第一話 一歩ずつ
数日後──
目覚めてから数日が経った。
毎日のリハビリのおかげで、廊下くらいならゆっくり歩けるようになった。
まだ足取りは頼りない。
それでも、一歩ずつ前へ進めている。
「今日はここまでにしましょうか。」
セレナが微笑む。
「ありがとう。」
少し休憩をしようと窓際に向かったその時だった。
「……よう。」
低く落ち着いた声が背後から聞こえた。
振り返ると、一人の男が立っていた。
「もう歩けるようになったのか。」
「順調ですよ。」
セレナは穏やかに微笑む。
「ちょうど休憩に入るところでした。」
その人は軽く頷いた。
「なら少し借りるぞ。」
「お願いします。」
セレナは僕へ視線を向ける。
「無理だけはしないでくださいね。」
「うん。」
「それでは、私は仕事に戻ります。」
そう言って一礼すると、静かにその場を後にした。
男が僕へ近づく。
黒髪を無造作に後ろへ流し、鍛えられた身体を黒い軽装に包んでいる。
腰には使い込まれた片手剣。
鋭い眼差しとは裏腹に、その口元にはどこか親しみやすい笑みが浮かんでいた。
「……ごめん、思い出せなくて。君は?」
そう尋ねると、男は一瞬だけ目を細めた。
寂しい顔をするのかと思った。
けれど──
「謝んなよ。」
そう言って小さく笑う。
「忘れたんなら、また知ればいい。それだけだ。」
その言葉に自然と肩の力が少し抜けた。
「もう一回、自己紹介だな。」
男は右手を差し出した。
「エイン・ヴァルハルト。黎明の翼で教官をやらせてもらってる。……まぁ、隊員たちに剣を教える役だ。」
僕も自然と手を差し出していた。
「よろしく。」
「……よろしく。」
エインは安心したように笑った。
「せっかくだ。リハビリついでに一緒に歩くか。」
「うん。」
もう一度、僕はゆっくり歩く。
時折少しバランスを崩しそうになるが、エインが支えてくれた。
「軽いな。ちゃんと飯は食ってるのか?」
「用意されたものは全部食べてるよ。どれも美味しい。」
「そうか。」
エインの口元がふっと緩んだ。
「食堂まで歩けるようになったら、また一緒に飯を食おう。その時は快気祝いで俺の奢りだ。」
「いいの?」
「あぁ。お前が好きだったもん全部ご馳走してやる。」
その言葉に思わず笑ってしまった。
「じゃあ、すぐに治さないといけないね。」
「おう。」
なんでだろう。
この人と話すのはこれが初めてなのに、不思議と肩の力が抜けていく。
記憶は無くても、この安心感だけは本物だった。
「セレスには会ったか?」
「うん。会ったよ。」
「どうだった?」
「……優しい人だった。」
それを聞いたエインが思わず吹き出した。
「ははっ。優しい、か。」
「変だった?」
「いや、間違っちゃいねぇ。」
エインは少し懐かしそうに笑う。
「ただ、昔あいつを知っていると、少し意外でな。」
「昔は違ったの?」
「あぁ。今よりずっと不器用だった。」
その言葉に僕は小首を傾げる。
「不器用?」
「お前のことを、ずっと追いかけていたからな。」
「僕を……?」
「昔のセレスは、お前みたいになりたいってよく鍛錬をしていた。もっと強く、もっと誰かを守れるようになりたいってな。」
驚いて思わず目を瞬かせる。
「総司令官なのに?」
「だからこそ、総司令官なんだよ。」
エインは小さく笑う。
「昔はお前の背中を追っていた。今は黎明の翼のみんなの先頭を歩いている。」
「……すごい人なんだね。」
「あぁ。」
エインは迷いなく頷いた。
「でもな。」
ふっと笑みを収めると、静かに続けた。
「セレスは今でも、お前を越えたなんて思っちゃいねぇよ。」
エインはどこか懐かしそうに目を細めた。
「むしろ、お前が帰ってくる日を誰よりも待っていた。」
僕は返す言葉が見つからなかった。
十年前の僕は、一体どんな人だったんだろう。
どれだけ大切な時間を、この人たちと過ごしてきたんだろう。
思い出せない。
それでも──
「少しずつでいい。」
エインの穏やかな声が耳に届く。
「また歩いていけばいいさ。」
その言葉が、僕の胸にすっと落ちていく。
エインと並んで歩く廊下は、不思議と昨日より長く感じなかった。
失くした記憶はまだ遠い。
けれど、この場所ならきっと、見つけられる。




