第10話 朝倉澪の反対
朝倉澪は、灰原玲司の隣から動かなかった。
動けば、終わる気がした。
寝床溜まりの中央から、見張り扉側の壁際へ。
たった数メートルの移動。毛布は二枚。水も置かれている。診察も許可された。久我涼平は、そう言った。
配慮しているつもりなのだろう。
でも違う。
ここは、人を休ませる場所ではない。危険なものを見張る場所だ。扉の近く。子供達から遠い壁際。何かあれば、すぐ外へ押し出せる位置。
澪の膝の上には、開いたままのノートがある。短くなった鉛筆の先が、紙の上で止まっていた。書かなければならない。玲司の右腕の変化。右足首の銀色。首筋から胸へ伸びた線。本人の意識。受け答え。恐怖。痛み。冷感。
そして、今この場所で起きていること。
危険だから離す。
皆のために距離を置く。
今は壁際にするだけ。
そうやって、人は少しずつ輪の外へ出される。
「朝倉さん」
玲司の声がした。
澪は顔を上げる。玲司は壁に背を預け、毛布の端を左手で握っていた。右手は膝の上。自分の腕なのに、触れたくないものみたいに少し離している。
「はい」
「そんな顔するなよ。俺まで本格的に追放される気分になる」
「されません」
「されるだろ」
「させません」
玲司は、薄く笑った。
「言い切るなあ」
「言い切ります」
「根拠は?」
澪は答えられなかった。
根拠。そんなものはない。久我を止めきれていない。大槻の言葉は周囲に染み込んでいる。真衣も、牧野も、千歳も、誰も玲司を憎んでいるわけではない。それでも、怖がっている。
それが一番厄介だった。
悪意なら、まだ戦える。
恐怖は、人の顔をして広がる。
「……私は反対します」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「久我さんにも、大槻さんにも、他の人達にも。灰原さんを危険物として扱うことには反対します」
「危険物じゃないって言えるのか」
「言えません」
玲司の左目が、少しだけ揺れた。
澪はノートを握る。
「危険性はあります。右腕は刃になりました。蟻を喰いました。右足首にも首筋にも銀色の線がある。本人の意思で完全に制御できていない。それは事実です」
「そこまで言われると傷つくな」
「でも、それだけです」
澪は玲司を見た。
「危険性があることと、灰原さん本人の意思を無視していいことは別です。怖いことと、化け物と決めつけていいことは別です」
玲司は黙った。
右目の銀色が、赤い非常灯を鈍く返している。左目は疲れている。寝不足で、痛みに耐えて、諦めようとして、それでもまだ傷ついている目。
澪はその目を見て、胸の奥が痛くなった。
まだ人間だ。
痛がる。怖がる。皮肉を言う。傷つく。怒りたいのに、相手の恐怖まで理解してしまう。
だから、まだ人間だ。
「朝倉さん」
別の声がした。
芹沢真衣だった。
澪が振り向くと、真衣は両手を胸元で握って立っていた。茶色い髪は乱れ、目は赤い。何度も言おうとして、何度も飲み込んだ顔だった。怖いのだ。玲司が怖い。けれど、その怖さを口にする自分も怖い。
真衣は玲司を見た。すぐに目を逸らす。逸らしたことに傷ついたように、唇を噛む。
「あの、私……灰原さんに、助けてもらいました」
玲司は何も言わない。
「陽太くんが転んだ時、私、動けなくて。声も出なくて。灰原さんがいなかったら、陽太くんも、私も、死んでたかもしれません」
真衣の声が震える。
澪は、止めたくなった。
この先に続く言葉を、もう予感していたからだ。けれど止められない。真衣は嘘をつこうとしていない。感謝だけを言って、綺麗に終わらせようとしていない。
だから苦しい。
「助けてくれて、ありがとうございます」
真衣は深く頭を下げた。
そして、顔を上げきる前に、涙をこぼした。
「でも……怖いです」
寝床溜まりが静まり返る。
「ごめんなさい。こんなこと言いたくないです。助けてもらったのに。でも、右腕が蟻を切ったところを見て、銀色の線が動くのを見て、私、怖くて。子供達の近くにいたらって考えると……怖くて」
真衣は何度も首を振った。
「ごめんなさい。ごめんなさい、灰原さん。感謝してます。でも、怖いです」
ひどい言葉だ。
でも、嘘ではない。
だから、ひどい。
玲司は真衣を見ていた。表情は変わらない。変えないようにしている。左手が毛布の端を握りしめ、布がくしゃりと歪む。
沈黙。
真衣のすすり泣き。遠くで子供が布団を擦る音。牧野が工具を持ったまま固まる気配。
玲司は、やっと口を開いた。
「そっか」
それだけ。
真衣が顔を上げる。
「灰原さん、私」
「正直で助かる」
「違うんです、そんな、私」
「分かってる」
玲司の声は静かだった。
「分かってるから、きついんだよ」
真衣の顔が歪む。もう言葉にならない。
澪はノートに書いた。
芹沢真衣、本人へ感謝を伝える。同時に恐怖を表明。灰原玲司、怒鳴らず受容。ただし左手の握り込み強く、精神的動揺あり。
書きながら、澪の胸が詰まる。
こんな記録で何が守れるのか。
傷ついた事実を紙に残して、誰が救われるのか。
でも書く。
書かなければ、残るのは「怖い」という言葉だけになる。玲司がそれを聞いて、黙って受け止めたことが消える。傷ついたことが消える。
「やはり、普通の反応ですよォォ〜」
大槻修一の声が、待っていたように入り込んできた。
澪の背中が冷える。
大槻は少し離れた場所で、汚れたコートの袖を握っていた。心配そうな顔。慰めるような声。だが、目だけが違う。真衣の涙を、拾える材料として見ている。
「芹沢さんを責めることはできません。助けられたから怖がってはいけない、なんて、それこそ感情の押しつけですからねェェ〜」
「大槻さん」
澪は立ち上がった。
「その言い方はやめてください」
「おや。私は芹沢さんを庇っているだけですがァァ〜」
「芹沢さんの言葉を、灰原さんを排除する材料にしないでください」
大槻の口元が少し歪む。
「排除だなんて。私は安全の話をしているだけですよォォ〜」
「……怖いですよ」
澪は、震えそうになる指でノートを抱え直した。
「灰原さんの腕も、目も、銀色の線も、怖いです。怖くないなんて、一度も言っていません」
大槻が、何か言おうと口を開く。
「でも、それをあなたに預けるつもりはありません」
澪は遮った。
「私の怖さも、芹沢さんの怖さも、あなたが灰原さんを追い出すための道具じゃありません」
寝床溜まりが静まり返る。
「怖いから見るんです。怖いから、記録するんです。怖いからこそ、簡単に“化け物”なんて言葉で終わらせたくないんです」
大槻の目が細くなる。
空気が張り詰めた。
久我がこちらを見ている。鉄パイプを持ったまま、動かない。牧野は扉のそばで工具を握りしめている。真衣は泣きながら立ち尽くす。千歳は子供達を奥へ下げている。陽太は寝たふりをやめ、毛布の隙間から玲司を見ていた。
玲司が、小さく息を吐いた。
「朝倉さん」
「何ですか」
「敵、増やすの上手いな」
「構いません」
「構えよ。俺より先にあんたが追放されるぞ」
「その時は壁際を分けてください」
「嫌だよ。狭い」
こんな時に。
澪は泣きそうになった。笑いそうにもなった。どちらもできず、ただ唇を噛む。
大槻が何か言おうとした時、久我が一歩前に出た。
「そこまでだ」
低い声だった。
澪は久我を見る。久我の顔には疲労が濃く浮かんでいる。怒りもある。苛立ちもある。だが、それ以上に、何かを必死に押し殺している顔だった。
「今夜は、さっき決めた通りにする。灰原は壁際。子供は近づけない。見張りを置く」
「久我さん」
「朝倉、お前の記録は見る。灰原本人の話も聞く」
澪は息を呑む。
ほんの少しだけ、上がった。
そう思った。
けれど、久我の次の言葉で、その小さな上昇はすぐに落ちる。
「明日の朝、会議を開く」
寝床溜まりに、ざわめきが広がった。
会議。
それは、相談ではない。
決めるための場だ。
何を決めるのか、誰もはっきり口にしない。けれど全員が分かっている。玲司をここに置くのか。隔離するのか。外へ出すのか。
追放という言葉だけが、まだ使われていない。
「明日まで待つ必要があるんですかァァ〜ん」
大槻が言う。
久我は睨んだ。
「今夜は誰も動かさない。これ以上、寝床溜まりを割るな」
「私は皆さんの安全を」
「黙れッ」
短い怒鳴り声。
大槻が口を閉じる。
澪は久我を見た。久我も限界なのだと分かる。彼は玲司を守りたいわけではない。だが、今この場で玲司を外へ出せば、何かが壊れることも分かっている。だから、朝まで先延ばしにした。
それが救いなのか。
判決の延期なのか。
澪には分からない。
「灰原」
久我が玲司を見る。
「明日の会議で、お前にも話を聞く」
「俺にも発言権あるんだ」
「ある」
「へえ。壁際の化け物にしては待遇いいな」
久我の顔が歪む。
「灰原」
「冗談だよ。面白くないけど」
玲司は毛布の端を離した。左手の指が白くなっている。
「分かった。明日まで大人しくしてる。俺の腕が大人しくしてくれるかは知らないけど」
その言葉で、周囲の何人かが身を固くした。
玲司はそれを見て、少しだけ目を伏せる。
澪は胸が痛くなった。
まただ。
何を言っても、彼は自分の危険性へ戻される。皮肉を言っても、怯えられる。黙っても、怖がられる。救っても、離される。
それでも、玲司はまだここにいる。
まだ、追い出されていない。
澪はノートを開き、ページの下に一文を書いた。
恐怖は存在する。だが、恐怖の存在は、灰原玲司を人間ではないものと断定する根拠にはならない。
文字が少し歪む。
それでも書いた。
書いた瞬間だった。
ギィ。
見張り扉が鳴った。
誰もが一斉にそちらを見る。
牧野が扉の前で固まっていた。補強のために当てた鉄板を片手で押さえている。顔色が悪い。眼鏡がずれているのに、直そうともしない。
「牧野?」
久我が声をかける。
牧野は喉を鳴らした。
「……今、外側から押されました」
空気が止まる。
大槻が一歩下がる。真衣が口元を押さえる。千歳が子供達をさらに奥へ押しやる。陽太が玲司の方を見た。
玲司は、壁際でゆっくり顔を上げていた。
右目が、薄く銀色に光っている。
「灰原さん」
澪の声は、自分でも分かるほど硬かった。
「何が聞こえますか」
玲司は答えない。
彼の視線は見張り扉の右下に向いている。歪んだ鉄枠。浮いた縁。牧野の内側からの補強。その向こう側。
玲司の右手が、ぴくりと動いた。
「……一匹じゃない」
小さな声。
寝床溜まりの誰もが、息を止める。
ギチ。
今度は、全員に聞こえた。
鉄の向こう。外縁通路。硬いものが床を擦る音。何本もの脚が、濡れたコンクリートを叩く気配。
牧野が青ざめる。
「補強、まだ」
言い終わる前に、見張り扉の右下が内側へ跳ねた。
ベコンッ!!
鉄板が曲がる。牧野が尻餅をつく。
「うわああああああ!!」
誰かが叫んだ。
久我が鉄パイプを構える。
「子供を奥へ! 早くッ!」
千歳が叫ぶ。
「陽太、こっち!」
陽太が動かない。
彼の目は、玲司に向いていた。
玲司は壁際で立とうとしている。毛布が肩から落ちる。右腕の指が開く。銀色の線が手首から肘へ、そして首筋へ薄く走った。
澪は咄嗟に玲司の腕を掴んだ。
「待ってください、まだ」
「待ったら死ぬ」
玲司の声は低かった。
「でも、体が」
「分かってる」
玲司は見張り扉を見たまま言う。
「俺も怖いよ」
その瞬間、扉の隙間から黒い触角が滑り込んだ。
長く、細く、濡れたような触角。
床を探るように動く。
真衣が声にならない悲鳴を上げた。
大槻が後ずさる。
「な、なにいいいいい?!」
触角の根元で、何かが鳴った。
ギチ、ギチ、ギチ。
玲司の右足首に、銀色の線が走る。
澪はそれを見た。
昨日より濃い。
速い。
冷たい光。
「灰原さん!」
「離して」
「でも」
「離してッ!」
澪の手が、弾かれる。
玲司が床を蹴った。
人間の動きではなかった。
壁際にいたはずの体が、一瞬で見張り扉の前へ飛ぶ。濡れた床を滑るのではない。蹴って、跳ねて、空気を裂くように進む。右足首の銀色が光り、右腕の皮膚の下で銀の筋が暴れる。
久我が叫んだ。
「灰原ッ!」
玲司は振り返らない。
見張り扉の隙間から、働き蟻の顎がねじ込まれる。鉄板がさらに歪む。牧野の補強が、悲鳴みたいな音を上げる。
ギィイイイイッ。
玲司の右腕が、銀色に裂けた。
刃。
赤い非常灯の下で、銀色の刃が濡れた光を引く。
「俺を壁際に置くなら」
玲司は呟いた。
誰に言うでもない。
それでも全員に聞こえる声。
「せめて扉くらい、ちゃんと直しとけよ」
次の瞬間、銀色の刃が触角を斬り落とした。
ビチャッ。
黒い体液が床に散る。
蟻が、扉の向こうで怒ったように顎を鳴らした。
ギチギチギチギチギチッ!!
見張り扉が、内側へ大きく歪む。
久我が鉄パイプを握りしめる。牧野は床に座り込んだまま震えている。真衣は泣きながら子供達を奥へ押す。大槻は口を開けたまま動けない。澪は玲司の背中を見ていた。
その背中は細い。
毛布も落ち、作業着の襟元から首筋の銀色が見えている。右腕は刃。右足首には銀色の線。人間から外れていく姿。
でも、今この場所で、誰よりも前に立っているのは玲司だった。
助けたから怖がられた男が。
怖いと言われたばかりの男が。
壁際に置かれた男が。
また、扉の前に立っている。
澪は、ノートを握りしめた。
書かなければ。
見なければ。
怖くても。
この人が何をしているのか、誰かが見ていなければ。
扉の向こうで、二匹目の脚音が重なる。
カツ。
カツ。
カツ。
玲司の右目が、さらに銀色に光った。
「……来る」
その声は、震えていた。
恐怖で。
怒りで。
それでも前に出るしかない諦めで。
「今度は、二匹だ」




