第5話
翌朝。私はいつも通りの時刻に、王宮文書院の扉をくぐった。
「……セラフィーナ嬢?」
書庫番の老官吏が、幽霊でも見たような顔をする。無理もない。昨夜あれだけの騒ぎの中心にいた人間が、何事もなかったように出勤してきたのだから。
「おはようございます。昨日の鑑定依頼、三件残っておりましたでしょう」
「い、いや、それは、その……お休みになられるものとばかり」
「休む理由がございませんもの」
私は自分の執務机につき、手袋を外した。書類の角を揃え、インク壺の位置を直す。いつもの手順。いつもの朝。そうしていれば、昨夜のことなど何も──
「三件とも、他の者に回しました」
静かな声とともに、机の上に湯気の立つカップが置かれた。
顔を上げると、文書院の最上位者がそこに立っていた。アルディス殿下。国王陛下の第二子にして、この王宮のあらゆる記録を統べる文書院の管理責任者。つまり、私の直属の上司にあたる方。
「殿下。私は職務に支障は──」
「昨夜の件、記録で拝見しました」
殿下は私の言葉を静かに遮った。飾り気のない、事実だけを扱う者の声で。
「見事な仕事でした。証拠の選定、提示の順序、感情を排した論証。七年間あなたの鑑定書を決裁してきましたが、あれは間違いなく、あなたの最高の仕事だ」
「……仕事、ですか」
「ええ。ですが」
殿下は書類の山を私の手元から遠ざけ、代わりにカップを寄越した。
「今日は、仕事をしなくていい日です。命令です、と言えば従っていただけますか」
湯気の向こうの顔は、相変わらず表情が乏しい。学者肌で、口数が少なくて、社交界では「書庫の亡霊」などと呼ばれている方。けれどその目が、書類ではなく私を見ていた。
私は少し迷って、カップを両手で包んだ。じんわりと熱が、昨夜から冷えたままだった指先に染みていく。震えはもう止まっていたけれど、冷えだけはずっと、指先に居座り続けていたのだ。
「……砂糖が、入っておりますのね」
「疲れた日は甘い方がいい。私の持論です」
「殿下が甘党でいらっしゃるだけでは?」
「記録に残さないでいただきたい」
真顔でそう仰るものだから、私は思わず、小さく息を漏らして笑ってしまった。昨夜からずっと強張っていた何かが、少しだけ緩んだ音がした。
思えば──この方は、いつもそうだった。
新人の頃、初めての法廷鑑定で貴族側の弁護人に「小娘の魔法など」と嘲られた時、反論したのは検察側でも私でもなく、鑑定書の余白に決裁印とともに一行を添えたこの方だった。『本鑑定の精度に疑義ある場合、文書院が全責任を負う』と。
真夜中まで及んだ大量鑑定の日には、何も言わずに書庫の灯りを一つ増やしてくださった。私の鑑定が政敵に睨まれた時は、いつの間にか矢面が文書院そのものに変わっていた。恩に着せる言葉は、七年間で一度も聞いたことがない。
王太子の婚約者という肩書きを、この方だけは一度も口にしなかった。呼ばれるのはいつも「記録係殿」。私が積み上げた仕事の方だけを、正確に見て、正確に評価する人。
「……殿下。ひとつ、伺っても?」
「どうぞ」
「昨夜の私の記録は、鑑定人としてご覧になって、本当に瑕疵はありませんでしたか」
「ありません」
即答だった。それから殿下は、ほんの少しだけ声を落とした。
「ただ一点、記録に残っていないものを挙げるなら──あの後、あなたがどんな夜を過ごしたのかだけは、私には分かりません。だから訊きに来ました。それだけです」
私は答えられずに、ただ紅茶を一口飲んだ。
甘さが、少し沁みた。




