第11話
朝から、雨が降っていた。
調査は行き詰まっていた。男爵領から戻って、ふた月余り。ザルツェンの軍章という手がかりは得たものの、七年前の国境通行記録は保存期限切れで廃棄済み。外交筋への照会は「時期尚早」と陛下ご自身が止めた。証拠のないまま隣国を疑えば、それこそ相手の思う壺だからだ。牢のミレーヌは変わらず微笑むだけ。黒衣の男の顔は、どの残留記憶にも残っていない。
「……手詰まり、ですわね」
調査室の窓を雨が叩く。積み上げた書類の山は、今日は一枚も減っていなかった。
情けない、と思う。大見得を切って真実を暴いた記録魔導士が、肝心の敵の正体ひとつ摑めない。あの夜の私は、本当にただ、掌の上で踊っていただけなのかもしれない。
「セラフィーナ嬢。少し、席を外しましょう」
顔を上げると、アルディス殿下が燭台を手に立っていた。
「息抜き、ですか」
「いいえ。お見せしたいものがあります」
連れて行かれたのは、文書院の地下だった。
書庫のさらに奥、殿下の鍵でしか開かない小さな部屋。燭台の灯りに浮かび上がったのは、壁一面の棚と、そこにぎっしりと並んだ書類箱だった。
「これは……?」
「開けてご覧なさい」
手近な一箱を、棚から下ろす。蓋を開けて、私は言葉を失った。
鑑定書の写しだった。それも、私の。
七年前の日付。拙い筆致の、私の最初の鑑定書。市場の窃盗事件、被疑者の少年の無実を証明した一枚だった。隣の箱には二年目のもの。その隣には三年目。棚一面、すべてがそうだった。私が書き、法廷へ提出し、決裁されて、それきり忘れていた数千枚が、年代順に、一枚の欠けもなく。
「文書院の正規保管とは別に、写しを取っていました。……七年分です」
「なぜ、こんな」
「最初は、決裁者としての備えでした。あなたの鑑定が政争に利用された時、原本が『紛失』しても戦えるように」
殿下は棚の一箱に触れ、静かに続けた。
「ですが三年目あたりからは、理由が変わりました。単純に──残したかったのです。これを」
燭台の灯りが、几帳面に並んだ箱の背を照らしている。
「この箱の中身が何か、ご存知ですか。冤罪を晴らされた炭鉱夫が三人。取り戻された孤児院の寄付金。裁かれた人買いの一味。あなたが淡々と書いてきた紙の一枚一枚の向こうで、誰かの人生が救われてきた。あなたの仕事は、この国の正義を七年間、支えてきたのです」
雨音が、遠くなった。
「婚約者殿は、あなたを見なかった。社交界は氷の記録係と呼んだ。ですが」
殿下がこちらを向いた。灯りのせいか、いつも静かなその目が、今夜は少しだけ熱を持って見えた。
「私は、ずっと見ていました。誰よりも誠実な仕事を、誰よりも近くで。……だから、覚えておいていただきたい。あなたの七年は、あの夜会で踏みにじられるようなものでは、決してなかった」
喉の奥が、熱くなった。
泣くものですか、と思った。あの断罪の夜ですら、私は涙を見せなかったのに。なのに、どうして。罪を着せられた時ではなく、積み上げたものを認められた時に、人の涙腺は緩むものらしい。俯いて、まばたきを二度。それでどうにか、堪えた。堪えたことに、しておく。
「……殿下は、ずるい方ですわ」
「よく言われます。主に、私の倍は生きている老臣たちに」
「こんな記録の残し方をする方に、記録係が敵うはずがないもの」
俯いた私の視界の端で、殿下が困ったように、けれど確かに微笑んだのが見えた。
雨はまだ、降り続いていた。その音を、私は生涯忘れないだろうと思った。




