第12話
急報が文書院に飛び込んできたのは、雨上がりの早朝だった。
「ドラン男爵令嬢が──牢から、消えました」
地下牢に駆けつけた時には、既に近衛が現場を固めていた。
鉄格子は施錠されたまま。壊された痕跡も、掘られた穴もない。寝台の毛布だけがきちんと畳まれ、囚人の姿だけが、忽然と消えていた。
「牢番は」
「三名とも無事です。ただ……また、なのです」
案内された詰所で、牢番たちは揃って青い顔をしていた。眠ってはいない。持ち場も離れていない。なのに昨夜のある一刻だけが、三人揃って思い出せない。
前と、同じだ。
王宮の地下牢は、この国で最も警備の厚い場所のひとつだ。近衛の巡回、二重の錠、魔法探知の結界。そのすべてが、まるで存在しなかったかのように素通りされている。侵入でも脱獄でもない。これではまるで──最初から、いつでも出入りできたかのようだ。
「下がっていてください。──《レコルダ》」
牢の前の石畳に膝をつき、指を触れる。予想はしていた。それでも、広がった光の中に例の「白」を見た瞬間、指先が強張った。
昨夜の記録は、牢の周辺だけがまるごと、完璧な白に塗り潰されていた。
「……徹底していますわね。廊下、牢の内部、通気口の周りまで。読める場所が一箇所もありません」
「つまり、例の使い手が直接来た、と」
「ええ。今回は伝言ではなく、回収に」
私は立ち上がり、白い光を睨んだ。二度目ともなれば、恐怖より先に腹が立つ。人の領分を、こうも綺麗に踏み荒らしてくれて。
その時だった。
「アルディス殿下、セラフィーナ様。牢の中に、これが」
近衛の一人が、布に載せた何かを差し出した。
一輪の、白い菫だった。
摘まれてまだ間もない、夜露さえ残る白菫。畳まれた毛布の上に、まるで署名のように置かれていたという。
「……花? 嘲笑のつもりでしょうか」
「いえ」
答えた殿下の声が、常になく低かった。見れば、その白菫を見つめる横顔が、かすかに強張っている。
「殿下?」
「──白菫。まさか、そんなはずは」
殿下は花を検め、それから私に向き直った。
「セラフィーナ嬢。『ヴェスパー』という名を、聞いたことは」
「ヴェスパー……確か、二十年前に王宮を追放された宮廷魔導士の。文書院の古い名簿で名前だけは」
「ただの宮廷魔導士ではありません。残留記憶の理論を確立し、それを読む術式を初めて組み上げた人物──記録魔法の、創始者です」
息を呑んだ。
「あなたの《レコルダ》も、王国の記録魔導士制度そのものも、元を辿ればすべてあの男の研究に行き着く。そして彼には、署名の代わりに白菫を残す癖があった。研究記録の末尾に、必ず一輪。文書院の古い書類に、今も押し花が残っています」
「ですが、追放された方なのでしょう。罪状は」
「王家記録の、改竄未遂」
記録魔法の創始者が、記録の改竄で追放された。
そして今、記録を「消せる」何者かが、白菫を残して囚人を連れ去った。
読む術を生んだ者ならば、消す術に辿り着いていても、何の不思議もない。むしろ二十年という歳月は、そのために費やすには十分すぎるほどだ。私が七年で読むことを極めたのなら、創始者の二十年が何を生んだか──考えるだけで、背筋が冷えた。
「殿下。二十年前の追放の記録を、洗わせてくださいまし」
私の声は、自分で思うより硬かった。
「敵の正体だけではありません。もし本当にヴェスパーなら──私の魔法の生みの親が、なぜ国を裏切り、今また何を始めようとしているのか。記録係として、知らねばなりませんわ」




