兄の名
「おーいレイズ! なにやってんだ? はやくこいよ!」
暗闇の中で、声が聞こえる。
風切り音に紛れて少年の声が。
「まってよ! はやいよ! にいさん!」
少年の問いかけにもう一人の更に幼い少年が答えた。
幼い頃の自分。レイズである。
兄さんと呼ばれた少年が少し離れた丘の上に立っているのが、澄んだ彼の瞳に映った。
辺りは夜。野草が生い茂げ風が流れる深緑の絨毯を、大量の宝石をばら撒いた様な星々と夜空に引っかかった白い三日月が煌々と照らしている。星と星の間を流星が縫い、虹色の波が幾つも引かれ、大地に降り注ぐようにしてほろほろと崩れていく。
満天の星空。そう呼ぶ以外無い光景だった。
「おきにいりのばしょがあるんだ! おまえにもみせてやりたいんだよ!」
少年は丘の下のレイズに呼びかける。月光の影に隠されているが、どこかレイズに似た風体である。
「こんなよなかにそとにでたらかあさんにおこられるよ! もどろうよにいさん!」
「かあさんならもうねちゃったよ! だいじょうぶだ! もしものときはおれがいるからさ!」
自信満々に胸を叩いた少年はレイズの到着を待たず夜の野原に走り出してしまった。
「おきにいりのばしょってどこなの!? まってってにいさん! おいてかないで!」
短い手足を一生懸命振り、少年に追いつこうと必死に走る。
「もうちょっと! こっちだ!」
少年――兄の背中を目指して走ったレイズは、やがてとある場所に辿り付いていた。
「ここだよ!!」
兄の隣に並びながら膝に手をつき顔を伏せる彼は、呼吸を整えると表を上げた。
そこには――。
「わあぁぁぁ」
思わず声を上げてしまうような光景。
眼前に広がっていたのは先ほどからの満天の星空に加え、視界を埋め尽くすほどの赤い゛薔薇゛の群れだった。艶美な真紅の波が地平線の果てまで伸び、波から逃れた無数の花びらたちが夜風に乗って星空の宙に舞っている。
この世とは思えないほどの、日常の風景とは一線を画する場所だった。
「すごいだろ! ここ! きのうみつけたんだ!」
「うん! ほんとにすごいよ! さすがにいさんだね!」
レイズは小さな両手を薔薇と星の天に向かって伸ばす。幼い顔に埋め込まれた一切の憂いもない水色の瞳に、星空が映りきらきらと光り輝いていた。
一番大きな虹の流星に伸ばした指先は、当然届きはしないがそれでもレイズは踵を上げ背伸びして上へ上へと手を伸ばす。
もうすこし――もうすこし――。
指と指の隙間から流星が消えたその時だった。
重々しく、空間を震わせるような鐘の音が響いた。
目の前の風光明媚な光景は一瞬にして堅固な白い天井に変わっていた。
広げられた両手は先ほどよりも一回り大きくなり、肌に感じられた柔らかさは無くなっている。手を胸元まで戻し掌を見ると、そこには赤い鮮血がべっとりと付着していた。
「……え? これ、血? 兄さん? 血が……」
随分低くなった声で先ほどまで隣に並んでいた筈の兄を呼ぶ黒衣のレイズ。だが返事はなかった。
「……兄さん? 兄さ――」
横を向くとそこには、広い大理石の広間を沈めるほどの鮮血が広がっていた。
赤い血が飛び散った壁や柱には、自分と同じ黒衣の人間が何人も黒い鎖で繋がれ、吊るされている。
自分が見た筈の無い情景。
薔薇の真紅は血の朱殷へと変わっていた。
その先に一人、同じ黒衣を纏い両手に歪な形の剣を二本持った空色髪の男が背を向けて立っていた。持った双剣からは血が滴り落ち、その男がこの惨劇を作り出した存在である事を物語っている。
「……兄さん……? なにやってるんだよ……。こっち向いてよ……。兄さん……!」
黒衣の男がこちらに振り向こうとする。
「兄さん……!!」
兄を呼ぶ声は震えていた。
黒衣の男の表情が明らかになる一瞬。
――――ハリア兄さん――――。
その瞬間、血の中にどっぷりと身体ごと落ちるような感覚が全身を襲い、レイズは眼を見開いた。
天国の様な星空でもない。地獄の様な血の惨劇でも。
青く透き通った天に東から差し込んだ輝く茜色。
夕焼け? いや、朝焼けか。
太陽の日に照らされた冷たい朝の風が、開いた藍色の瞳を乾かしていく。
「どんな夢を見ていたかは知らねぇ。だがその名前は寝言でも口にすんな」
仰向けのレイズはゆっくりと横を向くと声の主、ロゼが喜んでいるようにも怒っているようにも見える何とも言えない表情でこちらを見ていた。
「おはようレイズ。気分はどうよ?」
「……悪くありません。生きてるって感じです」
ロゼは少し笑ってみせるとこう続けた。
「そりゃあ良かった。本当に。無事で何よりだぜ」
先ほどの表情が嘘のように笑顔をつくるロゼと、横に佇むベルル、そしてレイズの頭を膝に乗せて安堵したように微笑むシェリア。
レイズは三人に囲まれ、冷たい廃墟の天井で朝空を見上げながらようやく実感した。
俺は生還した、と。




