暴魔戦③
彼の見つめる先には白い月が浮かんでいた。
巨大な空洞を越えた遥か先の夜空に、大きな三日月の一部が見え隠れしているのである。
一切の霞なく純白に輝くそれは、まるで天使の羽衣の様だ。
綺麗な夜空だった。
月などに浸ったことなどなかったが、今は心の底からそう思うことができた。
ずっと見ていたい――、と。
だがその願いは叶わなかった。
天に掛かった月に、なにか黒いモノが覆い被さった。
雲か――? それとも夜闇――? いや、これは。
「プギャハハハ」
岩の上に仰向けに倒れたレイズの顔面を、暴魔は掴んでいた。
綿毛が飛び出した掌で目元を覆い、ゴムのように伸びた指先で頭を鷲掴みにする。
彼はなんの抵抗もできず放り投げられ、その身はもう一度ステンドガラスを突き破った。
七色の破片が全身を包み、突き刺さる。
死体のように広間に転がった彼の身体からはいつの間にかシャツとジャケットは破れて失せ、傷だらけの上半身が露わになっていた。武器は腰のフォルスター引っかかった神槍のみ。鍛えられた筋肉質の身体には無数の切り傷や刺し傷が刻み込まれ、プギーマンの攻撃を受けた腹部は青紫色の跡が広がっている。
「が……あ……」
ようやく動き出した肺に空気を吸いあげるようにして呼吸したところに、ヒールの足音が近づいて来る。
地面に擦りながら顔を上げると、千切れた右腕の付け根からおびただしい量の血をまき散らす暴魔が立っていた。その惨憺たる様は怒り狂った顔面も相まって、片翼を携えた悪魔のように目に映る。
プギーマンは左手で血をまき散らす付け根を捻じり、皮膚を括るようにして出血を止めた。
「くっそ……! まだ……生きて……!」
両腕を支えに立ち上がろうとしたレイズの右腕に、激痛が走った。
内側から波のように押し寄せるこの痛み。
まさか――。
眼を落とした彼は絶句した。
先のベアウルフとの戦いで負傷し、包帯を巻きつけていた右手の甲がおかしな方向に曲がっていたのだ。
――折れてる――。
戦いの終焉を告げる鐘の音を聞いた気がした。
焦るように表を上げると、ちょうどプギーマンが折れた腕に気が付いたように首を傾げる。
そしてレイズの絶望に沈んだ顔を見た瞬間――。
「プ……プ……プギャアアアアアアアアアハハハハハハハハ!!!!!!!!」
歓喜を爆発させた。今まで自分を傷付け続けた対象が、文字通り攻撃の要を折られ落胆している姿に絶頂を迎えたのだ。
愉悦。
快感。
顔面から血が噴き出すのも構わず全身を震わせて感情を爆発させる。長い間追い求めていた物を手にする寸前のような、生涯一の喜びを手にする瞬間のような、絶頂を超えた興奮がプギーマンを包み込み、飲み込んでいた。
両手を広げて嗤うプギーマンを目に歯を食いしばるレイズ。
その光景が悔しくて、情けなくて、そして心の底から恐ろしかった。
「くっそがああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
我武者羅に左腕から放った黒鎖が巻き付いたのは巨大天秤の梃子だった。
ゴゴゴと重低音を響かせながら瓦礫の上の天秤が引きずられ、左右の皿が上下する。
そしてレイズは全身で振るうようにして天秤を無理矢理投げつけた。力に任せたその一撃に策や狙いなどは一切なく、ただ単純にプギーマンの嗤い声をこれ以上聞きたくなかったのである。
当てもない攻撃の筈だった。最後の足掻きの筈だった。だがその言わば愚行とも取れる攻撃が奇跡を起こす。
「プギャ――?」
腕の折れた人間にそんな事できる訳もないと高を括っていたのか、絶頂に身体を震わせていたプギーマンは有ろうことか迫りくる天秤に反応できなかった。
そして――。
ズドオオオオオオオオオオオオン!!!! と、広間に轟音が響き渡った。粉砕された瓦礫が爆ぜ、土煙が辺りを覆っていく。
「プギーマンが……襲ってこない……? まさか、やったのか?」
荒く息をする彼は右腕を庇いながらフラフラとした足取りで土煙の中に歩を進めた。倒れた天秤の傍まで行くと、その光景に目を見開いた。
そこには巨大な皿に身体を潰され、下敷きになったプギーマンがいた。
レイズの方を見ながら弱々しく唸るような鳴き声を上げている。手足が痺れる様に震動しているところを見た時、プギーマンが回避できなかった理由が明確に彼の脳裏に浮かび上がった。
ブーツの隠しナイフにはたしか毒が、《《麻痺性の血液毒》》が塗られていた筈だ――と。
身体全体を覗うに人間相手ほどの効果は出ていないようだが、小刻みに震えている様を見るとしばらくは動けそうにない。
その光景にレイズは溜まらず、嗤った。
「ハ、ハハハハ! どうしたプギーマン! 苦しそうだな!? 手を貸してやろうか!?」
足で顔面を踏みつけ、嗤うレイズ。それはさながら数分前までのプギーマンのように、自分を苦しめた相手を見下して心の底から嗤った。
最高の感覚だった。
幸運にもにやけ面のプギーマンは自分の前に敗れた。
所詮その程度だったんだ――と。
彼に普段通りの冷静さが残っていたのなら気付いていたのかもしれない。
にやけ面のプギーマンがその程度である訳がない分かりきった事実に。
執行官の候補官一人がどうあがいても敵う相手ではない力の差に。
今日、自分自身は間違っても゛幸運゛ではないことに。
「プププ、プギギ」
下敷きになったプギーマンが血を撒き散らしながら首元を半分引き千切り、頭を回したその時――。
「は?」
背後の遠いところでなにか、崩れる音がしたかと思った瞬間、レイズの胸に棒状のモノが生えるように現れた。
黒いステッキ。
バルコニーの壁に突き刺さっていた筈のプギーマンのステッキが飛来し、背中を貫通し胸を突き破ったのだ。
「が……なん……で――」
吐血した彼は膝から崩れ落ち、前屈みに倒れる。胸から飛び出たステッキの先端が支えとなり、まるで祈りでも捧げているような姿勢で更に鮮血を吐き出した。
目の前で震えを止めたプギーマンが巨大な皿を退け、血の池に浸かった全身を起き上げていく。そのボロボロの手でステッキのグリップを握り、貫通した肉体ごと持ち上げた。
霞む視線が上がって行き、天井が映った瞬間――。
「プギャアアアア!!!」
視界がズレた。
貫通したステッキが遠心力により抜け、体内の臓物がぐちゃぐちゃに混ざった様な感覚が襲ったかと思えば、背中から強烈な衝撃が穿った。
一瞬のうちになにが起こったのか理解できないレイズは、ただ宙を見つめ身体を覆う瓦礫に身を任せることしかできなかった。




