第9話 久我涼平は切り捨てる
久我涼平は、見張り扉の前から動けなかった。
動かないのではない。
動けない。
右手には鉄パイプ。錆と油でぬめった感触が、指の腹にまとわりついている。握り直すたび、手のひらに嫌な湿り気が広がった。汗だ。寒いのに、汗だけは出る。旧芝浦保守区画の空気はいつも冷たい。濡れたコンクリートの臭い、古い配管の鉄臭さ、どこかで腐りかけた布の臭い。そんな地下の冷えの中で、久我の背中だけがじっとり熱を持つ。
見張り扉の右下が歪んでいる。
さっき蟻がぶつかった場所。外側から押されたせいで、鉄枠がわずかに浮いていた。隙間風が入る。細い、冷たい風。ギィ、と扉が鳴るたび、近くの誰かが肩を跳ねさせる。
嫌な音だ。
蟻の音ではない。
なのに、蟻を思い出す。
ギチ。
バキ。
硬いものが噛み合う音。
肉が途切れる前に、骨が負ける音。
久我は奥歯を噛んだ。
違う。今は違う。ここは旧芝浦だ。見張り扉はまだ閉じている。子供達は奥にいる。雨宮千歳が抱えている。牧野もいる。真衣もいる。澪もいる。
そして、灰原玲司もいる。
壁際に座らされた玲司は、毛布を肩に掛けていた。右手を左手で押さえている。寒そうに見える。いや、実際に寒いのだろう。朝倉が体温低下を記録していた。本人も、胸の右側が冷えると言った。
胸の右側。
久我の視線が、玲司の首筋へ行く。作業着の襟元。その隙間に、さっき確かに見えた。銀色の線。右腕だけではない。足首にも、首筋にも。胸の奥にまで、あの銀色の何かが広がっている。
危険だ。
そう思えば、切れる。
久我はそのことに気づき、喉の奥が苦くなった。
危険だから切るのか。
切りたいから、危険だと思いたいのか。
答えは出ない。
出したくもない。
「久我さん」
横から、ためらう声。
牧野透だった。ひび割れた黒縁眼鏡を、何度も指で押し上げている。もう上がりきっているのに、また押す。怖い時の癖だ。工具箱の蓋は開いているのに、手は中のレンチまで届いていない。
「扉、見ました。右下、けっこうまずいです」
「直せるか」
自分の声が固い。
牧野は一瞬、喉を鳴らした。
「応急なら。でも、内側だけだと弱いです。外側からも押さえないと、次に同じ方向から押されたら……たぶん、ずれます」
「外に出ろと言うのか」
「い、いえ。今すぐじゃなくて。その、できれば、という話で」
牧野の視線が、ちらりと玲司へ向かう。
久我は見逃さなかった。
「灰原なら何とかするって言いたいのか」
牧野の肩が跳ねる。
「違……いや、違わないです。すみません。でも、灰原さんなら、この扉の歪み方、もっと早く見てたと思います。補強の順番も、たぶん」
そこで牧野は黙った。
言いすぎた。
そう顔に書いてある。
久我の手に力が入る。鉄パイプがわずかに軋む。牧野はその音に気づき、目を伏せた。
灰原なら。
また、それだ。
扉を見る。
歪みを見る。
水の流れを見る。
空気の抜け方を見る。
そういうものを見るたびに、誰かが灰原の名前を思い出す。
いや、誰かではない。
久我自身もだ。
ここ、次に押されたら終わるぞ。
嫌そうな玲司の声が、頭の中で勝手に再生される。あいつはいつも嫌そうに言う。偉そうではない。怯えている。面倒くさそうで、逃げたそうで、それでも言う。
だから腹が立つ。
なぜ、お前なんだ。
久我はその言葉を飲み込んだ。
飲み込んだはずなのに、苦味だけが残る。
「あるものでやれ」
「……はい」
「外には出さない。今、人を外に出せる状況じゃない」
「分かってます」
牧野は頷く。
けれど、その頷きは軽い。納得していない。分かっているだけだ。久我がそう決めたから、従う。言い返すほどの強さがないから、飲み込む。
その弱さを、久我は責められなかった。
自分も同じだ。
飲み込んだものばかりで、胸の中が腐りかけている。
ギィ。
扉がまた鳴る。
その音に、赤い靴が重なった。
久我は息を止めた。
赤い靴。小さな靴。片方だけ。地下通路の床に転がっていた。人の波に流されて、振り返った時には、もう蓮の手はなかった。沙耶の声も、人の悲鳴も、非常ベルも、全部ごちゃ混ぜだった。
涼平。
そう呼ばれた気がした。
違う。呼ばれていない。
あの状況で、名前なんて聞こえるはずがない。
でも、聞こえた。
久我は今でも、その声から逃げられない。
ギチ。
顎が閉じる音。
赤い靴のそばで、黒い脚が何本も動いていた。動いて、動いて、床に残ったものを踏んでいく。自分は動けなかった。叫んだのかもしれない。走ろうとしたのかもしれない。誰かに押されたのかもしれない。覚えていない。
覚えているのは、助けられなかったことだけ。
だから決めた。
もう、後ろで震えるだけの男にはならない。
誰かに決めてもらう側ではなく、自分が決める側になる。
見捨てられる側ではなく、見捨てる側になる。
そうでなければ、生き残った意味がない。
そう思わなければ、沙耶と蓮を置いて生きている自分を、殺したくなる。
「久我さん」
ぬるい声が近づく。
大槻修一。
久我は振り向く前から顔が歪んだ。汚れたコート。脂ぎった額。寒そうに肩をすくめているくせに、目だけは嫌に生き生きとしている。蟻が来た時は一番奥に下がっていた男だ。なのに、人の不安を嗅ぎつける時だけは誰より早い。
「少し、よろしいですかァァ〜ん」
「今は忙しい」
「ええ、ええ、分かっていますよォォ〜。リーダーはお忙しい。皆さんの安全を考えなければいけませんからねェェ〜」
「用件だけ言え」
大槻は待っていたように、玲司の方へ目を向ける。
「あれです」
あれ。
人の名前ではなく、あれ。
久我の眉が動く。
「灰原と言え」
「ああ、失礼しましたァァ〜。灰原さん、ですねェェ〜。ですが、久我さん。本当に、あのままでよろしいんですかァァ〜ん」
「壁際に移した」
「壁際に置けば安全ですかァァ〜? 右腕だけではないんでしょう? 足にも、首にも、胸にも広がっている。本人にも制御できない。寝ている間に動いたら? 子供が近づいたら? 朝倉さんが処置中に刺されたら? その時、誰が責任を取るんですかァァ〜ん」
責任。
大槻はその言葉を、よく知っている。
誰に向ければ刺さるかも、分かっている。
久我は鉄パイプを握り直した。
「俺が取る」
低い声が出る。
大槻は、嬉しそうに目を細めた。
「そうです。久我さんが取るんです。朝倉さんではない。灰原さんでもない。久我さんです。だからこそ、感情ではなく、合理的に考えなければなりませんよォォ〜」
合理的。
まただ。
こいつの言葉は、いつも綺麗な形をしている。汚いものを包むために、わざと磨いたみたいな綺麗さ。安全。全体。責任。合理。隔離。どれも間違っていない。間違っていないから、余計に腹が立つ。
「朝倉さんは優しい。優しい人は、目の前の一人を見捨てられない。素晴らしいことです。ですが、それで全員が死んだら? 子供達が死んだら? 久我さん、あなたはまた後悔することになる」
また。
久我の視界が、少しだけ赤くなる。
大槻は知らないはずだ。沙耶のことも、蓮のことも、赤い靴のことも。誰にも詳しく話していない。それなのに、こいつは触ってくる。傷の場所を知らないくせに、傷がありそうな場所を押してくる。
気持ち悪い。
大槻の胸倉を掴みたい。
この口を黙らせたい。
だが、久我は動かなかった。
ここで殴れば、感情で動いたことになる。大槻は被害者になる。周りはさらに不安になる。澪は久我を見る。玲司も見る。
それが嫌だった。
特に、玲司に見られるのが嫌だった。
「離すとして、どこへだ」
自分の口から出た言葉に、久我は少し遅れて気づいた。
大槻の口元が歪む。
「資材置き場はどうですかァァ〜ん。見張り扉側の手前。子供達からは離れています。扉を一枚挟めば、万が一の時も時間を稼げる」
「資材置き場は寒い。水もない」
「人間なら少しは耐えられますよォォ〜。人間なら、ですが」
久我の手が動きかける。
今度こそ、本当に胸倉を掴みそうになる。
その前に、声が飛んできた。
「久我さん」
澪だった。
久我は振り向く。
朝倉澪は、玲司の隣に立っている。手にはノート。短くなった鉛筆。顔は疲れ切っていた。目の下に隈。髪も少し乱れている。それでも、背筋だけは折れていない。
澪は怖がっている。
久我には分かる。玲司の右腕を見た時、足首の銀色を見た時、首筋へ伸びる線を見た時、澪の指は震えていた。怖くないはずがない。あんなものを見て、怖くない人間などいない。
なのに、澪は玲司の隣にいる。
手を離さない。
目を逸らさない。
そのことが、久我の胸を焼いた。
「灰原さんを、どこかへ移す話をしていますか」
「寝床溜まりの中央には置けない」
「それは分かります。子供達から距離を取ることも、必要なら理解できます」
「なら問題ない」
「あります」
澪の声は静かだった。
静かすぎて、久我は苛立った。怒鳴ってくれた方がまだ楽だ。感情的だと言える。優しすぎると言える。だが、澪は怒鳴らない。震えを押し殺して、まっすぐこちらを見てくる。
「本人の同意なく、資材置き場へ閉じ込めるなら反対です」
「閉じ込めるとは言っていない」
「扉を挟みますよね。見張りも置く。子供達から遠ざける。水も少ない場所に置く。それを隔離と言わないなら、何と言うんですか」
「安全措置だ」
「誰の安全ですか」
「全員だ」
「灰原さんも、その全員に入っていますか」
すぐに答えられなかった。
それが、答えだった。
久我は自分の喉が固まるのを感じた。言え。入っていると言え。簡単だ。たった一言でいい。
だが、その一言が出ない。
澪の目がわずかに揺れた。責めている目ではない。失望でもない。もっと痛いものだ。まるで、久我が自分でも見ないようにしていた場所を、静かに照らされた気分になる。
「入っているから、殺していない」
言った瞬間、寝床溜まりの空気が凍った。
しまった。
遅い。
牧野の手が止まる。真衣が口元を押さえる。千歳が子供達を抱き寄せる。陽太が目を大きく開く。大槻だけが、下を向いて口元を隠した。
笑ったのか。
久我は大槻を見そうになった。だが、その前に澪の声が刺さる。
「久我さん。それは、違います」
「違わない」
止まらない。
一度出た言葉は、次を連れてくる。胸の奥で腐っていたものが、鉄扉の隙間風に触れて、臭いを放ち始める。
「俺はここにいる全員を守る責任がある。灰原一人のために、子供達を危険に晒せない」
「灰原さんは、その子供を助けました」
「だから感謝している」
「感謝している人を、危険物みたいに扱うんですか」
「危険だろうがッ!」
声が、跳ねた。
自分でも驚くほど大きい。喉が痛い。寝床溜まりの全員がこちらを見た。陽太が千歳の服を掴む。真衣の肩が震える。牧野はレンチを握ったまま固まっている。
久我は玲司を指していた。
指してから、嫌になる。人を指すな。そう思うのに、腕が下りない。
「あの腕を見ただろ! 蟻を切った。喰った。今度は足にも首にも広がってる。本人が制御できないって言ってる。これを危険じゃないって言うのか!」
「危険性は否定していません」
「なら離すべきだ!」
「記録して、監視して、本人と話しながら対処するべきです!」
「その間に誰かが死んだらどうするんだよッ!」
澪が息を止める。
久我の胸の奥で、何かが切れた。
赤い靴。
小さな手。
沙耶の声。
ギチ、と閉じる顎。
「俺はもう、子供を死なせたくないんだよおおお!!」
叫んだ後、久我は自分の声に呆然とした。
寝床溜まりに、沈黙が落ちる。
重い。
濡れた毛布を頭から被せられたみたいな沈黙。
誰も動かない。澪も、大槻も、牧野も、真衣も。陽太だけが、千歳の腕の中で震えている。久我は自分の息が荒くなっていることに気づく。胸が痛い。喉も痛い。叫んだせいだけではない。
言ってしまった。
自分が本当に守りたかったもの。
守れなかったもの。
今も見続けているもの。
全部、少しだけ漏れた。
玲司が目を開けた。
久我を見る。右目ではなく、普通の左目で。銀色の目で見られるより、そちらの方が嫌だった。そこには化け物の冷たさなどない。疲れた人間の目がある。
それが、余計につらい。
「久我」
玲司の声は掠れていた。
「何だ」
「俺、起きてるんだけど」
「知っている」
「本人の前で、俺をどこに置くか決めるの、なかなかきついな」
皮肉。
いつもの玲司。
でも、弱い。声に力がない。怒ってもいない。諦めている。それが一番刺さる。
久我は言い返せない。
玲司は毛布の端を握った。右手ではなく左手で。右手はまだ、自分のものではないみたいに押さえ込まれている。
「俺だって、今の俺が隣にいたら嫌だよ。怖いし、気持ち悪いし、何するか分からない。お前らが怖がるのも分かる」
真衣が顔を上げる。目が赤い。
玲司はそちらを見ない。
「でもさ」
一度、息を吸う。
その息が少し震えていた。
「戦う時だけ呼ぶ。普段は近づくな。便利だな、俺」
静かだった。
静かすぎて、寝床溜まりの奥まで届いた。
誰も返せない。
久我も。澪も。真衣も。牧野も。
大槻でさえ、一瞬黙った。
久我の胸に何かが刺さった。怒鳴られた方がまだよかった。化け物扱いするなと叫ばれた方が、反論できた。けれど玲司は、分かっていると言った。怖がるのも分かると。そこまで分かって、その上で傷ついている。
やめろ。
久我は思った。
そんな顔をするな。
そんな声を出すな。
俺を悪者にしないでくれ。
違う。
悪者にしているのは、玲司ではない。
久我自身だ。
「今夜は」
久我は口を開いた。
喉がまだ痛む。けれど、声を固くする。リーダーの声に戻す。戻さなければならない。
「今夜は見張り扉側の壁際。毛布は二枚。水も置く。朝倉の診察は許可する。ただし、子供は近づけない。見張りは俺と牧野で交代だ」
「久我さん」
澪が言いかける。
「これは決定だ」
切るように言った。
澪の唇が震えた。何かを言いたいのに、飲み込む。
その顔もまた、久我には痛かった。
玲司は短く笑った。
「了解。壁際の化け物席だな」
「灰原さん」
澪が咎める。
「冗談だよ。面白くないけど」
玲司は目を伏せた。
久我は何も言えなかった。
牧野が毛布を取りに走る。真衣が一歩だけ前に出て、止まる。千歳は陽太の頭を撫でる。陽太はまだ玲司を見ている。泣きそうなのに、見ている。
やめろ。
久我は思う。
子供にそんな目をさせるな。
俺に、あの赤い靴を思い出させるな。
だが、陽太は玲司を見ていた。怖がっている。怖がっているのに、完全には目を逸らさない。
それを見て、久我の胸の奥がまた焦げた。
澪だけではない。
陽太まで、玲司を見るのか。
久我は見張り扉へ戻った。
扉の右下では、牧野が補強を始めている。カン。カン。金属音が軽い。内側から当てた鉄板は、明らかに足りていない。押さえが浅い。外側から強く押されれば、ずれる。
分かっている。
久我にも分かる。
牧野にも分かっている。
たぶん、玲司ならもっと早く言った。
そこ、次に押されたら終わるぞ。
「黙れ」
久我は小さく呟いた。
誰に対してか分からない。頭の中の玲司か。自分か。大槻か。死んだはずなのにまだ耳の奥で鳴る蟻の顎か。
「久我さん」
また大槻の声。
久我は振り向かない。
「よい判断でしたよォォ〜。一気に追い出せば、朝倉さんが騒ぎます。子供も泣く。ですが、まず壁際。次に資材置き場。その次に外縁通路。段階を踏めば、皆さんも受け入れます」
「黙れと言った」
声が低くなる。
大槻は一拍だけ黙り、すぐに薄く笑った気配を消した。
「失礼しましたァァ〜」
「俺は追い出すと決めたわけじゃない」
「ええ、ええ。もちろんです。今は、ですよねェェ〜」
今は。
自分の言葉が、自分に返ってくる。
久我は見張り扉に手を置いた。冷たい鉄。濡れた錆。古い油。扉の向こうには闇。中にも闇。外も中も、もう安全ではない。
壁際の玲司に毛布が掛けられる。澪は隣でノートを開く。陽太は奥からまだ見ている。真衣は何も言えないまま、指を握りしめている。牧野は扉の歪みを見て、また眼鏡を押し上げる。大槻だけが満足そうに黙っている。
旧芝浦は守られた。
少なくとも、今夜は。
久我はそう思おうとした。
だが、隙間風が冷たい。右下から入り込む風が、足首を撫でる。ギィ、と扉が鳴り、補強した鉄板がかすかに震えた。
弱い。
分かっている。
外側から押さえなければ弱い。
でも外に人は出せない。
灰原なら出たかもしれない。
いや、出させるな。あいつを便利に使うな。
でも、あいつがいなければ、次は。
思考が絡まる。
久我は拳を握った。
「俺が決める」
誰にも聞こえないくらいの声で言う。
リーダーだから。
守らなければならないから。
もう、目の前で子供を失いたくないから。
だから、危険なものは切る。
そう決めた。
決めたはずだった。
けれど扉の隙間から入る風は、いつまでも止まらない。
ギィ。
また鉄が鳴る。
その音は、まるで旧芝浦保守区画のどこかに、最初の亀裂が入った音のようだった。




