第18話
「──よくぞ、辿り着かれた」
声は、禁書庫の闇の奥から響いた。
殿下が私を庇って前に出る。燭台の灯りの輪の中へ、ゆっくりと歩み出てきたのは、一人の老人だった。
白いものの混じった長い髪。旅塵に汚れた外套。深い皺の刻まれた顔の中で、双眸だけが研がれた刃のような光を宿している。
「……ヴェスパー」
「いかにも。二十年ぶりの祖国は、埃の匂いまで変わっておらんな」
老魔導士は薄く笑い、それから私を見た。
「セラフィーナ・ヴェルクロード。我が理論の、最も優れた後継者よ。石の記憶を読み切ったその腕、見事という他ない」
「白い上書きも、この部屋への侵入も、あなたの仕業ですのね。答えていただきますわ。ミレーヌ・ドランは今どこに。そして──彼女は、何者なのです」
「察しはついておろう。あの礎石の記録を読んだのなら」
ヴェスパーの目が、遠くなった。
「二十年前、わしは偶然、継承簿の綴じ替えに気づいた。紙の目が、一枚だけ違っておったのでな。告発の支度を整えた三日後、わしは改竄未遂の罪で捕らえられた。──ギデオンの手際は、実に鮮やかだったよ」
「調書は読みました。あの裁きは、正当なものではなかった」
「ほう。追放者にも公正であろうとするか。……いい目をしておる」
老人は乾いた声で笑い、続けた。
「国を追われたわしは、諸国で読みの術を教えて糊口をしのぎ、やがてザルツェンに流れ着いた。そこの亡命者の集落で、一組の母子に出会ったのよ。母親は病みついておってな、死の床でわしに縋った。『この子を頼む』と。──母の名はエリアーヌ。この国の元王女付き女官にして、亡き第一王子ラファエル様が、宮中の反対を押し切って娶った人だった」
燭台の炎が、揺れた。
「では、その子が」
「ラファエル様の忘れ形見。切り捨てられた頁に記された、正統な継承権第一位。……ミレーヌ。あの子の、本当の名はミレイユという。男爵家には、歳を三つ幼く偽って入れた。追手が正統の遺児を探すなら、まず歳の勘定から辿る。十の孤児を、誰も二十年前の頁とは結びつけぬでな」
あの薔薇色の髪の令嬢の顔が、脳裏に浮かんだ。階段から身を投げた令嬢。嘘の涙を稽古していた令嬢。連行の間際、敗者ではない顔で微笑んだ、あの。
そして──七年前の夕暮れ、男爵家の玄関先で、一度だけ強くかぶりを振り、それでも最後には頷いた、あの小さな肩。
「あの子の任務は、わしが授けた。王太子に取り入り、廃嫡させ、王家の権威を失墜させる。そして機の熟した時、改竄された玉座の正体を、万民の前で暴くこと。──奪われた者が、奪った者から取り返す。それだけの話よ」
「それだけの話、ですって」
気がつけば、私は一歩、踏み出していた。
「十三の子供に復讐を背負わせ、七年かけて工作員に仕立て、偽りの罪で私を断罪の壇に立たせた。あなた方の『正義』とやらは、冤罪を憎むはずのあなたが、別の誰かに冤罪を着せることで成り立っていたのですわ。二十年前のあなた自身と、同じ目に遭わせることで!」
禁書庫に、私の声が反響して消えた。
ヴェスパーは、否定しなかった。ただ深い皺の奥で、目を細めた。
「──ゆえに、そなたを選んだのだ」
「……何を、仰って」
「わしらのやり方は、汚れておる。承知の上よ。だが、そなたは違う。冤罪を晴らしたその魔法で、今度は二十年前の冤罪を裁くがいい。記録の名の下に、公正にな。……礎石の記録は、渡した。使い方は、そなたらが決めよ」
老人の姿が、闇に溶けるように薄れていく。
「ヴェスパー! まだ話は──」
「ああ、それとな、記録係殿」
消え際の声だけが、笑っていた。
「ギデオンは近く、動くぞ。──そなたらが今夜ここへ来たことも、恐らくもう、摑んでおる」




