第28話
戴冠式の、前夜だった。
文書院の決裁室で、私は最後の残務を検めていた。明日からこの部屋の主は国王となり、私は新設の記録院へ移る。七年通った部屋の、これが見納めだった。あの審問会から、半年。記録院の開設と戴冠の支度に、季節はふた巡りしていた。
「──まだ、いらしたのですか」
扉口に、アルディス殿下が立っていた。戴冠式の予行を終えたばかりなのだろう、略礼装のままで。
「殿下こそ。明日の主役が夜更かしなど」
「主役だからこそ、逃げてきました。予行というものは、あれは拷問の一種です」
殿下は勝手知ったる足取りで茶器の棚へ向かい、二人分の紅茶を淹れ始めた。国王になる方に茶を淹れさせる臣下も、明日からはさすがにいなくなるだろう。今夜が最後だと思うと、砂糖の匙を眺める目にも、妙な感傷が混ざった。
「……この部屋とも、明日でお別れですのね」
「ええ。七年、世話になりました。あなたの鑑定書に埋もれて過ごした、いい部屋だった」
カップが二つ、卓に置かれる。それきり、殿下は珍しく黙り込んだ。
沈黙は、この方との間では珍しくない。心地よい沈黙なら、七年分の蓄えがある。けれど今夜のそれは、何かが違った。茶が半分になっても、殿下は一度も書類に目を落とさなかった。時折こちらを見ては、何かを言いかけ、カップに戻る。決裁の速さで王宮に知られた方が、今夜に限って、一枚の書類も片づかない。
「セラフィーナ嬢」
「はい」
「あなたの魔法は、事実をすべて映す」
唐突に、殿下はそう切り出した。
「あの断罪の夜も、礎石の二十年も、審問会の逆転も。この国の誰が疑おうと、記録は事実を証明する。……ですが、一つだけ、あなたの魔法にも映らないものがある」
「──心、ですか」
「ええ。人が何を思ってその場に立っていたか。記録は、それだけは残さない」
殿下はカップを置き、立ち上がった。それから私の前まで来て、あろうことか、床に片膝をついた。
「で、殿下!?」
「だから、言葉で言うしかない。……七年、あなたの隣で仕事をしました。あなたの誠実さも、強情さも、砂糖二杯の紅茶で機嫌が直ることも、震える指を扇で隠す癖も、全部見てきた。それでも心だけは、言わなければ伝わらない」
燭台の灯りの中、いつも静かなその目が、まっすぐに私を見上げていた。
「愛しています。仕事仲間としてではなく、記録係としてでもなく──セラフィーナ、あなたを。私の妃に、なってほしい」
言葉が、出なかった。
三千件の鑑定をこなした口が、審問会で侯爵を追い詰めた口が、たった一言の返事のために、完全に職務を放棄していた。
心は、記録に残らない。だからこの方は、七年間の想いを、一度も記録に頼らず、こうして生身の言葉にして差し出している。断罪も逆転劇も涼しい顔で見届けた私の心臓が、その言葉ひとつで、こんなにも簡単に乱れてしまう。
頬が熱い。燭台のせいではない。夕陽のせいにも、できない。この顔を、この国でただ一人、残留記憶から読み出せてしまう人間がいるとすれば、それは私自身で。
私は──手にしていた扇を、ぱっと開いて顔を隠した。
「……せ、セラフィーナ嬢?」
「今のは」
扇の内側で、声が上ずった。淑女教育七年の成果は、どこへやら。
「今の私は、記録しないでくださいまし……!」
しばしの沈黙のあと、扇の向こうで、殿下が笑う気配がした。声を立てて、本当に嬉しそうに。初めて聞く笑い方だった。
「残念ながら、お断りします。──今夜のことは私の生涯で、最も大切な記録になる予定ですので」
「殿下のそういうところ、本当にずるいですわ」
「はい、と受け取っても?」
扇の端から、私は観念して、目元だけを覗かせた。
「……ええ。謹んで、お受けいたします」




