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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

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第11話 扉が破れる


 来る。


 そう言った瞬間、俺の腹の奥が冷えた。


 怖い。

 めちゃくちゃ怖い。


 目の前の見張り扉は、もう扉の顔をしていなかった。右下が内側へめくれ、牧野さんが当てた鉄板は変な角度で曲がっている。さっき切り落とした触角が床でぴくぴく動いていた。黒い体液が濡れたコンクリートに広がり、赤い非常灯を鈍く反射している。


 臭い。


 蟻の臭いだ。酸っぱい。鉄臭い。土と腐った油を混ぜたみたいな臭い。右目の奥が、それを勝手に分解する。触角。体液。外殻の継ぎ目。顎の根元。脚の配置。扉の向こうで動く重さ。


 二匹。


 いや、正確には一匹が扉に押しつき、もう一匹が後ろで位置を変えている。足音の幅が違う。前のやつは働き蟻。後ろのやつは少し細い。斥候か。いや、働き蟻ほど重くないだけで、十分でかい。


 そんなこと、分かりたくない。


 俺はただ、壁際に座っていたはずだ。毛布を掛けられて、右腕を見張られて、明日の会議で俺をどうするか決めるとか言われていた。怖いです、と言われたばかりだった。正直で助かる、と返したばかりだった。


 なのに、また扉の前にいる。


 何してんだ、俺。


「子供を奥へ! 早くッ!」


 久我の声が後ろで飛ぶ。


 雨宮さんが子供達を押し込む音。芹沢さんの泣き声。牧野さんが床を這う気配。大槻の息が引きつる音。朝倉さんが何か言いかけて、飲み込んだ気配。


 全部聞こえる。


 うるさい。

 聞こえすぎる。

 でも、一番うるさいのは俺の右腕だ。


 蟻を殺せ。


 声ではない。言葉でもない。なのに、そういう意味だけが腕の奥で疼く。右腕の皮膚の下を、銀色の線が走る。手首から肘へ。肘から肩へ。右目の奥が熱くなる。いや、冷たい。熱いのか冷たいのか分からない。気持ち悪い。


 扉の向こうで、働き蟻が顎を開いた。


 ギチギチギチッ。


 金属と顎がこすれる音。鉄板が悲鳴を上げる。


「牧野! 補強は!」


 久我が叫ぶ。


 牧野さんは床に座り込んだまま、レンチを探して手を伸ばしていた。眼鏡がずれている。顔色は真っ青だ。


「む、無理です! 押さえが、外側からじゃないと……!」


 だから言ったじゃん。


 いや、俺は言ってない。

 言う前に壁際へ置かれた。


 腹の奥に、黒いものが湧く。怒りだ。たぶん。でも怒っている暇なんてない。扉の右下がさらに歪む。黒い顎が入る。顎の先端が鉄板を挟む。力任せにこじ開けるつもりだ。


 あそこを通されたら終わる。


 子供達のいる奥までは、一直線じゃない。けれど寝床溜まりは狭い。逃げる場所は限られている。蟻が一匹でも中に入れば、足元の毛布も、食料袋も、人間も、全部まとめて踏み潰される。


 死ぬ。


 俺も。

 朝倉さんも。

 陽太も。


 死にたくない。


「灰原、下がれ!」


 久我が言った。


 俺は思わず笑いそうになった。


 下がれ?

 壁際に置いたの、そっちだろ。


 でも口には出さない。出したら、次の一秒を失う。俺の右足首が先に動いた。銀色の線が、くるぶしの外側からふくらはぎへ走る。


 やめろ。


 そう思った瞬間、床を蹴っていた。


 体が軽い。


 軽すぎる。


 濡れたコンクリートを踏んだはずなのに、足が滑らない。銀色の何かが皮膚の下で足首を固め、筋肉を引っ張り、膝の向きを勝手に修正する。俺の体が、俺の知らない角度で前に出る。


 一歩。


 それだけで扉まで届いた。


 速い。

 気持ち悪い。

 便利なのが、さらに気持ち悪い。


 働き蟻の顎が、隙間から半分入ってくる。黒い艶。硬い外殻。顎の根元、内側の柔らかい節。そこだ、と右目が勝手に示す。


 俺は右腕を振った。


 いや、振らされた。


 銀色の刃が、顎の付け根へ滑り込む。硬い外殻にぶつかる直前、刃の形が勝手に薄くなる。細く、鋭く、嫌になるほど正確に。


 ザギンッ。


 顎の片側が落ちた。


 蟻が暴れる。扉が揺れる。曲がった鉄板が跳ね、牧野さんが「ひっ」と声を漏らす。


「伏せろッ!」


 叫んだのは久我だった。


 俺じゃない。


 けれど、その声で牧野さんが床へ倒れ込む。次の瞬間、働き蟻の残った顎が内側へ振り込まれた。俺の顔のすぐ横を通る。風圧。臭い。黒い体液。頬に冷たいものが散った。


 やばッッ。


 思っただけで声にはならない。


 右足首がまた勝手に動く。体が横へずれる。半歩。半歩だけで、顎の軌道から外れる。人間の反応じゃない。俺の反応じゃない。


 何だよ、これ。


 怖い。


 でも避けられた。


 その事実が、さらに怖い。


「灰原さん!」


 朝倉さんの声。


 振り返る余裕はない。


「近づかないで!」


 俺は叫んだ。


 叫んでから、自分の声が思ったより鋭いことに気づく。朝倉さんを拒絶したいわけじゃない。でも近づかれたら困る。右腕が、右足が、次に何をするか俺にも分からない。


 働き蟻が無理やり扉を押す。


 ベコンッ。


 右下の鉄板がさらに内側へ折れた。隙間が広がる。蟻の頭部が半分入る。でかい。近い。複眼みたいな黒い光が非常灯を拾う。触角は片方ない。さっき俺が切った。


 怒っているのか、ただ反応しているだけなのかは分からない。

 でも、殺しに来ている。


 それだけは分かる。


 後ろで陽太が泣きそうな声を上げた。


「灰原のお兄ちゃん……!」


 やめろ。


 その声で呼ぶな。


 俺はそんな大したものじゃない。守り手でも英雄でもない。さっきまで壁際に置かれていた化け物候補だ。明日の朝、どうするか会議にかけられる存在だ。


 なのに。


 その声を聞いた瞬間、足が前に出た。


 今度は、俺の意思だった。


「久我!」


 俺は叫んだ。


「あの鉄板、押さえろ! 下じゃなくて上! 蟻の頭を固定する!」


「命令するな!」


「死にたくなけりゃ動けッ!」


 久我の顔が歪んだ。


 でも動いた。


 鉄パイプを持ったまま、久我が扉へ走る。牧野さんも床から起き上がろうとする。手が震えている。レンチを落とす。カラン、と音がした。


「牧野さん、左の支柱! そこ外れたら全部開く!」


「は、はいッ!」


 牧野さんが這うように動く。怖いはずだ。今にも泣きそうな顔だ。それでも手がボルトへ伸びる。眼鏡がずれたまま、レンチを掴む。


 俺は働き蟻の頭部へ刃を叩き込んだ。


 外殻は硬い。


 正面から切るな。通せ。


 誰の言葉でもない。

 でも、右腕の中にある蟻の記憶がそう告げる。


 顎の根元。触角の基部。頭部と胸部の接続。硬い殻の裏側には、必ず柔らかい場所がある。


 そこを、銀色の刃が知っている。


 俺は嫌になるほど正確に、働き蟻の右側面へ刃を差し込んだ。


 ビチャ。


 ぬるい体液が腕にかかる。右腕が疼く。


 喰いたがるな。


 今じゃない。


 今喰ったら、体が止まる気がした。前に蟻を喰った時みたいに、情報が流れ込んだら終わる。扉の前で吐いて、動けなくなって、その間に全員死ぬ。


 喰うな。

 殺すだけでいい。


 俺は右腕を引き抜こうとした。


 抜けない。


 刃が蟻の内側に絡んでいる。いや、違う。銀色の筋が勝手に伸びている。体液に触れ、外殻の裏へ這い、何かを吸おうとしている。


「やめろッ!」


 自分の腕に向かって叫んだ。


 周囲がびくりとする。


 知るか。


「今じゃない! 喰うな! 喰うな喰うな喰うなッ!」


 銀色の筋が一瞬、止まった。


 止まった気がした。


 その隙に、俺は腕を引き抜く。右肩に激痛。骨ごと引っこ抜かれるみたいな痛み。視界が白く弾ける。銀色ではなく、ただの痛みの白。


 働き蟻が暴れる。


 久我が上から鉄パイプを差し込み、曲がった鉄板を押さえつける。


「牧野!」


「やってます、やってますッ!」


 牧野さんがボルトを締める。手が震えて、レンチが何度も空回りする。カン、カン、嫌な音。遅い。けれど動いている。


 その時、二匹目が来た。


 扉の隙間ではない。上の方。歪んだ扉の隙間から、細い触角が滑り込む。さっきより速い。働き蟻ではない。細身。斥候蟻に近い。通れる場所を探している。人間の匂いを拾っている。


 まずい。


 あいつが奥へ印をつけたら、もっと来る。


 右目が熱くなる。

 足音が線になる。

 蟻の動きが、頭の中で暗い地図みたいに浮かぶ。


 あの時と同じだ。


 蟻を喰った後、床の下を流れる気配が頭の奥へ入り込んできた時。足音の間隔。触角の向き。扉へかかる圧力。それらが、ばらばらの音ではなく、一本の暗い流れとして繋がっていく。


 群れの道筋。


 見たくないのに、見える。


 もしここが抜けたら、次は右の貯水区画へ流れる。次に寝床。最後に奥。


 違う。

 考えるな。

 今は目の前だけだ。


「上!」


 俺は叫んだ。


「二匹目、上から来る!」


 久我が顔を上げる。


「どこだ!」


「扉の上、左の隙間!」


 言い終わる前に、斥候蟻の頭がぬるりと現れた。


 小さいわけじゃない。働き蟻より細いだけだ。人間の頭より大きい顎。長い触角。脚はまだ外側にある。だが頭が入れば、体もねじ込める。


 芹沢さんが叫んだ。


「いやあああああ!!」


 子供達が泣く。千歳さんが「見ないで、奥へ!」と声を張る。大槻が後ろへ下がり、誰かにぶつかる。


「何で二匹も来るんですかァァ〜ん! 閉めてくださいよォォ〜!」


「黙ってろ!」


 久我が怒鳴る。


 でも、久我の手は一匹目で塞がっている。牧野さんも下の補強で動けない。俺が行くしかない。


 右足首が疼く。


 今度は分かっていた。


 これを使えば、動ける。

 人間じゃない動きで。


 使いたくない。

 でも使わなきゃ死ぬ。


 死にたくない。


 俺は床を蹴った。


 体が跳ねる。視界が一瞬で高くなる。右足首の銀色が膝下まで走る。筋肉が悲鳴を上げる。足が折れるんじゃないかと思うくらいの負荷。でも折れない。銀色の何かが骨の周りを固めている。


 気持ち悪い。

 痛い。

 便利。


 最悪だ。


 俺は壁を蹴って、扉の上部へ飛んだ。手すりも足場もない。なのに右足が濡れた壁に張りつくように止まる。銀色の線が足裏まで走った感覚。皮膚の下から、冷たい針が無数に出たみたいだった。


 斥候蟻の触角が俺へ向く。


 近い。


 複眼の黒が、俺を映す。


 俺は右腕を振る。


 斥候蟻は速かった。頭を引く。刃が触角だけを掠める。切れた触角の先が落ちる。だが頭は残る。顎が開く。俺の右肩へ来る。


 避けられない。


「灰原ッ!」


 久我の声。


 朝倉さんの息を呑む音。


 俺は左手を伸ばし、斥候蟻の顎の片側を掴んだ。


 馬鹿か、俺。


 左手は普通の手だ。手袋もない。人間の手。蟻の顎を掴んでどうにかなるわけがない。


 でも、その一瞬でいい。


 右腕の刃を、顎の内側へ差し込む。


 ザグッ。


 斥候蟻が暴れた。顎が閉じる。左手に激痛。皮膚が裂ける。骨まではいっていない。たぶん。分からない。痛い。めちゃくちゃ痛い。


「痛ってえええッ!」


 叫んだ。


 情けない声だった。


 でも、右腕は止めない。


 刃をねじる。顎の関節を切る。触角の基部を裂く。斥候蟻の頭部が壁にぶつかる。ギチギチと顎を鳴らし、俺の左手から黒い体液と自分の血が混ざって垂れる。


 右目の奥が、また囁く。


 喰え。


 嫌だ。


 喰え。


 嫌だ。


 喰え。


「嫌だって言ってんだろッ!」


 俺は斥候蟻の頭部を蹴った。


 右足で。


 銀色の線が膝まで光る。


 バキンッ。


 自分の蹴りとは思えない音がした。斥候蟻の頭が扉の外側へ叩き返される。外で何かにぶつかり、湿った音がした。落ちたのか。死んだのか。分からない。だが、通路から斥候蟻の足音が遠ざかった。


 俺の体が落ちる。


 壁に張りついていた右足が、急に力を失った。


「あ」


 間抜けな声が出た。


 床が近づく。


 受け身なんて取れない。右腕は刃。左手は痛い。足は言うことを聞かない。


 落ちる。


 その時、久我が動いた。


 一匹目を押さえていた鉄パイプを捨て、俺の体を受け止めるように肩から突っ込んできた。完全には受け止められない。俺は久我の肩にぶつかり、そのまま二人で床に転がる。


 ゴッ。


 背中を打つ。息が詰まる。


「ぐっ……!」


「馬鹿野郎!」


 久我が怒鳴った。


「上から落ちてくるな!」


「助かった……とは言いたくないな」


「言え!」


「助かった」


 口から勝手に出た。


 久我が一瞬、変な顔をした。


 その一瞬で、俺も変な気分になった。


 助けられた。


 久我に。


 さっきまで俺を壁際に置いた男に。明日の会議で俺をどうするか決めようとしていた男に。


 なんだよ、それ。


 わけ分かんねえ。


 だが、感傷に浸る暇はなかった。一匹目の働き蟻がまだいる。久我が離れたことで鉄板の押さえが緩み、頭部がさらに内側へ入ってきた。


「久我! 戻れ!」


「分かってる!」


 久我が立ち上がる。俺も立とうとした。


 右足に力が入らない。


 膝が笑う。右足首から膝まで、内側に氷水を流されたみたいに冷たい。銀色の線はまだ薄く光っている。痛みは遅れて来た。骨の周りを針で削られるような痛み。


「っ、くそ……」


「灰原さん!」


 朝倉さんが駆け寄ろうとする。


「来るな!」


 また叫んでしまう。


 朝倉さんが止まる。傷ついた顔をした。俺の胸が嫌なふうに痛む。でも来られたら困る。本当に困る。右足が勝手に跳ねたら、右腕が勝手に動いたら、朝倉さんを切るかもしれない。


 それだけは嫌だ。


 働き蟻が扉を押す。


 ベコンッ。


 隙間がさらに広がった。


 牧野さんが叫ぶ。


「もう、持ちません!」


「なら殺すしかないだろ」


 俺は右腕を持ち上げた。


 刃が震える。銀色の線が右肩から首へ走る。胸の奥が冷える。右足は使い物にならない。なら、腕だけでやるしかない。


 怖い。


 嫌だ。


 死にたくない。


 でも、ここを抜かれたらもっと嫌だ。


「久我、頭を固定しろ」


「また命令か」


「そうだよ。嫌なら自分で殺せ」


 久我が歯を食いしばる。


 でも、鉄パイプを拾った。


「牧野さん、三秒だけ上の支柱押さえて!」


「三秒!?」


「三秒でいい!」


「は、はいッ!」


 牧野さんが半泣きで支柱にしがみつく。


 俺は働き蟻の頭部を見た。


 右顎は切った。左顎が残っている。触角は片方ない。頭部側面に傷。体液の流れが乱れている。顎の内側から入れば、脳に近い柔らかい部分へ届く。


 脳と呼んでいいのかは知らない。

 でも、そこを潰せば止まる。


 右目が答えを出す。


 俺はその答えが嫌いだ。


「行くぞ!」


 久我が鉄パイプを差し込み、働き蟻の頭を下から持ち上げる。牧野さんが支柱を押さえる。扉の歪みが一瞬だけ止まる。


 一秒。


 俺は右腕を引く。


 二秒。


 銀色の刃が細くなる。槍みたいに。いや、針に近い。右腕そのものが液体になって、先端だけを鋭く伸ばす。


 三秒。


 俺は働き蟻の口の中へ、銀色の刃を突き込んだ。


 ズブッ。


 手応えが柔らかい。


 気持ち悪い。


 刃の先が内側で広がる。俺がそうしたのか、銀色の液体が勝手にやったのか分からない。働き蟻の体が激しく震えた。脚が外で暴れる。扉が揺れる。鉄板が鳴る。人間の悲鳴が混ざる。


 俺は腕を引かなかった。


 奥へ。

 もっと奥へ。


 右目の奥で、銀色が喜ぶ気配がした。


「喜ぶな」


 俺は歯を食いしばった。


「俺は、楽しくてやってるんじゃない」


 刃をひねる。


 働き蟻の震えが止まった。


 外側の脚音が乱れ、重いものが通路へ崩れる音がする。ズン、と床が揺れた。扉への圧力が消える。久我が鉄パイプを引き抜き、牧野さんがその場にへたり込んだ。


 静かになった。


 いや、完全には静かじゃない。奥で子供達が泣いている。芹沢さんが息を詰まらせている。大槻が何かぶつぶつ言っている。朝倉さんが俺の名前を呼ぼうとして、まだ迷っている。


 蟻の足音は、消えた。


 少なくとも今は。


 俺は右腕を引き抜いた。


 ビチャ、と黒い体液が床に落ちる。右腕の刃が震え、銀色の筋が蟻の体液へ伸びようとする。


「喰うな」


 低く言った。


 銀色の線が止まる。


 本当に止まったのか、たまたまなのかは分からない。けれど右腕は人間の腕へ戻ろうとしていた。刃が縮む。皮膚の形が戻る。爪の隙間に銀色が残る。


 右足首は、まだ光っている。


 足首だけじゃない。ズボンの裾の下、ふくらはぎの途中まで銀色の線が伸びている。さっきより明らかに長い。


 見られている。


 そう思った。


 顔を上げなくても分かる。寝床溜まりの全員が、俺の足を見ている。右腕を見ている。首筋を見ている。


 助かった。


 でも、怖い。


 その空気が、皮膚に刺さる。


「……灰原さん」


 朝倉さんが近づいてきた。今度は止めなかった。止める気力がない。彼女は俺の右足を見る。顔が強張る。怖いのだろう。怖いくせに、目を逸らさない。


 すごいな、この人。


 俺なら逸らす。


「痛みは」


「全部」


「右足、動かせますか」


「動かしたくない」


「動かせるかだけ」


「……たぶん」


 朝倉さんは頷き、ノートを取り出そうとした。


 その時、大槻の声がした。


「今の、見ましたよねェェ〜」


 空気が、また変わった。


 大槻は壁際にいた。さっきまで一番後ろに下がっていたくせに、もう声だけは前に出てくる。顔色は悪い。恐怖は本物だ。けれど、その恐怖をすぐに言葉の武器へ変えている。


「右腕だけじゃない。足ですよォォ〜。足まで銀色になって、壁を蹴って、飛んで、蟻を蹴り返した。あれ、人間の動きですかァァ〜ん?」


 誰も答えない。


 大槻は続ける。


「助かったのは事実です。ええ、そこは認めますよォォ〜。でも、助かったから安全だとは言えないでしょう? むしろ逆です。あの力が、もし私達に向いたら? 子供に向いたら? 朝倉さんに向いたら?」


「黙れ」


 久我が言った。


 しかし、その声には力が足りない。


 大槻は止まらない。


「黙って済む話ではありませんよォォ〜。今のは、皆さんが見た事実です。右腕だけではない。足も動く。本人も制御できていない。さっき、自分で叫んでいたじゃないですか。喰うな、やめろ、と」


 視線が刺さる。


 俺の右足に。

 右腕に。

 顔に。


 喉が乾いた。


 何か言い返せ。

 そう思うのに、言葉が出ない。


 違う、と言いたい。

 危険じゃない、と言いたい。

 俺はお前らを助けたんだと言いたい。


 でも全部、嘘になる。


 危険だ。

 俺は危険だ。


 自分でも分かっている。


 分かっているから、きつい。


「灰原さんは今、皆を守りました」


 朝倉さんが言った。


 大槻が笑う。


「守った化け物なら、化け物ではないんですかァァ〜ん?」


「その言い方はやめてください」


「言い方の問題ではありませんよォォ〜。これは事実の問題です」


 朝倉さんの手が震えた。ノートを握る指が白い。言い返そうとしている。でも、今の空気は重い。真衣の恐怖。子供達の泣き声。牧野さんの青ざめた顔。久我の沈黙。全部が大槻の言葉に餌を与えている。


 俺は息を吐いた。


 疲れた。


 足が痛い。腕が重い。胸が冷たい。右目の奥がまだ蟻の動きを探そうとしている。もう来ていないのに。もう終わったのに。


 いや、終わってない。


 会議がある。


 明日の朝。

 いや、もう今でいい。


「久我」


 俺は言った。


 久我がこちらを見る。


「明日の朝まで待つ必要ある?」


「何?」


「会議」


 朝倉さんが息を呑む。


「灰原さん」


「今ので十分だろ」


 俺は右足を見た。銀色の線が、まだ消えない。


「右腕だけじゃない。足も動いた。俺が叫んでも、完全には止まらなかった。大槻の言い方は気持ち悪いけど、事実は事実だ」


「灰原さん、それは」


「朝倉さん」


 俺は彼女を見た。


 右目じゃなく、左目で見たつもりだった。


「ありがとう。でも、もういい」


 朝倉さんの顔が歪む。


 その顔を見るのが、きつかった。


「俺がいると、またこうなる。蟻が来ても、俺が動く。動けば助かるかもしれない。でもそのたびに、皆が俺を見る。今みたいに」


 誰も否定しない。


 否定してほしかったわけじゃない。

 でも、誰も否定しないのは、それはそれできつい。


「だから、もういい。会議、今やれば?」


 久我は黙っている。


 大槻の口元が、ほんの少し上がった。


 俺はそれを見て、腹が立った。

 だから、先に言った。


「俺が出る。それでいいだろ」


 寝床溜まりの空気が止まった。


 陽太が小さく「やだ」と言った気がした。


 朝倉さんが、ノートを握りしめている。


 久我は俺を見ている。

 言うな、という顔にも見えた。

 助かった、という顔にも見えた。

 どちらなのかは分からない。


 分かりたくもない。


 右足首の銀色が、まだ冷たく光っている。


 俺はそれを見下ろし、笑った。


 笑えたかどうかは分からない。

 たぶん、変な顔だった。


「ちょうどいいよ」


 喉が乾いている。


 それでも、言った。


「壁際より、外の方が広い」

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