↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/26

第10話 朝倉澪の反対


 朝倉澪は、灰原玲司の隣から動かなかった。


 動けば、終わる気がした。


 寝床溜まりの中央から、見張り扉側の壁際へ。

 たった数メートルの移動。毛布は二枚。水も置かれている。診察も許可された。久我涼平は、そう言った。


 配慮しているつもりなのだろう。


 でも違う。


 ここは、人を休ませる場所ではない。危険なものを見張る場所だ。扉の近く。子供達から遠い壁際。何かあれば、すぐ外へ押し出せる位置。


 澪の膝の上には、開いたままのノートがある。短くなった鉛筆の先が、紙の上で止まっていた。書かなければならない。玲司の右腕の変化。右足首の銀色。首筋から胸へ伸びた線。本人の意識。受け答え。恐怖。痛み。冷感。


 そして、今この場所で起きていること。


 危険だから離す。

 皆のために距離を置く。

 今は壁際にするだけ。


 そうやって、人は少しずつ輪の外へ出される。


「朝倉さん」


 玲司の声がした。


 澪は顔を上げる。玲司は壁に背を預け、毛布の端を左手で握っていた。右手は膝の上。自分の腕なのに、触れたくないものみたいに少し離している。


「はい」


「そんな顔するなよ。俺まで本格的に追放される気分になる」


「されません」


「されるだろ」


「させません」


 玲司は、薄く笑った。


「言い切るなあ」


「言い切ります」


「根拠は?」


 澪は答えられなかった。


 根拠。そんなものはない。久我を止めきれていない。大槻の言葉は周囲に染み込んでいる。真衣も、牧野も、千歳も、誰も玲司を憎んでいるわけではない。それでも、怖がっている。


 それが一番厄介だった。


 悪意なら、まだ戦える。

 恐怖は、人の顔をして広がる。


「……私は反対します」


 やっと出た言葉は、それだけだった。


「久我さんにも、大槻さんにも、他の人達にも。灰原さんを危険物として扱うことには反対します」


「危険物じゃないって言えるのか」


「言えません」


 玲司の左目が、少しだけ揺れた。


 澪はノートを握る。


「危険性はあります。右腕は刃になりました。蟻を喰いました。右足首にも首筋にも銀色の線がある。本人の意思で完全に制御できていない。それは事実です」


「そこまで言われると傷つくな」


「でも、それだけです」


 澪は玲司を見た。


「危険性があることと、灰原さん本人の意思を無視していいことは別です。怖いことと、化け物と決めつけていいことは別です」


 玲司は黙った。


 右目の銀色が、赤い非常灯を鈍く返している。左目は疲れている。寝不足で、痛みに耐えて、諦めようとして、それでもまだ傷ついている目。


 澪はその目を見て、胸の奥が痛くなった。


 まだ人間だ。


 痛がる。怖がる。皮肉を言う。傷つく。怒りたいのに、相手の恐怖まで理解してしまう。


 だから、まだ人間だ。


「朝倉さん」


 別の声がした。


 芹沢真衣だった。


 澪が振り向くと、真衣は両手を胸元で握って立っていた。茶色い髪は乱れ、目は赤い。何度も言おうとして、何度も飲み込んだ顔だった。怖いのだ。玲司が怖い。けれど、その怖さを口にする自分も怖い。


 真衣は玲司を見た。すぐに目を逸らす。逸らしたことに傷ついたように、唇を噛む。


「あの、私……灰原さんに、助けてもらいました」


 玲司は何も言わない。


「陽太くんが転んだ時、私、動けなくて。声も出なくて。灰原さんがいなかったら、陽太くんも、私も、死んでたかもしれません」


 真衣の声が震える。


 澪は、止めたくなった。


 この先に続く言葉を、もう予感していたからだ。けれど止められない。真衣は嘘をつこうとしていない。感謝だけを言って、綺麗に終わらせようとしていない。


 だから苦しい。


「助けてくれて、ありがとうございます」


 真衣は深く頭を下げた。


 そして、顔を上げきる前に、涙をこぼした。


「でも……怖いです」


 寝床溜まりが静まり返る。


「ごめんなさい。こんなこと言いたくないです。助けてもらったのに。でも、右腕が蟻を切ったところを見て、銀色の線が動くのを見て、私、怖くて。子供達の近くにいたらって考えると……怖くて」


 真衣は何度も首を振った。


「ごめんなさい。ごめんなさい、灰原さん。感謝してます。でも、怖いです」


 ひどい言葉だ。


 でも、嘘ではない。


 だから、ひどい。


 玲司は真衣を見ていた。表情は変わらない。変えないようにしている。左手が毛布の端を握りしめ、布がくしゃりと歪む。


 沈黙。


 真衣のすすり泣き。遠くで子供が布団を擦る音。牧野が工具を持ったまま固まる気配。


 玲司は、やっと口を開いた。


「そっか」


 それだけ。


 真衣が顔を上げる。


「灰原さん、私」


「正直で助かる」


「違うんです、そんな、私」


「分かってる」


 玲司の声は静かだった。


「分かってるから、きついんだよ」


 真衣の顔が歪む。もう言葉にならない。


 澪はノートに書いた。


 芹沢真衣、本人へ感謝を伝える。同時に恐怖を表明。灰原玲司、怒鳴らず受容。ただし左手の握り込み強く、精神的動揺あり。


 書きながら、澪の胸が詰まる。


 こんな記録で何が守れるのか。

 傷ついた事実を紙に残して、誰が救われるのか。


 でも書く。


 書かなければ、残るのは「怖い」という言葉だけになる。玲司がそれを聞いて、黙って受け止めたことが消える。傷ついたことが消える。


「やはり、普通の反応ですよォォ〜」


 大槻修一の声が、待っていたように入り込んできた。


 澪の背中が冷える。


 大槻は少し離れた場所で、汚れたコートの袖を握っていた。心配そうな顔。慰めるような声。だが、目だけが違う。真衣の涙を、拾える材料として見ている。


「芹沢さんを責めることはできません。助けられたから怖がってはいけない、なんて、それこそ感情の押しつけですからねェェ〜」


「大槻さん」


 澪は立ち上がった。


「その言い方はやめてください」


「おや。私は芹沢さんを庇っているだけですがァァ〜」


「芹沢さんの言葉を、灰原さんを排除する材料にしないでください」


 大槻の口元が少し歪む。


「排除だなんて。私は安全の話をしているだけですよォォ〜」


「……怖いですよ」


 澪は、震えそうになる指でノートを抱え直した。


「灰原さんの腕も、目も、銀色の線も、怖いです。怖くないなんて、一度も言っていません」


 大槻が、何か言おうと口を開く。


「でも、それをあなたに預けるつもりはありません」


 澪は遮った。


「私の怖さも、芹沢さんの怖さも、あなたが灰原さんを追い出すための道具じゃありません」


 寝床溜まりが静まり返る。


「怖いから見るんです。怖いから、記録するんです。怖いからこそ、簡単に“化け物”なんて言葉で終わらせたくないんです」


 大槻の目が細くなる。


 空気が張り詰めた。


 久我がこちらを見ている。鉄パイプを持ったまま、動かない。牧野は扉のそばで工具を握りしめている。真衣は泣きながら立ち尽くす。千歳は子供達を奥へ下げている。陽太は寝たふりをやめ、毛布の隙間から玲司を見ていた。


 玲司が、小さく息を吐いた。


「朝倉さん」


「何ですか」


「敵、増やすの上手いな」


「構いません」


「構えよ。俺より先にあんたが追放されるぞ」


「その時は壁際を分けてください」


「嫌だよ。狭い」


 こんな時に。


 澪は泣きそうになった。笑いそうにもなった。どちらもできず、ただ唇を噛む。


 大槻が何か言おうとした時、久我が一歩前に出た。


「そこまでだ」


 低い声だった。


 澪は久我を見る。久我の顔には疲労が濃く浮かんでいる。怒りもある。苛立ちもある。だが、それ以上に、何かを必死に押し殺している顔だった。


「今夜は、さっき決めた通りにする。灰原は壁際。子供は近づけない。見張りを置く」


「久我さん」


「朝倉、お前の記録は見る。灰原本人の話も聞く」


 澪は息を呑む。


 ほんの少しだけ、上がった。

 そう思った。


 けれど、久我の次の言葉で、その小さな上昇はすぐに落ちる。


「明日の朝、会議を開く」


 寝床溜まりに、ざわめきが広がった。


 会議。


 それは、相談ではない。

 決めるための場だ。


 何を決めるのか、誰もはっきり口にしない。けれど全員が分かっている。玲司をここに置くのか。隔離するのか。外へ出すのか。


 追放という言葉だけが、まだ使われていない。


「明日まで待つ必要があるんですかァァ〜ん」


 大槻が言う。


 久我は睨んだ。


「今夜は誰も動かさない。これ以上、寝床溜まりを割るな」


「私は皆さんの安全を」


「黙れッ」


 短い怒鳴り声。


 大槻が口を閉じる。


 澪は久我を見た。久我も限界なのだと分かる。彼は玲司を守りたいわけではない。だが、今この場で玲司を外へ出せば、何かが壊れることも分かっている。だから、朝まで先延ばしにした。


 それが救いなのか。

 判決の延期なのか。


 澪には分からない。


「灰原」


 久我が玲司を見る。


「明日の会議で、お前にも話を聞く」


「俺にも発言権あるんだ」


「ある」


「へえ。壁際の化け物にしては待遇いいな」


 久我の顔が歪む。


「灰原」


「冗談だよ。面白くないけど」


 玲司は毛布の端を離した。左手の指が白くなっている。


「分かった。明日まで大人しくしてる。俺の腕が大人しくしてくれるかは知らないけど」


 その言葉で、周囲の何人かが身を固くした。


 玲司はそれを見て、少しだけ目を伏せる。


 澪は胸が痛くなった。


 まただ。


 何を言っても、彼は自分の危険性へ戻される。皮肉を言っても、怯えられる。黙っても、怖がられる。救っても、離される。


 それでも、玲司はまだここにいる。

 まだ、追い出されていない。


 澪はノートを開き、ページの下に一文を書いた。


 恐怖は存在する。だが、恐怖の存在は、灰原玲司を人間ではないものと断定する根拠にはならない。


 文字が少し歪む。


 それでも書いた。


 書いた瞬間だった。


 ギィ。


 見張り扉が鳴った。


 誰もが一斉にそちらを見る。


 牧野が扉の前で固まっていた。補強のために当てた鉄板を片手で押さえている。顔色が悪い。眼鏡がずれているのに、直そうともしない。


「牧野?」


 久我が声をかける。


 牧野は喉を鳴らした。


「……今、外側から押されました」


 空気が止まる。


 大槻が一歩下がる。真衣が口元を押さえる。千歳が子供達をさらに奥へ押しやる。陽太が玲司の方を見た。


 玲司は、壁際でゆっくり顔を上げていた。


 右目が、薄く銀色に光っている。


「灰原さん」


 澪の声は、自分でも分かるほど硬かった。


「何が聞こえますか」


 玲司は答えない。


 彼の視線は見張り扉の右下に向いている。歪んだ鉄枠。浮いた縁。牧野の内側からの補強。その向こう側。


 玲司の右手が、ぴくりと動いた。


「……一匹じゃない」


 小さな声。


 寝床溜まりの誰もが、息を止める。


 ギチ。


 今度は、全員に聞こえた。


 鉄の向こう。外縁通路。硬いものが床を擦る音。何本もの脚が、濡れたコンクリートを叩く気配。


 牧野が青ざめる。


「補強、まだ」


 言い終わる前に、見張り扉の右下が内側へ跳ねた。


 ベコンッ!!


 鉄板が曲がる。牧野が尻餅をつく。


「うわああああああ!!」


 誰かが叫んだ。


 久我が鉄パイプを構える。


「子供を奥へ! 早くッ!」


 千歳が叫ぶ。


「陽太、こっち!」


 陽太が動かない。


 彼の目は、玲司に向いていた。


 玲司は壁際で立とうとしている。毛布が肩から落ちる。右腕の指が開く。銀色の線が手首から肘へ、そして首筋へ薄く走った。


 澪は咄嗟に玲司の腕を掴んだ。


「待ってください、まだ」


「待ったら死ぬ」


 玲司の声は低かった。


「でも、体が」


「分かってる」


 玲司は見張り扉を見たまま言う。


「俺も怖いよ」


 その瞬間、扉の隙間から黒い触角が滑り込んだ。


 長く、細く、濡れたような触角。

 床を探るように動く。


 真衣が声にならない悲鳴を上げた。


 大槻が後ずさる。


「な、なにいいいいい?!」


 触角の根元で、何かが鳴った。


 ギチ、ギチ、ギチ。


 玲司の右足首に、銀色の線が走る。


 澪はそれを見た。


 昨日より濃い。

 速い。

 冷たい光。


「灰原さん!」


「離して」


「でも」


「離してッ!」


 澪の手が、弾かれる。


 玲司が床を蹴った。


 人間の動きではなかった。


 壁際にいたはずの体が、一瞬で見張り扉の前へ飛ぶ。濡れた床を滑るのではない。蹴って、跳ねて、空気を裂くように進む。右足首の銀色が光り、右腕の皮膚の下で銀の筋が暴れる。


 久我が叫んだ。


「灰原ッ!」


 玲司は振り返らない。


 見張り扉の隙間から、働き蟻の顎がねじ込まれる。鉄板がさらに歪む。牧野の補強が、悲鳴みたいな音を上げる。


 ギィイイイイッ。


 玲司の右腕が、銀色に裂けた。


 刃。


 赤い非常灯の下で、銀色の刃が濡れた光を引く。


「俺を壁際に置くなら」


 玲司は呟いた。


 誰に言うでもない。

 それでも全員に聞こえる声。


「せめて扉くらい、ちゃんと直しとけよ」


 次の瞬間、銀色の刃が触角を斬り落とした。


 ビチャッ。


 黒い体液が床に散る。


 蟻が、扉の向こうで怒ったように顎を鳴らした。


 ギチギチギチギチギチッ!!


 見張り扉が、内側へ大きく歪む。


 久我が鉄パイプを握りしめる。牧野は床に座り込んだまま震えている。真衣は泣きながら子供達を奥へ押す。大槻は口を開けたまま動けない。澪は玲司の背中を見ていた。


 その背中は細い。


 毛布も落ち、作業着の襟元から首筋の銀色が見えている。右腕は刃。右足首には銀色の線。人間から外れていく姿。


 でも、今この場所で、誰よりも前に立っているのは玲司だった。


 助けたから怖がられた男が。

 怖いと言われたばかりの男が。

 壁際に置かれた男が。


 また、扉の前に立っている。


 澪は、ノートを握りしめた。


 書かなければ。

 見なければ。


 怖くても。

 この人が何をしているのか、誰かが見ていなければ。


 扉の向こうで、二匹目の脚音が重なる。


 カツ。

 カツ。

 カツ。


 玲司の右目が、さらに銀色に光った。


「……来る」


 その声は、震えていた。


 恐怖で。

 怒りで。

 それでも前に出るしかない諦めで。


「今度は、二匹だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。