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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

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第12話 追放会議


「壁際より、外の方が広い」


 そう言った瞬間、寝床溜まりの空気が死んだ。


 誰も笑わない。

 当たり前だ。

 俺だって、面白いと思って言ったわけじゃない。


 右足首がまだ冷たい。ズボンの裾の下で、銀色の線がぬるく光っているのが分かる。足首からふくらはぎへ。さっきより伸びている。右腕は人間の形に戻っているが、指の隙間にはまだ黒い蟻の体液が残っていた。洗いたい。削り落としたい。腕ごと切り落とせたら楽かもしれない。


 でも、たぶん切っても戻ってくる。


 そう思ってしまうくらいには、俺の身体はもう信用できない。


 見張り扉の前には、死んだ働き蟻の頭が半分挟まっている。外側に崩れた胴体の重みで、扉は押し戻されるでもなく、閉じるでもなく、嫌な角度で止まっていた。床には触角、顎の欠片、黒い体液。赤い非常灯の下で、全部が濡れて見える。


 臭い。


 鉄と蟻と血と、人間の恐怖の臭い。


「今、やるのか」


 久我が低く言った。


 俺は壁に手をついて立っていた。右足に体重を乗せると、膝の裏まで針が走る。痛い。痛いけど立てる。立ててしまう。さっき壁を蹴って飛んだ足だ。人間なら痛みで崩れてもおかしくないのに、銀色の線が骨の周りを固めている。


 便利だな。


 便利すぎて、吐き気がする。


「明日の朝まで待ったら、みんな眠れないだろ」


 俺は言った。


 声が掠れている。喉が乾く。水が飲みたい。でも水袋に手を伸ばす気になれない。誰かが渡してくれるのも嫌だ。受け取れば、またその手を怖がられるかもしれない。


「俺も眠れない。どうせなら、今決めろよ」


「灰原さん」


 朝倉さんの声。


 振り向くと、彼女はノートを胸に抱えていた。顔は青い。けれど立っている。怖いくせに、まだ立っている。さっき俺が来るなと怒鳴ったのに、まだこちらを見ている。


 その目が、きつい。


 見ないでほしい。

 でも、見ないでほしくない。


 めんどくさいな、俺。


「まだ決める段階ではありません」


「じゃあ、いつならいい?」


「少なくとも、戦闘直後に決めることではありません。痛みも強い。冷感も出ている。判断力が落ちている可能性があります」


「俺の判断力が落ちてるなら、周りの判断力も落ちてるよ」


 寝床溜まりの奥で、誰かが小さく息を呑んだ。


 俺は続けた。


「蟻が来た。扉が壊れた。俺が動いた。右腕だけじゃなくて足まで変になった。みんな怖い。俺も怖い。そんな状態で朝まで待って、何か良くなるのか?」


「良くします」


 朝倉さんは即答した。


 その声に、胸が少し詰まる。


 やめてくれ。


 そんなふうに言わないでくれ。


「朝倉さん一人じゃ無理だよ」


「一人でどうにかするとは言っていません」


「じゃあ誰がいる?」


 俺は見回した。


 真衣さんは子供達の前で膝をつき、口元を両手で覆っている。さっきまで泣いていた目が、また濡れていた。牧野さんは扉のそばに座り込み、レンチを握ったまま動けない。久我は鉄パイプを持ち、俺を見ている。大槻は少し後ろ。口元には、嫌な勝ちの気配。


 陽太は、雨宮さんの腕の中で震えていた。


 俺を見ている。


 やめろ。


 その目は駄目だ。

 信じるな。

 俺を、そんなふうに見ないでくれ。


「誰がいるんだよ」


 俺の声は、自分で思ったより静かだった。


「俺をここに置いたまま、俺を人間扱いして、でも子供には近づけなくて、でも蟻が来たら戦わせる。そんな都合のいいやり方、誰が続ける?」


 誰も答えない。


 答えられるわけがない。


 朝倉さんだけが、唇を噛んでいた。


「私は」


「朝倉さんは、無理する側だろ」


 彼女の言葉を切る。


 切りたくなかった。

 でも、切った。


「それじゃ駄目なんだよ。あんたが無理して俺の隣に立つたびに、周りはもっと怖がる。俺だけじゃなくて、あんたまで浮く」


「それでも」


「それでも、で済む場所じゃない」


 ここは病院じゃない。学校でもない。安全な避難所でもない。旧芝浦保守区画。古い配管と薄い鉄扉でかろうじて生きている、湿った地下の穴だ。正しさだけで人を置いておける場所じゃない。


 そんなこと、俺が一番言いたくなかった。


 でも、分かってしまう。


 分かるから、きつい。


「皆さん」


 大槻が口を開いた。


 来た。


 分かっていたのに、腹がむかつく。こいつは本当に、黙るべき時に一番よく喋る。


「灰原さんご本人が、ここまでおっしゃっているんです。これはもう、冷静に受け止めるべきではないですかァァ〜ん」


「大槻」


 久我が睨む。


「まだ何も決めていない」


「決めていないからこそ、今話すべきです。見たでしょう? 右腕だけではない。足です。壁を蹴り、跳び、蟻を蹴り返した。本人が止めようとしても止まらない。喰うな、と叫んでいた。あれを見て、まだ寝床溜まりの中に置くんですかァァ〜ん?」


 大槻の声は震えていた。


 恐怖は本物だ。


 けれど、その震えをこいつは武器にする。自分だけの恐怖では弱いから、皆の恐怖を束ねる。束ねて、久我の胸に突きつける。


「子供達の隣に置くんですか? 朝倉さん一人の善意に任せるんですか? 次に寝ている間、あの足が勝手に動いたら? 右腕がまた刃になったら? 灰原さんが悪いと言っているのではありませんよォォ〜。むしろ、本人も苦しんでいる。だからこそ、離すべきです」


 うまいな。


 気持ち悪いくらいうまい。


 俺を責めていない顔で、俺を外へ押し出している。俺が苦しんでいるから、俺を離す。俺が危険だからではなく、俺のためでもある。そういう言い方。


 吐きそうだ。


「離すって、どこへですか」


 朝倉さんが言った。


 声が低い。


「資材置き場ですか。外縁通路ですか。扉の外ですか」


「段階を踏むべきでしょうねェェ〜。まずは資材置き場。扉を一枚挟む。水と毛布は用意する。食事も渡す。人道的です」


「人道的」


 朝倉さんが繰り返す。


 その響きに、寝床溜まりの空気が少しだけ冷えた。


「人を扉の向こうに置いて、人道的ですか」


「全員が生き残るためです」


「その全員に、灰原さんは入っていますか」


 前にも聞いた言葉だ。


 久我の顔が、苦く歪む。


 大槻は、わざとらしく困った顔をした。


「もちろんですよォォ〜。だから殺せと言っていない。隔離です。安全措置です。言葉を過激にしないでください」


「過激にしているのは、あなたです」


「私は現実を言っているだけです」


「現実なら、灰原さんが今、皆を守ったことも入れてください」


 朝倉さんの手が震えている。


 ノートの角が、彼女の指に食い込んでいた。


「恐怖だけを現実と言わないでください。助かったことも、灰原さんが痛がっていることも、嫌がっていることも、全部現実です」


「では、あなたが責任を取るんですかァァ〜ん」


 大槻が言った。


 またその言葉。


 責任。


 久我の肩がわずかに動いた。牧野さんが目を伏せる。真衣さんが震える。責任という言葉は、ここでは刃に近い。誰も持ちたくない。持てば、誰かの死が自分の手に乗る。


 朝倉さんは、すぐには答えなかった。


 答えられない。


 分かっている。


 彼女だって、全員の命なんて背負えない。


「取れません」


 朝倉さんは言った。


 大槻の口元が緩む。


 けれど、彼女は続けた。


「でも、取れない責任を理由に、一人を外へ押し出すことにも反対します」


「理想論ですねェェ〜」


「そうかもしれません」


 朝倉さんは俺を見る。


 やめろ。


 こっちを見るな。


 その目で見られると、俺の方が逃げられなくなる。


「でも、怖いから切ることを、正しい判断だと呼びたくありません」


 沈黙。


 強い言葉だった。


 だけど、強い言葉は場を救わない。少なくとも、今は。


 大槻が黙った代わりに、他の人達の沈黙が重くなる。真衣さんの震え。千歳さんが子供達を抱く腕。牧野さんの青ざめた顔。扉に挟まった蟻の死骸。俺の右足。全部が、朝倉さんの言葉に反論しているように見えた。


 正しい。


 でも怖い。


 人間は、正しさより怖さで動く。


 俺もそうだ。


「芹沢」


 久我が言った。


 真衣さんがびくりとする。


「お前はどう思う」


「え……」


 酷な聞き方だ。


 久我も分かっているはずだ。分かっていて、聞く。リーダーだから。皆の意見を聞いたという形が必要だから。


 真衣さんは俺を見た。


 一瞬だけ。


 すぐ逸らした。


 その動きだけで、十分だった。


「私は……」


 声が震える。


「私は、灰原さんに助けてもらいました。本当に、感謝しています。さっきも、また助けてもらいました」


 真衣さんの指が、自分の袖を握る。


「でも……怖いです。すみません。どうしても、怖いです。子供達の近くにいて、大丈夫だって、私は言えません」


 泣きそうな声。


 責められない。


 責められないから、痛い。


「責めてない」


 俺は言った。


 真衣さんが顔を上げる。


「怖いなら怖いでいいよ。さっき聞いたし」


「灰原さん」


「二回目は慣れる」


 嘘だ。


 慣れるわけない。


 でも、そうでも言わないと、真衣さんの顔が壊れそうだった。俺を怖いと言ったことで、この人は自分を責めている。俺は傷ついた。けれど、彼女も傷ついている。


 それが面倒くさい。


 誰かが完全に悪ければ楽なのに。


「牧野」


 次は牧野さん。


 彼はレンチを握ったまま、びくりと肩を跳ねさせた。


「お前は」


「俺、ですか」


「扉を見てた。灰原の動きも見た。どう思う」


 牧野さんは眼鏡を押し上げた。ずれていないのに、何度も押す。


「灰原さんは……必要だと思います」


 小さな声。


 それでも、寝床溜まりに届いた。


 久我の眉が動く。大槻が目を細める。朝倉さんが息を止める。


 牧野さんは震えながら続けた。


「扉の歪みも、蟻の入り方も、俺より早く見てました。さっきだって、灰原さんが指示しなかったら、たぶん、扉は開いてました。俺だけじゃ、無理でした」


 そう言って、彼は俺を見た。


「でも」


 来る。


 分かっていた。


「でも、怖いです。正直、近くで作業するのも怖い。右腕も、足も、どう動くか分からない。必要なのに、怖い。すみません。俺、それ以上のことが言えません」


 牧野さんは頭を下げた。


 必要。

 でも怖い。


 それが一番正確だった。


 俺は笑いそうになった。笑ったら、たぶん最低だからやめた。


「十分ですよォォ〜」


 大槻が柔らかく言う。


「牧野さんは正直に言ってくださった。必要だが危険。なら、離れた場所にいてもらい、必要な時だけ協力してもらう。それが現実的ではありませんかァァ〜ん」


 必要な時だけ。


 便利だな、俺。


 また、その言葉が胸の中で動いた。


「久我さん」


 朝倉さんが言う。


「それは駄目です」


「まだ何も言っていない」


「でも、そういう流れになっています」


 久我は何も返さない。


 返さないということは、もう半分決まっている。


 俺は深く息を吐いた。胸の奥が冷える。右足の銀色が少しだけ脈打つ。疲れた。もう立っているのも面倒だ。


「陽太」


 久我が、奥へ視線を向けた。


 俺の心臓が嫌な音を立てた。


「やめろ」


 思わず言った。


 久我が俺を見る。


「子供に聞くな」


「……聞く必要がある」


「ない」


 声が低くなる。


 右腕の奥が、少し疼いた。怒りに反応したのかもしれない。


「陽太に聞くな。あいつは関係ない」


「関係ある。ここで暮らしている」


「子供だろ」


「子供だからこそだ」


 久我の声も低くなった。


 分かっている。


 久我は子供を守りたい。陽太の意見を聞くというより、陽太を理由に決めたいのかもしれない。いや、違う。久我自身も追い詰められている。何が正しいか分からないから、守るべきものに確認しようとしている。


 でも駄目だ。


 陽太に、俺を追い出すかどうかなんて背負わせるな。


「陽太」


 それでも久我は呼んだ。


 雨宮さんの腕の中で、陽太が震えた。小さな顔が毛布の影から出る。目が赤い。泣いたのか、泣くのを我慢しているのか分からない。


「怖いか」


 久我が聞く。


 陽太は俺を見る。


 やめろ。


 怖いと言え。

 怖いなら、それでいい。

 そう言えば、少しは楽になる。

 俺も、お前も。


 陽太の唇が震えた。


「こわい」


 小さな声。


 寝床溜まりの空気が、また沈む。


 俺は頷いた。


「うん」


 それでいい。


 それでいいんだ。


 なのに、陽太は続けた。


「でも、灰原のお兄ちゃん、いなくなるのも、こわい」


 喉が詰まった。


 やめろ。


 それは駄目だ。


 そんなことを言ったら、お前が割れる。周りの大人達が困る。俺も困る。久我も、朝倉さんも、真衣さんも、牧野さんも、誰もその言葉を受け止められない。


 陽太は雨宮さんの服を握りしめたまま、泣きそうな顔で言った。


「さっきも、蟻、来た。灰原のお兄ちゃん、前にいた。怖かったけど、前にいた。だから……いなくなるのも、やだ」


 小さな声だった。


 でも、刺さる。


 俺は何も言えなかった。


 大槻も一瞬黙った。


 久我の顔が歪む。赤い靴でも見たような顔だった。いや、俺はその記憶の中身を知らない。ただ、久我の目が一瞬、ここではないどこかへ落ちたのが分かった。


 雨宮さんが陽太を抱きしめる。


「陽太くん、もういい。大丈夫」


「大丈夫じゃない」


 陽太は首を振った。


「大丈夫じゃないよ」


 誰も言い返せない。


 その通りだからだ。


 大丈夫じゃない。


 旧芝浦は大丈夫じゃない。見張り扉は壊れかけている。蟻は来る。俺の身体も壊れかけている。皆の心も、たぶん少しずつ壊れている。


 大丈夫なものなんて、ここには一つもない。


「……陽太」


 俺は名前を呼んだ。


 陽太がこちらを見る。


「怖いなら、怖がっていい」


「でも」


「いいんだよ」


 俺はできるだけ普通に言った。


「俺も怖い。さっきも怖かった。今も怖い。だから、陽太が怖いのは普通だ」


 陽太の目から涙がこぼれた。


「じゃあ、行かないで」


 その言葉で、胸の中に何かが崩れた。


 行かないで。


 言われたかったのかもしれない。

 誰かに。

 ここにいていいと。

 怖くても、いていいと。


 でも、その言葉を子供に言わせてしまった。


 それが、嫌だった。


「ごめん」


 俺は言った。


 陽太の顔が固まる。


「それは、聞けない」


 泣き声が上がった。


 陽太が雨宮さんの腕の中で崩れる。雨宮さんが抱きしめる。真衣さんが口元を押さえる。朝倉さんが一歩踏み出す。久我が目を伏せる。


 俺は自分の右足を見た。


 銀色の線。


 こいつがなければ。

 右腕がなければ。

 右目が普通なら。


 いや、違う。


 こいつがなければ、陽太は死んでいたかもしれない。真衣さんも。さっきも、みんな死んでいたかもしれない。


 だから、余計に最悪だ。


「久我」


 俺は言った。


「決めろよ」


「灰原」


「俺が言ってるんだ。決めろ」


 久我は俺を見た。


 長い沈黙。


 久我の顔には、怒りも恐怖もあった。俺への嫉妬も、たぶんまだある。けれどそれ以上に、疲れた男の顔だった。ずっと何かを守ろうとして、守れなくて、それでも守る側に立とうとしている男の顔。


 だからこそ、俺を切る。


 そういう顔だった。


「資材置き場だ」


 久我が言った。


 朝倉さんが息を呑む。


「見張り扉の手前、第二資材置き場。扉を一枚挟む。毛布、水、食料、工具を渡す。朝倉の診察は一日二回。牧野が必要な資材を確認する。戦闘時は、俺の判断で呼ぶ」


「久我さん!」


 朝倉さんが叫ぶ。


 久我は続けた。


「今夜中に移す」


「駄目です!」


「ここには置けない」


「灰原さん本人は、外へ出ると言っています。でもそれは、追い詰められて言っているだけです。戦闘直後で、痛みも」


「分かっている!」


 久我の声が跳ねた。


 寝床溜まりが震える。


「分かってるんだよ、朝倉! 助けられたことも、灰原が必要なことも、怖がられていることも、陽太が泣いていることも、全部分かってる!」


 久我は鉄パイプを握りしめていた。


「それでも、ここには置けない」


 朝倉さんが言葉を失う。


 久我の声が、低くなる。


「俺は、もう子供を死なせたくない」


 それは、叫びではなかった。


 前のような爆発でもない。

 もっと重い、沈んだ声だった。


 朝倉さんの唇が震える。反論が出ない。出せない。彼女は久我の傷を知っているわけではない。それでも、その言葉の底にあるものは分かってしまうのだろう。


 俺も、少しだけ分かる。


 守れなかったものがある人間の声だ。


「第二資材置き場ね」


 俺は言った。


 久我がこちらを見る。


「外よりマシだな。壁際より広い?」


「ふざけるな」


「ふざけてないとやってられない」


 本音だった。


 第二資材置き場。

 つまり、まだ完全な外ではない。追放の一歩手前。だけど、寝床溜まりからは出される。人の輪からは離される。扉一枚の向こうへ。


 段階を踏む。

 大槻の言った通りだ。


 俺は大槻を見た。


 あいつは満足そうだった。隠しているつもりなのかもしれないが、目に出ている。


「よかったな」


 俺は言った。


 大槻の眉が動く。


「何がですかァァ〜ん」


「予定通りで」


 大槻の笑みが消える。


 少しだけ気分がよかった。


 ほんの少しだけ。


「灰原さん」


 朝倉さんが近づいてきた。


 今度は俺も止めなかった。もう止める気力がない。彼女はノートを持っている。目は赤い。泣いてはいない。泣く寸前で踏みとどまっている。


「私は、反対です」


「知ってる」


「記録します」


「それも知ってる」


「これは隔離です。安全措置という名前の隔離です。本人の同意は、追い詰められた状態での同意です」


「うん」


「だから、私は反対します」


「うん」


 短く返すことしかできなかった。


 ありがとう、と言うと、彼女はもっと傷つく気がした。ごめん、と言うと、俺が崩れる気がした。


 だから、言えない。


「診察、来てもらえるんだろ」


「行きます」


「じゃあ、その時に水持ってきて。できれば、変な顔しないで」


「変な顔はします」


「そこはしないって言えよ」


「嘘はつきません」


 少しだけ、笑いそうになった。


 笑えなかった。


 牧野さんが、ゆっくり立ち上がる。


「第二資材置き場、片付けます。床、釘とか落ちてるので。あと、扉の内側、押さえを足さないと」


 久我が頷く。


「やれ」


「はい」


 牧野さんは俺を見る。


「灰原さん、その……工具、何が要りますか」


「俺に聞くの?」


「はい。分からないので」


 その正直さに、少しだけ救われる。


「バール。小さいレンチ。針金。布。水袋。できれば、古いライト」


「分かりました」


「あと、あの曲がった鉄板、捨てるならもらっていい?」


 牧野さんが目を瞬かせる。


「使うんですか」


「使えるかもしれない」


 久我が俺を見る。


 俺は肩をすくめた。


「隔離部屋でも補強はいるだろ。俺、死にたくないし」


 誰も笑わない。


 まあ、そうだよな。


 奥で、陽太がまだ泣いている。


 その声を聞かないようにした。


 無理だった。


 雨宮さんが陽太を抱きしめながら、小さく何かを囁いている。陽太は首を振っていた。何度も。こちらを見ようとして、雨宮さんの腕に止められる。


 俺は行かないといけない。


 このままここにいたら、陽太はもっと泣く。朝倉さんはもっと反対する。久我はもっと追い詰められる。真衣さんはもっと自分を責める。牧野さんはもっと言えなくなる。


 そして大槻は、もっと笑う。


 それが嫌だった。


「久我」


「何だ」


「今夜中って言ったな」


「ああ」


「なら早くしよう。蟻の死骸、扉の外に残ってる。臭いでまた来るかもしれない」


 久我の顔が変わる。


 俺が言うことを、こいつは無視できない。

 それが、少しだけ痛快で、かなり虚しかった。


「牧野」


「はいッ」


「扉の応急を急げ。死骸は外に押し出す。灰原の移動はその後だ」


「分かりました」


「俺も手伝う」


 俺が言うと、久我が即座に首を振った。


「お前は動くな」


「さっきまで戦わせたくせに?」


 久我の顔が歪む。


「……動くな」


「はいはい」


 俺は壁に背を預けた。


 右足が限界だった。座ると、痛みが一気に来る。奥歯を噛む。声は出さない。声を出したら、朝倉さんが駆け寄ってくる。それは駄目だ。今は駄目だ。


 銀色の線は、少しずつ薄くなっていく。


 でも消えない。


 ふくらはぎの途中に、細い銀の筋が残る。右腕にも。首筋にも。胸の奥にも、冷たい芯がある。


 俺はもう、壁際では済まない。


 第二資材置き場。

 その次は、たぶん外縁通路。

 その次は。


 考えるな。


 今は水と工具だ。

 バール。レンチ。針金。布。ライト。曲がった鉄板。

 何が使える。

 どうすれば死なない。

 扉一枚の向こうで、どうやって眠る。


 そう考えた方が楽だった。


 人の顔を見るより、ずっと。


「灰原のお兄ちゃん!」


 陽太の声が飛んだ。


 見てしまった。


 陽太は雨宮さんの腕をすり抜け、小さな体でこちらへ走ろうとしていた。久我が止めるより早く、雨宮さんが抱き止める。陽太の手には、何か布のようなものが握られていた。


 小さな袋。


 古い布を結んだだけの、子供の手に収まるくらいの袋。


「これ、持ってって!」


「陽太!」


 雨宮さんが止める。


 久我も動きかける。


 俺はその袋を見た。


 何が入っているのかは分からない。食料か。ネジか。壊れた何かか。陽太が俺のために持っていたもの。たぶん、こっそり作っていたもの。


 受け取るべきじゃない。


 子供から物を奪うな。

 そう思う。


 でも、陽太の手は震えていた。


「持ってってよ……」


 泣き声だった。


 俺は動けない。


 久我が陽太を見る。袋を見る。俺を見る。


 長い沈黙。


 それから、久我は低く言った。


「雨宮」


「でも」


「渡させろ」


 雨宮さんが息を呑む。


 陽太がこちらへ走る。途中で少しよろける。真衣さんが手を伸ばしかけて、止める。陽太は俺の前まで来ると、泣きながら袋を差し出した。


 俺は左手で受け取った。


 右手では触れなかった。


 袋は軽い。


 でも、やけに重かった。


「中、しょぼいけど」


 陽太が言った。


「灰原のお兄ちゃん、一人になるかもしれないから」


 喉が詰まった。


 何か言わないといけない。


 ありがとう。

 ごめん。

 大丈夫。

 怖がっていい。

 俺は死なない。


 どれも違う。


 だから、俺は袋を握って言った。


「助かる」


 陽太の顔が歪んだ。


 俺も、たぶん同じ顔をしていた。


 久我が陽太の肩を掴み、そっと後ろへ下げる。


「もう戻れ」


「でも」


「戻れ」


 陽太は泣きながら雨宮さんの元へ戻った。


 俺は袋を膝の上に置く。


 布越しに、硬いものがいくつか当たった。小さなネジ。何かの金属片。たぶん、乾いた食べ物の欠片もある。壊れたライトの部品か、透明なプラスチックの感触もした。


 こんなもの。


 こんな小さなもの。


 それなのに、胸の奥の冷たい芯が、ほんの少しだけ薄くなる。


 ふざけるな。


 俺を人間に戻そうとするな。


 また、出ていくのがつらくなる。


「灰原」


 久我が言った。


「移動は、扉の応急が終わり次第だ」


「分かった」


「抵抗するな」


「しないよ」


 俺は袋を握る。


「俺が出るって言ったんだ」


 寝床溜まりの奥で、陽太がまた泣いた。


 朝倉さんがノートを開く音がした。

 牧野さんが工具を拾う音。

 真衣さんのすすり泣き。

 大槻の浅い呼吸。

 久我の鉄パイプが床を叩く音。


 見張り扉の向こうでは、死んだ蟻の脚がまだ少しだけ動いている。


 ギチ。


 細く、弱く、最後の音。


 俺はその音を聞きながら、膝の上の布袋を握りしめた。


 追い出されるのは、もう決まった。


 扉の外ではない。

 まだ、完全な外ではない。


 けれど、人の輪の外には、もう出された。


 第二資材置き場。

 扉一枚の向こう側。


 俺の新しい寝床だ。


 いや。


 寝床なんて呼ぶな。


 あれは、ただの一人用の地下牢だ。

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