第二話 約束の食卓
朝の光が廊下へ柔らかく差し込む。
リハビリを始めてから数日。
今では一人でも短い距離なら歩けるようになっていた。
まだ無理はできない。
それでも、一歩ずつできることは増えている。
「おはようございます、ノエルさん。」
「おはよう。」
セレナが端末を手に取る。
「体調の方は?」
「平気。むしろ昨日より元気だよ。」
その言葉にセレナは柔らかな笑みを浮かべた。
「それでは、少しだけ遠くまで歩いてみましょうか。」
「遠く?」
「はい。」
そしてどこか嬉しそうに言った。
「朝食は皆さんと一緒に食堂でいただきましょう。」
その言葉に思わず目を見開く。
「いいんですか?」
「えぇ。あ、でも無理はしないでくださいね。何かあればすぐに言ってください。」
「もちろん。」
食堂。
あの日から、少しだけ楽しみにしていた場所だ。
─────────
廊下に何かを焼いたような、いい匂いが漂っている。
食堂に近づいている証拠だろう。
「よう。」
向かう途中、聞き覚えのある低い声が後ろから聞こえた。
振り返ると、片手を上げたエインがいた。
「今日は食堂まで来れたみたいだな。」
「うん。」
エインは楽しそうに笑う。
「約束通りだ。」
「本当にいいの?」
「何が。」
「ご飯をご馳走してくれるって。」
「言ったろ?快気祝いだって。」
「まだ完全には回復していませんよ。」
「細かいことはいいんだよ。」
エインが肩をすくめる。
「細かくありません。」
「はいはい。……先生は厳しいな。」
「当然です。」
二人の会話に思わず笑ってしまった。
食堂の前まで来ると、より一層、いい香りが鼻をくすぐる。
「準備はいいか?」
「え?」
エインは食堂の扉に手を掛ける。
「みんな、お前が来るのを待ってる。」
その言葉に少し胸が高鳴った。
「……うん。」
そして食堂の扉が開かれる。
食欲がそそられるいい匂い。
人々の会話。
食器の音。
「……賑やかだ。」
「いいとこだろ?」
エインは自慢げに笑った。
「おはようございます。」
食堂の入り口に立つ男性が、挨拶と共に頭を下げた。
「今日も早ぇな。」
「おはようございます、エイン様。朝食は一日の基本でございますので。」
「相変わらず真面目だな。」
「お褒めにあずかり光栄です。」
どうやらエインの知り合いみたいだ。
すると、その男性と目が合った。
黒を基調とした整った服装。
丁寧に整えられた黒髪と、穏やかな笑みが印象的だった。
執事のような落ち着いた雰囲気を纏っている。 けれど、その立ち姿にはどこか剣士のような隙のなさも感じられた。
初めて会うはずなのに、不思議と安心できる空気を持った人だった。
「おはようございます、ノエル様。」
「おはよう……ございます。」
反射的に挨拶を返した。
男性はどこか懐かしそうに目を細める。
「お待ちしておりました。」
「……ごめん。まだ思い出せないんだ。」
その人は少しだけ目を伏せる。
それから穏やかな笑みを浮かべた。
「構いません。こうしてもう一度お会いできただけで、十分でございます。」
そしてもう一度、小さく頭を下げた。
「皆様、席にお座りください。すぐに朝食をご用意させていただきます。」
「シリルさん、今日は消化にいいものをお願いします。」
「承知しております。」
「僕だけ特別?」
その言葉にセレナはふっと笑う。
「まだリハビリ中ですから。」
「皆様と同じ献立でございますよ。ただ、ノエル様だけ少々食べやすくしております。」
そう言って彼は、小さく一礼した。
「では、私は準備に。少々お待ちくださいませ。」
彼は厨房の方へと向かっていった。
「お言葉に甘えて待つとしよう。空いてる席は……おっ。」
エインは一つのテーブルに近づく。
そこには見覚えのある人影があった。
「よう、リリア。」
「エイン教官。おはようございます。」
先に食堂に来ていたリリアだった。
「おはようございます、ノエルさん。もう歩けるんですか?」
「おはよう、リリア。少しね。ここまで来たのは初めてだよ。」
リリアは少し嬉しそうに笑った。
「それは良かったです。」
そのまま、僕たちはリリアのいた席に座った。
しばらくすると、先程の男性が料理が乗ったワゴンを運んでくれた。
テーブルに置かれたのは、焼きたてのパンに温かいスープ。
卵料理にサラダ、そして小さなゼリー。
「すごい……」
「本日はリハビリ中ですので、消化に良い献立にしております。」
「ありがとうございます。……えっと。」
彼は小さく目を見開いた。
「私としたことが、紹介が遅れておりました。」
彼は咳払いを一つ。
「私はシリル・ノワールと申します。管理部門長を務めさせていただいております。」
シリルは丁寧に頭を下げた。
「よろしく、シリル。」
それを聞いたシリルはどこか安心したように、小さく息をついた。
シリルが全員の前へ料理を並べ終える。
綺麗に盛り付けられた料理は、見ているだけでお腹が鳴りそうになる。
「お待たせいたしました。」
シリルは静かに一礼した。
エインが両手を合わせる。
「それじゃ、食うか。」
「いただきます。」
リリアとセレナが微笑みながら声を揃える。
僕も少し照れくさそうに、両手を合わせた。
「……いただきます。」
まずは焼きたてのパンを一口。
外は香ばしく、中はふんわりと柔らかい。
思わず目を丸くした。
「美味しい……!」
「だろ?」
エインがどこか得意げに笑う。
「シリルの料理は昔から評判だったんだ。」
「そうなんだ。」
視線を向けると、シリルは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「毎日こんなに美味しい料理を作っているの?」
「はい。皆様が万全の状態で任務へ向かえるよう、栄養面にも配慮しております。」
「だからシリルさんの料理は人気なんですよ。」
リリアが嬉しそうに笑う。
「私も毎日楽しみにしています。」
「私もです。」
セレナも頷く。
「食事は健康の基本ですから。」
「先生らしいな。」
エインが苦笑すると、セレナも小さく笑った。
「医療班としての仕事を全うしているだけですよ。」
穏やかな笑い声が食堂へ広がる。
自然と僕の口元も緩んでいた。
「昔のノエルさんも、焼きたてのパンが大好きだったんですよ。」
「そうだったんだ。」
リリアは優しく笑う。
「シリルさん、いつもノエルさんの分だけ、少し多めに焼いてくださっていたんです。」
「え?」
「お気付きになっておりましたか。」
「そりゃ気付く。」
「ノエル様があまりにも美味しいとおっしゃられるので、つい。」
シリルは少し照れくさそうに微笑んだ。
食卓に温かな空気が流れる。
……不思議だった。
思い出せない。
十年前のことも、この人たちと過ごした時間も。
それなのに、この食卓は初めてと思えないほど居心地がいい。
「どうした?」
エインが不思議そうに尋ねる。
「ううん。」
僕は小さく首を振った。
「なんだか、ここにいると安心するんだ。」
エインは満足そうに頷いた。
「それで十分だ。思い出すのは、そのあとでいい。」
僕は静かに頷く。
焼きたてのパンの香り。
仲間たちの何気ない会話。
温かな食卓。
記憶はまだ戻らない。
けれど──
今日という一日は、きっと忘れたくないと思った。




