第8話 右腕だけじゃない
朝倉澪は、灰原玲司の右手を取ったまま、しばらく言葉を失っていた。
指先は冷たい。死人のよう、というほどではない。けれど、生きている人間の手としては明らかに温度が低かった。脈はある。弱くはない。むしろ、時折こちらの指を押し返すように強く跳ねる。ただし、その間隔が安定していない。早くなったと思えば、急に落ち着く。落ち着いたと思えば、右腕の筋肉だけが別の生き物のようにぴくりと動く。
澪は息を浅く吐き、膝の上に置いた古いノートへ視線を落とした。鉛筆の先は、さっき折れたばかりだった。短く削り直した芯が、紙の上でわずかに震えている。
怖い。
それは否定できなかった。今、目の前に座っている青年は、自分達を救った人間だ。陽太を助け、蟻を殺し、見張り扉の前で倒れかけながらも生き延びた。けれど、その右腕は蟻を喰った。右目は銀色に光り、見えないはずの足音を聞き分け、さっきは立ち上がろうとしただけで、床を蹴りすぎて壁にぶつかった。
灰原さんは、灰原さんです。
自分で言った言葉を、澪は胸の奥でもう一度繰り返した。そう思わなければならないからではない。そう思いたいからでもない。目の前の彼が、まだ痛がり、怯え、怒り、皮肉を言い、自分の身体を気味悪がっているからだ。
化け物なら、こんな顔はしない。
「朝倉さん」
玲司の声で、澪は顔を上げた。
「……何ですか」
「いつまで握ってるつもりだ」
玲司は右手を見下ろしていた。いつものように不機嫌そうな声だったが、そこには薄い焦りが混ざっている。人に触れられていることへの照れではない。自分の手が、次に何をするか分からない恐怖だ。
「脈を見ています」
「もう十分見ただろ」
「まだです」
「俺の手、冷たくないか」
「冷たいです」
「そこは気を遣えよ」
「嘘をついても意味がありません」
玲司は小さく舌打ちした。けれど、手を振り払おうとはしなかった。右手の甲には、さっきまで浮いていた銀色の筋が薄く残っている。皮膚の下に糸を埋め込んだような細い線。それは手首の内側を通り、肘の少し下で一度消え、そこからまた上腕へにじむように続いていた。
澪は息を止め、玲司の袖口を見た。
「灰原さん。袖を少し上げてもいいですか」
「嫌だって言ったら?」
「理由を聞きます」
「見たくない」
答えは、思っていたよりも早かった。
澪は玲司を見た。玲司は目を逸らしていた。銀色に変わった右目ではなく、普通の左目の方が、濡れた床を見ている。濡れた床には赤い非常灯が鈍く映り、揺れていた。
「……分かりました。でも、確認しないと危険です」
「俺にとってか」
「灰原さんにとっても、周りにとってもです」
「正直だな」
「嘘をつく方が失礼です」
玲司は少しだけ笑った。笑ったというより、口の端が疲れたように歪んだだけだった。
「じゃあ、やれよ。俺も見たくないから、あんたが見てくれ」
澪は頷き、できるだけゆっくり袖をまくった。汚れた作業着の布が、肘の上で引っかかる。玲司の右腕は、先ほど蟻を裂いたとは思えないほど人間の形をしていた。骨格も、筋肉も、皮膚の色も、人間のものだ。だが、完全に戻ってはいない。
手首から肘にかけて、銀色の線が血管のように走っている。太いものではない。細い。薄い。けれど、赤い非常灯の下でも、それは明らかに金属の光を返していた。筋肉の流れに沿っているようにも見えたし、逆に筋肉を無視して別の構造を描いているようにも見えた。
澪はノートに書いた。
右前腕内側に銀色線状変化。血管走行と完全には一致せず。皮膚表面ではなく、皮下に存在するように見える。触診時、温度低下あり。本人、痛みよりも異物感を強く訴える。
「痛いですか」
「痛いっていうより、気持ち悪い」
「どんなふうに」
「腕の中に、細い虫が何本も入ってる感じ」
寝床溜まりの空気が、さらに重くなった。周囲で見ていた何人かが、思わず身じろぎする。誰かの喉が小さく鳴った。ごく、と乾いた音だった。
澪は振り返らなかった。
「それは、今も動いていますか」
「動いてる。けど、俺が動かしてるんじゃない」
「右手以外にもありますか」
玲司は黙った。
その沈黙だけで、澪は嫌な予感を覚えた。
「灰原さん」
「……さっき、足も変だった」
「壁にぶつかった時ですね」
「ああ。立とうとしただけだ。なのに、足が勝手に床を蹴った。力の加減を間違えたとか、そういう感じじゃない。俺の足じゃないみたいだった」
澪は玲司の足元を見た。作業ズボンの裾は泥と油で汚れている。右足首の辺りに、ほんの少しだけ布が引きつれていた。壁にぶつかった時に擦ったのかもしれない。けれど、それだけではない気がした。
「裾を上げてもいいですか」
「……好きにしろ」
玲司は嫌そうに顔を歪めたが、足を引っ込めなかった。澪は膝をつき、右足の裾を少しだけ上げた。
そこに、銀色があった。
手首のものよりずっと薄い。角度によっては見えなくなる程度の線だった。足首の外側から、くるぶしの上を通り、ふくらはぎの下へ向かって一本。まるで、誰かが皮膚の内側に細い針で線を引いたようだった。
澪の指が止まった。
「……朝倉さん?」
「あります」
自分の声が、思ったよりも硬かった。
「右足首に、銀色の線があります」
寝床溜まりの空気が、一瞬で凍った。
遠くで子供が息を吸い込む音がした。陽太かもしれない。雨宮千歳が、すぐにその子供を抱き寄せる気配がした。布が擦れる。カサ。小さな音のはずなのに、やけに大きく聞こえた。
「右腕だけじゃ、ないのか」
誰かが呟いた。
澪はその声を無視した。聞こえなかったふりをした。今は周囲の恐怖に答えるより、目の前の変化を正確に見る方が先だった。そうしなければ、恐怖だけが事実の代わりになる。
澪は右足首に指を近づけた。
「触ります」
「言わなくていい」
「言います」
「真面目か」
「真面目です」
指先で触れた瞬間、玲司の足がびくりと跳ねた。反射ではない。蹴ろうとしたわけでもない。ただ、皮膚の下の何かが触れられたことに反応したような動きだった。澪はすぐに手を離した。
「痛みは」
「冷たい」
「冷たい?」
「触られた場所じゃない。足の中が冷たい。骨の周りを水が流れてるみたいな……いや、水じゃない。もっと重い。金属みたいな」
澪は書いた。
右足首外側にも銀色線状変化。右腕と類似。触診時、本人は冷感を訴える。筋反射とは異なる不随意収縮あり。右腕の変質が局所的ではない可能性。
文字を書いている途中で、鉛筆の先が紙に引っかかった。ざり、と嫌な音がした。澪は少しだけ手を止め、それから続きを書いた。
全身性の侵食へ移行している可能性あり。
その一文を書いた瞬間、胸の奥が冷えた。
全身性。
医療の知識としては、ただの言葉だ。症状が局所ではなく、身体全体に及ぶ可能性を示すだけの言葉。けれど、今の玲司に対して使うには、あまりにも重かった。右腕が刃になるだけでも、皆は彼を化け物と呼びかけた。足、首、胸、背中にまで広がっていると知れば、どうなるか。
澪は顔を上げた。
「灰原さん。首元も見せてください」
「そこもかよ」
「さっき、右の首筋に線が見えました」
「見間違いじゃないのか」
「見間違いなら、その方がいいです」
玲司は黙った。少しだけ迷ったあと、作業着の襟元を自分で引いた。澪は息を詰める。
右の首筋。鎖骨へ向かう皮膚の下に、細い銀色の線があった。足首よりも薄い。けれど、確かにある。首から鎖骨の下へ、ほんの数センチ。呼吸に合わせて、かすかに光が動く。血管の拍動とは違う。金属の光が、内側から呼吸を真似しているようだった。
澪は、思わず目を伏せそうになった。
見てはいけないものを見ている気がした。服の下、皮膚の下、体の内側。そこにあるはずのないものが、静かに場所を広げている。右目に落ちた銀色の液体は、もう右目だけにいない。右腕だけにもいない。玲司の身体の中を、どこかへ向かって伸びている。
「朝倉さん」
玲司の声が、低くなった。
「顔に出てる」
澪ははっとした。
自分がどんな顔をしていたのか分からない。けれど、玲司には分かったのだろう。右目の銀色で見たのか、普通に見たのか、それすら澪には分からなかった。
「すみません」
「謝るなよ。余計怖い」
「怖いです」
寝床溜まりの端で、誰かが息を呑んだ。澪は続けた。
「でも、怖いから見ない、というわけにはいきません」
玲司は澪を見た。右目の銀色は薄く濁っていた。疲労のせいか、痛みのせいか、それとも中の何かが眠っているのか。
「……あんた、変だな」
「よく言われます」
「誰に」
「今は言えません」
「死んだ人か」
澪は答えなかった。
ほんの一瞬、赤い非常灯ではない別の赤色が頭をよぎった。病院の廊下。慌ただしい足音。白いシーツ。誰かの咳。息苦しい、という声。薬はどこ、と掠れた声。自分はその時、何もできなかった。何もできなかったくせに、今もこうして、誰かの手を取っている。
澪は鉛筆を握り直した。
「首筋から鎖骨にかけて、銀色線状変化を確認。呼吸に同期するような微弱な光の揺れあり。本人の意思とは無関係。右腕、右足首、右頸部に変化。右目を起点とした全身への拡散の可能性あり」
書きながら、自分の字が少し乱れていることに気づいた。
「やっぱり、危険じゃないですかァァ〜ん」
その声は、待っていたように入り込んできた。
大槻修一だった。少し離れた場所で、汚れたコートの襟を握りながら、口元だけを歪めている。前に出てくるほどの勇気はない。けれど、聞こえる位置に立ち、聞かせたい言葉だけを選んで投げるのは得意だった。
「右腕だけならまだしもォォ〜、足、首、胸まで広がっているんでしょう? それってもう、人間の病気とか怪我とか、そういう話じゃないですよねェェ〜」
「大槻さん、今は診察中です」
「診察ゥ? あれを診察って呼ぶんですかァァ〜ん。朝倉さん、あなたは看護の勉強をされていたんですよねェェ〜。なら、分かるでしょう。感染だか侵食だか知りませんが、広がっているものは止めないとォォ〜」
「止める方法が分かっていません」
「だから隔離するんでしょう?」
大槻の声は、嫌に柔らかかった。正論の形をした刃。澪はそれを知っていた。人は恐怖を言葉にしてくれる人間に引き寄せられる。自分の中の醜さを、正しい判断という形にしてくれる人を頼ってしまう。
だから、止めなければならなかった。
「隔離と切り捨ては違います」
「切り捨てなんて誰も言ってませんよォォ〜。ただ、皆さんの安全をですねェェ〜」
「皆さんの安全を考えるなら、正確な情報が必要です。恐怖を煽る言葉ではなく」
大槻の口元が一瞬だけ引きつった。
玲司が小さく笑った。
「朝倉さん、強いな」
「黙っていてください。患者さん」
「患者扱いされる化け物って珍しいな」
「化け物という診断名はありません」
周囲の誰かが、ほんの小さく息を漏らした。笑いではない。緊張が少しだけ緩んだ音だった。けれど、その空気は長く続かなかった。
「朝倉」
久我涼平の声がした。
澪はそちらを見た。久我は見張り扉側の壁にもたれていた。鉄パイプを片手に持ったまま、険しい顔をしている。彼は大槻のように口だけではない。実際に前に立つ。実際に判断する。だからこそ、澪にはその表情が怖かった。
久我は玲司を見ていた。助けられた事実も、蟻を殺した事実も、陽太が生きている事実も知っている。その上で、今、彼は玲司を危険物として見ようとしている。
「その記録、後で俺にも見せろ」
「見せます。ただし、勝手な解釈はしないでください」
「勝手かどうかは、状況次第だ」
「状況で人間かどうかを決めるんですか」
言ってから、澪は自分の声が少し鋭くなったことに気づいた。
久我の眉が動いた。
「人間かどうかの話じゃない。ここに置けるかどうかの話だ」
「同じです」
「違う」
「灰原さんを危険だと判断することと、灰原さんを人間ではないものとして扱うことは、ここではほとんど同じ意味になります」
「綺麗事だ」
「そうかもしれません」
澪は立ち上がらなかった。玲司の右手をまだ支えている。逃げるように立ち上がれば、その手を離すことになる気がした。
「でも、私は今、灰原さんを見ています。右腕だけではありません。右足首も、首筋も、体温も、脈も、本人の訴えも、恐怖も、全部見ています。その上で言います。灰原さんは、自分の身体に起きていることを望んでいません」
「望んでいなくても、危険なら意味がない」
「意味はあります」
「蟻が襲ってきた時、その意味で守れるのか」
久我の声が低くなった。
澪は答えに詰まった。
守れる、と即答できればよかった。けれど、それは嘘だ。玲司の右腕が次に誰を切るか、完全には分からない。足首の銀色がどこまで広がるのかも分からない。首筋の線が胸へ、背中へ、心臓へ届いた時、玲司がどうなるのかも分からない。
分からないことは、怖い。
だが、分からないから排除するというなら、澪がここで記録している意味はない。
「守れるかは分かりません」
澪は正直に言った。
「でも、分からないからこそ、今すぐ切り捨てるべきではありません」
久我は何も言わなかった。
その沈黙の中で、玲司が小さく息を吐いた。
「朝倉さん」
「何ですか」
「もういい」
澪は玲司を見た。
「よくありません」
「いいんだよ。あんたまで、こっち側に来る必要はない」
「こっち側?」
「怖がられる側」
その言い方が、あまりにも疲れていた。
玲司は周囲を見た。見張り扉の側。食料棚の陰。子供達の寝床の奥。皆、目を逸らすか、逸らせずに固まっている。陽太だけが、千歳の腕の中から玲司を見ていた。泣きそうな顔で、それでも目を逸らしていない。
玲司はその視線に気づいたのか、ほんの一瞬だけ表情を歪めた。それから、右手をゆっくりと澪の手から引いた。
澪は止めなかった。無理に握れば、彼を患者ではなく拘束対象にしてしまう気がした。
「俺は俺で、自分の身体が気持ち悪い。ここの連中が怖がるのも分かる。俺だって、俺の隣にこんなのが座ってたら嫌だ」
「灰原さん」
「だから、そこまで庇わなくていい」
「庇っているだけではありません」
「じゃあ、何だよ」
「記録しています」
玲司は少し目を丸くした。
「またそれか」
「はい。あなたを危険だと言う人がいるなら、何が危険なのかを記録します。あなたを化け物だと言う人がいるなら、どこまでが身体の変化で、どこからが本人の意思なのかを記録します。あなたが自分を見失いそうになるなら、あなたが怖がっていたことも、嫌がっていたことも、覚えておきます」
澪はノートを胸に抱えた。
「記録が、人を救えるとは限りません。でも、記録がなければ、簡単に名前を変えられます。患者が危険物になり、人が化け物になる。私は、それが嫌です」
玲司は何も言わなかった。
右目の銀色が、赤い光の中でかすかに揺れている。澪には、それが金属の光なのか、涙に似たものなのか分からなかった。
その時、玲司の右腕がまた動いた。
大きくではない。指先がぴくりと震えただけだった。だが、同時に首筋の銀色の線が細く光り、作業着の襟の下へ一瞬だけ沈んだ。澪は見逃さなかった。
「灰原さん、今」
「分かってる」
玲司は自分の胸元を押さえた。顔色が悪い。唇の色も薄い。
「どこまで来ていますか」
「……鎖骨の下。胸の、右側。中から冷える」
周囲がざわついた。
大槻が、勝ち誇ったように息を吸い込む音がした。
「ほらァァ〜」
「黙れ」
玲司の声が低く響いた。
大槻がびくっと肩を震わせた。玲司は大槻を睨んではいなかった。ただ床を見ている。それでも、その一言には、見張り扉の前で蟻を裂いた時と同じ硬さがあった。
「俺が一番分かってる。俺の身体の中に、変なものが広がってることくらい。いちいち楽しそうに言うな」
大槻は口を開きかけたが、久我の視線に気づいて黙った。
澪は玲司の胸元を見た。服の上からでは何も分からない。けれど、玲司の呼吸は浅くなっている。痛みではない。冷えと異物感。それが身体の中心へ近づいている。
危険だ。
その判断は間違いなく必要だった。
でも、危険だからこそ、今、誰かが人間として扱わなければならない。
「横になってください」
「寝たら、また何か動きそうで嫌なんだけど」
「座ったまま倒れる方が危険です」
「正論」
「大槻さんの真似はやめてください」
「似てたか」
「全然」
玲司は小さく息を吐き、壁に背を預けるようにして座り直した。澪は毛布を一枚取り、彼の肩に掛けた。体温低下には気休めかもしれない。それでも、何もしないよりはいい。
陽太が、千歳の腕の中から小さく言った。
「灰原のお兄ちゃん、寒いの?」
玲司は目を閉じたまま答えた。
「寒い。最悪だ」
「毛布、もっといる?」
千歳が陽太の口を止めようとした。けれど、玲司は先に言った。
「お前の分は取っとけ。子供が風邪ひいたら面倒だ」
「でも」
「俺は大人だから我慢する」
「大人、嘘つく」
「まあな」
陽太は泣きそうな顔のまま、少しだけ口を結んだ。怖がっている。それでも、完全には離れていない。澪はそのことに、ほんの少しだけ救われた。
久我が鉄パイプを床に立てた。ゴン、と鈍い音が鳴る。
「今夜は灰原を寝床溜まりの中央には置けない」
澪は振り向いた。
「久我さん」
「隅だ。見張り扉側の壁際。俺と牧野が交代で見る。朝倉、お前も必要な時だけ診ろ。子供は近づけない」
「それは隔離ですか」
「一時的な措置だ」
「追放ではありませんね」
久我はすぐには答えなかった。
そのわずかな間が、澪にはひどく不吉だった。
「……今はな」
久我はそう言った。
今は。
その言葉が、寝床溜まりの湿った空気に沈んだ。澪はノートを握りしめた。鉛筆の芯がまた折れそうだった。
玲司は何も言わなかった。抗議もしない。怒りもしない。ただ毛布の下で右手を握り、左手で胸元を押さえている。その横顔は、戦った人間のものではなく、判決を待つ人間のものに見えた。
澪はノートに最後の一文を書いた。
右腕の変質は、右腕のみで完結していない。
少し迷ってから、もう一行を書き足した。
本人は恐怖を訴え、自身の変化を望んでいない。意識、記憶、人格応答は保たれている。現時点で、灰原玲司を本人以外の存在と断定する根拠はない。
鉛筆の先が、そこで折れた。
パキ。
小さな音だった。けれど澪には、その音が、どこかの扉にひびが入った音のように聞こえた。
右腕だけじゃない。
その事実は、もう隠せない。
そして、旧芝浦保守区画の人々が本当に恐れているものも、もう隠せなくなっていた。
灰原玲司の身体の中で、銀色の何かが広がっている。
その外側で、人々の恐怖もまた、同じように広がり始めていた。




