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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

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第14話 蟻裂き槍


 第二資材置き場は、思っていたより狭かった。


 いや、狭いというより、物で埋まっている。


 錆びた工具箱。割れた配管の継ぎ手。濡れた段ボール。古い作業服。折れた脚立。使い道の分からない金具。誰かが昔ここに押し込んだまま忘れたものが、湿気を吸って、床と一体化しかけていた。


 人間一人を置く場所ではない。


 でも、危険物を置く場所としては、ちょうどいいのだろう。


 俺はそう思って、少し笑った。


 笑うしかなかった。


「床、まだ釘があります。踏まないでください」


 牧野さんが、しゃがみ込んで床の金属片を拾っていた。眼鏡の端には、まだ黒い体液が少し飛んでいる。本人は気づいていない。気づいたらたぶん吐くので、言わないことにした。


「右足、あまり使わないでください」


 朝倉さんが、俺の横から言う。


「使わないで歩く方法があるなら教えてほしい」


「肩を貸します」


「それ、周りが怖がるだろ」


「今さらです」


「言うなあ」


「言います」


 朝倉さんは短く返し、俺の左側に立った。右側には立たない。たぶん、俺の右腕が勝手に動く可能性を考えている。怖いから距離を取っている。でも、離れすぎない。


 面倒な人だ。


 ありがたいとか思ったら、もっと面倒になる。


 俺は左手に陽太の布袋を握っていた。久我が用意した水袋と、少量の食料。牧野さんが渡してくれた小さいレンチ、針金、布、古いライト部品。バールはまだ調整中らしい。曲がった鉄板は「あとで持ってくる」と言われた。


 隔離される人間に渡す荷物としては、ずいぶん充実している。


 人道的。


 大槻の言葉が浮かんで、吐き気がした。


「ここ、鍵は?」


 俺が聞くと、牧野さんの手が止まった。


 朝倉さんも俺を見る。


「聞いちゃ駄目なやつ?」


「……外から、かけられます」


 牧野さんが小さく答える。


「内側からは」


「古い非常解錠があります。ただ、錆びていて、少し固いです。直せば開けられると思います」


「つまり、直さなきゃ開かない」


「……すみません」


「牧野さんが謝ることじゃないよ」


 そう言った後で、自分でも少し驚いた。


 牧野さんも驚いた顔をした。


 俺は扉を見る。第二資材置き場の扉は、見張り扉ほど厚くない。だが、人を隔てるには十分だ。外から鍵をかけられる。内側からも開くかもしれない。かもしれない、だ。


 地下牢。


 さっきそう思った。

 思ったより、その通りだった。


「直せるなら直します」


 牧野さんが言った。


「今、すぐには無理ですけど、あとで部品を」


「いや、いい」


「でも」


「俺が直す」


 牧野さんが黙る。


 俺は扉の蝶番と、非常解錠の錆びた金具を見た。固着している。バールと針金があれば、たぶん動く。水気を拭いて、布を噛ませて、力の向きを間違えなければ。


 父さんなら、もっと早く見た。


 音が変わったら止まれ。

 逃げ道を先に見ろ。


 俺は、逃げ道を見る。


 寝床ではなく。

 牢でもなく。

 死なないための場所として。


「灰原さん」


 朝倉さんの声が、少しだけ震えていた。


「私は、まだ反対です」


「知ってる」


「ここに移すことも、外から鍵をかけることも、納得していません」


「うん」


「でも、今は……あなたの傷を処置します」


「それでいいよ」


 朝倉さんは唇を噛む。


 それでいい、なんて言われても困るのだろう。反対したい。止めたい。でも止められない。なら、今できることをするしかない。


 それは、俺と似ていた。


 死にたくない。

 でも世界は終わっている。

 じゃあ、水を探すしかない。


「左手、見せてください」


 俺は左手を出した。


 斥候蟻の顎を掴んだ傷は、思ったより深かった。皮膚が裂け、血が固まりかけている。黒い体液も混じっている。朝倉さんは表情を強張らせたが、手は止めなかった。水で洗い、布で拭き、残っていた消毒液を少しだけ使う。


 痛い。


 普通の痛みだ。


 普通の痛みに、少しだけ安心する。


「痛みますか」


「痛い」


「よかったです」


「よかった?」


「痛みが分かるなら、まだ感覚は残っています」


「なるほど。痛いのも人間扱いの材料か」


「はい」


「最悪の慰めだな」


「すみません」


「謝るところじゃない」


 朝倉さんの手が一瞬だけ止まり、すぐ動いた。


 処置が終わる頃、外から金属を削る音が聞こえ始めた。


 ギリ、ギリ、ギリ。


 旧芝浦の通路側。

 黒川の声が混じる。


「ちゃうちゃうちゃう、そこ殻狙う角度や! 真正面から割ろうとすな言うたやろ!」


 関西弁が、古い壁越しに響く。


 牧野さんが顔を上げた。


「あ、始まってますね」


「何が」


「黒川さんの武器の説明です。蟻裂き槍の」


 もう始まっているのか。


 早い。


 いや、早い方がいい。旧芝浦の扉は壊れかけている。蟻はまた来る。黒川の武器が使えるなら、すぐ覚えた方がいい。


 いいことだ。


 そう思うべきだ。


 なのに、胸の奥がまた冷えた。


「行かなくていいの」


 俺が牧野さんに言うと、彼はびくりとした。


「え?」


「武器の作り方。牧野さん、見た方がいいんじゃないの」


「でも、ここが」


「俺は逃げないよ」


 言ってから、自分で嫌になった。


 逃げない。

 そんな言葉、隔離される側が言うものじゃない。


 牧野さんは困った顔で、朝倉さんを見た。朝倉さんは少し迷い、それから頷く。


「行ってください。ここは私が見ています」


「でも」


「必要なことです」


 必要。


 その言葉が、また引っかかる。


 俺は必要じゃない。

 黒川の武器は必要。

 牧野さんも必要。

 朝倉さんの記録も必要。


 俺は、危険。


 自分でそう整理して、少し笑いそうになる。


 分かりやすいじゃん。


「行ってきて。あと、バール忘れないで」


「あ、はい。必ず」


 牧野さんは慌てて立ち上がり、工具箱を持って出ていった。扉は開けたまま。朝倉さんがいるからだろう。完全には閉じられていない。まだ。


 外から、黒川の声が大きくなる。


「ええか! これは倒す道具やけど、倒す前に逃げる道具でもある! 怖い時ほど手順守れ! 叫ぶんは最後や!」


 久我の声がした。


「叫ぶのが最後?」


「せや! まず臭玉を投げる。下がる。槍を構える。叫ぶんはその後や! 先に叫んだら手が止まる!」


 誰かが咳き込む。


 黒川が笑う。


「臭いやろ。これが蟻酸焼けの灰や。蟻が酸で焼いた場所の灰を集めて乾かして砕いたもんやな。蟻はこれを嗅ぐと迷う。危険の臭いか、餌場の臭いか、仲間が死んだ臭いか、分からんようになる」


 牧野さんの声。


「材料は、酸で焼けたコンクリートと布、金属粉でいいんですか」


「せや。ただし湿っとったらあかん。乾かせ。粉を細かくしすぎると人間も死ぬほど咳き込むから、ほどほどや」


「容器は」


「古い缶でええ。なければ薄い蟻殻でもええ。ただし爆弾言うても、吹き飛ばすもんちゃう。割れて散らすだけや。殺す道具やなくて、時間を買う道具やな」


 殺す道具ではない。

 時間を買う道具。


 いい道具だ。


 戦えない人間でも逃げる時間ができる。真衣さんや千歳さんでも使える。陽太だって、投げるくらいならできるかもしれない。いや、子供に持たせるな。そこは大人がやれ。


 でも、希望だ。


 旧芝浦にとっては。


「灰原さん」


 朝倉さんが言った。


「顔色が悪いです」


「元から」


「いつもよりです」


「詳しいな」


「見ていますから」


「それも、たまに怖いな」


「怖がってください」


 朝倉さんは真顔だった。


 俺は返す言葉に困った。


 外では、黒川の講習が続いている。


「槍は真正面から突くな! 蟻の殻は固い! 人間の腕力で割れる思うな! 狙うんは脚の付け根、顎の根元、腹の継ぎ目! 関節や!」


 カン、と金属音。


「久我さん、そこちゃう! 力入りすぎや! 力で勝てるなら人類負けてへん!」


「うるさい」


「うるさくないと死ぬで!」


 少しだけ、空気が違う。


 黒川は場を動かす。怖がりながら、喋って、指示して、笑わせようとする。旧芝浦の人間がその声を聞いている。久我も、牧野さんも、真衣さんも、雨宮さんも。


 人間のまま、蟻に抗う方法。


 銀色じゃない力。


 それが、今、通路の向こうで形になっていく。


 俺は第二資材置き場の壁に背を預けた。左手の包帯が少しきつい。右足は冷たい。右腕は時々、外の蟻の臭いに反応するように疼く。


 俺じゃなくてもいい。


 それは、本来なら喜ぶべきことだ。


 俺が前に出なくていい。

 俺の右腕が刃にならなくていい。

 俺が蟻を喰わなくていい。

 俺が怖がられなくていい。


 なのに。


 胸が冷える。


 陽太の布袋を握る指に力が入った。


 昼も夜も分からない地下で、時間だけが進んだ。


 黒川の講習は思ったより早く実戦に近づいた。牧野さんは壊れた支柱や鉄筋を使って、簡易の蟻裂き槍を二本組み上げた。一本は久我用。一本は予備。刃先は雑だが、黒川は「最初はこれでええ」と言った。


 臭玉も三つ作られた。


 蟻酸焼けの灰は、見張り扉の外に残っていた焼け跡と、古い蟻の襲撃跡から集めたものらしい。乾かしきれていないので効きは落ちる、と黒川が言っていた。それでも、ないよりはましだと。


 俺は第二資材置き場の中で、その声を聞いていた。


 扉は半分閉められている。


 完全には閉まっていない。朝倉さんが出入りするためだ。けれど、外と内の境目ははっきりしていた。向こうでは訓練が行われ、こちらには俺がいる。


 時々、誰かがこちらを見る気配がする。

 すぐ逸らす。


 見なくていいよ。


 そう思う。

 でも、完全に見られないのもきつい。


「灰原さん、水を」


 朝倉さんが差し出してくれた水袋を受け取る。


「ありがとう」


「少し寝てください」


「寝られると思う?」


「思いません。でも目を閉じるだけでも」


「目を閉じたら、右目の奥で蟻が歩く」


 朝倉さんの手が止まる。


 しまった。


 言わなくていいことを言った。


「どういう意味ですか」


「比喩」


「比喩に聞こえません」


「比喩じゃないかも」


「灰原さん」


「記録する?」


「します」


「だよな」


 彼女は本当にノートを開いた。


 その真面目さに、少しだけ気が抜ける。


「右目の奥で蟻が歩く感じがする。実際にいるわけじゃない。たぶん、さっきの蟻の動きが残ってる。足音の間隔とか、触角の向きとか、そういうのがまだ消えない」


「痛みは」


「痛みとは違う。気持ち悪い。頭の中で、通路が勝手に線になる」


「群れの流れのようなものですか」


 俺は朝倉さんを見た。


「何で分かるの」


「前にも、似たことを言っていました」


「俺、そんなに喋ってる?」


「はい」


「最悪だな」


「大事な情報です」


「人間として?」


「人間としても、危険性としても」


 正直だ。


 俺は水を飲んだ。ぬるい。少し錆びた味がする。でも喉にはありがたい。


 その時、見張り側の通路から鳴子が鳴った。


 カシャン。


 旧芝浦の空気が一瞬で張る。


 俺は反射で立とうとした。


 右足が痛む。朝倉さんが肩を押さえる。


「待ってください」


「蟻だ」


「分かっています」


「分かってるなら」


「黒川さん達が対応します」


 その言葉が、俺の動きを止めた。


 黒川さん達が対応します。


 そうだ。

 もう、俺だけじゃない。


 外で久我の声が飛ぶ。


「全員下がれ! 黒川、数は!」


「足音、四……いや五や! ザコや、焦るな!」


 五匹。


 寝床溜まりがざわめく。真衣さんが子供達を奥へ。雨宮さんの声。牧野さんが工具を置いて走る音。黒川の金属槍が床を叩く音。


 俺の右腕が疼く。


 行け。

 殺せ。

 蟻を喰え。


「黙れ」


 小さく言う。


 朝倉さんが俺を見る。


「腕ですか」


「うん」


「押さえられますか」


「今のところ」


「なら、ここにいてください」


 無理だろ。


 そう言おうとして、外で臭玉が割れた。


 バコンッ。


 酸焦げの臭いが、通路を伝って入ってくる。薄い。けれど右目が反応した。蟻の足音が乱れる。触角が迷う。黒川の声。


「今や! 前の二匹、脚の付け根! 真正面行くな!」


 久我の怒鳴り声。


「右を押さえる!」


 牧野さんの声。


「支柱側、塞ぎます!」


 金属音。


 ギチギチギチッ。


 蟻の顎。

 槍が入る音。

 誰かの悲鳴。

 黒川の怒鳴り。


「怖がるなとは言うてへん! 手ぇ止めるな言うてんねん!」


 俺は扉に手をついていた。


 第二資材置き場の扉。


 半分閉じた扉。


 出ようと思えば、出られる。朝倉さんが横にいるだけだ。鍵はまだかかっていない。右腕を使えば扉を壊せるかもしれない。


 でも、出ない。


 出なくても、戦闘は進んでいる。


 黒川が一匹目の脚を裂く。音で分かる。久我が顎を押さえる。牧野さんが何かを打ち込む。臭玉の効果が薄れ、蟻の足音が戻りかける。二つ目の臭玉。バコンッ。真衣さんが咳き込む。千歳さんが子供達に布を当てる。


 俺がいないのに、戦っている。


 そして。


 ズンッ。


 一匹目が倒れた。


 続いて二匹目。三匹目は逃げるように動いたが、久我の鉄パイプと黒川の槍で止まる。四匹目が扉へ突っ込む。臭いで少し逸れる。五匹目は触角を振りながら後退した。


 数分だった。


 長く感じた。

 でも、終わった。


「止まった!」


 牧野さんの声が震える。


「押し返したぞ!」


 誰かが泣いた。誰かが笑いかけて、咳き込んだ。黒川の声が響く。


「勝ったとか思うな! たまたまや! でも、たまたまを増やすんが生き残るっちゅうことや!」


 旧芝浦の中に、初めて違う熱が生まれた。


 恐怖だけじゃない。

 少しの興奮。

 少しの達成感。

 自分達で蟻を止めたという、危うい希望。


 俺は第二資材置き場の中で、それを聞いていた。


 右腕はまだ疼いている。

 右足は冷たい。

 胸の奥も冷たい。


 でも、外では人間達が勝った。


 銀色なしで。


 俺は口元を動かした。


 笑ったつもりだった。


「よかったじゃん」


 声は思ったより掠れていた。


 朝倉さんが何も言わない。


 言えば、俺が崩れると思ったのかもしれない。


 外で大槻の声がした。


「素晴らしいですねェェ〜。これなら、我々にも希望がありますよォォ〜」


 その声だけで、さっき生まれた熱が少し濁る。


「灰原さんだけに頼らなくても、生き残れる道がある。いやァァ〜、黒川さん、本当にありがたい」


 黒川が何か返す。


「頼る頼らんの話ちゃうやろ。今の五匹で全員息切れや。勘違いすな」


「もちろん、もちろんですゥゥ〜。ですが、希望は希望でしょう?」


 大槻の声が、わざと通る。


「人間のまま、戦えるんですから」


 人間のまま。


 俺は自分の右腕を見た。


 銀色の筋が、皮膚の下で薄く光っている。


 人間のまま。


 いい言葉だ。


 本当に。


 胸の冷たさが、少しだけ深くなる。


 朝倉さんが、静かに言った。


「灰原さん」


「何」


「今の戦闘は、灰原さんが不要だという証明ではありません」


「でも、必要だって証明でもない」


「違います」


「違わないよ」


 俺は扉の向こうの声を聞く。


 黒川がまた説明している。久我が短く返す。牧野さんが材料を確認する。真衣さんが「これなら」と小さく呟いた。聞こえた。聞こえてしまった。


 これなら。


 そうだ。


 これなら、俺がいなくてもいい。


 少なくとも、ザコ蟻数匹なら。


「いいことだろ」


 俺は言った。


「皆が俺なしで戦えるなら、その方がいい」


「灰原さんは」


「その方がいいんだよ」


 少し強く言いすぎた。


 朝倉さんが黙る。


 謝ろうかと思った。

 でも謝るのも違う気がした。


 外で、陽太の声がした。


「灰原のお兄ちゃんは?」


 小さな声。


 でも聞こえた。


 雨宮さんが何か言う。真衣さんが困ったように息を詰める。久我は答えない。黒川も黙った。


 大槻が、柔らかい声で言った。


「灰原さんは、今は休んでいますよォォ〜。黒川さん達のおかげで、休んでいても大丈夫だったんです」


 俺は目を閉じた。


 うまいな、本当に。


 黒川は悪くない。

 蟻裂き槍も、臭玉も悪くない。

 牧野さんが作った武器も、久我が戦ったことも、真衣さんが少し安心したことも、全部悪くない。


 悪くないものだけで、俺が外へ押されていく。


 それが一番きつい。


「灰原さん」


 朝倉さんが、もう一度呼ぶ。


「私は、記録します。今の戦闘も。黒川さんの武器も。灰原さんが必要なくなったわけではないことも」


「記録しても、空気は変わらないよ」


「変わらなくても、残します」


「頑固」


「はい」


 短い返事。


 いつものやつ。


 俺は少しだけ笑った。


 今度は、たぶん本当に少しだけ。


 その時、久我が第二資材置き場の前に来た。


 扉の向こうに立つ気配。


「灰原」


「何」


「今夜から、ここで休め」


 休め。


 隔離ではなく、休め。


 言葉だけ優しくなっている。


「鍵は?」


 俺が聞くと、久我は一拍置いた。


「外からかける」


 朝倉さんが立ち上がる。


「久我さん」


「朝倉の診察時は開ける。水と食料も渡す」


「そういう話では」


「今、決めた」


 久我の声は固い。


 外で蟻を倒した直後だ。

 旧芝浦は、人間の武器で勝った。

 黒川という新しい戦力もいる。


 なら、俺を寝床溜まりに置く理由はさらに薄くなる。


 当たり前だ。


「分かった」


 俺は言った。


 朝倉さんが振り向く。


「灰原さん」


「分かったって」


 俺は陽太の布袋を拾い、水袋と工具を手元に寄せた。


 第二資材置き場の床はまだ湿っている。釘は牧野さんが拾った。壁際なら寝られる。扉の非常解錠はあとで直す。逃げ道も見る。水の位置。工具の位置。布の使い道。ライトの部品。曲がった鉄板が来たら、扉の下に当てる。


 考えることはある。


 生きるためのことなら、いくらでも考えられる。


 人間関係より、ずっと簡単だ。


「黒川の武器、使えそう?」


 俺は扉の向こうに聞いた。


 久我は少し黙った。


「ああ」


「よかったな」


「灰原」


「俺抜きで五匹止めたんだろ。すごいじゃん」


 言ってから、胸が痛くなる。


 自分で自分を刺している。

 馬鹿みたいだ。


 久我は何も言わなかった。


 代わりに、黒川の声が少し遠くから飛んできた。


「おい、銀色の兄ちゃん!」


「灰原だって言ったろ」


「ほな灰原! 勘違いすんなよ!」


「何を」


「五匹で死にかけたんや! 俺ら、全然余裕ちゃうからな!」


 通路の空気が少し止まる。


 黒川は続けた。


「人間のまま戦えるんはええことや。でも、人間のまま死ぬ時は一瞬や。そこ、間違えんな」


 俺は扉の向こうを見た。


 黒川の姿は見えない。

 声だけ。


 軽いようで、軽くない。


「分かってるよ」


 俺は言った。


「俺も、人間のまま死にたかった」


 言った瞬間、朝倉さんが息を呑んだ。


 まずい。

 言いすぎた。


 でも、もう戻らない。


 久我が低く言う。


「鍵をかける」


「どうぞ」


 扉がゆっくり閉まる。


 ギィ。


 古い鉄の音。


 隙間から見えていた通路の光が細くなる。黒川の声。牧野さんの工具音。真衣さんの咳。陽太の小さな泣き声。朝倉さんの気配。


 全部が、扉の向こうへ行く。


「灰原さん」


 閉まる直前、朝倉さんが言った。


「私は、また来ます」


「うん」


「必ず」


「分かった」


「扉を、内側から壊さないでください」


「状況による」


「灰原さん」


「冗談」


 半分は。


 扉が閉じた。


 ガチャン。


 鍵の音がした。


 第二資材置き場の中に、湿った静けさが落ちる。


 俺はしばらく扉を見ていた。


 外では、人間達が武器を作っている。

 人間のまま、蟻を倒す練習をしている。

 人間のまま、希望を拾っている。


 俺は扉の内側で、右腕の銀色を押さえている。


 よかったじゃん。


 本当に、そう思う。


 思うのに、喉の奥が痛い。


 俺は陽太の布袋を開けた。


 中には、乾いた食料の欠片が二つ。小さなネジが三つ。折れたライトの透明カバー。短い針金。子供の字で何か書かれた紙切れ。


 読めないくらい震えた字。


 それでも、分かった。


 しなないで。


 たぶん、そう書いてあった。


 俺は紙を見つめる。


 胸の奥の冷たさが、銀色ではない場所で痛んだ。


「……無茶言うなよ」


 声は、資材置き場の中だけに落ちた。


 誰にも届かない。


 それでよかった。


 俺は布袋を握りしめ、湿った床に背を預ける。


 外では、黒川の関西弁がまだ聞こえていた。


「もう一本作るで! 五匹で喜ぶな! 次は十匹来る思え!」


 十匹。


 その程度なら、きっと何とかなるのだろう。


 旧芝浦は、俺がいなくても少し強くなった。


 だから俺は、もうすぐ本当に出ていける。


 そう思った。


 思おうとした。


 右目の奥で、まだ遠い蟻の足音が消えなかった。

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