第13話 地上から来た男
第二資材置き場へ移る準備は、思ったより静かに進んだ。
いや、静かなはずがない。
見張り扉の前では、牧野さんが半泣きで補強を続けている。久我は鉄パイプを持ったまま、誰かに指示を飛ばしている。真衣さんは子供達を奥へ下げ、雨宮さんは泣き疲れた陽太を抱えている。朝倉さんは俺の右足を見ながら、ノートに何かを書いていた。大槻は少し離れた場所で、まるで自分は最初から正しかったという顔をしている。
静かではない。
でも、俺の周りだけが変に静かだった。
誰も近づかない。
誰も話しかけない。
話しかけるとしても、朝倉さんか牧野さんだけ。
俺は壁に背を預けたまま、陽太から受け取った小さな布袋を握っていた。中には、食料の欠片らしい固いもの。小さなネジが二つか三つ。何かの透明な破片。壊れたライトの部品かもしれない。布越しに指で探るだけで、少しだけ胸が詰まる。
持ってってよ。
陽太の声が、まだ耳に残っている。
やめろ。
そんなの残すな。
俺は出ていく側だ。ここに残る人間じゃない。第二資材置き場だろうが、外縁通路だろうが、扉の向こうへ移されるのは決まった。人の輪の外へ出るのも、もう決まっている。
だから、軽くしてくれ。
恨めるくらいに。
笑えるくらいに。
捨てられたとだけ思えるくらいに。
なのに、陽太の袋が膝の上にある。
重い。
こんな小さな布袋が、鉄板より重い。
「灰原さん」
朝倉さんが近づいてきた。
俺は思わず右手を隠す。もう刃ではない。ただの手だ。少なくとも見た目は。でも、指の隙間に銀色の筋が残っている。爪の下には黒い蟻の体液。洗えば落ちるかもしれない。落ちないかもしれない。
「右足、まだ痛みますか」
「痛い」
「冷たさは」
「ある」
「範囲は」
「足首から膝の下くらい。さっきよりは薄くなった。でも消えてない」
朝倉さんは頷き、ノートに書く。
書かれることに慣れてきた自分が嫌だった。
人間として記録されているのか。
危険物として記録されているのか。
たぶん、どちらでもある。
「第二資材置き場へ移る前に、もう一度処置をします」
「処置って言っても、何するの」
「左手の傷を洗います」
「ああ」
忘れていた。
斥候蟻の顎を掴んだ左手は、裂けていた。普通ならもっと痛いはずなのに、右足と右腕の方が気持ち悪すぎて、左手の痛みが後回しになっていた。最悪だ。まともな傷の方が後回しになる身体って何だよ。
「あと、体温を」
朝倉さんが言いかけた時だった。
見張り扉の外で、金属を引きずる音がした。
ガリッ。
寝床溜まりの全員が止まる。
牧野さんがレンチを落としかけた。久我が鉄パイプを構える。真衣さんが子供達を抱き寄せる。大槻が一歩下がる。朝倉さんの手が、ノートの上で止まった。
俺の右目が、勝手に扉を見る。
蟻じゃない。
いや、蟻もいる。
外縁通路の奥から、重い脚音。濡れた床を叩く硬い音。普通の働き蟻より低い。遅い。だが、一歩ごとの圧が違う。
強い。
その手前に、別の足音があった。
人間。
走っている。
引きずっている。
金属。
血。
焦げた酸の臭い。
「……人がいる」
俺が言うと、久我がこちらを見た。
「外にか」
「人間の足音。近い。後ろから蟻も来てる」
「何だと」
次の瞬間、扉の向こうから声が響いた。
「開けろ開けろ開けろ! 人間や! 蟻ちゃうわ!」
聞き慣れない声。
男。
関西弁。
妙に必死なのに、言い方だけ少し軽い。
「開けろ言うてるやろ! 後ろにでっかいの来とんねん! ほんまに死ぬ! いや、死ぬのは嫌や!」
寝床溜まりがざわめく。
「人間……?」
「地上から?」
「罠じゃないのか」
久我は扉に近づきすぎない位置で止まった。
「名前を言え!」
「名前ぇ!? 今それ聞く!? 黒川! 黒川蓮司や! ええから開けろ! あと五秒で俺、蟻の餌や!」
黒川蓮司。
知らない名前だ。
当然だ。知らない人間なんて、もういくらでもいる。というか、地上を彷徨って地下へ逃げ込む人間がまだいることの方が驚きだった。
右目が痛む。
蟻の足音が近い。
黒川という男の足音は乱れている。片足を庇っているのか。背中か腰に金属の長物。あと、丸い何かがいくつかぶら下がっている。臭い。焦げた酸。乾いた灰。蟻の体液とは違うが、近い嫌な臭い。
「久我」
俺は言った。
「開けたら一緒に入ってくるかもしれない」
「分かってる」
「でも開けないと、そいつは死ぬ」
「それも分かってる」
久我の顔が歪む。
判断。
また判断だ。
久我はいつも、誰かを入れるか切るか選ばされる。俺を壁際へ置いた時と同じ顔をしていた。守るために切る顔。切った後で自分を責める顔。
扉の向こうで、男が叫ぶ。
「ちょ、ほんま、相談してる場合ちゃう! 来た来た来た来た! 足音で分かるやろ!? おるんやろ、中に耳ええ奴!」
俺のことか。
腹が立つ前に、蟻の足音が一気に近づいた。
ギチ。
重い。
扉の向こうで、黒川が何かを床に叩きつける音がした。
バコンッ。
直後、強烈な臭いが隙間から流れ込んできた。
「うっ」
誰かが咳き込む。
酸っぱい。焦げ臭い。濡れたコンクリートと焼けた布と、蟻の死骸を乾かして砕いたような臭い。人間でもきつい。鼻の奥が焼ける。目が痛い。
だが、扉の向こうの蟻の足音が止まった。
止まった?
俺の右目が、向こう側の動きを拾う。触角が乱れている。床を探る。進路を見失ったみたいに、前脚が止まる。完全に止まったわけじゃない。一瞬だ。長くはない。
でも、止まった。
「今や! 開けろ! 臭玉は長持ちせん!」
黒川が叫ぶ。
久我が歯を食いしばる。
「牧野、扉を少しだけ開けろ! 人間だけ通す!」
「は、はいッ!」
「俺も行く」
そう言って立とうとした瞬間、右足に激痛が走った。
「っ」
膝が折れる。
朝倉さんが腕を掴んだ。
「動かないでください」
「でも」
「今の足で前に出たら、本当に壊れます」
「もう壊れてるだろ」
「それでもです」
朝倉さんの声が硬い。
その間に、久我と牧野さんが扉を動かす。歪んだ鉄板がギィ、と鳴る。隙間がわずかに開く。そこへ、人影が転がり込んできた。
男だった。
年は三十前後。髪は伸び放題で、煤と汗で黒く固まっている。頬はこけ、唇は切れていた。服は何枚も重ね着しているが、どれも酸で焼けたり破れたりしている。背中には、短槍とバールを無理やり合わせたような金属棒。腰には布で巻いた丸い缶が三つ。片腕には汚れた布。肩のあたりは蟻酸で焼けたように赤黒い。
そいつは床を転がって、すぐに上半身を起こした。
「閉めろ閉めろ閉めろ! はよ!」
久我と牧野さんが扉を押す。
だが、その前に、太い触角が隙間へ滑り込んだ。
普通の働き蟻より太い。節が黒く硬い。触角の先が床を叩くたび、濡れた音がする。
俺の右腕が疼く。
やめろ。
今は動くな。
黒川蓮司は、床に座ったまま腰の丸い缶を掴んだ。
「鼻つまめ! いや、触角ないなら意味ないけど、気分や!」
「何を」
久我が言い終わる前に、黒川は缶を扉の隙間へ投げつけた。
バコンッ。
缶が割れ、灰色の粉が弾けた。
臭いが爆ぜる。
蟻酸で焼けたコンクリート。焦げた布。乾いた体液。死んだ場所の臭い。人間の鼻にはただ最悪な刺激臭だが、蟻の触角には別の意味で刺さったらしい。触角がびくりと跳ね、隙間から一瞬引っ込む。
「今や!」
黒川が叫ぶ。
久我が鉄パイプで触角を払い、牧野さんが扉を押す。ギィイ、と軋む音。扉は完全には閉じない。歪んだままだ。だが、触角の侵入は止まった。
その瞬間、外側から何かが扉へぶつかった。
ドンッ。
寝床溜まり全体が揺れる。
子供達が叫ぶ。真衣さんが悲鳴を飲み込む。大槻が「ひぃ」と情けない声を漏らす。
黒川が舌打ちした。
「あかん。臭玉だけやと止まらん。あいつ、強いやつや」
「強いって何だ」
久我が言う。
「俺も知りたいわ! 地上で三日追われとんねん! しつこすぎるやろ、普通諦めるやん!」
「蟻に普通を求めるな」
俺が言うと、黒川がこっちを見た。
目が合う。
黒川の視線が、俺の右目で止まる。次に右腕。首筋。ズボンの裾から見える右足の銀色。
普通なら、そこで身構える。
黒川は違った。
「うわ」
顔をしかめる。
「兄ちゃん、えらいことなってんな」
「初対面でそれ言う?」
「ほな何て言うねん。おしゃれやな、でええんか?」
「最悪だな」
「せやろ。俺も今そう思ってた」
軽い。
やけに軽い。
この状況で、俺の右目を見て逃げない。怖がっていないわけではない。目の奥はちゃんと怯えている。けれど、怯えを喋りで誤魔化している。
変な男だ。
黒川は背中の金属棒を引き抜いた。
短槍。
いや、槍というには雑だ。鉄筋の先に斜めに削った鋼材をくくりつけ、返しのような金属片がついている。グリップには布が巻かれていた。あちこち焦げ、先端には黒い体液の跡。
「槍か」
久我が聞く。
「蟻裂き槍や」
黒川は息を吐いた。
「名前は今つけた」
「ふざけているのか」
「ふざけな死ぬやろ、こんな世界」
ドンッ。
また扉が揺れる。
黒川の顔から軽さが消えた。
「ええか、正面から殻を割ろうとすな。無理や。人間の腕力で勝てる相手ちゃう。狙うんは関節、顎の根元、脚の付け根。あと臭玉で触角を迷わせる。止まった一瞬に差し込んで、てこの原理で裂く」
「説明は後だ」
久我が鉄パイプを握る。
「今どうする」
「今やる」
黒川は立ち上がろうとして、少しふらついた。片足を庇っている。地上を三日追われたというのは、嘘ではなさそうだった。
俺は壁から手を離しかける。
朝倉さんの手が、すぐに俺の腕を掴んだ。
「灰原さん」
「分かってる」
「分かっていません」
「分かってるって」
でも、右腕が疼く。
強い蟻。
扉の向こうにいるやつは、さっきの働き蟻とは違う。外殻が厚い。脚の配置が低い。頭が大きい。顎の音が鈍い。たぶん兵隊蟻に近い。いや、まだ断定できない。どちらにせよ、今の旧芝浦の扉では止めきれない。
俺が行くしかない。
そう思った時、黒川が俺を見た。
「待て待て待て。兄ちゃん、その足で前出んな」
「は?」
「右足、終わりかけやろ。立ち方で分かるわ。そこで変に跳んだら、次は戻ってこんぞ」
「お前に何が分かる」
「分かるわ。俺も地上で何回も足やっとる。動ける時ほど、壊れる直前なんや」
言葉が刺さった。
黒川は、俺の銀色を理解したわけじゃない。
でも、壊れかけの足は見抜いた。
「それに」
黒川は蟻裂き槍を構えた。
「蟻の相手は、銀色の兄ちゃんだけの仕事ちゃうやろ」
寝床溜まりが、また静まる。
その言葉に、誰より先に反応したのは大槻だった。
口元が、わずかに動いた。
嫌な予感がする。
黒川は扉の前に立った。久我が横につく。牧野さんは震えながら支柱を押さえる。俺は朝倉さんに腕を掴まれたまま、壁際にいる。
壁際。
まただ。
俺は見ているだけか。
楽でいい。
そう思うべきだ。
でも、胸の奥がざわつく。死にたくない。だから前に出たくない。でも、誰かが死ぬのを見るのも嫌だ。面倒くさい。自分が一番面倒くさい。
「開けるぞ」
久我が言う。
「ちょい待ち」
黒川は腰の袋から、割れていない缶を一つ取り出した。布で巻かれた丸い缶。表面には黒灰色の粉がこびりついている。
「それは何だ」
牧野さんが聞く。
「蟻酸焼けの灰や」
「ぎさん……?」
「蟻が酸で焼いた場所の灰。コンクリ、布、金属粉、蟻の体液、そういう最悪なもんが混ざった残骸を乾かして砕いたやつや。蟻はこれを嗅ぐと、危険な場所か、仲間が死んだ場所か、餌場か分からんようになる。一瞬迷う」
「そんなものが」
「倒す道具ちゃう。時間を稼ぐ道具や。十秒。よくて三十秒。期待しすぎたら死ぬ」
黒川は缶を握り直す。
「合図したら、扉を少し開けろ。俺が投げる。迷ったところを、久我さんやったか? あんたが頭を押さえる。俺が脚を裂く」
「俺が指示される側か」
「せや。嫌なら死ぬで」
久我の眉が動く。
少し前の俺と同じことを言われている。
おかしくて、少しだけ笑いそうになった。
黒川が俺をちらりと見た。
「銀色の兄ちゃん」
「灰原だ」
「ほな灰原。もし俺が外したら、その気持ち悪い腕で助けてくれ」
「お願いの仕方、最悪だな」
「命がけのお願いや。丁寧語にしてる暇ない」
「気持ち悪い腕って言うな」
「すまん。便利そうで気持ち悪い腕」
「悪化した」
黒川は一瞬だけ笑った。
悪いやつではなさそうだ。
それが、嫌だった。
嫌う理由がない人間ほど、距離の取り方が分からない。
「行くで!」
黒川が叫ぶ。
牧野さんが扉の補強を外す。久我が鉄パイプを構える。扉がわずかに開く。
その隙間から、黒い顎が入る。
でかい。
さっきの働き蟻より、明らかに顎が厚い。外殻も黒みが強い。触角の動きが遅いのに、圧がある。力任せに押し込んでくるタイプだ。
黒川が臭玉を叩きつける。
バコンッ。
灰が弾ける。
蟻酸焼けの灰の臭いが広がる。喉が焼ける。目が痛い。真衣さんが咳き込む。子供達も泣く。朝倉さんが袖で口元を押さえる。
蟻の触角が乱れた。
一瞬。
それだけ。
「今!」
黒川が飛び込む。
動きは速くない。
俺みたいに壁を蹴るわけでもない。右腕が刃になるわけでもない。普通の人間の足で、踏み込み、槍を差し込む。
でも、狙いが正確だった。
黒川の蟻裂き槍が、蟻の左前脚の付け根に入る。外殻を割るのではない。節の隙間へ差し込む。ぐっと腰を落とし、てこの原理でひねる。
ギチッ。
蟻の脚が変な方向へ曲がった。
黒川が叫ぶ。
「押さえろ!」
久我が鉄パイプを突っ込み、蟻の頭を横へ押す。力では負けている。だが、黒川が崩した脚のせいで蟻の体勢が傾く。顎が扉の枠に引っかかる。
「牧野! 今締めろ!」
「はいッ!」
牧野さんが支柱を押さえる。
俺の右目が蟻の動きを拾う。
まだ止まらない。
脚一本では止まらない。
次に顎が来る。
「黒川、顎!」
俺は叫んだ。
黒川が反応する。
「どっちや!」
「右の根元! 奥の柔らかいところ!」
「見えへんわ!」
「一歩左!」
「無茶言うな!」
「死にたくなけりゃ動け!」
「それ言うの流行っとんのか!」
黒川が左へずれる。蟻の顎が床をえぐる。ギリギリ。黒川の袖が裂けた。彼は踏みとどまり、蟻裂き槍の返しを顎の根元へ差し込む。
ザグッ。
完全には切れない。だが、顎の動きが鈍る。
「今や、灰原!」
黒川が叫んだ。
俺は動いていた。
朝倉さんの手を振り切る。右足に力を入れない。左足で踏み、右腕だけを伸ばす。銀色の刃が、扉の隙間を通る。黒川が作った隙。顎の根元。柔らかいところ。
そこへ、刃を通す。
ザギンッ。
顎が落ちた。
蟻が大きく暴れる。黒川が床へ転がる。久我が鉄パイプを押し込む。牧野さんが悲鳴を上げながら支柱を締める。扉の外で、強い蟻が体勢を崩した。
「閉めろォ!」
黒川が叫ぶ。
久我と牧野さんが扉を押す。俺も左手で壁を押し、右腕を引き抜く。扉が軋む。外側の蟻がもう一度ぶつかる。
ドンッ。
でも、さっきより弱い。脚をやられている。顎も片方落ちている。触角は灰で乱れている。
ギィイイイ。
扉が閉じた。
完全ではない。
隙間はある。
補強も甘い。
それでも、閉じた。
黒川が床に仰向けになって、息を吐いた。
「生きた……。俺、生きたわ……」
久我は扉を睨んだまま、肩で息をしている。牧野さんはへたり込み、レンチを握ったまま震えていた。真衣さんは咳をしながら子供達を抱える。大槻は壁に背をつけ、顔色を悪くしている。
俺は右腕を押さえた。
また、銀色の筋が蟻の体液を欲しがっている。
喰うな。
今は喰うな。
黒川が床から俺を見上げた。
「兄ちゃん、灰原やったな」
「そうだけど」
「助かったわ」
「俺も助かった」
「そら何より」
黒川はにっと笑った。
「名前、玲司か?」
なぜ分かった。
そう思ったが、さっき誰かが呼んだのかもしれない。
「灰原玲司」
「俺、黒川蓮司」
「……紛らわしいな」
「ほんまそれ。初対面で被るのやめてほしいわ」
「俺が先にここにいた」
「ほな俺が後発の蓮司やな。よろしく、銀色の先輩」
「やめろ」
「ほな灰原先輩」
「それもやめろ」
黒川は笑った。
周囲は笑わない。
それでも、その軽さは妙に場に残った。空気が少しだけ変わる。恐怖だけだった寝床溜まりに、別のものが混ざった。
人間のまま、蟻と戦える男。
蟻を一瞬止める道具。
関節を裂く槍。
蟻酸焼けの灰。
地上を一人で生き延びた知識。
旧芝浦の人達の目が、黒川へ向く。
その視線の意味が、嫌でも分かる。
希望。
俺じゃない希望。
大槻が、ゆっくり口を開いた。
「いやァァ〜……驚きましたねェェ〜。人間のまま、蟻に対抗できる方がいるとは」
来た。
黒川はまだ息を切らしている。久我は黙っている。牧野さんは黒川の槍を見ている。真衣さんも、恐怖の中に少しだけ違う色を混ぜていた。
安心。
俺は右腕を見た。
銀色の線。
黒い体液。
勝手に疼く腕。
黒川の槍は、ただの武器だ。
折れたら終わる。
置けば離れられる。
人間のまま扱える。
俺のこれは、身体だ。
外せない。
捨てられない。
寝ている間も一緒だ。
「灰原さんに頼るしかない、というわけではないのかもしれませんねェェ〜」
大槻の声が、寝床溜まりに染み込む。
朝倉さんがすぐに顔を上げた。
「大槻さん」
「おっと、悪い意味ではありませんよォォ〜。むしろ希望です。黒川さんのような方がいて、道具もある。なら、危険な力に無理に頼り続ける必要はない。そういう話です」
久我は何も言わない。
牧野さんが、黒川の蟻裂き槍を見ていた。
「その槍……材料があれば、作れますか」
黒川は起き上がる。
「作れるで。出来は落ちるやろうけど、数本ならいける。臭玉も、蟻酸焼けの灰があれば作れる。まあ、地上の焼け跡まで取りに行かなあかんけどな」
「地下にも、酸で焼けた場所ならあります」
牧野さんの声が少しだけ早くなる。
「蟻の襲撃跡。焼けた布とコンクリートの灰なら、少し」
「ほな、いけるかもしれんな」
黒川が言う。
その瞬間、旧芝浦の中で何かが動いた。
空気だ。
灰原がいなくても。
そういう空気。
まだ誰も口には出していない。けれど、分かる。俺は今、化け物として怖がられている。黒川は、人間のまま戦える生存者として見られている。
そりゃ、そっちの方がいい。
俺だって、そう思う。
人間のまま戦えるなら、それが一番いい。
銀色の目も、刃になる腕も、勝手に跳ねる足もいらない。蟻を喰いたがる右腕なんて、ない方がいい。黒川の槍と臭玉で何とかなるなら、その方がずっと健全だ。
よかったじゃん。
俺の代わりが来た。
胸の奥が冷えた。
銀色の液体が広がる冷たさとは違う。もっと鈍い。もっと人間っぽい。置いていかれる時の冷たさだ。
「灰原さん」
朝倉さんが俺を見た。
何かを察したような顔。
すごいな、この人。
察しなくていいことまで察する。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
嘘だ。
「よかったな」
俺は言った。
朝倉さんではなく、誰にでもなく。
久我がこちらを見る。
牧野さんも。
真衣さんも。
黒川も。
俺は右腕を押さえ、壁に背を預けたまま笑った。
「俺がいなくても、蟻は殺せる」
朝倉さんの顔が歪む。
「灰原さん、それは」
「そういう話だろ」
黒川が眉を寄せた。
「いや、俺は別に、兄ちゃんの代わりに来たわけちゃうで」
「分かってる」
俺は黒川を見る。
この男は悪くない。
むしろ助かった。
蟻酸焼けの灰で時間を稼ぎ、槍で脚を崩した。俺が動かなければ危なかったが、それでも間違いなく戦力だ。
だから、余計にきつい。
「でも、ここにはちょうどよかったんじゃない」
「何がや」
「人間のまま、蟻と戦えるやつ」
黒川は黙った。
軽口を返すかと思ったが、返さなかった。
少しだけ、目が変わる。
この男はたぶん、地上で色々見ている。俺の言葉がただの皮肉ではないことくらい、分かったのかもしれない。
「兄ちゃん」
黒川が言う。
「人間のまま戦える言うても、限界あるで」
「限界がある方がいいんだよ」
俺は右足を見た。
「限界がないみたいに動く方が、怖い」
誰も何も言わない。
大槻だけが、満足そうに薄く笑った。
最悪だ。
この流れは、あいつの思う通りだ。
でも、止める気になれなかった。
いや。
止めたくないのかもしれない。
自分がいなくてもいいと思えるなら、その方が楽だ。ここに残って怖がられ続けるより、第二資材置き場へ移って、さらに外へ出される方がまだ分かりやすい。
陽太の布袋が、膝の上で重くなる。
俺はそれを握った。
黒川蓮司は、腰の臭玉の残りを確認しながら言った。
「とりあえず、水くれへん? あと、できれば安全な場所。三日寝てないねん」
久我が短く息を吐く。
「安全な場所なんて、ここにはない」
「ほな比較的マシな場所でええわ」
黒川は周囲を見回し、最後に俺を見る。
「その兄ちゃんの隣以外で」
「おい」
「冗談や。半分」
「半分かよ」
少しだけ、ほんの少しだけ、寝床溜まりのどこかで息が緩んだ。
笑いではない。
安心でもない。
ただ、恐怖だけではない空気。
それを作ったのは、俺ではない。
黒川蓮司。
地上から逃げ込んできた、関西弁の男。
蟻裂き槍を持ち、蟻酸焼けの灰を投げ、銀色ではなく人間のまま蟻を止めた男。
旧芝浦に、新しい希望が入ってきた。
そして俺は、その希望の外側で、右足の銀色を押さえていた。
第二資材置き場への移動は、まだ終わっていない。
けれど、もう分かった。
俺が出ていく理由が、一つ増えた。




