せる。 早速動いてくれ。」 

喉の奥からせり上がってくる嫌悪の情と共に、酒焼けの、あの不機嫌そうな義氏の顔が頭に浮かぶ。 いっそ膾にして魚の餌にでもしてやりたい位だった。 しかし北条家にいる以上、それは叶わない願望である事も承知している。 

「ははっ……」 

膝元の薬湯を取り上げて口に含んだ氏康は、明かり取りから漏れる淡い光に顔を顰めながら、また一つ咳をした。



日笠村の社には、各々得物を携えた村の者達が集まっていた。

久留里へ強訴に及ぼうとした太治兵衛が、領主によって獄に繋がれたのである。

三船山の戦で大捷利を収めたとは云え、里見側も千を超える死傷者を出した。 際限も無く続く北条との戦。 近頃では家主であろうが長男であろうが、当たり前に軍役にかけられる。 

更に、重くなる一方の年貢や棟別銭、段銭などの諸役。 

村の窮状を見かねての太治兵衛の行動だったのだが、その動きを察知した横井弥七郎によって捕らえられたのである。 これが鬱積していた村人達の不満に火を付けた。

充満する異様な熱気に酔ったように、皆、眼が血走っている。 

徳政を求める群衆の中には、昔の杣仲間と共に喜八の姿もあった。昔使っていたものだろう、大振りの斧を携えている。 それとは不釣合いな痩せた身体は痛々しいが、気迫が全身に漲っている。

近郷から集まった馬借達もいる。 関銭の高騰や荷駄隊編成時の人馬の徴用等、彼等も村人の不満を共有していたのである。

彼等を束ねていたのが銀蔵だった。 

戦馴れしているのだろう。 気負いが先に立つ百姓達とは対照的に笑みさえ浮かべ、巨躯を折り曲げるようにして皆の肩を叩きながらてきぱきと指示を出している。 

この蜂起には、賛同するのを躊躇う者も多かった。 しかし村の決定に背くことは出来ない。 だから長助も鍬を持って、ただ事態の推移を見守るしかなかった。

やがて付近の村々からも続々と人が集まり、結局二千を超えるまでに膨れ上がった一揆勢は、横井弥七郎の館をぐるりと遠巻きに囲んだ。 館の周囲には逆茂木が設けられ、百名近い郎党が守りめている。

弥七郎は既に寄親へ事態の報告と、沙汰を願い出ているらしい。

このまま館に討ち入ろうとする声も上がったが、領主側からの返答を待つべしと諌めたのが銀蔵だった。

裁断が下りたのは二日後。 段銭の免除と、土倉や酒屋、寺社等の高利貸へは、質流れ地の無償返付と債務証書の破棄を命ずるものだった。 百姓達の要求が全面的に認められたのである。 

一揆勢の歓喜が天を衝いた。


その日の夜。 馬借達が持ち込んだ酒樽が開けられ、村を挙げての宴が催された。 

すっかり一揆のまとめ役となった銀蔵がいる。 村の鼻つまみ者だった喜八が、輪の中心で酒を痛飲していた。 此れからは誰の指図も受けぬのだ、と気勢を上げる者がいる。 

勇ましさを競うように、領主や里見家への痛烈な批判が口々に上る。そして宴の片隅では、牢から出された太治兵衛がぽつねんと酒の肴を突ついていた。 

初めて示された村人の怒りが、村の様相を一変させようとしている。 何とかなるさと肩を竦めて遣り過ごしていた彼等自身を、酷く惨めな過去の姿として葬り去ろうとしていた。



「時忠殿…… 我等は一体如何致すべきかのう?」 

上杉の使者が持参した書状越しに、梁田晴助は縋るような視線を投げ掛けている。 書状には、北条との和議に向けた交渉に入っている旨が記されていた。

呆気無いものだ。 そう思った。 

里見が三船山で血を流しながら懸命に掴み取った未来を、上杉政虎が舌一枚で引っくり返そうとしている。 義弘の落胆は如何ばかりか? 

足利義氏を古河公方とし、管領職は引き続き政虎が務めること。 上杉の上野領有を認め、更に武蔵岩槻城を、現在佐竹に寄寓する太田資正に返還すること。 北条氏政の次男を政虎の養子とすること。 

和議の条件として掲げられた事項は、関東諸侯に対する政虎の体裁と、氏康の思惑に彩られていた。 

岩槻返還は、反北条陣営の分断を狙ってのものだろうが、資正は孤立無援の武蔵で、長年にわたり北条に抵抗し続けた男。 策略と判かりながら、尻尾を振って北条に擦り寄るような事はよもや無いだろう。

政虎がどれだけ言葉を尽くそうとも、北条の傀儡である義氏を公方として担ぐと云う事は、北条を関東の主と認めたも同然。

つまり…… 政虎は関東を放り出したのだ。 

「此れで、古河公方家が漸く一本立ち出来ると考えれば良いではないか。」 

妙案を期待していたのか、晴助は捨てられた狗のような表情を見せた。 

肥えた体躯を丸めるように腕を組んだ晴助は、なお逡巡していた。

膨らんだ目袋を隈が縁取っている。  

「里見が、武田との同盟に動いていると云う噂が流れておるが…… 信玄は、我等の後ろ盾となってくれるであろうか?」

「武田については、余り甘い期待は抱かぬ方が良い。」 

時忠は、縋るような晴助の視線をピシャリと撥ね付けた。

「信玄は己の利でしか動かぬ男。 政虎とは違う。」 

溜息をついた晴助は、悄然と頭を垂れた。 

晴助は決して凡将では無い。 派手さは無いが、万事手堅い男だ。しかしその堅実さは彼の非凡さでもあると同時に、彼の限界でもあった。 そして今、その限界が彼を苦しめている。

「晴助殿…… 我等はつくづく面白き時代に生まれたものじゃのう。 命の使い途がありすぎて、とても一つでは足らぬわ。」 

そう云って時忠は口の中で笑った。

「ただ…… お互い、つまらぬ途は取りたくないものじゃ。」

四通八達の地、関宿城は対北条最前線と云うだけでは無く、東関東にとっての錠前でもあった。 此処が落ちれば、下総はあっと云う間に北条の色に染められよう。 だからこそ、晴助の覚悟が聞きたかった。 じっと注がれる視線から眼を逸らし、晴助は額に浮かぶ汗を拭った。



下総小見川に戻った時忠は、時を置かずに千葉家攻略に着手した。

その第一歩となったのが、小見川城から西へ二里の所に在る矢作城攻略戦であった。 両翼に里見義政と、時忠に同心する下総の土豪、東直胤を従えての進軍である。 

矢作城は原胤貞と並ぶ千葉家の大番頭、大須賀政常が治める城で、総勢千五百の守兵が籠っている。

更に主城松子城から、政常自ら二千の兵を率いて矢作城外に陣を敷いていた。 しかし彼にとって大きな誤算は、水軍を使って印旛沼周辺に軍勢を展開させた太田資正と島崎氏幹によって、本佐倉からの千葉胤富の援軍が足止めを喰らった事だった。 単独で対峙する政常軍に対し、放たれた矢のように里見義政と東直胤が手勢を引き連れて飛び出して行く。

義政が肉厚の野太刀だとすれば、直胤のそれは研ぎ澄まされた妖刀の趣があった。  

義政二十歳。 直胤二十二歳。 若い二人には未だ未だ実戦の経験が不足しており、一旦崩れれば脆い。 しかし攻勢に出た時の彼等の動きには眼を見張るものがあった。

既に敵の陣が軋み始めている。 突き込まれる無数の槍が抉じ開けた孔穴を、雪崩れ込んだ味方が埋めていく。 形勢の挽回を図ろうとしたのか、矢作城の城門が開いた。 

その時を待っていた時忠は、城を囲む全兵に突撃を命じた。


政常軍潰走。 矢作城陥落。 

緒戦を完勝で飾った時忠だったが、矢作城の守りを任せた義政と直胤が、思わぬ事態を引き起こす事になる。 

或る日、義政配下の兵達が、在地の馬商の馬を強奪するという事件が起きた。 馬商の主人は大いに憤慨し、善処を求めて直胤へ直訴に及ぼうとしたのだが、其れを耳にした義政が直胤の同意を得ないまま手討ちにしてしまったのだ。 

収まらぬのは顔を潰された直胤である。 

「破落戸上がりの痴れ者が! 俺を虚仮にしくさって!」 

彼は髪を逆立てて義政に詰め寄った。

「我等には兵に報いる土地も銭も無い。 恩賞代わりに馬を奪って何が悪い? 況してやあの馬商は、ぬけぬけと千葉に馬を売ろうとしておったのだぞ。 敵に渡る馬を、俺達が分捕ったまでの事じゃ。」 

義政はそう嘯いて一歩も引かず、仕舞いには兵を率いて勝手に城を退去してしまったのである。 

復讐に燃える大須賀政常は、それを見逃さなかった。 直胤は奮戦空しく敗北。 

矢作城はこうして再び政常の手に帰したのである。


小見川へ戻った直胤の顔は、収まらぬ怒りで紅潮していた。

「時忠様は一体いつまで、あのような賊をのさばらせておかれるお積りか?!」 

「あの馬商の事か? しかし、あの馬商には千葉の息が掛かっていたと聞いておるが……」

気色ばんだ直胤が膝を進めた。

「商人にとっては、正木も千葉もありますまい。 商人には商人の道理がござる。 それが気に喰わぬからと荷を奪い、剰え頸を刎ねるなど…… 言語道断。 このままでは人心を失い、我等の大義は地に落ちる事と相成りましょうぞ!」

直胤は、時忠が東下総に扶植してから早い段階で臣下となった土豪の一人である。 北条でも、上杉でも無い。 この東関東に新しい勢力を結集する。 若い彼はその雄図に心酔し、以来それを我が夢としていた。 ただ一つの違いは、時忠はそれを野心とし、彼はそれを正義としていた点だ。 

だからこそ、義政の狼藉が心に据えかねているのだろう。

「馬商の頸を刎ねた是非は兎も角…… 矢作城の守りを放棄し、勝手に手勢を率いて小見川に引き揚げた義政の所行については、儂とてこのまま見過ごす積もりは無い。 義政の身は暫くの間、島崎氏幹殿の許に預けようと思っておる。」

それだけか? そう云わんばかりに、直胤は露骨に不満を表情に浮かべた。 

「上杉政虎の事は聞き及んでおろう。」

「はっ……」 

「とかく人は、川の向こう岸を望む事は出来ても、その川の深さには思いが至らぬものだ。 政虎も、例外では無かったと云う事じゃの。 商人にせよ、武家にせよ、今日を生きる者共の耳には、明日への理念など届かぬものじゃ。 政虎は人の心を理解出来なかったが故、一身を誤った。」

上杉軍が峠を越える度に、賽の目のように旗幟を変えた関東諸侯に対し、政虎は総じて寛容に扱った。 

飽くまでも高潔さによって関東を束ねようとする政虎の信念が、皮肉にも関東に変質をもたらしたとも云える。 意地や名分に囚われる事無く、融通無碍に風を見るようになったのだ。 

こうして政虎の宿願は、彼自身が奸賊逆徒と糾弾していた北条と手を組むと云う最悪の形で画餅に帰したのである。

「我等は…… 手段に理非曲直を問うてはならぬ。 人心を束ねるには、易き処、利ある処へ流れる世情の都合に迎合するのでは無く、たとえ一身に憎悪を浴びても、前に進まんとする覚悟を示す事こそ肝要なのだ。」 硬い表情の直胤が視線を落とす。

時忠には、自分の遺業を継ぐ者があるとすれば、恐らく直胤だろうとの密かな期待があった。 惜しむらくは、若者故の偏狭さと繊細さ。 それが彼の視座を曇らせている。 素養の無さが逆に作用して、善悪の彼岸に立つ義政とは違い、純一無雑とした潔癖性が宿る彼の心は、ともすれば何かによって容易に満たされ、どんな色にも染められてしまうだろう。

「此れから、本当の戦いが始まる。 敵は大須賀政常でも無く、千葉でも無い。 あの大北条じゃ。 漸く東下総を押さえたばかりの我等には、確かに手に余る相手ではあるが…… 形勢と云うものは、一つの勝敗を境に一変するもの。 敵が強大であればある程、その揺り戻しも大きい。 織田と今川の桶狭間然り。 北条と管領上杉の河越の夜戦然り。 後は秋を逃さぬ眼力と、其処に全てを擲つ胆力が、我等にあるか否か……」

小さく頷いた直胤がゆっくりと顔を上げた。 

先程まで張り付いていた強張りが消え、薄く朱が射している。

「お任せ下され。 時忠様の為、そして新しき関東の為…… この直胤、身命を賭してお役に立ってご覧にいれまする。」

両手を突いた直胤の瞳の奥に、獰猛な光が宿った。



永禄十二年(一五六九年)八月。 

血判誓詞の交換により北条と正式に同盟を結んだ上杉は、使者を関東諸侯に派遣して慰撫に努めた。 

しかし里見は敢然と上杉と断交。 代わりに、庁南豊信を仲介として武田と同盟を結んだ。

豊信は元々嗣子が無い庁南家の求めに応じて、武田家から送られた養子であり、当然信玄とは厚い親交がある。 同盟締結にあたり、武田は足利藤政を関東公方として推戴する事を確約。 そうやって他の反北条勢力も陣営に取り込んでいった。

こうして北条の後方を固めた武田は、東上野攻略に向けて厩橋城の利根川対岸に砦を築くなど動きを活発化させ、利根川上流域では緊張の度合いが一気に高まっていった。



太治兵衛の屋敷に入るのは今回が初めてだった。 

造りは大きいが、中はがらんとして何処か寒々しい。 

太治兵衛は、いつもと変わらぬ柔和な顔で迎えてくれた。 今朝は今年初めて霜が降りたと云うのに、日が高くなると春のような陽気になった。 少し陽に当たろうと、太治兵衛は長助を縁側に誘い、二人は干した大根の下に並んで腰掛けた。 

太治兵衛は中々口を開こうとしなかった。 

ふと見上げると、秋はもう疾うに過ぎていると云うのに、蜻蛉が柿の木の枝先にしがみ付いている。 

時に置き去られた、一匹の蜻蛉。  

(だから云ったっぺ、手を離しちゃなんねえって……)

決して色褪せない、手を伸ばせば触れられそうな情景。

「……長助さん。」

「へえ。」

「今日は長助さんに知らせたい事があっての…… こうして態々来て貰った。」

「は、はあ……」

「実はお春がのう…… 来年から、横井様のお館でご奉公する事に決まったんじゃ。」

「お春が…… ごっ…… 御領主様のお館で?」

「ああ…… 厨詰めの女中に空きができてな、代わりの者を探すよう言い付かっておったんじゃよ。 ほんで今日、お館からお春で良いと正式に認めて頂いた。」

「そうですか…… お春が……」  

「お春も来年でもう十二じゃ。 良く気が回る働き者での……」 太治兵衛が眼を細めた。

「向こうの家でも大層気に入られておってな、あの子だったら立派にお勤めが果たせるじゃろ。 お春にとっても良い話じゃ。」

あの日、庭で一人、石を弾いて遊んでいた姿が脳裏に浮かぶ。

久しく忘れていた安堵感が、ほつりと胸に点った。 

長助は両手を突いて深々と頭を下げた。

「太治兵衛さん、本当に何から何まで…… 何とお礼を云って良いか……」

「礼など必要無い。 代わりの者ちゅうても、誰でも良いと云う訳にはいかん。 だっけん、お春だったら大意張りで送り出せる。 礼を云いたいのは儂の方じゃ。」 

長助に楽にするように促すと、ゆっくりと白湯を口に含んだ。 

長い喉仏がことりと落ちる。 

聞こえてくるのは鳥の囀りと、枯葉のさざめき。 

太治兵衛は耳を澄ますように、少しだけ小首を傾げた。

「長助さんよ……」

「へえ…… 」

「お前さん…… 今年幾つになったね?」 

一瞬、どぎまぎとした。 此処何年も、自分の年の事など考えた事も無かったからだ。 

心の中で指を折る。 今年で……  六十六、か。  

気付かない内に、あれからもう九年も経っている。 

今更ながら、時の疾さに悄然とする思いがした。

「儂ゃぁ今年で六十八になる。 お互い、年を取ったものじゃ。」 

そう云って太治兵衛が小さく笑った。 

「年は取りたくはないが、誰も時には逆らえん。」 

そう云って太治兵衛が両手で包んだ椀に息を吹きかけた。

立ち昇った湯気が、忽ち風に吹き消えて行く。

そう…… 時は傲慢で、人の気持ちなどお構いなしだ。 

心の奥底に巣食う黒い記憶の断片。 刻印された忌まわしい情景。止まったままの、心の中の時間。 

それなのに自分は…… 只々こうして老いてゆく。 

「眼に見えんもの、触れる事が出来んものは、一緒くたに何でも薄めてしまう。 思い出も、人の心まで…… 時っちゅうもんは、そう云うもんじゃ。 だっけん…… だからこそ人は、生きていけるのかも知れんなあ。」

端から応えを求める気は無いのだろう。 

太治兵衛はそう云ったまま、垣根越しに見える山並みを仰いだ。   

すっかり葉を落とした柿の枝先。 さっきまで其処に止まっていた筈の蜻蛉の姿は、もう何処にも無かった。



玉縄城、北条綱成の居室。

小さく割った塩煎餅を頬張った日我は、僅かに顔を顰めた。

「ちと塩っ気が足りぬのう。」

「ほう、お気に召さぬか?」 北条綱成が訊いた。

「塩煎餅は、塩っ辛くなくてはのう…… こんな上品ぶった味では、何だか物足りぬわ。」

「ご不満であれば、何か違うお茶請けを……」

「いやいや、それには及ばぬ。」 散々けちを付けておきながら、二つ目に手を伸ばす。

「御坊とは以前、一度お会いしておる。 憶えておられるか?」

「ふん、忘れる訳が無かろう。 あの時、儂は北条に焼け出されたのじゃからの。」 

そう云って日我は、鼻を押し広げた。

「寺の再建は未だらしいの……」

「ああ、里見には銭が無いでな。 全く、この調子ではいつになるのやら……」

「日我殿に異存が無ければその費用、北条が用立てても良い。」

「ほう、それは気前が良いのう。」 左程嬉しくも無さそうな表情で、日我はお茶を啜った。

「無論、それには条件がある。」 日我は黙って先を促した。

「先に御坊へ届けさせた書状で伝えてある通り、上杉との講和が成った事で、この際、当家は里見とも矛を収めたいと思っておる。」

上杉との同盟成立。 それは当然、対武田と云う理由からであるが、氏康の腹の中には別にもう一つの狙いがあった。

それが里見との和議である。

上杉と云う後ろ盾を失った里見では、和議容認派が力を盛り返していた最中、武田と盟を結ぶという奇策に出た。 此れに因って、下火になりつつあった関東の反北条の気運が再び盛り上がろうとしていた。

下総では正木時忠配下の東直胤が、再び矢作城を奪取。 更に前年の五月には、酒井胤治の土気城を囲んだ千葉勢五千が、救援に駆け付けた里見軍によって壊走させられていた。 その激戦に於いて、正木憲時の突撃を受けた千葉家の原胤貞が落命していた。 

この里見の粘りには、ほとほと閉口する思いだった。

後漢書に鶏肋と云う言葉がある。

内海の制海権を掌握して以来、北条にとって里見はまさしく鶏肋、鶏の肋骨であった。 南房総は最早戦略的要衝とは云えず、山ばかりで狭隘な平野は地味も無く、見るべき産業も無い。 

それでありながら兵は剛悍で、先の三船山で苦杯を舐めたように、戦略を見誤れば思わぬ大敗を喫しかねない。 近頃では東直胤、正木憲時のような鴻漸の翼を有する若い勇将も頭角を現している。

対決よりも懐柔。 個人の感情は別として、氏康がそう舵を切ろうとするのも頷ける話だった。


「御坊は義堯殿ばかりか、義弘殿にも近いお立場に……」 日我がまるで耳に入らぬように、此方のお茶請けを覗き込んでいる。

「如何された?」

「それな…… 要らぬのなら、貰ってよろしいか?」 

綱成は思わず苦笑いを浮かべた。

「食べてみれば相模の味付けも悪くはなかろう。 要は馴れる事じゃ。 馴れれば馴れたで、また違う味わいがある。」 綱成は自分の茶請けを日我に差し出した。

「今回も同じ。 長年角突き合わせてきた当家と結ぶ事には抵抗もあろうが、結ぶ事で開ける途もある筈。 そう、思わぬか?」

「まあ、そうじゃろうな。」 日我は煎餅を口に入れたまま、気の無い返事をした。

「里見の条件は何じゃ? 如何すればこの話に乗ってくれる?」

「それは、儂が応えるべき事では無いと思うが……」

「いや、御坊のお考えをお聞きしたい。」

「ふむ……」 日我は膝に零れた塩を枯れ枝のような手で払い、漸く居住まいを正した。

「まあ、拙僧が考えるに…… 二つの願いが叶えば、間違い無く里見は北条の側に立つじゃろうな。」

「うむ。 して…… その二つの願いとは?」

「先ずは足利義氏公の頸を刎ねる事。」 

まるで明日の天気を予想するような、平然とした口振りだった。

「……それから?」

「武蔵でも差し出して貰う事かの。」

一瞬言葉に詰まり、頭に血が上った。

「つまり…… 如何あっても当家とは結べぬと……?」

日我は涼しい顔をして、音を立てて茶を啜った。

「如何やら綱成殿は、未だ里見義弘と云う男を良く判っとらんようじゃの。 あの男は…… 馬鹿者じゃ。 しかもその傍らには、輪を掛けたような大馬鹿まで付いておる。」

「ならば、その馬鹿者等に道理を説けば良いではないか? 終わらぬ戦乱によって、民は苦しんでおるのじゃ。 それを救うのが、仏門に仕える御坊の務めであろう。」

「儂が今まで救った者など、一人としておらんわい。」 

日我は法衣の中に手を突っ込んで腹を掻いた。

「仏の教えでは、人は救えぬと申すか?」

「どんな有り難い念仏も、高邁な教えも、この世から戦を無くす事は出来なんだ。歴史が明らかにしておるではないか? そんなものは、無力じゃとな。」

(人は負わされた業が有り、この世は不条理に溢れております。 業に抗えば新たな業を生み、不条理を恨めば、また違う不条理を招く事となりましょう。 鬼になろうとも、仏になろうとも、其処から何人たりとも逃れられませぬ)

遠い記憶の淵から、青岳尼の言葉が届く。 幾ら出世を重ねても、埋まらぬ空虚さと、癒やされぬ飢渇感。 しかし、何も変える必要も、求める必要も無いのだ。

彼女が教えてくれた訳では無い。 そう気付かせてくれた。

綱成は立ち上がり、障子を開けた。 濡れ縁から拡がる瀟洒な庭では、夏の日を浴びる草木が僅かな隙間も逃すまいと枝葉を一杯に伸ばしている。

「仏の教えが民を救えぬのなら……何故、僧を続けておられる?」

日我は鎌首を持ち上げて、つるりと頭を撫でた。

「矢張り、儂も…… 馬鹿者なのでしょうな。」

そしてその物臭は、からりと笑った。



門の外に、一人の老人が這い蹲っていた。

腰を折り曲げ、薄い身体を地面に貼り付けるように頭を下げている。 館の前では数十人の男達が並んでいた。 皆、緊張しているのか、顔が強張っている。 その列を縫うように、家人が名簿に眼を落としながら名前と年を訊いていた。

門の外へ視線を向ける者など、誰もいない。 皆、まるでその老人の存在など、目に入らぬように。

「あらやだ。 まあた来とるよ、あの爺さん……」

鳥が囀るような声を上げたのは、厨の若い女中だった。

「何度も断れとるちゅうに…… よっぽど銭に困っとるんじゃろか?」 

戦に出れば、僅かだがお手当が貰える。 老人が足繁く通う理由は、その銭が目当てなのだろうと見当を付けているようだ。

「だっけん、今日はあんで中に入らんの?」 もう一人の女中が後ろから外を覗く。

「ほれ、こん間、ご領主様にお叱りを受けたからだっぺ。 今度門を潜ったら、これだっちゅうて。」 

そう云って、若い女中が頸をちょんと手で叩いた。

「お前達! あにやっとるだ!? もうすぐ夕餉だっちゅうに。」

二人が吃驚したように、頸を竦めた。 

竈で鍋を煮ている女中頭が睨み付けている。 身体も大きいが、声も大きい。 名をおさねと云い、この厨では一番の古株なのだが、口煩いのが禍して、特に若い女中達に煙たがられていた。

「ほれ、お春もぼさっとしとらんで、早く薪を持っといで!」

「は、はい。」 お春は小走りで表へ飛び出した。

厨の裏には、薪が山と積まれていた。 この館には、郷司の横井弥七郎の家人も含め、郎党や奉公人も合わせると約五十人近くが出入りしている。 飯時になると目が回るような忙しさだ。

入ったばかりのお春の仕事は、薪運びに水汲み。 それを何往復もしなければならない。

しかしお春には左程苦にならなかった。 忙しさが、心細さを紛らわせてくれる。 長年住み慣れた家を離れて暮らすのは、矢張り辛いものがあった。 

私が養女として引き取られたのは、未だ幼い時だった。 

その前の記憶は殆ど残っていない。 微かに憶えているのは、母の事。 寝る時は、いつも母と一緒だった。 母の温もり。 匂い。耳許で囁くような母の子守唄。 格子窓から差し込む、月の光。 虫の声。 そして私は、いつしか眠りにつくのだ。 

その母の顔は思い出せない。 意識が記憶の底に向かおうとすると、いつも何かに押し戻されてしまう。 まるで引き返せと戒められているかのように。 やがてそれは真っ黒い墨でぺたりと塗り潰すように、朧気な残像さえ消し去ってしまうのだ。 

当時の事を義父様や義母様に訊くのは憚られた。 彼等は今まで私を我が子同然に育ててくれた。 過去に囚われる事は、彼等に対する裏切りのようにも感じられた。

だから私は、記憶の扉に封をした。 仮令血が繋がっていなくとも、私は彼等の娘。 

それで良いではないか?

配膳が済むと、漸く一息つける時間だ。 厨の片隅でそそくさと夕餉を掻き込む。  

今日は稗粥と菜っ葉の塩漬け、薄く味噌を塗った蒸し蕪と川魚が一尾付いた。 おさねさんの味付けはいつもながら絶妙で、献立の質素さをまるで感じさせない。 食事が終わると、下げられた膳を洗う為の水を汲みに外へ出る。 誰もいない館の外では、夕暮れの宴に勤しむ虫達が騒ぎ始めていた。

(そう云えば……) 門の外に眼を向けた。

疾うに帰ったのだろう。 もう老人の姿は無かった。

空の膳が運び込まれているのか、厨が騒がしくなり始めている。

おさねさんから怒られない内に、早く水を汲んでこないと。

お春は桶を握り締め、井戸へ急いだ。



元亀二年(一五七一年)十月。 巨星が堕ちた。

北条氏康、病没。 享年五十六歳。

反北条陣営には、氏康という存在があまりに大きかった故に、北条も今川のように頽勢に向かうのではないか期待する声もあった。 しかし氏政は良く家中を纏め、陣営の動揺を確りと抑えた。 

確かに氏政には、此れと云った武略も卓抜した才幹もある訳では無い。 氏康のような強烈な指導力こそ将の神髄であるとするならば、とてもその器では無いだろう。 しかし彼には、特に内政に於いて人並み外れた嗅覚が有った。 人事の妙も心得ている。

それに北条家の支柱、北条綱成は未だ健在であり、大石氏照も軍を統括する司令官として関東に睨みを利かせている。 

未だ未だ北条の壁は厚く、その牙城は揺るぎないものがあった。


書状を持つ手が、不覚にも震えた。

北条との和議、そして里見との手切れを知らせる武田からの簡潔な文面。 

駿河を手中に収めた武田は現在、遠江で三河の徳川と対立していた。 武田とすれば背後が気になる。 

一方、北条は上杉と結ぶ事で反北条陣営の取り込みを図っていたものの、功を奏しているとは云い難い状況だった。 しかも前年入道して謙信と改めていた政虎の眼は、既に北陸平定へと向いており、最早北条の覇道を阻む余力も、またその意欲も無いだろう。 

北条と武田が僅か二年で元の鞘に収まったのには、そう云う背景があった。

三者の思惑によって、鼻面を引き回される里見。 書状の文面の素っ気無さは、そのまま彼等が此方へ払う関心の薄さを物語っていた。

(結局、武田も上杉も同じ……) 

両者への絶望感が、己の無力感を誘う。

淡い火影に縁取られた夜空。 里見義弘は、明り取りから覗く、煉獄へ通じる風穴のようなその闇を見上げた。 此処最近、鬱々と気が晴れない日が多い。 普段ならば気にもならない小さな不安が、窮屈な心を満たしていく。

いっその事、何処の誰でも無い者になれれば…… 仕舞いには、そんな益体も無い事を考えては、深い自己嫌悪に陥ったりする。 それは半日で収まる事もあれば、数日続く事もあった。

「お屋形様……」 此方の表情を窺っていた庁南豊信が、云い辛そうに眼を落とした。

「武田は…… 里見と北条の和議を望んでおります。 若しお屋形様がお望みとあらば、武田は一肌でも二肌でも脱ぐ用意が有る。 そうお屋形様にお伝え願いたい、と……」

豊信は武田の縁戚。 特に武田と結んで以降は、その傾倒振りが際立っていた。 義弘の返答如何によっては、里見から離れる事も十分に考えられた。

襖の隙間から入り込む湿気った夜気に煽られて、蝋燭の炎が溶け出した蝋をジリジリと焦がしている。

(しかし、まあ……) 上手く使われたものだ。

里見は前年、駿河併呑を目指す武田の求めに応じ、数度に亘って水軍を伊豆へ繰り出していた。 北条の動きを牽制する為だ。 一文でも無駄に出来ない苦しい財政状況にあって、相当に無理を重ねた遠征となった。 上杉によって冷や水を浴びせられた勢いを、取り戻そうとする焦りがあったのかも知れ無い。

武田を頼ろうとした、己の情けなさよ。

くっくっ、と嘲笑が口から漏れた。 まるで天地晦冥の淵からごぼりと湧き上がった泡のように。 くぐもった嗤い声は、やがて箍が外れたように高笑いとなって部屋に響き渡った。

「お屋形様……」 

義弘の尋常ならざる様子に、豊信が困惑の態で声を掛けた。

義弘は書状を無造作に投げ捨てた。 畳に伸びた豊信の長い影がゆらりと揺れる。

「里見は、未だ死んではおらぬわ! そう信玄坊主に伝えい!」



膝に付いた土を払うと、その老人は歩き出した。

酷く疲れたような足取りは蝸牛のように緩慢で、槍を杖にしている所為か、腰が少し曲がっているようにも見えた。 その腰が痛むのか、結んだ手でしきりに叩いている。 

朽ち果てた棒切れのような槍。 痩せた体躯に合わないのだろう、腹当てを繋ぎ止める紐が緩んでいる。

光と水に育まれた田圃を渡って、微かに聞こえてくる農婦達の唄声。 堀切を勢いよく流れる清水。 

真っ直ぐに伸びた畦に、彩りを競うように咲きこぼれる草花。 そんな息吹が充満する初夏の風景の中で、老人の姿はぽつりと滲んだ染みのように異質だった。

「あ、あの……」 お春は思い切って声を掛けた。 

老人がゆっくり振り返る。

彼の息を呑む音が聞こえたような気がした。 

額に、土がこびりついている。

「あの…… こ、これ……」 

お春は手に持った握り飯を二つ、恐る恐る差し出した。 今日のお昼、自分が食べる分を取っておいたものだ。 しかしその老人はぽかんと口を開けながら、只々此方を見詰めている。 何を話す訳でも、手を差し出す訳でも無く。 

まるで、昼のお化けにでも出会ったように。

老人の反応に戸惑いながら、心に急かされるままに握り飯を老人の手に押し込むと、お春は逃げるように踵を返した。



部屋に入ると、尿(ゆばり)の臭いが鼻を衝いた。

褥に座る父に、若い側室が粥を食べさせている。 その女は去年城へ入ったばかりで、父から見れば孫ほどの年頃である。 躑躅色の鮮やかな打掛けを羽織っているが、着慣れていない所為か、どこか不釣り合いな印象を受けた。

義弘に気付いた側室が慌てたように椀を置いたが、そのまま給仕を続けるようにと手で合図して、義弘は褥から少し離れた処に腰を下ろした。 最近、父の様子がおかしいと連絡を受けたのは、千葉攻めから帰った昨日の事である。 夜、突然飛び起きて北条が攻めて来ると叫びながら槍を持ち出したかと思えば、魂が抜けたように日がなぼうっとして飯も取らなかったり。 恐らく瘡毒が頭に廻ったのだろう、というのが薬師の見立てだった。

父の顔は、まるで死神が憑依したかのように様相が一変していた。覚悟はしていたが、余りの変わりように言葉を失った。 頬の肉がこそぎ落とされたようにこけている。 締まりの無い半開きの口の周りは、零れた粥と唾で汚れていた。 それでいて、目だけがギラギラとしている。 

恰も、留まろうとするひとかけらの情念が、屍を衝き動かしているかのように。

「父上…… 太郎でござります。 お判りになりますか?」

父は頭を巡らして闇を透かすように眼を凝らすと、曖昧に頷いた。

「儂は…… 稲村城へ行かねばならぬ。」 誰に話すとも無く父が呟いた。

「稲村城へ?」 稲村城は累代の本城であったが、今では無人の荒城である。 父が正木時茂と共に主君里見義豊を攻め滅ぼした後、久留里へ居を移した事で廃城とされていた。

父にとって義豊は、主君であると同時に、彼によって誅殺された親の仇でもあった。

「うむ、義豊様がのう…… 儂に登城せいとの仰せじゃ。」 

そう云うと、落ち着かない様子で爪を噛んだ。

「如何したものかのう…… 義豊様は、儂を闇討ちにするお積もりじゃ。」 

如何したものかのう、ともう一度小さく呟いた。

「……ご心配には及びませぬ。 稲村城へは、この太郎が父上の代わりに参りましょう。」

父が縋るような視線を向けた。

「行って…… くれるか?」

「はい。 それ故、何も心配は要りませぬ。 父上は…… 如何かゆっくりとお休み下され。」

義弘は、父の背中を支えて褥に横たえた。 軽い。 

襦袢の襟元を合わせると、「忝い……」と父が呟いた。 口許から漂う臭気。

毒気に蝕まれた臓腑が、ゆっくりと腐っているのだろう。

「如何したものかのう…… 義豊様は、お怒りじゃ……」

そして父は、そっと眼を閉じた。 淀みの中にゆっくりと沈んでいく、父の寝顔。

(あなたは…… 結局、何も云われずに逝ってしまわれるのですな……) 

あなたに何故疎まれ、拒まれ続けたのか? 

嫡男でありながら、武田信玄が父を追放して家督を強奪したように、あの時父を討っていたら…… 

ひょっとして…… 父もそれを何処かで望んでいたのかも知れない。

家督は与えられるものでは無く、奪うもの。 そう考えていたか如何かは兎も角、自分は父にとって歯痒い息子だった。 それは確かだったような気がする。

父は、既に寝息を立て始めていた。

流された血と、民の困窮の代償を求めようとした自分と、犠牲として切り捨てた父。 父のようにはなりたくない。 ならない。 

自分は自分のやり方で、里見を護るのだと云った言葉。

しかし今の現状は如何だ? `大国の思惑に翻弄され、有力国人の相次ぐ離反。 疲弊した経済。 頻発する一揆により自滅の危機に瀕している。 

己の為政者としての限界を、さっさと認めてしまえと急き立てていた。



黙っていてもじっとり汗ばむほどだった日中の暑さも、陽が傾くにつれて大分過ごし易くなった。

重そうに頭を垂れた稲穂の隙間を縫うように、蜻蛉が悠然と舞っている。 老人は膝の上に載せた握り飯を大事そうに両手に持つと、それをゆっくり口へ運ぶ。 痩せた喉仏が上下している。

傍目よりもずっと老けている。 無造作に束ねた薄い白髪。 陽に焼けた顔には、細かい皺が縦横に刻まれていた。

それでも、当初影のように張り付いていた重苦しい暗さは消え、その表情は別人のように柔和だった。

「お春ちゃん、か……」 老人が眼を細めた。

「良い名じゃな…… うん、良い名じゃ。」 そう云って何度も頷くと、眩しそうな顔を向けた。 

顔の皺が一層深くなる。

「お春ちゃんは、領主様のお館に入ってもう何年になりなさる?」

「一年くらい、かな……」

「一年か…… 仕事は、辛くないかね?」 

お春が頸を振った。

「そうかね。そりゃあ、何よりじゃ。」 綻んだ口から覗く前歯が数本、抜けていた。

「その…… 何だ。 父様や、母様は…… 達者かの?」

「うん。」

「寂しいと…… 思う事は?」 頸を振ったお春が腰を浮かせた。

「あの…… 私、そろそろ館に戻らんと。」 

館ではそろそろ昼餉が終わる時分だ。 余りのんびりもしていられない。

「お春ちゃん。」 館に向かおうとするお春を、老人が呼び止めた。 

呼び掛けた老人の方が、どぎまぎしている。 

そして漸く言葉を捻り出すように、「あの……これ、有り難う」と、両手で握り飯を押し頂くようにして頭を下げた。

「ううん、何も……」

「それから……」 肩を窄める老人が、やけに小さく見える。

「若し、良かったら…… これからも…… 時々こうやって、会って貰えんじゃろうか?」 

お春が頷くと、老人の顔にからりと晴れ渡ったような笑顔が拡がった。 



天正二年(一五七四年)五月。 

大石氏照は大道寺政繁と共に、七千の軍勢で栗橋城へ入った。 

更に小田原城から、氏政が二万の本軍を率いて進発。 指揮を執る氏政の傍らには北条綱成の姿もあった。 北上する本軍に江戸衆、それに下総の千葉胤富の軍勢も漸次合流し、本軍は三万近くまで膨れ上がった。 北条には、是が非でも関宿攻略を急がねばならない事情があった。

前年、上洛戦の途上にあった武田信玄が陣中で没していた為である。 労咳であったと云う。 彼の死は、同盟相手である北条にとっても大きな衝撃であった。 

此れによって、上杉謙信の眼が再び関東に向かないとも限らない。

鬼の影が消えた遠江で、版図拡大に勤しむ徳川の動きも気になる。

今後の情勢の変化にも対応出来る国力を付ける為にも、一刻も早い下総平定が急がれていた。

それに対する関宿城の梁田晴助は、備えを固めると同時に足利藤政を介して佐竹と里見、小見川の正木時忠、それに上杉にも援軍依頼の使者を飛ばしていた。

越相同盟締結以降、謙信とのしこりは未だ消えていない。 しかし長年染み付いた上杉への依存心が、いざと云う時には如何しても頸を擡げてしまう。

果たして謙信は応じるのか? その応えが出たのは、一ヶ月後の事であった。

北条との同盟を強行した後ろめたさからか、謙信が正式に北条との手切れを宣言し、出陣を確約したのである。 一方、出陣要請を受けた里見義弘は、正木信茂と太田康資を従えて久留里を出た。 国人勢力の相次ぐ離反によって動員力が下がっている上に、留守を預かる正木憲時に真里谷等への備えとして、相当数の兵力を残しておかねばならない。 今回動員できた兵力は三千を切っていた。 此れに土気城の酒井胤治の一千五百を加え、北条の後方を窺う構えをとった。


堅牢な甲羅を纏った亀が、悠然と池畔に寝そべっている。

綱成は大日川を挟んで、馬上から関宿城を望んでいた。 もう既に各陣、攻撃準備は整っている。 

後は、綱成の号令だけ。 彼にとっては久々の実戦となる。

関宿城攻略の指揮を綱成に任せた氏政は、里見軍の手当の為、自ら七千の兵と共に国府台近くまで移動していた。 氏政は一頃のように、必要以上に細部まで頸を突っ込もうとする事も無くなっていた。 

良い意味で、肩の力が抜けている。 

此れも、過去の失敗に学んだ成長であろう。

川を挟んで関宿の下流には、大道寺政繁と千葉胤富の五千。 

中央には大石氏照の五千。 綱成の一万は上流に布陣している。

三箇所から攻め込み、一気に屠る作戦だ。

対する敵は、関宿城に梁田晴助軍二千五百。 城外に遊軍として、正木時忠と太田資正の三千。 関宿城の後背地に布陣するのは、佐竹義重の四千。 更に上流の古河城には、足利藤政が佐野晴綱と足利頼純を従え、二千の兵で籠っている。

そして北条にとって最大の敵となる上杉軍五千は越山後、北条軍の陣所である栗橋城の西、利根川を三里ほど遡った水郷地帯に築かれた天然の要塞、羽生城に布陣していた。 上杉は其処を根城に、忍城、騎西城等、武蔵北辺の諸城下を焼き討ちするなどして活発な示威活動を続けていた。

実は小田原を出る前、綱成は密かに越後へ起請文を携えた使者を送っていた。

(今後一切、北条は上野に兵を入れず) 

条件は何も付けず、又、謙信の返答も求めなかった。

北条は武田と結んだ事で、謙信の面目を潰した。 その代償として、上野を謙信に差し出す事でそれに報いようとする狙いからである。 北条にとっては、ぎりぎりの譲歩だ。

古河城や武蔵松山、岩槻両城の攻防に於ける腰の重さに比べ、事、上野となると俄然敏感に反応する。 謙信は関東経営を諦め、越後への玄関口、上野の防衛のみに主眼を置いているのでは?

それはかなり前から感じていた事だった。

それでも上杉が山を越え、利根川を渡った時は肝を冷やした。 背後から虎の爪に掛けられでもしたら致命傷になりかねない。 それでも起請文に記した通り、敢えて栗橋城の守備隊には遠巻きに監視するだけに留めさせた。 綱成にとって、それは大きな賭けだった。

北条の真意を探るかのように、栗橋城後方で暴れ回った上杉軍は、現在古河城から二里ほど北にある下野藤岡近辺に兵を展開しているが、未だ関宿勢と合流する気配を見せていない。

その理由が判明するのに、それほど時は掛からなかった。

関宿城には相当数の内応者を埋め込んでいる。 

報告によると、関宿で密かに行われた軍議での席上、佐竹義重と謙信の名代である部将との間に諍いがあったらしい。 いつまで経っても関宿勢に合流しない謙信の行動に不信感を露わにした義重に対し、謙信の名代が不遜な態度を取った事により、激しい言葉の応酬となったようだ。 

今後、上杉は上杉の判断で動く。 その名代は、そう吐き捨てて退出したと云う。

報告を受けた時、綱成は心の中で喝采を上げた。

謙信は、呑んだ。 自分は…… 賭けに勝ったのだ。


地鳴りのような喚声が巻き起こると、川面から一斉に飛沫が上がった。 

此処暫く、雨は殆ど降っていない。 それでも川の中心部の水位は、胸の辺りまである。

騎馬を先頭とする敵が川の中程まで差し掛かったところで、正木時忠軍の弓隊が一斉に矢を放った。 

それでも尚、数にものを云わせて川岸へ迫る敵に、今度は弓隊の外側に開いた鉄砲隊が引き金を引く。

銃口が轟音と共に火を噴くと、数騎が人馬諸共横倒しになって川に没していく。 驟雨のように撃ち込まれる弾丸を嫌って、川向こう大道寺政繁軍の一部が北へ迂回しようとしている。 

それに備えさせる為、東直胤に伝令を疾らせると同時に、時忠は騎馬隊の突撃を命じた。 

散開した弓隊の中央から飛び込む騎馬に、川岸を目前にした敵が大きく崩れ、川の深みに蹴り落とされていく。

戦闘は切れ目無く、四刻半余り続いた。 敵の屍は累々と川下へ流れ、味方の陣は未だ揺るぎ無い。

敵の将旗。 政繁の歯軋りが、此処まで聞こえてくるようであった。 

局面打開を急いだのか、政繁が徒を前面に押し立ててきた。

時忠は鉄砲隊を中央に並べて迎え撃つ。 少しずつ増やしてきた鉄砲が、この戦でもその威力を如何なく発揮していた。 鉄砲は扱う者の熟練度、そして運用の妙味で戦を左右する切り札ともなり得るし、無用の金喰い虫にもなる。 

時忠軍の鉄砲隊は二百。 量は兎も角、質に於いては北条に引けを取るものでは無い。

川下から一塊の軍勢。 里見義政と太田資正の軍勢だ。 

動揺が走る政繁の本陣目掛け、銛のように突入した。 

今だ!

「全軍突撃!」 鳴り響く太鼓の音を背に、直胤を先頭に全軍が川に乗り入れて行く。 

此れで政繁軍は一気に浮き足だった。

壊走する敵を追わず、時忠軍は川上で二の丸を攻撃している千葉胤富軍へ向かう。

千葉軍の脇腹が迫る。 胤富も消耗戦に難渋している様子だ。

敵兵が此方を指差して何かを叫んでいる。 前方を疾る直胤の騎馬が突っ込んだ。 そして敵が陣形を組み直す余裕を与えないまま、義政と資正が続く。

右へ左へ。 揺れる敵軍。 明確な一個の意志の許に、時忠軍全体が動いている。

(この戦、勝てる!) 時忠は手綱を扱いた。

此のまま敵本陣の綱成軍へ。 馬を駆る時忠が、視線の端で異変を捉えたのはその時である。

関宿城本丸の後方。 三の丸の方角から、一条の煙が上がっていた。

軍勢の中から、地鳴りのようなどよめきが湧き起こった。

遂に内通者の手によって、城内から火の手が上がったのだ。 

猜疑と恐怖が城内を埋め尽くし、城兵達が忽ち挙措を失っていく。川を渡った綱成軍は関宿城の北側、大きな堀割で隔てられた三の丸を目指した。 

その間にも、時忠の動きだけは逐一報告を上げさせていた。

謙信の次に、綱成が警戒していたのが彼だった。 兄の時茂亡き後、里見の屋台骨を支えてきたのは彼であった。 そして突然隠居したかと思えば、単独で下総に進駐。 瞬く間に下総の東半分を手中に収めた。 その穎脱した技量、才腕は将に端倪すべからざるものがある。

大道寺政繁を破った彼は、既に千葉胤富の頸に手を掛けている。 時忠と云えば、勇将と云うよりも智将と云った印象が付き纏う。 だからこそ今回の剛胆な戦い振りには、綱成も度肝を抜かれた。 

矢張り、一筋縄でいく相手では無いようだ。

しかし、幸運にも敵本丸の膝下で叛逆の火の手が上がった。 関宿の後方に控える佐竹軍も、綱成の陣が堅いのを見て積極的に出るのを躊躇っている。 胤富の救援の為、大石氏照も急行している。

時忠の奮戦だけでは、最早態勢は覆るまい。

そう思った矢先……

「後方より敵!」 汗だくになった母衣武者が飛び込んで来た。

「何?」 綱成軍は三つの部隊に分けてある。 先ず三の丸を攻撃する本隊。 佐竹と対峙している三千。 それに古河勢と上杉に備える為、栗橋城近辺に布陣させた物見隊である。

まさか、上杉が?  一瞬肝を冷やしたが、報告によると旗印は足利の二つ引。 足利藤政の古河勢のようだ。 しかも、軍勢は既に綱成本隊後方と戦闘状態にあると云う。

「一体、物見は何をしておったのじゃ!?」 馬廻りの一人が、北を睨んで罵声を飛ばした。

「舟でござります!」

「ふ、舟じゃとぉ……」母衣武者に向かって馬廻りが眼を剥いた。

古河城の内堀に係留していた高瀬舟で移動したらしい。

成る程、古河城の内堀は最大幅六十間もある広大なものだ。 百や二百の舟を懐に抱くのは造作もあるまい。 古河城から関宿までの距離は約四里。 川下りで、しかも高瀬舟は軽量。 足は疾かろう。 

物見が間に合わなかったのも頷ける。 馬は関宿城の支城、水海城辺りで予め用意されてあったのかも知れない。

後ろに敵を背負う形になったが、本軍は三の丸から離れる訳にはいかなかった。 ややもすれば、折角城内に上がった火の手を自ら消す事にもなりかねないし、佐竹の動きも気になる。 それどころか、梁田勢が城門を開いて打って出れば、此方が敵の挟撃に落ちてしまう。

「馬引けい!」

蟻の一穴となる前に、一刻も早く古河勢を駆逐する必要があった。

綱成は馬廻り衆と共に、一千の兵で本陣を飛び出した。

軍の後方。 味方が斬り立てられている。 敵は、一千五百程か?

寡兵と侮るな。 全力で潰すのだ。

大喝一声。 「下がるな! 隊伍を小さく纏めよ!」

交錯する息苦しいまでの熱。 血の匂い。 懐かしい感覚が蘇る。

そしてそのまま、敵の鼻面に突っ込んだ。

錦の御旗。 足利義政の本隊。 それを守護するように、ぴたりと佐野晴綱の軍勢が付いている。

殺到する槍を跳ね上げる。 そして干戈の只中へ。

綱成の参入により、潮目が変わった。

敵の足が止まる。 敵の運が蹲おうとしていた。

そして綱成の騎馬隊が、藤政軍を断ち割った。 勢いを得た味方の徒が、それに乗じて藤政軍に襲い掛かる。 敵が退き始めた。

綱成が最後の突撃を敢行しようとした時……

左手に広がる低い丘。 朝露をたっぷり吸い込んだ、なだらかな傾斜を埋め尽くす緑が映えている。 

その斜面を駈け降りて来る騎馬が見えた。

数騎。また数騎。 そして、丘の上からざわざわと現れた騎馬隊。

二つ引が染め抜かれた旗指物が風に靡き、甲冑がきらきらと陽光に輝いている。 あれは…… 

足利頼純? 

気が付けば、もう目前に迫っていた。

まるで荒神が振り下ろす、雷斧のような一撃。

びりびりと躰に波動が伝わる。 馬が嘶き、視界がぐるぐると揺れる。 押されていた敵が再び勢いを得る。 後は敵味方入り乱れる白兵戦となった。 味方の徒の動きが鈍りつつある。 

足を止めれば、それは即ち死を意味する。 馬廻りの将が、死ねや死ねやと怒号を放つ。 兎に角、頼純軍の勢いが凄まじく、中々捕捉出来ない。 攻守の振り子が、目まぐるしく処を変える。

最初に崩れたのは、足利藤政の本軍であった。

しかしギリギリの処で、敵騎馬隊が踏ん張っている。 人馬が交錯する結界の中で、繰り広げられる生死のやり取り。

幕を引いたのは、苦し紛れに鉄砲隊が放った銃撃だった。

頼純の騎馬の足が、ぴたりと止まった。 そして、雪崩を打ったように結界を離れていく。 切歯扼腕する綱成軍。

やがて敵は、濁流の中に呑み込まれていった。

(勝った……) 気が付くと、手綱が汗でべっとりと濡れていた。

将に魂と魂。 骨と骨が搗(か)ち合うような激戦だった。

(河越以来だな…… こんな戦は)

じっと掌を見詰めていた綱成に、馬廻りが駈け寄って来る。

「綱成様! あれを!」

指差す方向を見ると…… 城の本丸が焔に包まれようとしていた。


足利藤政討ち死に。 

銃弾を浴びて負傷した足利頼純を古河へ落とす為、殿を務めた佐野晴綱も壮絶な最期を遂げた。

頼純と共に、北条の心胆を寒からしめた正木時忠は、兵を纏めて小見川へ退却。 降伏して関宿を明け渡した梁田晴助は、支城である水海城へ下がった。 

こうして北条は関宿と云う一国を、漸く手中に収めたのである。



太治兵柄の屋敷の入り口には甚介の姿があった。

村の相談役数名と、何やら深刻そうな顔で談じている。 恐らく今年の年貢の割り当ての件だろう。 

今年の作柄は決して悪い方では無いが、良いなら良いで年貢が増やされる。

徴兵続きの村に、圧し掛かる重税。 太治兵衛は領主の狗。 不満の捌け口として、村には公然と彼を批判する声も上がっていた。 ただでさえ村には以前、領主館を襲って徳政を勝ち取った過去がある。

もう一度、一揆を。 炎天に炙られる干し草のように、そんな気運がいつ燃え上がってもおかしくない不穏な空気が漂い始めていた。

長助が近付くと、話し声がぴたりと止んだ。

甚介が眼を三角にして長助を睨み付けている。 相変わらず領主館通いを止めようとしない長助の事で、日頃領主から絞られているのだろう。 会うとまるで厄介者どころか、親の仇を見るような視線をぶつけてくる。

「あ、あのぅ…… 太治兵衛さんが、おらにお話が有りなさるそうで……」 

勝手に入れ。 そう云わんばかりに、甚助が顎をしゃくった。

「おう、長助さんか…… 呼び出して済まんかったのう。」 

太治兵衛が、玄関の奥から顔を出した。

「さっ、上がってくれ。」

通されたのは、囲炉裏が切られた部屋だった。

調度品と云えば、部屋の隅にでんと置かれた箪笥だけ。 重厚で、鞣したような光沢を放っている。 

大層古い、そして大切に扱われたものなのだろう。 色合いからもそれが窺えた。

部屋に足を踏み入れると、薄い床がみしりと軋んだ。

太治兵衛の向かい合わせに腰を下ろす。 雷鳴が、空の奥から聞こえてくる。

「一雨くるかの……」天井をチラリと見上げた太治兵衛が呟いた。

「お茶でも呑むかね?」

「い、いや…… どうかお構いせんで下さい。」

「そうか……」 重苦しい沈黙が長く続いた。 じっと膝の上に眼を落としていた太治兵衛が、やがて顔を上げる。

「長助さん。 最近…… 喜八さんに、何か変わった事が無かったかね?」

「い、否…… あんも……」 

唐突な質問に戸惑いながら、長助が頸を振った。

「あの…… 喜八さんが、何か?」

「うむ……」 太治兵衛が腕を組む。 

「長助さんは、銀蔵と云う馬借の事は知っとるな?」

勿論知っている。 一時期、喜八の紹介で干し茸を卸していた事があった。 それにあの一揆の折は、見上げるような巨躯を小さく折り畳むようにして、緊張や不安を隠せない百姓達の間を歩き回り、人懐っこい笑みを浮かべながら彼是と世話を焼いていたものだ。

「どうもその銀蔵が、銭に困っている村の者達に、無利子で銭を融通しているらしい。」

「えっ……?」

「無論、ただ善意だったら結構な事じゃ。 じゃが話を聞くと、そうでは無いらしい。」 

太治兵衛の話によると、その銭で村人を手懐け、彼等に根も葉も無い領主の悪事を吹き込んでいるのだと云う。 最近の村に漂う焦臭さの元、それが銀蔵だった。

「その銀蔵と村の者の仲立ちをしているのが、どうも喜八さんらしいんじゃ。」 長助は絶句した。 

確かに銀蔵は、喜八が杣をやっていた頃からの知り合いだと云う事は聞いている。 しかし長助が知っている限りにおいては、二人に行き来は無い。

「村の者は知らんかもしれんが、弥七郎様はこの村の為に今まで色々骨を折って下さっておる。 そのお陰で、どれだけ皆が助かっておるか……」 彼の話に、長助が頷いた。 

確かに気性は荒いが、決して自分の都合を優先させるような男では無い。 

「若し、こん村にまた一揆が起これば…… 弥七郎様とて庇い切れんし、里見の殿様も黙ってはおるまい。」 そう云って、太治兵衛は憂鬱そうに嘆息した。

「喜八さんはあの通り少し気難しいで、他人を寄せ付けん処がある。 ただ、長助さんとは隣同士で付き合いも古いし…… こんな事を頼むのは、心苦しいんじゃが…… 喜八さんの事で何か気付いた事があれば、どんな些細な事でも儂に知らせてはくれんじゃろうか?」

自分が…… 内通者に? 暗い天井がゴロゴロと低い唸り声を上げた。 

二、三年前ならば断っていたかも知れない。 しかし……

(お春は、どうなる?)

全身が粟立つような恐怖を覚えた。 一揆が起これば、真っ先に襲われるのが弥七郎の館であろう。 

その時、お春が無事に済むと云う保証など何処にも無い。

狂気は…… 何気無い日常の中に潜んでいる。 

長助の心に牢記された二つの記憶。

おゆうと新吉。 それに下総で、里見兵に蹂躙された若い夫婦。

ぼそぼそと茅葺きを叩く雨音。 長助はうっすらと汗を掻いた掌をそっと膝で拭った。


見る眼が変われば、今まで視線の端に見過ごしていたものを瞳が捉える。 

強張った耳は、それまで気にも留めなかった微かな音を拾う。

太治兵衛の話を聞いて以降、密かに喜八を監視していた長助は、彼の周囲に昔とは違う何かを感じ取っていた。 ほんの短い間だが、喜八が村の者と立ち話をしている。 それも一人や二人では無い。

村の者達と反りが合わず、忌み嫌っていた彼が……

そして夜、時々彼を訪ねて来る人影。 酒でも呑んでいるのか、小さく漏れる笑い声。 喜八の家を後にする一つの顔に、長助は見覚えがあった。 あの一揆の時、喜八と一緒だった杣仲間……

喜八自身も家を空ける日が多くなっていた。 長い時など、四日も五日も家にいない事がある。

特別な事など、何も無い。 しかし長助が知っている彼とは符号しない、ほんの僅かなずれ……

長助はそれを逐一、太治兵衛に報告した。

それが密謀とは直接繋がるものでなければ、何の咎も無い喜八が殺されるかも知れない。 

しかしお春の身を案じる長助には、それを慮る余裕は無かった。

コトリ…… 背後で小さな音がして、背筋に冷気が疾った。

振り返ると、表戸が少し開いている。

その奥に…… 喜八が立っていた。


遠くで蟲が鳴いている。 

喜八の部屋の隅には、畳んだ綿入れの夜具が置かれていた。 此処いらの百姓では、中々手に入らない代物だ。 ピンと張られた糸のように、張り詰めた空気。 速く逃げろと急き立てるように、自在鉤に掛けられた鍋がけたたましく湯気を立てている。 

今日の喜八は、明らかに違う。 

喜八は椀に入った酒をゆっくりと呷った。

「……如何した? 酒が進まんの。」 

椀の縁から投げ掛けられる視線。 能面のような顔。

「あ、ああ……」 長助は形ばかりに椀に口を付け、喜八の視線から眼を背けた。

「お前、まだ山で槍を振り回しているそうだな?」

「……」

「いつまでそんな益体の無い真似を続ける積もりだ? お前も今更、十年以上も前の仇が討てるとは思っとる訳じゃあんめえ?」

じわじわと壁が迫って来るような圧迫感。 曖昧に頷いた長助に、喜八はぎょりと目玉を動かした。

「だったら…… 何だ? お前の望みは……? 戦に出た処で、死ぬ以外に何も出来まい。」

煤けた囲炉裏框の上で、空になった椀が乾いた音を立てた。

「それとも……」 喜八の痩せた相貌が、僅かに歪む。

「死ぬのが望みならば…… この俺が、ぶっ殺してやってもええぞ。」 

矢張り…… 気付かれていた。 しかし、不思議と恐怖は覚えなかった。

ひょっとして自分は、心の何処かでずっと待ち望んでいたのかも知れない。 この、戦いたいと願い、死にたいと願いながら、救いを求めて東西に彷徨う老い耄れの、惨めな一生を終わらせてくれる何かを……

長助とて、おゆうや新吉を殺した連中と、再び出会えるとは思ってはいなかった。 

それに何をどうした処で、二人が生き返って来る訳でも無い。 

それどころか、このままでは、もう戦に出る事すら……

二人が死んでもう十四年。 

隔絶する途方も無く厚い、死と云う壁に耳を押し当て、記憶の中の二人の残像を追いながら爪を立てる。 そんな毎日。

抗い続ける事にも疲れた。 牢記した筈の恩讐を消し去ろうとする時と云うものに対して。 そして何も為し得ないまま、生を偸む自分自身に対して。 自分はもう、年を取り過ぎたのだろうか?

「望みなんぞ……」 じっと喜八が見詰めている。

「元から、無かったのかも知れん。」土と格闘するおゆうの横顔。

おどけない新吉の笑顔が脳裏に浮かぶ。

そして…… 何の変哲も無い日常の片隅に現出した、生々しい地獄の結界。 

土間口に投げ出された肢体。 血糊に塗れた薪。 堀切の淀み。

「ただ…… おら…… 合点がいかねえ。」

どんな形にせよ、人はいずれ死ぬ。 判っている。 

人の命は、時として呆気無いものだ。 戦となれば尚更……

そんな事は、判っているのだ。 でも……

「おら…… 如何したって…… おら……」 

益体の無い嘆き。 益体の無い、想い。 

呼び覚まされた悪夢が臓腑を揺さぶり、心を掻き毟る。

「合点が……」 再び抱く事の出来ない、残像。

絶句する長助を黙って見詰めていた喜八は、やがて呑みかけの椀を静かに下ろした。


後ろ手に搦められた銀蔵が、昂然と胸を反らして歩を進めている。

人懐っこい笑顔の代わりに、傲岸な冷笑を湛えて。 彼の手下の馬借達もまた、縄を打たれていた。

家の表戸が蹴破られ、銀蔵に連なる村人達が里見の兵によって引き摺り出されている。

火が点いたように泣く、赤子の声。 陽の光を浴びて、ぎらつく刀槍。 兵の足に縋る老婆が、息子の名を呼ぶ。 割れるような怒声。 激情に狂う者達が臨界を超えた時、その振る舞いがどんなものであるのか? それは狩る者も、狩られる者も同じ。 

鍬や鎌をもって抵抗する者達は、年寄りでも女でも容赦無くその場で斬り殺された。 捕縛された者達。 再び、生きて戻って来る事の叶わない命。 

その中に…… 喜八がいた。

遠巻きに立ち尽くす長助の視線に気付いているのかいないのか、サバサバしたような表情で、山並みを眺めている。 自分に大きな荷物を背負わせておきながら、悠然と死に赴こうとしている。 

そんな喜八が、恨めしかった。



久留里城本丸にある評定の間。 

居並ぶ奉行衆の誰かが、ひとつ空咳をした。

皆、一様に難しい顔をしながら俯いている。 思案しているのでは無い。 最早里見には、北条と戦い続ける余力など無いのだと云う事を、口を噤む事で知らしめようとしているのだ。

里見はそれに備える事もままならず、山積する問題の対処に追われるような有様だった。

特に逼迫の度合いを深める財政状況は深刻であった。 

兎に角、兵が踏み出す一足、槍の一振りに銭が掛かる。 嵩む一方の支出に対して、内海から上がる権益は北条によって奪われ、戦続きで社会基盤に廻す資金が枯渇し、領国は疲弊している。重税と戦役に堪えかねて、一揆に訴える村も出始めていた。

陣営も揺れている。 

突き付けられた現実が舌鋒鋭く迫り、索漠とした徒労感が胸を塞ぐ。 当時も国力では北条に大きく水をあけられていたとは云え、正木時茂や土岐為頼が存命だった頃の里見には、鉄の結束があった。 

水火を厭わぬ覚悟があった。 

今の里見には、戦への備えが遅れている現状に切歯扼腕する者もいなければ、北条との和議を図るべしと命を賭して諫言に及ぶ者もいない。

閑散とした評定が終わり、逃げるように奉行衆がそそくさと退出していく。

義弘は誰もいなくなった広間を見回した。

(そう云えば…… あの時も、この広間だったな)

足利頼純を安房公方として戴いたあの日。 夢とは、目指す先にこそあるものだと信じていた。 

しかし今だからこそ判る。 

人は、過ぎ去って初めて気付くものなのだ。

あの時…… 確かに自分が夢の中にいた事を。


関宿陥落により、里見の命脈は愈々至極に詰まろうとしていた。

頻発する徳政一揆。 金融業者である土倉や酒屋への借金を棒引きにする事を繰り返せば、最大の資金源からの信用を失う事になり、里見の財政状況は破綻を余儀無くされる。 だから何としても一揆に屈する訳にはいかなかった。

その一揆勢を後ろで操っているのは土岐頼春。 当然、北条の息が掛かっている。 

病床にある正木時通や、眷属である真里谷との内訌に忙殺される庁南豊信に代わって、今では頼春が房州内の反里見陣営の首魁の座に収まっている。

頼春はその昔、あの正木時茂が自分の後継を担える器と評した逸材である。 しかし彼には己の才に絶対の自信を置きすぎるが故に、里見の風下に立つのを良しとしない叛骨心があった。

自信と増長は、自律と云う一枚の薄紙で隔てられている。 彼が尊敬の念を寄せていた時茂の死、そして父為頼の死によってそれが破れてしまったのだろうか?


天正三年(一五七五年)の二月。 

里見義弘は頼春討伐の軍を催した。 古河城では足利頼純が手負いの身体を休める暇も無く、包囲する北条の大軍と半年以上も対峙している。 

一刻も早く古河城へ駆け付ける為にも、一揆を扇動する頼春を討って足許を固めなければならない。 しかし義弘の焦燥をせせら嗤うかのように、彼が籠る万木城は頑として侵入を阻み続けていた。


灯りを消した堂内。 

陣を張る寺の堂宇で義弘は一人、まんじりともせず闇の中にいた。

外から漏れ聞こえる、不寝番の会話。 時々、乾いた笑い声が混じる。 もう二ヶ月経とうと云うのに、未だ曲輪一つ落とせないでいる。 陣には明らかに倦みが生じていた。

里見は年を追う毎に下がる動員力に悩まされていた。 必死になって掻き集めた今回の兵力も、三千にも満たない。 その一方で、野火のように拡がる一揆。  最早、此のまま滞陣を続けるには限界があった。 鎮圧しても鎮圧しても、湧き出てくるような一揆勢。 自分はこうして、百や二百の兵を掻き集めるのにも苦労していると云うのに。

自分は北条を敵とし、この身を盾にしてこの国を護ってきた。 

ひいては、領民達を護る為に。 しかし彼等は、易々と敵の掌に乗ってこの俺を苦しめようとしている。

「糞!」 義弘は荒々しく床几から立ち上がった。

引き戸を開け放つと、ひんやりとした夜気が義弘を包む。 その中を当て処無く、ただ歩き回った。 

後ろから警固の者、数人ばかりが戸惑った顔をしながら付いてくる。

胸の中で、何かが滾っていた。 

何処からか、聞こえてくる賑やかな歓声。 義弘が足を止める。

前方で十数人の兵達が、赤ら顔で焚き木を囲んで騒いでいるのが見えた。 如何やら酒を呑んでいるらしい。 一応、陣中での酒は禁止されてはいる。 しかし兵達の厭戦気分を少しでも慰める為、大っぴらでなければ飲酒を黙認している組頭も多い。 それは義弘も承知していた。

(それを良い事に、こやつら……) まるで宴会気分ではないか。

徒ならぬ殺気を感じ、辺りを見回した数人の兵が、此方に真っ直ぐ歩を進める義弘の姿を認めると、まるで雷にでも打たれたように固まった。 潮が引けるように、声が跡絶える。

「うぬ等の組頭は誰じゃ?」 

低く抑えた言葉が、地の底から響くような声音を帯びる。 

皆、金縛りにでもあったように声も出せず、泣き出しそうな顔をして立ち竦んでいる。

「ど、如何か…… お許しを……」 

兵達が足に取り縋るように這い蹲って、地面に頭を擦り付けた。

警固の者が、堪りかねたように怒声を飛ばす。

「お屋形様が、誰かとお訊ねじゃ!」

「へ、へい! 横井…… 弥七郎様でござります!」

「呼んで参れ。」 数人の兵が肩をぶつけ合いながら、転がるように闇に消えて行く。 残された者達は、すっかり酔いが醒めたように悄然と頭を垂れていた。

時を置かず、組頭がやって来た。 頭を剃り上げた容貌魁偉の男が膝を折る。

「横井、弥七郎でござります。」

「如何云う事じゃ、此れは?」

「何か粗相でもござりましたでしょうか?」 

「何かじゃと……?」 義弘の目がすっと細くなる。 脂汗が滲む禿頭が微かに震えていた。

「陣中での酒は御法度の筈であろう。」

「はっ。存じ上げてはおりますが…… 長い滞陣になります故……」

「大将にでもなった積もりか、貴様……」 つかつかと歩を進めた義弘が太刀を抜いた。

身構える弥七郎の肩口から無造作に斬り下ろすと、息を呑んで見守っていた兵達が、ひっ!と踏み潰された蛙のような声を上げて飛び退った。 空気が一瞬にして凍り付く。

血が噴き出す首筋を、手で押さえた弥七郎が呻き声を漏らす。

義弘を睨め上げる瞳が、火影に照らされて尋常ならざる光を放つ。

「と、棟梁が此れでは……」 あの日と同じ、自分を貫く眼光。

(狡いお方だ…… 兄者は) 

耳の奥で響く声が、封じ込めていた筈の記憶の隙間から手を伸ばし、ゆっくりと心の襞に爪を引く。

「里見も、もう終いじゃの!」 呼び覚まされた記憶を振り払うように、義弘は刃を頭上に叩き込んだ。

「おっ…… お許しを…… 何卒……」 

腰を抜かしたようにひっくり返る兵達には見向きもせず、義弘は黙って踵を返した。


その一ヶ月後、古河城の門扉が開かれた。

一年近くの籠城で、兵糧がとうとう底を衝いたのである。

足利頼純は将兵の助命を条件に投降。 囚われの身となった彼は、小田原に移送された。 



辺り一面に百日紅の花が落ちていた。 

昨夜の強風の所為だろう。 百日紅という呼び名は、女中頭のさえさんから聞いた。 何でも明から渡来した珍しい木だと云う。 お春はその滑稽な名の木が好きだった。 夏になると、枝の先端に淡紅色の小さな花弁を付ける。 

(折角咲いたばかりなのに……) 

しかしその花弁達は、こっちの気持ちなどお構いなしに、風に煽られながら元気一杯に遊び回っていた。 それは恰も雁の群れのように、縦列になりながら左へ行ったかと思うと、今度は並列になって此方へ。 足許では、群れからはぐれた数枚の花弁が小さい円を描く。 

そしてやがて、一つ二つと群れに還っていくのだ。

お春はその様子を飽きもせず、じっと眺めていた。

「ちょっとぉ、お春。 そんなとこでさぼっとらんで、早く水汲んどいでよ。」 

薪を両手に抱えた年長の同僚が、口を尖らせながら通り過ぎて行く。

我に返ったお春は、空の桶を持って井戸へ急いだ。 もう陽は山の稜線から離れたと云うのに、人が疎らの館内。 まるで魂でも抜かれたかのように、何処か弛緩した空気を漂わせている。 

以前であれば、朝餉の支度だけでも井戸を五往復したものだが、最近では二往復もすれば事足りてしまう。 多くの郎等達が館を後にした。

主人が里見の殿様から受けた理不尽な仕打ちに憤り、里見からの離反を主張する者達。 一方、久留里から疑いの眼差しを向けられぬよう、軽挙妄動を諫める者達。 それなのに弥七郎の跡を継いだ嫡男は、あっちにもこっちにも良い顔をするだけで、腹を括る事も、腹に収める事も出来ない。 

(あん人は、愛想ばっかりで中身が無いから……) 

そう云って溜息を吐いた女中頭のさねさんは、辛辣な言葉とは裏腹に何処と無く寂しげであった。 

井戸から見える表門。 まるで肩を怒らせるように門扉がぴたりと閉まっている。 日中でも門を閉め切るようになったのは、去年の一揆騒ぎがあってからだ。 

多くの人達が頸を刎ねられたり、磔になったらしい。

ふと、あの老人の事が頭を過った。 そう云えば、あの老人とも暫く会っていなかった。 最初の頃はお互いぎこちなさが先に立ったが、何度か会う内、それも無くなった。

何故だか判らないが、あの老人は本当に私の事を気に掛けてくれているらしい。 それがたとえ他愛の無い話であっても、今日こんな事があった、あんな事があった。 そんな話を聞く時、彼は本当に嬉しそうな顔を見せるのだ。 一方、自分の事となると途端に口が重くなる。 

今でも名前すら知らない。

この間、戦があると云うので何人かの若い男が館に呼ばれていたが、門外に老人の姿は無かった。 

もう会えないのだろうか? そう思うと、何だか寂しい気がした。



汗が顎から滴り落ち、鼓動が大きな礫となって胸を叩く。

長助は、今日も山で槍を突いていた。

息が続かない。 槍を傍らに置いて腰を下ろすと、火照った躰を暫く風に晒す。

山裾の畦では、村の者が生い茂った雑草を刈り取っていた。 稲穂を食べる虫を寄せ付けない為だ。 

こうした手間隙を惜しまぬ百姓達の努力に報いるかのように、受粉を終えた稲はびっしりと若い籾を付け始めていた。 今年は、作柄も良さそうだ。

あの一揆騒動で、新しい領主も慎重になっているのだろう。 最近では無理な取り立ても、過酷な徴兵も控えているようだ。

村には平穏が戻りつつあった。

そして自分はあの日以来、村での居場所を失った。

無理もない。 自分の密告によって、多くの者が殺されたのだ。 家族を失った者は当然の事として、一揆に反対だった者達でさえ長助を白眼視していた。 

もう誰も訪ねる者も、話し掛ける者もいない。

或る日、玄関先に腐った獣の屍骸が置かれていた。 そして表戸には、石で刻まれた文字。 まるで憎悪を塗り込めるかのように、一画一画、きっちりと。

裏切り者。 人殺し。


(銀蔵は…… 北条の間者だ) 

喜八はあっさりとそう認めた。 銀蔵達は刀やら槍やらを村に持ち込んで、銭で手懐けた者達と共に、領主と太治兵衛の館を同時に襲う手筈だったらしい。

(もう、誰にも止められん。 俺は一人でも戦うぞ、長助)

無論、彼の戦いは北条の為では無かった。 自分が、里見の為に戦おうとしているのでは無いように。 喜八も、戦によって孫を失った。 

ただ長助と違うのは、その憎悪を北条では無く、里見に向けていた点だ。

(お前もおゆうさんや新坊が殺されたと恨むんだったら、敵を易々と引き入れた里見こそ恨め)

こびり付いた里見に対する恨み。 その裏には決して癒やされぬ絶望があり、この苦しみから早く逃れたいと云う渇望があった。 彼ほど激しく、果断では無いものの、それはぴたりと自分にも重なった。

(だっけん、喜八さん…… これじゃあ、あべこべじゃねえか)

幕引きを託された自分は、此れから何処へ向かえば良いのだ?

汗が引いた身体に、風が少し冷たい。 気が付けば、西に傾いた陽は濃く色付き始めていた。 

夕暮れを待ち侘びる蛙達が騒ぎ始めている。 

人影の消えた田圃をじっと眺めながら、長助はただ途方に暮れていた。



櫛風沐雨の中で疲弊していく里見。 

そして北条による包囲網は確実に狭まっていく。

この年、天正四年(一五七六年)の春。 東金城の酒井敏房が、調略によって北条へ転向。 依然として北条への臣従を拒む酒井胤治を、敏房は千葉胤富の援軍と共に攻め立てた。

酒井胤治は孤軍奮闘したものの、三ヶ月後、刀折れ矢尽きると降伏に同意。 嫡子に家督を譲って、四十の若さで隠居した。

両酒井が北条に下った事で、正木時忠に対する北条方の攻勢は益々強まっていった。 

胤富は大須賀政常を率いて八千の軍を催し、小見川城を攻撃。 

しかし時忠の戦意はまだまだ旺盛だった。 

城に押し寄せた敵軍を向こうに廻し、東直胤が足の疾い騎馬で果敢に打って出る。 怯んだ敵に櫓から鉄砲を浴びせた。 攻め倦ねる千葉軍に、僅かな守備兵しか置いていない政常の居城、松子城から火急の知らせが舞い込んだ。

敵軍襲来。 敵軍の将は里見義政、それに時忠と盟友関係にある島崎氏幹が加わっていると云う。

恐らくは潮来から、夜陰に紛れて水軍を遡上させたのだろう。

この凶報に、胤富は慄然とした。 若し松子城を落とされでもしたら、千葉軍は腹背に敵を背負う形になる。 前面の敵と交戦しながら、慌ただしく援軍の編成に動く千葉軍。 

しかし、喉元を窺う本当の匕首は、直ぐ傍にあった。

沸き上がる喚声。 空が破れたような銃声が鳴り響く。

正木の将旗。 時忠率いる本軍が、城を望む山の木立の奥から飛び出して来た。


千葉胤富を敗走させた時忠討伐に、いよいよ北条が兵を挙げたとの知らせを受けたのはそれから暫くしてからであった。

時忠は早速籠城の備えを執った。

敵の進軍経路。 奇襲の戦術。 城兵の配置。 兵糧の補給。 土豪への調略。 土塁、砦柵の設置。 徴用、挑発の手配。 兵站網の確認。 軍議が重ねられ、決定と同時に将兵が小見川城内を飛び回る。

先遣隊の大石氏照が、既に三千の兵と共に滝川城から出陣していた。 

じき北条氏政、綱成等も動くだろう。 それまでに為さねばならない事が山と有る。 しかし時忠はそれを愉しんですらいた。

北条は河越の夜戦で七倍する敵を破り、今の地位を築いた。 そして東海の弓取り、今川義元を田楽狭間での奇襲で葬り去った織田信長は、京に上って天下に手を掛けようとしている。 西国の覇者、毛利も。 漸く上洛戦の端緒に就いた上杉謙信も。 それぞれが、天が設えた関門を潜り抜けてきた。 

その資格ある者達の中で、一体、誰がこの国の歴史を書き替えるのか? 

天は矯めつ眇めつそれを見ている。

そして今回…… 自分が名乗りを上げるのだ。

時忠は、霞の浦全体を一つの城と見立てていた。

霞の浦の中央まで半島のように伸びる行方群。 島崎氏幹は其処を完全に掌握している。 その行方郡を回廊のように巡る西浦、北浦と浪逆浦。 つまりは行方群を城に、霞ケ浦を外濠に。

そしてその広大な外濠には、剽悍な水軍が外敵を睨んでいる。

たとえ天下の軍勢であっても、この城を抜くのは難しかろう。

更に房州には里見もいる。 大局を変える力は失っているとは云え、里見義弘と正木信茂がいる限り、里見は今後とも北条にとっては侮れぬ敵となり続ける筈だ。


東直胤が居室に入って来た。 

先程氏幹からの兵糧米が到着したと云う。 

「それから…… 是非時忠様へと、氏幹殿から自慢の地酒も届いております。」

「そうか、ならば夕餉の時にでも頂こう。 直胤も、一緒に如何じゃ?」 

そう云うと、日に焼けた直胤の顔に喜色が溢れた。

透き通った液体。 口に含むと、花の香りが拡がった。

さらさらとした喉越しで通り過ぎて行った後、臓腑に微かな火照りを点す。

旨い。 成る程、氏幹が自慢するだけはある。

折敷に並べられた川魚の煮付け。 蛸の膾。 味噌を塗った山菜。

そして香の物。

味付けは相当控え目だ。 昔は塩っ辛いものばかりを好み、それを酒で流し込んでいた。 

嗜好が変わったのは、四十を過ぎた頃からだろうか。 薄味の方が、より深く酒を味わえる。

ふと…… ほんの僅かな苦味を覚えた。 

気になる程では無い。

さっき食した山菜の所為だろう。 川魚を口中に入れ、咀嚼しながら酒を呑む。

今度は、舌の先にぴりぴりと痺れるような感覚。

何かがおかしい……

身体の何処かで、異常を知らせる早鐘が打ち鳴らされている。

突然、脳髄がぎゅうっと頭の中心に吸引されたように収縮した。

同時に襲う、猛烈な吐き気。

錐を捻じ込まれるように、関節の節々が激痛を訴える。

ぽとり、と盃が手から零れ落ちた。

「時忠様? 如何なされた……?」 抑揚の無い、乾いた声。

じっと注がれる、直胤の探るような視線。

(そうか…… そう云う事か……) 苦悶の呻き声を上げながら、時忠は胸元を掻き毟った。

網に絡み取られたように、身体の自由が利かない。 払い除けた折敷が、ガチャンとがなり声を上げた。

霞む視線の先で、直胤がゆらりと立ち上がった。

無念さは感じなかった。 ただ淅瀝とした虚無感が、今まさに潰えようとする命を満たしていく。

近付く直胤の顔が、ぐにゃりと拉げる。 

身体を捻り切るような激しい痙攣。

そして頭の中で何かが弾けたと同時に、視界が一気に暗転した。



天正五年(一五七七年)春。 

時忠を謀殺し、下総を掌握下に置いた北条はいよいよ里見討伐に動き始める。 

北条氏政を大将とする二万の遠征軍を編成。 内房にある里見の諸城を磨り潰すように落とした北条軍は、本陣を惨敗の記憶が生々しい三船山に置いた。 それには氏政の強い拘りがあったようだ。 

北条の軍勢は正木信茂の拠る佐貫城、そして正木憲時の大多喜城に押し寄せた。 信茂と憲時は里見義弘の両腕。 彼等を失えば、久留里は落ちたも同然。 

しかし両名ともその名を轟かせる豪傑。 兵力では北条軍が圧倒しているものの、攻城戦は容易では無かった。 僅か一千の城兵を叱咤しながら、信茂は押し寄せる雲霞の如き軍勢を頑として跳ね返す。

一方、二千で大多喜城に籠る憲時も、久留里から救援に駆けつけた太田康資と共に、攻め手の采配を執る大道寺政繁に何度か痛撃を与えた。 しかし、そんな奮戦も到底体勢を覆すまでには及ばない。

それどころか、里見を見限るかのように猖獗する一揆勢が、じわじわと戦意を削いでいった。

やがて城を抜け出す兵が続出。 そしてとうとう大多喜城が陥落。憲時は僅かな手勢を引き連れて久留里へ下がった。

此処に至って久留里では、北条に降伏すべしとする声が公然と上がるようになった。 破綻寸前の財政を遣り繰りしてきた勘定方や、今まで義弘に忠節を尽くしていた側近も。 

前面に敵を迎えながら、揺らぐ足許。 

玉砕か、屈服か。

義弘に、最後の決断の時が迫っていた。



少し多めに出された塩煎餅。 

骨が浮き出た手がそれを掴む。 歯が殆ど残っていない口が、小さく割られた欠片と格闘している。

前回会ったのは、もう七年も前の事。 自分も老いる筈だ。 今年で六十二を数えるまでになった。

前年、妻を病で失った。 今では戦に立つ事も、政に関わる事も殆ど無い。 氏政も棟梁としての威厳が備わるようになり、氏照ら、若い部将達も育っている。 息子達も玉縄城主、江戸城の城代と、それぞれ枢要な仕事を任されている。 

四代に渡って育まれた関東制覇と云う宿願が、若い力によって結実しようとしている。 

隠居したこの老骨が出しゃばる余地など、もう何処にも無かった。 里見との事が片付いた後、きっぱりと身を引く。 それは既に心に決めていた。

日我は相変わらず、自分の役目など忘れたかのように塩煎餅を頬張っている。

「如何かの?」 塩煎餅を大方平らげて茶を啜る日我に、北条綱成が笑みを向けた。

「御坊がこの小田原にお出でになると聞き、特別に塩辛く作らせたものじゃ。」 

今回の日我の来訪は、義弘の密使としてのものだった。

「まあまあじゃな……」 ぶっきらぼうに応えた日我は、手を摺り合わせるようにして塩を払った。

「それよりも、綱成殿。」 日我が不機嫌そうに口を尖らす。

「寺を再建してくれた事には礼を云うが、いつになったら朱印状を出してくれるのじゃ?」

朱印状は寺領として安堵すると云う印判状である。 此れが発行されて初めて、今年北条の手で再建された妙本寺は寺領として認められ、租税が免除される。 それが無ければ、住持である日我は北条に銭を納めなければならないのだ。

「その件は、当家と里見との今後が片付いてから、としか申せませぬな。」 

日我はあからさまに不興を表したが、綱成はそれに構わず本題に入った。

「それで、義弘殿の御口上は?」

「北条との和議じゃ。 もう察しておろう。」

旋毛を曲げたように、日我はそっぽを向きながらぼそりと云った。

「ただ、一つだけ呑んで欲しい条件がある。」 

綱成は黙って先を促した。

「囚われの身となっておる足利頼純殿を、解き放って頂きたい。

それさえ呑んでくれれば、自身は腹を斬っても良いそうじゃ。」

成る程、義弘らしい考え方だ。 綱成は小さく笑みを浮かべた。

「それは…… 呑めぬな。」

「ほう、駄目か?」 日我は意外そうに片眉を吊り上げた。

「義弘殿は何か思い違いをされているようじゃ。 条件を出すのは当家であって、里見では無い。」 

器の小さい事を云う。 そう云いたげに、日我は小さく鼻を鳴らした。

「では、北条の条件とは何じゃ?」 日我が頭に手を遣る。

「義弘殿に、この小田原へお越し願いたい。」 頭を撫でる日我の手が止まった。

「一度、お会いしたいと思っていた。 敵味方では無く、ただ一人の男と男として、な……」

百八十万石対八万石。 義堯の代から数えれば、足掛け四十年。

良くぞ、戦い抜いたものだ。 

今回の戦でも、大兵力の北条を向こうに廻して、二ヶ月以上も持ち堪えている。

天晴れと云う他は無かった。 小さいながらも北条にとって最も手強い敵であり続けた里見の艱苦奮闘の歴史が、同時に北条の覇業の歴史でもあった。

それに義弘とは、青岳尼を挟んでの因縁もある。 いや、因縁と云うよりも、自分は彼等の間に入り込んだ、ただの闖入者でしか無かったのかも知れない。

じっと海を見詰めていた、彼女の背中。 決して触れる事の出来なかった領域。

「その条件さえ叶えて頂ければこの綱成、地黄八幡の旗に賭けても頼純公の事、確と約定致そう。」

暫く綱成を見詰めていた日我は、やがて唇を僅かに窄めた。

笑ったのだ。 綱成はそう思った。



「太郎! 太郎は何処じゃ!?」

大音量が床を踏み鳴らしながら近付いて来る。 拉げる程の勢いで襖が開けられた。

六尺を超える巨躯に怒りを漲らせながら、具足姿の正木信茂が立っていた。 太刀を佩いている。

詰め寄る信茂のただならぬ剣幕に、丁度同席していた正木憲時が立ちはだかろうとするが、それを義弘が制した。

「憲時、控えておれ!」

「太郎…… きっ、貴様…… 如何云う了見じゃ!?」

立ちはだかる信茂の眼は血走り、伸びた指の先が戦慄いている。

「北条と…… 北条と和議を結んだとは、真の事か!?」

満面朱を注ぐ信茂の眼光を、立ち上がった義弘が真っ直ぐ受け止めた。

「ああ、そうじゃ。」

「!」

「里見は、もう戦えぬ。 もう…… 終わったのじゃ、平七。」

「お、終わっただと……?」 信茂が顔を歪めた。

「ばっ、莫迦野郎!」 横っ面に拳が減り込み、義弘は一間ばかりも吹き飛ばされた。

「お屋形様!」

「ええい、どけい!」 駆け寄る憲時を、信茂が蹴り飛ばす。

それでも憲時は信茂の足に縋り付いた。

「信茂様! どうか、気を静められませい!」

信茂が太刀を抜く。 素早く跳び退った憲時だったが、下段から唸りを上げて斬り上げられた太刀筋が、一瞬早く右脇腹を捉えた。 脇腹を押さえた憲時の指の隙間から、鮮血が滴り落ちる。

「お判りになりませぬか? 此度のご決断で、どれほどお屋形様がお苦しみになられたか……」

「次は…… 的を外さぬぞ、憲時。」 

憲時を睨み付ける信茂の瞳に、凶猛な光が宿っている。 押っ取り刀で駆け付けた近習達が、太刀を抜いて信茂を取り囲んだ。

「うぬら、下がりおれ!」 怒声を浴びせたのは、義弘だった。

近習達が戸惑った様子で、互いの顔を見合わせる。 

「下がれと申しておる!」 義弘の怒号に、近習達は漸く輪を解いた。

そして部屋には信茂と義弘、二人だけが残った。

「……如何した、太郎。 刀を構えろ。」 

全身から殺気を漲らせた信茂が、切っ先を義弘に向けて少しずつ間合いを狭める。

しかし義弘は一向に太刀を構えようとしない。

「太郎!」

「……平七。 儂は…… 将や、民の信認を失ったのじゃ。」

この国の領民の怨嗟の眼差しは今、自分に向けられていた。 北条と戦い続ける事に疲れた将も、疑問を呈し始めている。 その目的や理念は如何あれ、国を疲弊させ、民を困窮に押し遣りながら、その彼等の苦しみに対し、確かな将来を示す事すら出来ない自分に対し。

「此れ以上…… 儂は、皆に安房の為に死ねとは云えぬ。」

「詰まらぬ泣き言を……」 信茂が吐き捨てた。

「泣き言じゃと……?」

「全ては、我が身可愛さからであろうが!」

「聞いたような口をほざくな!」 

戦場のみに生きてきた信茂に…… 此れまで味わってきた為政者としての苦悩や、怒りを胸の底に押し込めて泥水を啜らねばならない無念さの、一体何が判るというのだ?

「ならば戦え!」 太刀を放り投げた信茂が、義弘の胸倉を掴んだ。

「最後まで…… 戦って見ろ、貴様!」 

その時、抑えていた鬱積が拳となって、激しく揺さぶる信茂の顔を捉えた。

もんどり打って倒れた信茂が、ぺっと血を吐く。

「家と共に国があり、民がある。 だからこそ、武家は家を保っていかねばならぬ。 此れも…… 戦いなのだ!」

自分は…… 今、父と同じ事を云っている。 あれほど反発し、嫌悪していた父と同じ言葉を。

「ならば死んでいった者達はどうなる? この安房の為、死んでいった者達の想いは?!」

絞り出すように問う信茂は、苦悶の表情さえ浮かべていた。

「この安房は…… 生きている者達の為だけにあると思うな!」

義弘は、何も応えられなかった。

信茂は…… 泣いていた。 あの、万余の敵をも怖れぬ男が……

やがて信茂は俯き、そして未練を断ち切るように掌で乱暴に顔を拭った。

「……もう、良い。」  重い沈黙が流れる。

「お前を斬ったところで、刀の汚れじゃ。」 太刀を収めた鞘が、ぱちんと乾いた音を立てた。

「覚えておるか…… 昔、お前が義父殿と揉めておった時の言葉。 

お前には怒りがあると云った。 意地があるのだと……」

「……」

「今、漸く判った。 貴様にあったのは…… 怒りでは無く、救いを求める心だったとな……」

部屋を出ようとする信茂が、背中越しに呟いた

「……良かったではないか。 貴様は…… こうして救われた訳だからの。」 



「おうい、お春。」 

門番を務める初老の男が、厨の戸口から声を掛けた。

「はぁい。」

「門の処に、お前の家の者が来とるよ。」

「えっ……?」

「何でも、どうしてもお前に伝えたい事があるんじゃと。」

外に出ると、今朝から降り始めた雪が地面を薄く覆っていた。

此処では冬でも雪の日は数える程だが、十二月半ばでの初雪は例年に比べて随分早い。

戸口に立ったお春の息が白く舞い上がる。 門扉の横に設えた潜り木戸を開けると、少し離れた場所に人影があった。

(……お爺ちゃん) あの、老人だった。

腰が曲がっている所為か、身体が一回り小さくなったように見える。 お春が木戸から出ると、老人は申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げた。

「あの…… 身内じゃと嘘でも云わんと、会わせて貰えんと思うて……」 

痛々しい程に痩せた相貌に、控え目な笑みが浮かぶ。 

「お爺ちゃん、久し振りじゃねぇ。」 努めて明るく声を掛けると、老人はうん、と小さく頷いた。

「少し…… 歩かんか?」


ふわりふわりと雪が鼻先を掠めていく。 

「今日は…… お春ちゃんに、お別れを云わにゃあならん。」

暫く口を噤んでいた老人は、眼を合わさないまま唐突にそう告げた。 思わず足が止まった。

そっと突き出された老人の掌。 その上で舞い降りた雪が四肢を拡げ、そして雫となる。

「遠くに、孫がおってな……」 掌を見詰めながら老人が呟いた。

「其処へ、行こうと思っとるんじゃ。」

「……お孫さん?」老人が家族の事を口にするのは初めてだった。それは、嬉しい驚きだった。 身寄りが無いと思っていた彼に、その身を案じ、共に暮らそうと云う家族がいる。 

「そう! 其れは良かったねぇ!」 お春は思わず手を叩いた。

「ああ、だっけん……」 老人が、ふっと苦笑いを浮かべた。

「お春ちゃんと、もう会えんようになると思うと、ちょっと淋しい気もしてなぁ……」

「そうじゃねぇ、そりゃあ私も淋しいけど…… 折角、お孫さんと一緒に暮らせるんじゃないの。 それに……」

「ん?」

「うん、実は…… 私もね、館を離れなきゃならないの。」

老人の顔に影が射す。 「館を…… 離れる?」

「うん…… 来月…… 私、お嫁に行くの。」

老人が一瞬、固まった。 丁度、初めて会った時のように。

「そ、その…… お春ちゃんが……」 口の中で空回りする言葉を、老人はもがくように吐き出した。

「おっ、お嫁に……?」

お春は顔を赤らめて小さく頷くと、まるで花が咲いたように老人の顔が綻んだ。

「そうかい! お春ちゃんが…… お嫁に行きなさるかい!」

お春を見初めた相手は、領主の郎党。 此処いら近辺でも指折りの豪農の次男坊で、温厚で何処か年齢よりも老成された慎ましさを持った男だ。 ただ、正直なところ、嬉しさよりも不安が先に立った。

彼だけならば未だしも、向こう家族は私の事を如何思っているのだろうか? 家格も違う。 

それを吐露すると、老人はそっとお春の肩に載った雪を払った。

「なぁに、お春ちゃんじゃったら大丈夫。 しっかり者で、何より優しい心を持っとる。 必ず皆、お春ちゃんを気に入ってくれる。 お春ちゃんは、何も変わらんでええ。 お春ちゃんは…… お春ちゃんのままで、な?」

老人は鼻を啜ると俯き、少し照れ臭そうな表情を見せながら、小さく笑った。

木訥だが、ほっとするような温もり。 初めは同情だった。

館の男達から石塊のように扱われ、厨の女達から嗤われながら、門の外でただひたすら頭を下げている老人が哀れだったから。

しかし寧ろ、救われたのは私の方だったのかも知れない。

「有り難う…… お爺ちゃん。」

「ああ、そうじゃ……」 老人が何か思い出したように掌を袴で拭うと、筒袖の懐を弄り始めた。

「此れなんじゃが……」 

拡げた掌の上に、丁寧に折り畳まれた紙が載っていた。 大分古いものらしく、紙が黄ばんでいる。 

促されるままに其れを手に取り、紙を開く。

それは、赤漆を塗られた押櫛だった。

「綺麗……」 

思わず声が漏れた。 漆が雪に映えて、滑らかな光沢を放っている。 瑕一つない。 

余程大切に仕舞われていたのだろう。

「おらに色々良くしてくれたお春ちゃんに、と思って持って来たんじゃが…… 丁度良え。 此れ…… 嫁入りの祝いの品として受け取ってくれんか?」

こんな高価な物…… そう云って断ろうとするお春に、半ば強引に持たせると、老人は安心したように大きく頷いた。

門の処で、おさねさんが呼んでいる。 そろそろ夕餉の支度だ。

何だろう? もやもやした心が、何かを伝えようとしている。

「お爺ちゃん。 それじゃあ、如何か達者で……」

最後の時を知らせるように、一段と強まった雪は、もう既に樹冠を覆い始めていた。

老人は、いつものようにその場に佇んで見送っていた。

少し歩いた処で名を呼ばれた。

言葉が舌先で逡巡している。

「幸せに…… おなんなさいよ。 お春ちゃん…… 」


一月の雪。 

しんと冷え切った大地が、それを受け入れようとしている。

お春は門扉の処で立ち止まり、もう一度後ろを振り返った。

小さくなった老人が身動ぎもせず、此方を見詰めている。

その時…… 心が、ことりと音を立てた。

黒く塗り潰された記憶の中で、ゆらりと一つの像が浮かぶ。

それは、あの老人が門の外で膝を突き、頭を下げている姿だった。

何度も眼にした、見慣れた光景。

その姿に重なる…… 触れれば毀れそうなほど薄い、遠い昔の情景の断片。

地に這い蹲っている人がいる。 篭もったような嗚咽。

酷く心細くて、淋しくて…… 

私は、頻りに其の人の袖を引っ張っているのだ。

あれは……

淅瀝とした冬枯れの景色の中で、ぽつんと立ち竦む小さな孤影が一つ。 

物云わず天から舞い落ちる雪が、やがてそれを静かに掻き消していった。



薄明の山峡から垂れ込める、身を切るような冷気の中で、長助は悴んだ指にふっと息を吹き掛けた。

騎馬隊が門前に集合している。

軋む音と共に城門が開く。 長助は足を踏み出した。

槍を握る手に力を籠める。 穂先の根元が錆付き、石突きも無い。 色がすっかり剥げ落ちた柄は、所々ささくれだっている。 自分と同じ…… みすぼらしく、草臥れている。

だが…… この槍だけが知っている。

苦しみ。 迷いと嘆き。 時には何かに縋って、そして信じようとしてきた…… この、ちっぽけな自分の十八年を。

まるで空が破れたかと思うような銃撃の音。 長助の右隣の兵が、短い叫び声をあげながら視界から消えた。 思わず足が竦む。 立て続けの銃声。 

空を切り裂く銃弾が、びゅんと耳許を掠めていく。 

そして、前面の敵陣が地響きを立てて動き出した。 禍々しい殺意を満々と溜め込んだ巨浪が迫る。

耳を圧する喚声。 長助は眼を伏せながら、槍を突き出した。

躰が浮いた、と同時に息が止まるような衝撃。 

地に叩き付けられた長助が、もがきながら立ち上がる。 

正面から、どんっと何かがぶつかった。

よろめく長助の右から、怒号と共に加えられる一撃。 横倒しになった長助の眼の前を、泥水を跳ね上げながら無数の足が駆け抜けて行く。 焼け火箸を押し付けられたように熱い躰は、まるで石に括り付けられているかのように重い。

手から離れた槍は、中央から断ち割られていた。

もう…… 動けない。 戦えない。 手足の感覚が薄れ、耳を聾していた喊声が次第に遠ざかっていく。

長助はゆっくりと眼を閉じた。 躰が、地に引き摺り込まれようとしている。

その時…… 何かが聴こえた。 ザワザワとした喧噪に被さるように、途切れ途切れに届く、潜めるような声音。 幻聴か?

死に赴く躰の中で、耳だけが必死にそれを拾おうとしている。

(……爺っ……ん) 長助は眼を見開いた。

白乳色に揺蕩う視界に、ゆっくりと滲む影。 

それはやがて像を縁取り、人の姿を結んだ。

(し……新坊……) 

新吉が、其処にいた。

話したい事が山ほどあるのに…… ただ、泪だけが止めどなく溢れてくる。

哀しみで泣き、悔しさで泣いていた自分が……

(弱いんじゃなぁ、爺っちゃんは……)

(あ、あぁにいうとる。 こんなん……)

右足が動かない。 それでも長助は、半分に折れた槍を杖にして何とか立ち上がった。

(見とれ…… 新坊。 爺っちゃんを……)

影が迫る。 あの三人の兵の顔が頭をよぎる。 長助は叫び声を上げながら、倒れ込むように渾身の力で槍を突いた。 ずしりとした手応え。 と同時に、電撃のような熱の柱が背中を貫いた。 

気が付けば、長助は倒れていた。

ただ、鈍色の空が黙って見下ろしている。 

新吉が、ゆっくりと空の中に吸い込まれていく。

そして新吉の姿は、懸命に伸ばした指の先で滲んで影となり、やがて白に溶けていった。



廻りには、もう数騎ほど。 

気の遠くなるような人の壁を突き破ってきた馬も人も、既に限界を超えていた。

最後の血の一滴まで。 この胸を叩く鼓動の、最後の一拍まで。

割れた雲の狭間から差し込む、一筋の光芒。 その階を、霞がゆっくりと昇り、十二月の原野に光りが散りばめられていく。

北条軍の将旗。 雲霞の敵。

正木信茂の隣には、ぴたりと若武者が伴走していた。 前方を見据える瞳には、荒々しさが宿り、張りのある肌には精が漲っている。

見覚えの無い顔だ。 

”そなた、名は?!”

”四郎左右衛門と申します!” 向かい風を切り裂くように疾走する馬上で、その男が声を張り上げた。

”生まれは何処だ?!”

”下野は、佐野庄でござります!”

佐野庄…… 関宿の合戦で討ち死にした佐野晴綱の配下か?

”良し、四郎左右衛門! 其処に参ろう! 佐野庄は遠いぞ。

良いか?! 真っ直ぐ、前だけを見よ!”

”はっ!”

速度を上げた馬が泥塊を跳ね上げる。

馬上の二人の影は、見る見る小さくなって点となり、やがて敵陣の中へ呑み込まれていった。



波頭切って小田原へ向かう船。

その船尾からは鋸山を仰ぎ見る事が出来た。 

安房は三方を海に囲まれた海の国であると同時に、海岸線まで山裾がせり出した山の国でもある。

切り立った崖にへばり付く厳松が、手招きするようにその拉げた枝を大きく揺らしていた。

「そうですか…… 平七が、そんな事を……」

「ああ……」 隣で握り飯を頬張る日我は、ゆっくりと咀嚼しながら相槌を打った。

「願い叶わずとも、想いは遂げたのじゃ。 あれも満足だったろうよ。」 

風を受けた船は順調に進み、既に安房と相模の半ば近くに差し掛かろうとしていた。

南の外海から、風に乗って運ばれる強い潮の香り。 

艪によって砕かれた波が、一条の軌跡となってまた波に還る。

「上人様……」

「何じゃ?」

「私は……間違っていたのでしょうか? 里見の棟梁として……」

「万人の心を満たす事の出来る政など無ければ、一命を奪わぬ戦も無い。 それはお前が一番知っておろうが……」 握り飯を腹に収めた日我は、指に付いた米粒を啄んだ。

「それとも…… 利や欲に根ざす私心が、お前に一片でもあったと申すか?」 義弘は頭を振った。

「ならば黙って胸を張っておれば良い。」 

詰まらない事を訊くなと云わんばかりに、日我は鼻を鳴らした。

「おお…… 今日は大分船が出とるようじゃの。」

陽光に手を翳す日我の視線の先に、館山湊から出た大小三十艘ほどの漁船が、色取り取りの旗を靡かせながら船団を組んで南へ下っているのが見えた。

「そう云えば、知っておるか? あの千代殿の孤児院……」

館山の岬の中央に、こんもりと盛り上がった小山がある。 千代がいなくなってからは思い出す事も無くなっていたが、其処には彼女が開いた孤児院が在った。

「長らく無人じゃったそうだが、今は尼僧が一人、子供達と住んでおるそうじゃ。」

「尼僧……?」

「何でも、千代殿と鎌倉の尼寺で一緒だったそうじゃが…… 何なら行って見るか? 今度……」

「……いや、止めておきましょう。」 日我は、そうかと云って茫洋と拡がる南の海へ視線を戻した。

義弘は、知らず知らずの内に探していた。 

あの日千代と二人、この海を見下ろしていた高台を。

しかし当時とは様相が変わり、今では何処だったのか覚束ない。

記憶と云うものは、いつもそうだ。 薄い皮膜のように脆く、心許ない態を装いながら、時として鮮烈な断片がこの胸を刺す。

(太郎殿は如何じゃ? 千代を大切にしてくれるのか?)


由比の浜 一葉の夢

今は徒 永遠に還らん 焔抱きて


あの日、鎌倉で…… 潰えんとする未来を抱き、血河を渡る俺の耳許で囁こうとした言葉。 

彼女は何を語りかけようとしたのだろう。

落とした視線の先を、海面すれすれに滑空する海鳥が音も立てずに通り過ぎて行く。 やがてふわりと浮揚した其の鳥は、大空の懐に抱かれながら南へ下る旗を目指して飛び去っていく。

(千代……) 

安房でも鎌倉でも無い、この狭間の底に、千代が眠っている。 あの日、彼女を抱いた神々と共に。 

陰が窮(きわ)まり、陽に還り、やがて陽は陰を孕む。 こうして時は同じ季節を刻み、命を掌上に巡らせながら、全てを在るべき処に収めてしまう。

見上げると陽光に磨かれた、安房の山々。

春はもうすぐ、其処まで来ていた。






















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