第9話
ドラン男爵領は、王都から馬車で半日の距離にあった。
痩せた畑と古びた館。男爵位とは名ばかりの、慎ましい土地だった。当主夫妻は王命と聞いて青ざめ、娘の件かと問う前に膝を折った。
「養子縁組の経緯を、正確にお聞かせください」
応接室で、殿下が静かに切り出す。男爵は幾度も言い淀みながら、七年前の話を始めた。
「あの子は……遠縁の孤児だと、紹介されて参りました。流行り病で両親を亡くした、哀れな子だと。うちには子がおりませんでしたから、渡りに船と」
「紹介した方のお名前は」
「それが……仲介の代理人としか。謝礼も先方持ちで、こちらは書類に判を押しただけなのです。今思えば、確かに妙な話でございました。ですがあの子は本当に良い子で、賢くて、まさかこんな……」
男爵夫人が声を詰まらせた。この夫妻は、何も知らない。七年も共に暮らした娘の涙に、彼らもまた騙されていたのだ。あるいは──その涙だけは、本物だったのか。
卓の隅に、色褪せた刺繍の額が飾られていた。拙い針で綴られた『おとうさま、おかあさまへ』の文字。夫人の視線がそこへ落ち、また逸らされるのを、私は見なかったことにした。
「縁組の書類を、拝見できますか」
差し出された古い証書を、私は一枚ずつ検めていった。役所の受理印、教会の証明、後見の署名。形式はすべて整っている。整っているのに。
「殿下。この子の『七年前より前』が、どこにもありません」
「と、いうと」
「孤児だったなら、育った孤児院か教会の記録があるはずです。流行り病で両親を亡くしたなら、死亡記録と埋葬の台帳が。ですがこの書類は、縁組の一点から始まって、それ以前へ一本も線が伸びていない。まるで七年前のあの日、この世に突然現れたかのようですわ」
紙は、これ以上語らない。ならば。
「──お庭を、拝借いたします」
七年前、幼いミレーヌが初めてこの館へ来た日。彼女が立ったはずの玄関先の敷石に、私は指を触れた。
「《レコルダ》」
七年という歳月は、残留記憶には遠い。像は薄く、霞がかっていた。それでも私は魔力を注ぎ、雨に洗われた古い記録を一枚ずつ手繰り寄せていく。
やがて、夕暮れの像が結ばれた。
館の前に停まる、紋章のない黒塗りの馬車。降り立ったのは、黒衣の男と──その手を握った、薔薇色の髪の少女。十歳ほどのミレーヌだった。
男は少女の前に膝をつき、何事かを言い含めている。声までは残っていない。少女は俯き、一度だけ強くかぶりを振り、それでも最後には頷いた。あの気丈な、覚悟を決めるような頷き方を、私は知っている気がした。
十歳の子供に、一体何を背負わせたのか。像の中の小さな肩を見つめながら、私は自分でも意外なほど、静かな怒りが湧くのを感じていた。
「顔は、映りませんか」
「外套の頭巾が深くて……お待ちを。男が立ち上がります」
黒衣の男が馬車へ戻る、その一瞬。夕陽が袖口を照らした。
銀糸の刺繍。双頭の鷲が剣を摑む、あの意匠は。
「……殿下。袖章が見えました」
私は像を止め、そこだけを拡大して結び直した。霞んだ光の中、それでも見間違えようはなかった。
「双頭の鷲に剣。──隣国ザルツェンの、軍章ですわ」
殿下は長いこと、その紋章を見つめていた。
国内の醜聞だったはずの婚約破棄騒動が、この瞬間、国境を越えた。ミレーヌ・ドランは七年前、隣国の手で、この国に「植えられた」のだ。
「陛下に急使を。……これは、戦の火種になり得る」
殿下の声が、初めてかすかに緊張を帯びていた。




