第三話 再会
静かな廊下を足早に歩く。
病室まであと少し。
たったそれだけの距離なのに、胸の鼓動は近づくに連れて早くなっていく。
「ノエルさん……」
十年。
何度もこの日を夢に見た。
会えたら何を話そう。何を伝えよう。
そんなことばかり考えていたはずなのに。
いざその時が訪れると、言葉が上手く出てこない。
目的の病室の前で足を止める。
「……落ち着かなきゃ。」
大きく深呼吸。
軽く髪と制服を整える。
そしてドアノブへと手を伸ばす。
けれど、その手は途中で止まった。
「……私のこと、覚えていないんだよね。」
──────────
コンコン──
今日何度目かのノックが鳴る。
「どうぞ。」
扉がゆっくりと開く。
一人の女性が部屋に入ってきた。
淡い藤色の長い髪。
優しげな紫色の瞳。
白を基調とした服と腰から垂れる鎖の装飾が、窓から差し込む朝日に柔らかく照らされている。
その姿を見た瞬間だった。
胸が締め付けられる。
理由は分からない。
初めて会うはずなのに──
どうしてこんなにも懐かしいんだ。
彼女と目が合う。
胸の中で何かが小さく軋んだ。
温かくて、苦しくて。
名前の分からない感情が込み上げてくる。
女性は何かを言おうとして、唇を開く。
しかし、その声は震えていた。
「ノエルさん……」
その呼び方だけが、不思議と胸の奥に響いた。
「……君は?」
そう問いかけると、彼女の表情がほんの少しだけ揺らいだ。
泣きそうにも見えた。
それでも彼女は優しく微笑んでいる。
そんな顔をさせたくない。
ふとそんなことを思った。
それがどうしてなのか、自分でも分からない。
でも、僕はその笑顔を見たくなかった。
初めて会うはずなのに、どうしてそんなことを思うんだろう。
……何一つ思い出せない。
それなのに、心だけが彼女を忘れていないような気がした。
「……リリア・メモリアです。」
リリアと名乗った女性は小さく息を整える。
「あなたと同じ、黎明の翼に所属しています。」
少しだけ沈黙の時間が続いた。
「……ごめん。」
空気感に耐えられなくなったわけじゃない。
ただ、謝りたかったんだ。
リリアは少し首を振る。
「謝らないでください。」
「思い出せないんだ。」
少し寂しそうに笑った。
「はい。セレナさんから聞いています。でも──」
ゆっくりとこちらに近づく。
「生きていてくれました。」
そして安心したようにそう言った。
「僕は……君にとって、どんな人だったの?」
リリアは少しだけ目を伏せる。
それから小さく笑みを浮かべた。
「私にとって、大切な人でした。」
その言葉だけで十分だった。
胸の奥が、また静かに痛んだ。
「ごめん。」
「だから謝らないでください。」
今度は少しだけ笑って、
「ノエルさんは帰ってきてくれました。それだけで十分です。」
そう言ってくれた。
無意識に自分の右手へ視点を落とす。
昨夜のような金色の光は現れない。
それでも、胸の奥だけが静かに熱を帯びていた。
「ノエルさんは昔からよく無茶をする人だったんですよ。」
「そうなの?」
リリアは笑みを浮かべる。
「はい。セレス様によく怒られてました。」
そんな自分がいたのかと、思わず笑みが溢れた。
「黎明の翼は僕にとって大切な場所って聞いたんだけど、どんなところなの?」
「みんな家族みたいな場所です。」
家族。
その言葉は、不思議なくらい温かく聞こえた。
するとリリアがそっと近づく。
「歩けますか?」
「……少しなら。」
目が覚めてから今日まで一度も歩くどころか、立ち上がることもできていない。
だけど、この人となら、なんだか歩けるような気がした。
僕はベッドから立ち上がる。
……歩けるだなんて、やはり甘い考えだった。
足は震え、すぐに体勢を崩してしまう。
すると、リリアが腕を貸してくれた。
「ごめん。」
「……いえ。」
僕を支えるリリアは少し嬉しそうだった。
「昔とは逆ですね。」
「え?」
リリアはハッとする。
「……なんでもありません。」
リリアに支えられたまま部屋を出る。
静かな廊下。
光が差し込む窓。
その外の景色を眺める。
中庭には、大きな一本の樹が空へ向かって枝を伸ばしていた。
白い花を咲かせたその姿は、どこか幻想的で、風に揺れるたび、陽の光を受けて輝いている。
「……綺麗だ。」
窓の外へ視線を向けて、小さく微笑んだ。
「あの樹はノエルさんが植えたんですよ。」
「僕が?」
「はい。」
優しく大樹を見つめる。
「まだ小さな苗木だった頃に『いつか大きくなったら、みんなでこの樹の下で笑おう』って。」
リリアの視線は大樹から離れなかった。
その横顔はどこか懐かしそうで、少し寂しそうだった。
「みんなで大切に育ててきたんです。」
僕はもう一度その大樹を見上げる。
やはり何も思い出せない。
それでもその樹を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……そうなんだ。」
その時だった。
春風が少し開いた窓から吹き込み、一枚の白い花びらが静かに舞い込んできた。
花びらはゆっくりと僕の肩へ降り立った。
「歓迎されているのかもしれませんね。」
リリアは小さく微笑む。
僕は肩の花びらをそっと手に取る。
記憶は戻らない。
それでも。
ここなら歩いていける。
そう思えた。




