表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので、その場で証拠を上映します〜記録魔法は嘘をつきません〜  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/30

第5話

 翌朝。私はいつも通りの時刻に、王宮文書院の扉をくぐった。


「……セラフィーナ嬢?」


 書庫番の老官吏が、幽霊でも見たような顔をする。無理もない。昨夜あれだけの騒ぎの中心にいた人間が、何事もなかったように出勤してきたのだから。


「おはようございます。昨日の鑑定依頼、三件残っておりましたでしょう」


「い、いや、それは、その……お休みになられるものとばかり」


「休む理由がございませんもの」


 私は自分の執務机につき、手袋を外した。書類の角を揃え、インク壺の位置を直す。いつもの手順。いつもの朝。そうしていれば、昨夜のことなど何も──


「三件とも、他の者に回しました」


 静かな声とともに、机の上に湯気の立つカップが置かれた。


 顔を上げると、文書院の最上位者がそこに立っていた。アルディス殿下。国王陛下の第二子にして、この王宮のあらゆる記録を統べる文書院の管理責任者。つまり、私の直属の上司にあたる方。


「殿下。私は職務に支障は──」


「昨夜の件、記録で拝見しました」


 殿下は私の言葉を静かに遮った。飾り気のない、事実だけを扱う者の声で。


「見事な仕事でした。証拠の選定、提示の順序、感情を排した論証。七年間あなたの鑑定書を決裁してきましたが、あれは間違いなく、あなたの最高の仕事だ」


「……仕事、ですか」


「ええ。ですが」


 殿下は書類の山を私の手元から遠ざけ、代わりにカップを寄越した。


「今日は、仕事をしなくていい日です。命令です、と言えば従っていただけますか」


 湯気の向こうの顔は、相変わらず表情が乏しい。学者肌で、口数が少なくて、社交界では「書庫の亡霊」などと呼ばれている方。けれどその目が、書類ではなく私を見ていた。


 私は少し迷って、カップを両手で包んだ。じんわりと熱が、昨夜から冷えたままだった指先に染みていく。震えはもう止まっていたけれど、冷えだけはずっと、指先に居座り続けていたのだ。


「……砂糖が、入っておりますのね」


「疲れた日は甘い方がいい。私の持論です」


「殿下が甘党でいらっしゃるだけでは?」


「記録に残さないでいただきたい」


 真顔でそう仰るものだから、私は思わず、小さく息を漏らして笑ってしまった。昨夜からずっと強張っていた何かが、少しだけ緩んだ音がした。


 思えば──この方は、いつもそうだった。


 新人の頃、初めての法廷鑑定で貴族側の弁護人に「小娘の魔法など」と嘲られた時、反論したのは検察側でも私でもなく、鑑定書の余白に決裁印とともに一行を添えたこの方だった。『本鑑定の精度に疑義ある場合、文書院が全責任を負う』と。


 真夜中まで及んだ大量鑑定の日には、何も言わずに書庫の灯りを一つ増やしてくださった。私の鑑定が政敵に睨まれた時は、いつの間にか矢面が文書院そのものに変わっていた。恩に着せる言葉は、七年間で一度も聞いたことがない。


 王太子の婚約者という肩書きを、この方だけは一度も口にしなかった。呼ばれるのはいつも「記録係殿」。私が積み上げた仕事の方だけを、正確に見て、正確に評価する人。


「……殿下。ひとつ、伺っても?」


「どうぞ」


「昨夜の私の記録は、鑑定人としてご覧になって、本当に瑕疵はありませんでしたか」


「ありません」


 即答だった。それから殿下は、ほんの少しだけ声を落とした。


「ただ一点、記録に残っていないものを挙げるなら──あの後、あなたがどんな夜を過ごしたのかだけは、私には分かりません。だから訊きに来ました。それだけです」


 私は答えられずに、ただ紅茶を一口飲んだ。


 甘さが、少し沁みた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ