第12話 追放会議
「壁際より、外の方が広い」
そう言った瞬間、寝床溜まりの空気が死んだ。
誰も笑わない。
当たり前だ。
俺だって、面白いと思って言ったわけじゃない。
右足首がまだ冷たい。ズボンの裾の下で、銀色の線がぬるく光っているのが分かる。足首からふくらはぎへ。さっきより伸びている。右腕は人間の形に戻っているが、指の隙間にはまだ黒い蟻の体液が残っていた。洗いたい。削り落としたい。腕ごと切り落とせたら楽かもしれない。
でも、たぶん切っても戻ってくる。
そう思ってしまうくらいには、俺の身体はもう信用できない。
見張り扉の前には、死んだ働き蟻の頭が半分挟まっている。外側に崩れた胴体の重みで、扉は押し戻されるでもなく、閉じるでもなく、嫌な角度で止まっていた。床には触角、顎の欠片、黒い体液。赤い非常灯の下で、全部が濡れて見える。
臭い。
鉄と蟻と血と、人間の恐怖の臭い。
「今、やるのか」
久我が低く言った。
俺は壁に手をついて立っていた。右足に体重を乗せると、膝の裏まで針が走る。痛い。痛いけど立てる。立ててしまう。さっき壁を蹴って飛んだ足だ。人間なら痛みで崩れてもおかしくないのに、銀色の線が骨の周りを固めている。
便利だな。
便利すぎて、吐き気がする。
「明日の朝まで待ったら、みんな眠れないだろ」
俺は言った。
声が掠れている。喉が乾く。水が飲みたい。でも水袋に手を伸ばす気になれない。誰かが渡してくれるのも嫌だ。受け取れば、またその手を怖がられるかもしれない。
「俺も眠れない。どうせなら、今決めろよ」
「灰原さん」
朝倉さんの声。
振り向くと、彼女はノートを胸に抱えていた。顔は青い。けれど立っている。怖いくせに、まだ立っている。さっき俺が来るなと怒鳴ったのに、まだこちらを見ている。
その目が、きつい。
見ないでほしい。
でも、見ないでほしくない。
めんどくさいな、俺。
「まだ決める段階ではありません」
「じゃあ、いつならいい?」
「少なくとも、戦闘直後に決めることではありません。痛みも強い。冷感も出ている。判断力が落ちている可能性があります」
「俺の判断力が落ちてるなら、周りの判断力も落ちてるよ」
寝床溜まりの奥で、誰かが小さく息を呑んだ。
俺は続けた。
「蟻が来た。扉が壊れた。俺が動いた。右腕だけじゃなくて足まで変になった。みんな怖い。俺も怖い。そんな状態で朝まで待って、何か良くなるのか?」
「良くします」
朝倉さんは即答した。
その声に、胸が少し詰まる。
やめてくれ。
そんなふうに言わないでくれ。
「朝倉さん一人じゃ無理だよ」
「一人でどうにかするとは言っていません」
「じゃあ誰がいる?」
俺は見回した。
真衣さんは子供達の前で膝をつき、口元を両手で覆っている。さっきまで泣いていた目が、また濡れていた。牧野さんは扉のそばに座り込み、レンチを握ったまま動けない。久我は鉄パイプを持ち、俺を見ている。大槻は少し後ろ。口元には、嫌な勝ちの気配。
陽太は、雨宮さんの腕の中で震えていた。
俺を見ている。
やめろ。
その目は駄目だ。
信じるな。
俺を、そんなふうに見ないでくれ。
「誰がいるんだよ」
俺の声は、自分で思ったより静かだった。
「俺をここに置いたまま、俺を人間扱いして、でも子供には近づけなくて、でも蟻が来たら戦わせる。そんな都合のいいやり方、誰が続ける?」
誰も答えない。
答えられるわけがない。
朝倉さんだけが、唇を噛んでいた。
「私は」
「朝倉さんは、無理する側だろ」
彼女の言葉を切る。
切りたくなかった。
でも、切った。
「それじゃ駄目なんだよ。あんたが無理して俺の隣に立つたびに、周りはもっと怖がる。俺だけじゃなくて、あんたまで浮く」
「それでも」
「それでも、で済む場所じゃない」
ここは病院じゃない。学校でもない。安全な避難所でもない。旧芝浦保守区画。古い配管と薄い鉄扉でかろうじて生きている、湿った地下の穴だ。正しさだけで人を置いておける場所じゃない。
そんなこと、俺が一番言いたくなかった。
でも、分かってしまう。
分かるから、きつい。
「皆さん」
大槻が口を開いた。
来た。
分かっていたのに、腹がむかつく。こいつは本当に、黙るべき時に一番よく喋る。
「灰原さんご本人が、ここまでおっしゃっているんです。これはもう、冷静に受け止めるべきではないですかァァ〜ん」
「大槻」
久我が睨む。
「まだ何も決めていない」
「決めていないからこそ、今話すべきです。見たでしょう? 右腕だけではない。足です。壁を蹴り、跳び、蟻を蹴り返した。本人が止めようとしても止まらない。喰うな、と叫んでいた。あれを見て、まだ寝床溜まりの中に置くんですかァァ〜ん?」
大槻の声は震えていた。
恐怖は本物だ。
けれど、その震えをこいつは武器にする。自分だけの恐怖では弱いから、皆の恐怖を束ねる。束ねて、久我の胸に突きつける。
「子供達の隣に置くんですか? 朝倉さん一人の善意に任せるんですか? 次に寝ている間、あの足が勝手に動いたら? 右腕がまた刃になったら? 灰原さんが悪いと言っているのではありませんよォォ〜。むしろ、本人も苦しんでいる。だからこそ、離すべきです」
うまいな。
気持ち悪いくらいうまい。
俺を責めていない顔で、俺を外へ押し出している。俺が苦しんでいるから、俺を離す。俺が危険だからではなく、俺のためでもある。そういう言い方。
吐きそうだ。
「離すって、どこへですか」
朝倉さんが言った。
声が低い。
「資材置き場ですか。外縁通路ですか。扉の外ですか」
「段階を踏むべきでしょうねェェ〜。まずは資材置き場。扉を一枚挟む。水と毛布は用意する。食事も渡す。人道的です」
「人道的」
朝倉さんが繰り返す。
その響きに、寝床溜まりの空気が少しだけ冷えた。
「人を扉の向こうに置いて、人道的ですか」
「全員が生き残るためです」
「その全員に、灰原さんは入っていますか」
前にも聞いた言葉だ。
久我の顔が、苦く歪む。
大槻は、わざとらしく困った顔をした。
「もちろんですよォォ〜。だから殺せと言っていない。隔離です。安全措置です。言葉を過激にしないでください」
「過激にしているのは、あなたです」
「私は現実を言っているだけです」
「現実なら、灰原さんが今、皆を守ったことも入れてください」
朝倉さんの手が震えている。
ノートの角が、彼女の指に食い込んでいた。
「恐怖だけを現実と言わないでください。助かったことも、灰原さんが痛がっていることも、嫌がっていることも、全部現実です」
「では、あなたが責任を取るんですかァァ〜ん」
大槻が言った。
またその言葉。
責任。
久我の肩がわずかに動いた。牧野さんが目を伏せる。真衣さんが震える。責任という言葉は、ここでは刃に近い。誰も持ちたくない。持てば、誰かの死が自分の手に乗る。
朝倉さんは、すぐには答えなかった。
答えられない。
分かっている。
彼女だって、全員の命なんて背負えない。
「取れません」
朝倉さんは言った。
大槻の口元が緩む。
けれど、彼女は続けた。
「でも、取れない責任を理由に、一人を外へ押し出すことにも反対します」
「理想論ですねェェ〜」
「そうかもしれません」
朝倉さんは俺を見る。
やめろ。
こっちを見るな。
その目で見られると、俺の方が逃げられなくなる。
「でも、怖いから切ることを、正しい判断だと呼びたくありません」
沈黙。
強い言葉だった。
だけど、強い言葉は場を救わない。少なくとも、今は。
大槻が黙った代わりに、他の人達の沈黙が重くなる。真衣さんの震え。千歳さんが子供達を抱く腕。牧野さんの青ざめた顔。扉に挟まった蟻の死骸。俺の右足。全部が、朝倉さんの言葉に反論しているように見えた。
正しい。
でも怖い。
人間は、正しさより怖さで動く。
俺もそうだ。
「芹沢」
久我が言った。
真衣さんがびくりとする。
「お前はどう思う」
「え……」
酷な聞き方だ。
久我も分かっているはずだ。分かっていて、聞く。リーダーだから。皆の意見を聞いたという形が必要だから。
真衣さんは俺を見た。
一瞬だけ。
すぐ逸らした。
その動きだけで、十分だった。
「私は……」
声が震える。
「私は、灰原さんに助けてもらいました。本当に、感謝しています。さっきも、また助けてもらいました」
真衣さんの指が、自分の袖を握る。
「でも……怖いです。すみません。どうしても、怖いです。子供達の近くにいて、大丈夫だって、私は言えません」
泣きそうな声。
責められない。
責められないから、痛い。
「責めてない」
俺は言った。
真衣さんが顔を上げる。
「怖いなら怖いでいいよ。さっき聞いたし」
「灰原さん」
「二回目は慣れる」
嘘だ。
慣れるわけない。
でも、そうでも言わないと、真衣さんの顔が壊れそうだった。俺を怖いと言ったことで、この人は自分を責めている。俺は傷ついた。けれど、彼女も傷ついている。
それが面倒くさい。
誰かが完全に悪ければ楽なのに。
「牧野」
次は牧野さん。
彼はレンチを握ったまま、びくりと肩を跳ねさせた。
「お前は」
「俺、ですか」
「扉を見てた。灰原の動きも見た。どう思う」
牧野さんは眼鏡を押し上げた。ずれていないのに、何度も押す。
「灰原さんは……必要だと思います」
小さな声。
それでも、寝床溜まりに届いた。
久我の眉が動く。大槻が目を細める。朝倉さんが息を止める。
牧野さんは震えながら続けた。
「扉の歪みも、蟻の入り方も、俺より早く見てました。さっきだって、灰原さんが指示しなかったら、たぶん、扉は開いてました。俺だけじゃ、無理でした」
そう言って、彼は俺を見た。
「でも」
来る。
分かっていた。
「でも、怖いです。正直、近くで作業するのも怖い。右腕も、足も、どう動くか分からない。必要なのに、怖い。すみません。俺、それ以上のことが言えません」
牧野さんは頭を下げた。
必要。
でも怖い。
それが一番正確だった。
俺は笑いそうになった。笑ったら、たぶん最低だからやめた。
「十分ですよォォ〜」
大槻が柔らかく言う。
「牧野さんは正直に言ってくださった。必要だが危険。なら、離れた場所にいてもらい、必要な時だけ協力してもらう。それが現実的ではありませんかァァ〜ん」
必要な時だけ。
便利だな、俺。
また、その言葉が胸の中で動いた。
「久我さん」
朝倉さんが言う。
「それは駄目です」
「まだ何も言っていない」
「でも、そういう流れになっています」
久我は何も返さない。
返さないということは、もう半分決まっている。
俺は深く息を吐いた。胸の奥が冷える。右足の銀色が少しだけ脈打つ。疲れた。もう立っているのも面倒だ。
「陽太」
久我が、奥へ視線を向けた。
俺の心臓が嫌な音を立てた。
「やめろ」
思わず言った。
久我が俺を見る。
「子供に聞くな」
「……聞く必要がある」
「ない」
声が低くなる。
右腕の奥が、少し疼いた。怒りに反応したのかもしれない。
「陽太に聞くな。あいつは関係ない」
「関係ある。ここで暮らしている」
「子供だろ」
「子供だからこそだ」
久我の声も低くなった。
分かっている。
久我は子供を守りたい。陽太の意見を聞くというより、陽太を理由に決めたいのかもしれない。いや、違う。久我自身も追い詰められている。何が正しいか分からないから、守るべきものに確認しようとしている。
でも駄目だ。
陽太に、俺を追い出すかどうかなんて背負わせるな。
「陽太」
それでも久我は呼んだ。
雨宮さんの腕の中で、陽太が震えた。小さな顔が毛布の影から出る。目が赤い。泣いたのか、泣くのを我慢しているのか分からない。
「怖いか」
久我が聞く。
陽太は俺を見る。
やめろ。
怖いと言え。
怖いなら、それでいい。
そう言えば、少しは楽になる。
俺も、お前も。
陽太の唇が震えた。
「こわい」
小さな声。
寝床溜まりの空気が、また沈む。
俺は頷いた。
「うん」
それでいい。
それでいいんだ。
なのに、陽太は続けた。
「でも、灰原のお兄ちゃん、いなくなるのも、こわい」
喉が詰まった。
やめろ。
それは駄目だ。
そんなことを言ったら、お前が割れる。周りの大人達が困る。俺も困る。久我も、朝倉さんも、真衣さんも、牧野さんも、誰もその言葉を受け止められない。
陽太は雨宮さんの服を握りしめたまま、泣きそうな顔で言った。
「さっきも、蟻、来た。灰原のお兄ちゃん、前にいた。怖かったけど、前にいた。だから……いなくなるのも、やだ」
小さな声だった。
でも、刺さる。
俺は何も言えなかった。
大槻も一瞬黙った。
久我の顔が歪む。赤い靴でも見たような顔だった。いや、俺はその記憶の中身を知らない。ただ、久我の目が一瞬、ここではないどこかへ落ちたのが分かった。
雨宮さんが陽太を抱きしめる。
「陽太くん、もういい。大丈夫」
「大丈夫じゃない」
陽太は首を振った。
「大丈夫じゃないよ」
誰も言い返せない。
その通りだからだ。
大丈夫じゃない。
旧芝浦は大丈夫じゃない。見張り扉は壊れかけている。蟻は来る。俺の身体も壊れかけている。皆の心も、たぶん少しずつ壊れている。
大丈夫なものなんて、ここには一つもない。
「……陽太」
俺は名前を呼んだ。
陽太がこちらを見る。
「怖いなら、怖がっていい」
「でも」
「いいんだよ」
俺はできるだけ普通に言った。
「俺も怖い。さっきも怖かった。今も怖い。だから、陽太が怖いのは普通だ」
陽太の目から涙がこぼれた。
「じゃあ、行かないで」
その言葉で、胸の中に何かが崩れた。
行かないで。
言われたかったのかもしれない。
誰かに。
ここにいていいと。
怖くても、いていいと。
でも、その言葉を子供に言わせてしまった。
それが、嫌だった。
「ごめん」
俺は言った。
陽太の顔が固まる。
「それは、聞けない」
泣き声が上がった。
陽太が雨宮さんの腕の中で崩れる。雨宮さんが抱きしめる。真衣さんが口元を押さえる。朝倉さんが一歩踏み出す。久我が目を伏せる。
俺は自分の右足を見た。
銀色の線。
こいつがなければ。
右腕がなければ。
右目が普通なら。
いや、違う。
こいつがなければ、陽太は死んでいたかもしれない。真衣さんも。さっきも、みんな死んでいたかもしれない。
だから、余計に最悪だ。
「久我」
俺は言った。
「決めろよ」
「灰原」
「俺が言ってるんだ。決めろ」
久我は俺を見た。
長い沈黙。
久我の顔には、怒りも恐怖もあった。俺への嫉妬も、たぶんまだある。けれどそれ以上に、疲れた男の顔だった。ずっと何かを守ろうとして、守れなくて、それでも守る側に立とうとしている男の顔。
だからこそ、俺を切る。
そういう顔だった。
「資材置き場だ」
久我が言った。
朝倉さんが息を呑む。
「見張り扉の手前、第二資材置き場。扉を一枚挟む。毛布、水、食料、工具を渡す。朝倉の診察は一日二回。牧野が必要な資材を確認する。戦闘時は、俺の判断で呼ぶ」
「久我さん!」
朝倉さんが叫ぶ。
久我は続けた。
「今夜中に移す」
「駄目です!」
「ここには置けない」
「灰原さん本人は、外へ出ると言っています。でもそれは、追い詰められて言っているだけです。戦闘直後で、痛みも」
「分かっている!」
久我の声が跳ねた。
寝床溜まりが震える。
「分かってるんだよ、朝倉! 助けられたことも、灰原が必要なことも、怖がられていることも、陽太が泣いていることも、全部分かってる!」
久我は鉄パイプを握りしめていた。
「それでも、ここには置けない」
朝倉さんが言葉を失う。
久我の声が、低くなる。
「俺は、もう子供を死なせたくない」
それは、叫びではなかった。
前のような爆発でもない。
もっと重い、沈んだ声だった。
朝倉さんの唇が震える。反論が出ない。出せない。彼女は久我の傷を知っているわけではない。それでも、その言葉の底にあるものは分かってしまうのだろう。
俺も、少しだけ分かる。
守れなかったものがある人間の声だ。
「第二資材置き場ね」
俺は言った。
久我がこちらを見る。
「外よりマシだな。壁際より広い?」
「ふざけるな」
「ふざけてないとやってられない」
本音だった。
第二資材置き場。
つまり、まだ完全な外ではない。追放の一歩手前。だけど、寝床溜まりからは出される。人の輪からは離される。扉一枚の向こうへ。
段階を踏む。
大槻の言った通りだ。
俺は大槻を見た。
あいつは満足そうだった。隠しているつもりなのかもしれないが、目に出ている。
「よかったな」
俺は言った。
大槻の眉が動く。
「何がですかァァ〜ん」
「予定通りで」
大槻の笑みが消える。
少しだけ気分がよかった。
ほんの少しだけ。
「灰原さん」
朝倉さんが近づいてきた。
今度は俺も止めなかった。もう止める気力がない。彼女はノートを持っている。目は赤い。泣いてはいない。泣く寸前で踏みとどまっている。
「私は、反対です」
「知ってる」
「記録します」
「それも知ってる」
「これは隔離です。安全措置という名前の隔離です。本人の同意は、追い詰められた状態での同意です」
「うん」
「だから、私は反対します」
「うん」
短く返すことしかできなかった。
ありがとう、と言うと、彼女はもっと傷つく気がした。ごめん、と言うと、俺が崩れる気がした。
だから、言えない。
「診察、来てもらえるんだろ」
「行きます」
「じゃあ、その時に水持ってきて。できれば、変な顔しないで」
「変な顔はします」
「そこはしないって言えよ」
「嘘はつきません」
少しだけ、笑いそうになった。
笑えなかった。
牧野さんが、ゆっくり立ち上がる。
「第二資材置き場、片付けます。床、釘とか落ちてるので。あと、扉の内側、押さえを足さないと」
久我が頷く。
「やれ」
「はい」
牧野さんは俺を見る。
「灰原さん、その……工具、何が要りますか」
「俺に聞くの?」
「はい。分からないので」
その正直さに、少しだけ救われる。
「バール。小さいレンチ。針金。布。水袋。できれば、古いライト」
「分かりました」
「あと、あの曲がった鉄板、捨てるならもらっていい?」
牧野さんが目を瞬かせる。
「使うんですか」
「使えるかもしれない」
久我が俺を見る。
俺は肩をすくめた。
「隔離部屋でも補強はいるだろ。俺、死にたくないし」
誰も笑わない。
まあ、そうだよな。
奥で、陽太がまだ泣いている。
その声を聞かないようにした。
無理だった。
雨宮さんが陽太を抱きしめながら、小さく何かを囁いている。陽太は首を振っていた。何度も。こちらを見ようとして、雨宮さんの腕に止められる。
俺は行かないといけない。
このままここにいたら、陽太はもっと泣く。朝倉さんはもっと反対する。久我はもっと追い詰められる。真衣さんはもっと自分を責める。牧野さんはもっと言えなくなる。
そして大槻は、もっと笑う。
それが嫌だった。
「久我」
「何だ」
「今夜中って言ったな」
「ああ」
「なら早くしよう。蟻の死骸、扉の外に残ってる。臭いでまた来るかもしれない」
久我の顔が変わる。
俺が言うことを、こいつは無視できない。
それが、少しだけ痛快で、かなり虚しかった。
「牧野」
「はいッ」
「扉の応急を急げ。死骸は外に押し出す。灰原の移動はその後だ」
「分かりました」
「俺も手伝う」
俺が言うと、久我が即座に首を振った。
「お前は動くな」
「さっきまで戦わせたくせに?」
久我の顔が歪む。
「……動くな」
「はいはい」
俺は壁に背を預けた。
右足が限界だった。座ると、痛みが一気に来る。奥歯を噛む。声は出さない。声を出したら、朝倉さんが駆け寄ってくる。それは駄目だ。今は駄目だ。
銀色の線は、少しずつ薄くなっていく。
でも消えない。
ふくらはぎの途中に、細い銀の筋が残る。右腕にも。首筋にも。胸の奥にも、冷たい芯がある。
俺はもう、壁際では済まない。
第二資材置き場。
その次は、たぶん外縁通路。
その次は。
考えるな。
今は水と工具だ。
バール。レンチ。針金。布。ライト。曲がった鉄板。
何が使える。
どうすれば死なない。
扉一枚の向こうで、どうやって眠る。
そう考えた方が楽だった。
人の顔を見るより、ずっと。
「灰原のお兄ちゃん!」
陽太の声が飛んだ。
見てしまった。
陽太は雨宮さんの腕をすり抜け、小さな体でこちらへ走ろうとしていた。久我が止めるより早く、雨宮さんが抱き止める。陽太の手には、何か布のようなものが握られていた。
小さな袋。
古い布を結んだだけの、子供の手に収まるくらいの袋。
「これ、持ってって!」
「陽太!」
雨宮さんが止める。
久我も動きかける。
俺はその袋を見た。
何が入っているのかは分からない。食料か。ネジか。壊れた何かか。陽太が俺のために持っていたもの。たぶん、こっそり作っていたもの。
受け取るべきじゃない。
子供から物を奪うな。
そう思う。
でも、陽太の手は震えていた。
「持ってってよ……」
泣き声だった。
俺は動けない。
久我が陽太を見る。袋を見る。俺を見る。
長い沈黙。
それから、久我は低く言った。
「雨宮」
「でも」
「渡させろ」
雨宮さんが息を呑む。
陽太がこちらへ走る。途中で少しよろける。真衣さんが手を伸ばしかけて、止める。陽太は俺の前まで来ると、泣きながら袋を差し出した。
俺は左手で受け取った。
右手では触れなかった。
袋は軽い。
でも、やけに重かった。
「中、しょぼいけど」
陽太が言った。
「灰原のお兄ちゃん、一人になるかもしれないから」
喉が詰まった。
何か言わないといけない。
ありがとう。
ごめん。
大丈夫。
怖がっていい。
俺は死なない。
どれも違う。
だから、俺は袋を握って言った。
「助かる」
陽太の顔が歪んだ。
俺も、たぶん同じ顔をしていた。
久我が陽太の肩を掴み、そっと後ろへ下げる。
「もう戻れ」
「でも」
「戻れ」
陽太は泣きながら雨宮さんの元へ戻った。
俺は袋を膝の上に置く。
布越しに、硬いものがいくつか当たった。小さなネジ。何かの金属片。たぶん、乾いた食べ物の欠片もある。壊れたライトの部品か、透明なプラスチックの感触もした。
こんなもの。
こんな小さなもの。
それなのに、胸の奥の冷たい芯が、ほんの少しだけ薄くなる。
ふざけるな。
俺を人間に戻そうとするな。
また、出ていくのがつらくなる。
「灰原」
久我が言った。
「移動は、扉の応急が終わり次第だ」
「分かった」
「抵抗するな」
「しないよ」
俺は袋を握る。
「俺が出るって言ったんだ」
寝床溜まりの奥で、陽太がまた泣いた。
朝倉さんがノートを開く音がした。
牧野さんが工具を拾う音。
真衣さんのすすり泣き。
大槻の浅い呼吸。
久我の鉄パイプが床を叩く音。
見張り扉の向こうでは、死んだ蟻の脚がまだ少しだけ動いている。
ギチ。
細く、弱く、最後の音。
俺はその音を聞きながら、膝の上の布袋を握りしめた。
追い出されるのは、もう決まった。
扉の外ではない。
まだ、完全な外ではない。
けれど、人の輪の外には、もう出された。
第二資材置き場。
扉一枚の向こう側。
俺の新しい寝床だ。
いや。
寝床なんて呼ぶな。
あれは、ただの一人用の地下牢だ。




