第一話 目覚めの時
「バイタル安定。脳波、魔力循環共に正常。」
遠くの方で声が聞こえる。
誰の声かは分からない。
けれど、どこか懐かしい声だった。
僕はゆっくりと目を開く。
見知らぬ白い天井。
そして見慣れない装置の数々。
規則的な電子音が静かな室内に響いていた。
「ここは……?」
乾いた喉から掠れた声が漏れる。
「……っ。」
その瞬間、近くにいた女性が息を呑む。
藤色がかった長い銀髪。
優しげな紫の瞳。
どこかで見たような気がするのに、思い出せない。
「……本当に。」
女性が小さく呟く。
「本当に、目を覚ましたんですね。」
嬉しそうで、どこか泣きそうな声で。
女性は端末を手に取る。
「総司令官を呼んでください。ノエルさ──ノエル・ルドベキアが目を覚ましました。」
ノエル・ルドベキア。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少し疼いた。
だが──
「……ノエルさん?」
それが、自分の名前だという確信は無かった。
「大丈夫……という聞き方は少し変ですね。気分はどうですか?」
「……よく、分からない。」
頭の中に薄い霧がかかったようで、上手く思考がまとまらない。
「そうですか。」
女性は安心したように微笑む。
それから一度だけ小さく息を整えて、僕へ向き直った。
「では、いくつか確認させてください。」
「……その前に、一つ聞きたいことがあって。」
「はい。」
「君は……誰なの?」
その言葉に女性の瞳がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ言葉を失う。
それでも彼女は静かに微笑んだ。
「私はセレナ・カンパニュラです。黎明の翼で医療班を務めています。」
セレナと名乗った女性は小さく頭を下げる。
「改めて、よろしくお願いします。」
まるで初対面に向けるような言葉だった。
けれど、その声の奥には、初対面とは思えない温かさがあった。
「『ノエル』。その名前に覚えはありますか?」
「さっき君が口にしていた。ノエル・ルドベキアって……それが、僕の名前?」
セレナは静かに頷いた。
「はい。あなたの名前です。」
僕はもう一度、その名前を心の中で繰り返す。
ノエル・ルドベキア。
不思議と違和感はない。
だけど、そのこれから先は何も続かなかった。
思い出そうとしても、まるで白い霧の向こうに手を伸ばしているようで、何も掴めない。
「……何も思い出せない。」
そう呟くと、セレナはほんの少しだけ目を伏せた。
「そう、ですか……」
すると彼女が真っ直ぐこちらを見つめる。
その表情は穏やかなままだったが、どこか覚悟を決めたようにも見えた。
「では、落ち着いて聞いてくださいね。」
静かな声が部屋に響く。
「あなたは十年前、ある戦いから今日まで、一度も目を覚ますことなく眠り続けていました。」
「……え?」
思考が止まる。
ただでさえ霧がかったように、上手く働かないのに。
十年。
彼女は確かにそう言った。
「十年……?」
思わず聞き返す。
「はい。」
「そんな……」
信じられるわけがない。
昨日まで普通に生きていた。
そんな感覚しか残っていないのに。
「……本当に、十年も?」
「……あの日からちょうど十年経っています。」
そう言うと、セレナは端末を僕に向けた。
表示されていた年号は、彼女の言葉通り十年先を示していた。
信じたいわけじゃない。
それでも、その現実は否定することができなかった。
コンコン──
扉を叩く音が部屋に響く。
「入るぞ。」
落ち着いた低い声が扉の向こう側から聞こえた。
不思議とその一言だけで、部屋の空気が引き締まる。
「……目を覚ましたか、ノエル。」
部屋に入ってきたのは、長い銀白色の髪に、黄金に輝く瞳を持つ女性。
この人を見ていると、胸が少し騒つく。
緊張というよりも、嬉しいという感情に近い。
「君は?」
その言葉に女性はほんの一瞬、目を見開いた。
「総司令官。彼は記憶を失っているの。」
セレナが静かにそう告げた。
「……そうか。」
納得したような声だったが、どこか寂しさを感じた。
「私はセレス・ルミエール。黎明の翼の総司令官だ。」
その名前にどこか懐かしさを感じたが、やはり目の前の女性のことは思い出せない。
「何も覚えていないんだな。」
少し寂しそうに呟く。
一瞬の静寂の後、彼女はベッドに座る僕に目線を合わせる。
「目を覚ましてくれて、ありがとう。」
セレスは僕の手にそっと触れた。
その温もりは優しかった。
「……一ついい?」
「どうした?」
「さっきから出てくる『アルバ』っていうのは何?」
セレスは少しだけ間を置いた。
「私たちが所属する組織だ。そして、お前の帰る場所でもある。」
黎明の翼。
初めて聞くはずの名前。
それなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「そこは……僕にとって大切な場所だったの?」
セレスは小さく頷いた。
「あぁ。お前が誰よりも大切にしていた場所だ。」
その言葉に胸の奥が小さく疼く。
帰る場所。
大切だった場所。
なのにどうしても思い出せない。
「……ごめん。」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「謝る必要はない。」
セレスは小さく首を横に振る。
「お前は戻ってきた。それだけで十分だ。」
セレスの言葉に重く感じていたものが軽くなった気がした。
「今日は休め。話はまた落ち着いてからにしよう。」
小さく頷くと、セレスはそのまま部屋を出ていった。
もう一度ベッドに横たわる。
記憶喪失。
十年。
黎明の翼。
何一つ分からない世界。
それでも──
胸に残るこの温もりだけは、嘘じゃない気がした。




